バス停から歩いて、コンビニに行って、休んで、海遊びをすると、すぐに時間はなくなってしまう。そして時間を持て余してしまうのは必然と言えた。
 夏至が過ぎて暫く経過しているが、7時半といえば夜には早い。昼間あれだけ海と地上を焼き尽くしていた太陽は水平線に眠るのを渋っている。しかし海自体に吸引力があるかのように、光の円盤は徐々に海へ没していった。天球の切れ目が夕映えを残していたのにも関わらず、まだ頭上は昼間の色を広げていた。時間と共に明度を下げる空は、同時に天然のプラネタリウムと化す。
 海嘯がある程度規則的に聞こえている。海の命が砂に押し寄せ、無数の泡を生み出して浜に残しながら戻り、また次の波が泡をさらっていった。
 もう使う者のいなくなった荒れかけた浜辺には、錆びれた「遊泳禁止」の看板が砂に埋もれている。まばらに生えた背の高い茂みにはジュースの空き瓶やらソースのこびりついた割り箸やらが打ち捨てられ、雨風に晒されていた。ちょっと昔まではそこそこ客が来ていた浜のようだった。しかしエイサーに客を取られて寂れ、すぐ傍に米軍基地が建設されて、やがて管理者がいなくなったのだろう。かつて繁栄していた残滓を色濃く残した海の手前は、色を失ってもなお海が波を寄せ続けている。それでもちょっとした堤防はある。長年の風雨に晒されて礫の形がまざまざと浮かぶコンクリートの階段、その最上段に甲斐と平古場は腰を下ろしていた。
「遅ぇ」
 平古場が両手で頬杖を突いて、目を据わらせている。視線の先は海の奥にあるが、明らかに不満をぶつける眼差しであった。
 左腕に着けた時計を面倒臭そうに見て、甲斐は呟いた。
「後、一時間はあるな」
「まだかよー……」
 甲斐の時計を覗きこんで、平古場が不満気に口を尖らせる。
「まあいいけどさ」
 徐々に夜が濃くなる空を見上げて、平古場は「それならさ」とコンビニの袋を漁り始めた。しかしそれは「漁る」という生易しいものではない。袋の中に手を突っ込んですぐに平古場の額に血管が浮き出、同時に袋を逆さ吊りにして上下に振る。ビニールが耳障りな騒音を立てながら中身をコンクリートの上に空けていった。ばらばらと落ちる中身には、ファミリー向け花火セットが幾つかと、簡易打ち上げ花火数種、最後に百円ライターが躍り出る。
 絵や言葉でけばけばしく飾られたパッケージを子供のように破り、長めの一本を甲斐に突き出した。
「ほらよ」
 反対の意なぞ、誰が唱えよう。
 甲斐はふっと笑って、花火よりも先にライターを拾った。その後で一本花火を取って答えた。
「分かった分かった、やっか」
「やーりぃ!」
 平古場は袋の中から蝋燭を取り出して、ライターで火を点けた。夜になりきれていない未熟な闇に蝋の炎が揺れ、平古場の顔に光と陰翳を浮かび上がらせた。融けた蝋を垂らし、固まらぬ内に蝋燭の尻をつけてコンクリートに固定する。その手際は見事な物で、平古場は早速花火の先端を内炎に差した。ちりちりと炎の中で踊る花びら紙に火がつき、瞬く間に噴出する炎の束となった。緑色の残像がちらちらと目障りで、ともかく甲斐も渡されたススキ花火を持った。火を貰って、一瞬の間の後、火が噴き出す。種類が同じで、今度は緑の火だ。シュウ、と風を切るような音が、幼い頃の記憶と被る。
 思い出せば、平古場とは初めて花火で遊んだ気がする。緑の光の横で平古場の花火が力尽き、砂に突き刺される。ビニールの中から漁るような音がして、今度は何だと首を巡らす。すると、今度はポッキーを大きくしたような形の、スパークという花火を持ってきた。「火ィくれ」と勝手に火を持っていくと、光が花のように開いた。風が少ないのか、煙が周囲に停滞して、火薬の匂いが充満して嗅覚を刺激した。穏やかなのは結構だが、煙を押し流さない空気には傷害罪の咎で告訴したい。
 平古場がパーカーの袖を口に当てて、思いっきり咳き込んだ。甲斐が「ははっ、バーカ」と笑うと、逆に煙を吸い込んで体が折れ曲がるほど咳をした。鼻にツンときた匂いが涙腺から涙を滲ませた。背中を思いっきり叩かれたが、花火だけは手放さなかった。
「やぁーもふらーやー」
 悔しくなって花火を向けると、
「うわ、危ねっ!」
 と言って反射的にかわされた。髪が焦げたような異臭がして、慌てて平古場が自身の髪を指で梳いた。左耳につくかつかないかという微妙な場所にある髪を指で探る。焦げ跡が花火の光に照らされて、「うわ、お前最悪」と睨まれた。平古場は無愛想に砂の上に投げ出された花火のパッケージを掴み、注意事項の欄を甲斐の眼前に突きつけた。
「花火は人に向けちゃいけませんて袋に書いてあるだろ」
 その前に平古場の花火の炎は持ち主のズボンに火をつけても可笑しくない位置にある。気付けと心の中で突っ込んだ。
「それがどうした」
「永四郎助けれー、ここに放火魔がいるさぁ」
 平古場は苦笑いで呟く。
 甲斐は勝手に口が動くぐらい無意識に咎める。
「永四郎はここにいないばぁ。今は忘れれ」
「……わぁーったよ」
 それでよし、と冗談めかして笑うと、ふと平古場が何かおかしいと言わんばかりに首を傾げた。直後、
「逆転か!」
 と後頭部を叩かれた。すかさず「漫才か!」と鸚鵡返しに頭を叩く。するとその拍子に平古場の手から輝く花火が抜け落ち、今しがた砂浜にばら撒かれた花火のど真ん中に落ちた。
 あ。
 同じ言葉を同時に発し、同じタイミングで同様に動揺した顔を突き合わせた。案の定だった。
 一本のススキ花火に着火されたのを皮切りに、踊る炎に誘導されて他の花火に次々と燃え移っていった。鼠花火が浜の上で軌跡を残しながら暴れ始め、線香花火がカスミソウのような枝分かれした火をちらつかせ、踏んで消そうと試みたがロケット花火が海の彼方へ飛んでいく。色取り取りの光の乱舞、浜が光に染め上がる。やべ、と思ったのも束の間、
「ひんぎれー!」
 ロケット花火が飛雨する中、平古場に手首を掴まれて引き摺られるように渚の方向にダッシュした。予想以上に多かったロケット花火が足元をすり抜けて海に着弾する。後ろに米軍基地が堅固な要塞を構えているのが余計に雰囲気を煽り、遊び半分でマシンガンの引き金を引いている猫がいるかのようだ。狙っているようでなかなか当たらないのが幸いで、花火が乱れ舞う喧騒が遠のいた頃には、騒ぎは収束しつつあった。
「終わった、か?」
 満潮線に沿って打ち上げられた海草の山を足元に、甲斐は呟いた。防波堤に取り残した騒ぎは勢いを衰えさせているものの、未だにお祭りのようだった。ぱんぱんと音が鳴り、光が狂ったように踊る光景は、間近で見ない限りそんなに危険なものではない。ロケット花火は一度に着火した為かもう飛んでこない。代わりに吹き上がる花火が煙を吐き散らし、朗々と防波堤を照らしている。海鳴りに混じって花火の吹き上がる音がはっきりと届いた。
 夜の景色に緑の残像が混じり、甲斐は目を擦った。それでも幻のメロンが浜や砂浜を行ったり来たりしている。
 瞬間、肩を掴まれて視線を向けた。平古場が病人のように縋って何とか立っている。花火の光に冷や汗が浮かんでいる。甲斐は平古場の肩に腕を回し、その場にゆっくりと座らせた。横に座って、無言で背中に手を当てる。それで容態が良くなるとは言えず、むしろどんどん悪くなっていくばかりだ。元々血が足りなさすぎて、生きているのもおかしいぐらいなのだ。木手か知念であれば最良の策を考える事が出来たのであろうが、生憎甲斐には傍にいてやる事しか出来ない。本音を言えば血を分けてやりたいぐらいだ。平古場が助かるなら献血の一リットル二リットル惜しくはない。それでも今、思考を悟られるわけにはいかない。そもそも血液型が違うし、あげた所でそれが良策とはいえない。
「……しんけん、ワリぃな」
 平古場が唇を湿し、やっと言葉を紡ぐ。
「じっとしてれ」
 それしか言えない自分が恨めしい。
 何かしていないと自分が壊れそうだ。
「じゃ、わん、花火片付けに行ってくるから」
 本当は一秒でも永く、生きている内に、話をしたい。遊んでいたい。平古場の容態を考えると叶わない願いだけれども、ぶっちゃけて言えばテニスをしたい。身体は無意識に立ち上がろうと腰を浮かせる。
 服の袖を掴む者は一人しかいない。
「ワリぃけど……もうちょっといれ」
 何故か頬が緩み、腰を下ろした。尻が砂の硬さを実感する。平古場に向け、何故か少しだけ笑みが零れた。
 座って十数秒もすればいつもの眼光を取り戻している。元気戻ったじゃん、と背中を叩くと、当たり前さぁ、と頭頂部をぐりぐりと掌で押された。
 夜は二人を押し包むように満天へ広がっている。亜熱帯の夜風はまだ昼間の熱気も冷めやらぬといった調子で汗を背中に滲ませた。夕方はあんなにざわめいていたヒグラシも息を潜めて、海の彼方で始めるのであろう花火祭りを待ち構えている。
 眼前に広がる海は、何処までも続いているように見えた。この海を渡った先にはアメリカもあるし、オーストラリアもあるし、海賊達が跳梁跋扈したカリブ海にも行ける。地図帳で見つけて凄く行きたがって、木手に拳骨かゴーヤーかと訊かれて悩んだエロマンガ島だってある。海は何処までも広がっている。船で何処までも行けると、今純粋に信じられた。
 海はニライカナイに繋がっている。神の国であり、それと同時に魂の故郷でもあるとされる。赤子の魂はニライカナイより訪れ、死人の魂もニライカナイへ消える。となると、海の果ては死者の国。冥府である。あと半日も経たぬ内に、平古場の血に棲むカミが羽化し、平古場はニライカナイに消えるだろう。それ即ち、死であった。今目の前でからからと笑うその肉体が消滅してしまうのだ。しかし甲斐はそんな事を考えぬよう、悟られぬよう、考えないようにしていた。それでも、やがて、この幸せな日々が終わる事を子供心に察知していた。
 強い奴だと思う。平古場は。あれだけの苦しみを今尚受け続けて、それでもいつも笑っている。よく体調を崩してはいるが、それでも甲斐におどけた態度で応対するのを忘れない。それに対して自分は何だ、情けない。
 ――あのさ、東に見えるの、白鳥座じゃねえ?
 どうしようもない沈黙を埋める為だけに声が勝手に言葉を紡ぎ、指が水平線の真上を指す。何やってるんだ俺は、と理性が嘲笑っている。しかし平古場が訊ねてくると、口は星座の伝承についてたどたどしく文字を連ねていく。その講義に、平古場は授業よりも真剣に耳を傾け、時折質問を混ぜながら会話を成立させていく。
 それにしても口は上手く出来ているものだと思う。本音を隠してくれる偽りをこんなに簡単に言葉にしてくれるのだから。
 それでも甲斐は星を教えて、その話に平古場が喜んでくれるのを分かり、次第に本腰を入れて講義し始めるようになった。教えるのを楽しいと思う教師は、この喜びを追い求めているに違いない。
 星を映した夜空は、漆黒というには蒼すぎた。海の上に果てなく広がるプラネタリウムは、黄道に沿って回っている。肉眼では確認出来ないほどの遅さで。少しの時間だけ空を仰いだとしても、空は歩んですらいないようにも見える。星は海嘯と共に時間を刻み、徐々に夜は朝へのカウントダウンを始めている。
 それでも、と甲斐は願った。せめて、今のこの幸せが一秒でも永く続くように。この夜が永久に続くように。太陽はいらない。朝もいらない。ずっと今の時間が続いてさえくれればいい。甲斐は今、何も望みやしなかった。
 暫くの講義の後、平古場がぽつりと訊ねた。夜空にある星はいくつだっけ。今フル回転しているであろう海馬から記憶を探り出して、確か三千個はある、と返した。平古場は数を反芻する。無限みたいなもんじゃん、とだけ平古場は返す。そうだな。甲斐はそう言って夜空を見上げた。
 澄んだ空は無数の星を抱えて、今にも星が零れてくるのではないかと心配させた。射手座、蠍座、山羊座といったメジャーな星から星団、銀河まで、空を無数の星々が飽和せんばかりに身を寄せ合っている。薄ぼんやりと確認できる天の川は蠍の腹を突っ切って、そのまま水平線に消えていた。
 この空にある星は、きっと三千や四千じゃきかないだろう。五千? 六千? それともかなり飛んで一万や百万? 三千個しか星が見えないのはきっとガセだ。
 ふと気付くと、平古場が何やら細い棒で砂浜を引っ掻いている。身を乗り出してよく見てみると、文字を判別するより先に平古場が喋った。
「今日まで何日経ったか、ちょっと知りたくなってさ」
 365×15=5475
 30-16=14
 14+31+30+31+15+3=124
 5475+124=5599
「はーやー、惜っしい!」
 砂に書かれた筆算は線が所々盛り上がりながらもアラビア数字の形をしているが、繰上りまで小さく書き込んでいるので、余計読みづらい。几帳面なのか単に暗算が苦手なのか、恐らく後者だろうと甲斐は結論付ける。
「後一日で5600日だったのによ。あーあ、しに最悪やさ」
 と言いながらも、甲斐に向ける表情は笑顔を形作っている。
 その5599日が何の意味を持つかは痛いほど知っていた。しかし尚更心情を悟られるわけにはいかず、甲斐は苦笑いを顔に貼り付けた。平古場は頭の後ろで腕を組み、すっ、と浜に仰向けに転がった。
 甲斐もその隣に、同じようにごろりと寝転がる。背中を浜に預けると、どんなに上空を見ても首が痛くならない。
 こんな風にゆったりと、悠久のときを過ごしたいと淡く思う。想いが弱いのは、今のこの時間が永遠に続くと根拠もなしに信じているからだ。どんなに朝が来ないことを願っても、いずれ明日は巡ってくる。でも平古場はまだここにいる。ニライカナイになんか行かない。そして高校に進んで、色々と楽しんで、勉強とか人間関係とかに苦しんで、そうして卒業する。その後、甲斐は就職する。平古場も就職するだろう。木手は大学に行って、田仁志は調理師の資格を取って、知念は多分家業を継ぐ。それで平古場はお金を溜めて、行きたいと熱望していたアメリカに行くのだ。最初は単なる旅行かもしれない。でも少しずつ滞在時間やビザも長めに申告されて、住む時間が延びていく。住むところは太陽の日差しが降り注ぐフロリダの海辺だ。沖縄に良く似た環境に慣れていって、住む期間が少しずつ伸びていって、伸びていって、伸びていって、ついには日本語もうちなーぐちも忘れてしまうだろう。手首の傷も長い年月と日焼けによって徐々に目立たなくなっていく。笑顔は強がりのものじゃなくて、心の底からの笑顔になるだろう。アメリカでの想い出が増えていって、代わりに沖縄での記憶は忘れていってしまうだろう。でもそれで良いと思った。今、死ぬほど苦しい目に遭っていて、それでも笑っていなきゃならない平古場には本当に休める場所がないといけない。それの為なら、自分はいくら忘れられてもいい。空と海は世界中何処でも繋がっている同じものだ。空も海も、何処にいても見守ってくれている。同じ空を見上げて、同じ海を眺めて、例えどんなに遠く離れていようとも、生きていられる。フロリダでは南十字星が見られるであろうか?
「こっちでも見えるけどさぁ、いつか、空の高い所で南十字星見に行かねえ?」
「南十字星? それ、すげえいいな」
「ああ。ここでも見えるって言っちゃあ見えるけど、波照間島なら高い所で見られるんだってさ」
「へぇ〜」
「それでさ、冬になったらカノープス見に行こう」
 本で読む限りは「とても見づらい」とあったが、祖父に連れられて星を見に行った二月、水平線近くに光る明るい星を見つけた。身体のほとんどを水平線の下に隠した竜骨座の中でも一番明るい星で、明るさの等級にはマイナスがつく。夕焼けと同じように大気の層を長く通ってくるから赤く見えるそうだ。
「カノープスってさ、中国語で南極老人星っていうんだって」
「老人? 何で?」
「もし見られれば、寿命が延びるからだ、って聞いた事ある」
 天球の流れを感じ取りながら、甲斐は穏やかな気持ちで、言葉を素朴に織り成していく。星を語る糸を何本もより合わせて、夜空の地図を織る。星座の物語を、誰にでも分かるように、難しい言葉なんて用いずに。
 永遠に続けと願った。わったーだけのこの時間も、星の歩みも、海の細波も、海鳴りも、何もかもがこのまま凍りついて永遠に姿を変えてしまえ。それが例え、叶わない願いだとしても。
 平古場が、目が線になるほどの笑顔を浮かべ、甲斐に拳を突き出した。
「絶対、見に行こうな」
 無言で拳を突き合わせ、甲斐は頷いた。

 このまま砂の上に横になって、どのくらいが過ぎたのだろうか。一時間? 二時間? 一向に花火が始まる気色は見られない。時間が流れていくのだけが分かる。
 静寂があっても、もう言葉で埋める事はなかった。ただ二人で星を眺めているだけで満足だった。花火なんていつまで経っても始まるな、なんて思った。
 しかし、その願いは突然の闖入者によって遮られた。遥か後方に伸びる防波堤を乗り越えて、聞きなれぬ女の声と、英語訛の男性の声が微かに届いてきた。甲斐は面倒臭かったが、上半身を起こして後ろを見遣った。2つの人影が防波堤の最上段に立ち、小柄な影が、黒いミニスカートを巻いただけのような腰に手を当てて、大袈裟に海を見回している。女の声が海鳴りを割り、耳障りに侵入してくる。
「誰よ、花火大会があるって言ったの! もうとっくに八時なんて過ぎてるじゃない! バスないからって、せっかくの穴場だからって、何時間歩いたと思ってんの? もう最っ悪!」
「デ、デモ、8おくろっくニ花火始マル! コノ島ノ人タチ、優シイ。ダカラ教ワッタ」
 やや舌の回らない声が女に答える。割れ鐘のような声が腹圧によって遠くまで届くのか、アルコールの匂いがここまで届きそうだった。
「何よ、せっかくここまで来たのに、もう八時半よ? 嘘言われたのかもしれないのよ? それを信じてのこのこやってきたなんて。使えないわね、アンタ」
「使エナイ?」
 目を凝らすと、男の方は迷彩服を着た大柄な影だという事が分かる。
 いつの間にか起き上がった平古場が、「あれ、何かヤバくねえ?」と肩を揺らす。
 肩を竦める男に向かって、女は破裂するように暴言を吐いた。
「You are useless!! って言ってんの!」
 米兵がユーズレスという言葉を理解した瞬間、兵士の身体から、離れていても鮮明に感じられる怒気が発散されていた。その怒気に気圧されて、女があとずさる。しかしその口から、負けを認めたくないのか、暴言が次々と飛び出た。
 やめろ。それ以上男を刺激するな。甲斐は色も言葉も失ってその光景を見ていた。もしこれが自分だったらとっくに怒り狂っている。同じ男だから気持ちはよく分かる。
 女の暴言は尽きる言葉を知らない。しかしある一言を口にした瞬間、男の放つ空気が致命的なものへと変化した。いや、限界点を越えて、臨界にまで達した、という方が正しい。怒れる男の怒気だ。あとずさる女に向かって、男は足を踏み鳴らして突き進む。そしてやおら女の両肩を掴むと、そのまま防波堤の下に転がり落ちた。女は暴れるが、男はそれ以上の力で押さえつける。女は言葉を忘れ、ただ必死に男の身体の下でもがいていた。男の怒号が浜に響き渡る。
 ここまで来て、平古場が息せき切って立ち上がった。
「凛!」
「止めんな! 離し!」
 甲斐は思わず平古場の長袖を掴んでいたらしい。
「やぁーが死ぬさぁ! それならわんが……」
「だけど……」
 布が千切れるような音が届き、それに伴って、女の引き攣った叫びが静寂を切り裂いた。
 平古場は甲斐の顔を哀願するように一瞥したが、次の瞬間腕を振り払って平古場は駆け出した。一歩毎に白い砂が靴の踵で空に飛び散る。十メートル遅れで甲斐も駆け出した。
 いち早く到着した平古場は男の逞しい上腕二頭筋に右腕を回し、「やめれ!」と連呼しながら引っ張った。左腕を使ったら傷が開くだろう。しかし男の身体はびくともしない。女は助けを請うような目で平古場に手を伸ばしている。甲斐は近づくやいなや右足を大きく振りかぶり、男の脇腹に蹴りを入れた。もんどりうって男が倒れる。それでも女を離さない。
 男は馬手と弓手に女の細い手首を掴みながら立ち上がった。女の服は既にあちこちが破れて白い肌が覗き、ゴス調に着飾った服が台無しだ。女は助けを求めて平古場と甲斐に手を伸ばしたが、怒り狂う米兵によって後ろに引き戻された。兵士の呼気から、むっとするほどのアルコール臭が鼻腔を刺激する。
 瞬間、平古場の姿が消えた、ように見えた。縮地法で消えると同時に米兵の後ろに現れ、女を拘束する手首に、左右順番に手刀を叩きつけた。男は無意識の内に女への注意が逸れ、その隙を狙って女が米兵の腕を振り払って甲斐に駆け寄った。「助けて」というか細い声が震えている。所々千切れた服で露出する肌を隠し、余った手で甲斐に助けを求める。
「やぁーは逃げれ」
「で、でも……」
 女は甲斐、平古場、米兵の間で視線を迷わせている。その間にも米兵がずんずんと歩み寄り、平古場が米兵の注意を引き付けている。
「今の内やし!」
「だけど……ラルフを置いて行けない!」
 正直この女馬鹿かと思う。何を考えたか、女は自分を襲いかけた男の事を必死で弁護しようと言葉を連ねている。でも論理が破綻した瞬間、女は夜目にも著く映える長髪をかき毟った。女の扱いは木手が断然勝っているだろう。甲斐には為す術がない。
 女が錯乱したのを見かねて、平古場が米兵の方をちらちらと気にしながらやってきた。震える女の肩に両手を触れて、あくまで優しく言葉をかける。
「あの男はわったーが引き止める。心配はいらないさぁ。だからお前は先に逃げて、近くの家に助けを求めな」
 女はそろそろと頷いた。その女の頭に優しく手を置き、平古場は黄色いパーカーを脱いで女の撫肩にかけた。
「ほら、逃げれ」
 女はパーカーの裾をお守りのように握り締め、防波堤を駆け上がり、向こう側に回って見えなくなった。
 後はこの男を止めるだけだ。酒は脳に作用して理性を麻痺させるとは本当だと思い知った。男は女が逃げたのを確認した瞬間、雄叫びを上げながら猛然と平古場に襲い掛かった。
「させるか!」
 刹那、甲斐が兵士の眼前に迫った。右フック、と見せかけて左足を弓のように引き、男の顔面を横殴りに狙った。男の身体が下に沈む。その行動を見据え、甲斐は左回転、立ち上がった男に対して垂直になるよう身体を捻る。右肘を男の鳩尾に向けて突き出す。避けられる。更に左の指を拳とし、兵士の顔面へと放った。
 しかし拳は兵士の掌で止められ、びりびりと震えていた。
「しまっ……!」
 縮地法を使おうとステップを踏みかけたが、いかんせん足場が悪い。足を滑らせてバランスを崩した拍子に米兵の岩のような拳が甲斐の鳩尾にめり込み、内腑に衝撃、吹き飛ばされて防波堤に背中からぶち当たった。がっ、と喉から呻き声が漏れた。ずるずるとその場に崩れ落ちる。呼吸ができなかった。食道の奥から熱を帯びた酸がせりあがってくる。視界がぼやける、意識が吹っ飛ばされる。それでも意識を完全に失わなかったのは、咄嗟に後ろへ跳んだお陰だ。手足に鉛が繋がれているかのような感覚が身体の自由を奪っていた。
「裕!」
 クソ野郎! という憤怒の叫びが続き、平古場は米兵に向かって体術勝負に出た。靄のかかって不透明になった視界で平古場が鮮やかに動き、米兵が打たれて体勢を崩す。せめてもうちょっと、早乙女の言う根性とかいう過去の遺物を出して真面目に練習していればと悔やんだ。悠々とテニスラケットを振ってボールを追いかけているだけでは、到底喧嘩には勝てないのだ。
 甲斐は吐き気を喉の奥に押し込んでよろめきながら立ち上がる。意識は半ば以上存在しない。本能的に立ち上がっても、何も出来ないのだろう。そう思った瞬間、世界が明瞭な光を取り戻した。胃にくる吐き気と呼吸困難は一時的なものだったがまだ酷く引き摺っている。平古場が大声で叱責するが、言葉は聞こえていなかった。
 途端、平古場がその場から消えた。
 目を疑ったが、平古場は殴り飛ばされて砂の上に転がっていた。口の端から垂れた血をリストバンドで拭い、平古場が片膝をつく。その一瞬前に米兵が丸太のような蹴りを食らわせ、平古場は砂を撒き散らしながら防波堤まで蹴り飛ばされた。今までに幾つもの戦場を経験してきたのであろう兵士は容赦がない。血泡を吐いて苦痛にのたうつ獲物の胸倉を何の造作もなく掴み上げ、身長よりも高く吊り上げた。
「凛、……」
 そこまで言って、膝が力を失った。舌の裏に吐き気を催す金属臭い唾が再び湧く。
 その時、海上に打ち上げられた枝垂れ柳が大輪の花を咲かせた。続いて鼓膜を破らんかという爆音が米兵の注意を集め、その隙に兵士の頬に平古場の拳が見舞われた。歯が折れる軟質の音と、肉と肉がぶつかりあう生々しい音に、米兵がくるりと怒りを向けて、片手で平古場の身体を投げ飛ばした。
 地面に衝突する寸前でどうにか受身の態勢を取った平古場は、ふらつきながらも立ち上がる。剥き出しの腕で口を拭い血混じりの唾を吐いた。
 終わらない海上の花火に照らし出される平古場の半面。これまでにない殺意の反対側に、濃く影を帯びた貌に一つだけ、死んだように無表情な瞳が兵士を見上げる。
 その虹彩は、濃密な紅色を湛えていた。
 どくん、と心臓が動いた。


 前に木手に教えて貰った事だ。
 カミと人間と妖怪は、全てが同一線上にあるのだ、って。人間は偉大な功績を挙げればカミにもなれるし、卑しければ妖怪にもなる。西洋は完璧に区別して別物だとされているけど、それはあくまで西洋の考え方であり、日本には通用しない。
 妖怪はカミの零落した姿だ、とも聞いた。それならば、

 カミになる前の、カミですらない、人間でもない存在は即ち、妖怪なのではないだろうか。


 絶叫が聞こえる。何処か遠い所で叫んでいるかのように、全く現実感が湧かない。それでも平古場は断末魔のように叫び続ける。
「あああああああああっ!」
 平古場の背中から這い出てくるモノは、濡れて撓んだ翅を広げる、蝶というには巨大すぎる蝶だった。蛾に似た触角を周囲に巡らせ、黒い目玉をぎょろつかせて、兵士の方向に目を向けている。感情と言うものの一切ない無表情な蛾の目は、それ故に獲物の存在を逸早く察知する。驚くべき速さで翅が伸び、見慣れた蝶の形へ変わっていく。テニスラケットよりも遥かに巨大な蝶は血色の光を仄光らせ、やがて平古場の背中から飛翔した。夜空を我が物顔でゆったりと、蝶は羽ばたく。いや、羽ばたいているのではないのだろう。大気が海であるかのように、その海の中で炎の翅を広げるように、血と同じ色の鱗粉が軌跡を残した。
 地獄の蝶、という表現が一番似合っただろう。地獄の窯に熾された炎の色を纏った深紅の蝶が、蒼い夜空に火の粉のような路を、刷毛でも使ったかのように描いていた。
 絶叫が止み、荒い息を鎮めようともせず、平古場が蝶を眺める。しかしそれはほんの一秒かそこらで、次の瞬間、平古場は兵士に向かって叫んだ。
「逃げれ……逃げれっ!」
 兵士は首を傾げる。平古場は尚も勧告を発するが、兵士はただ眉を顰めて平古場に迫りよってきただけだ。
 それが命運を分けた。
 依坐に害を与えんと欲する者、それ即ち悪なり。蝶は兵士の背に下り立つと、尖った尻を兵士の背中、肩、頭、胸、腹、顔、腕、脇、指、足へと付けていった。兵士の身体には10センチぐらいの大きさをしたラグビーボールのような形の何かが残されていた。それは卵だった。無数の卵が兵士の身体に産みつけられているのだ。何百何千、透明な色をした卵は一つ一つの中に幼虫が蠢かせ、殻を食い破ってぶちぶちと孵化を始めた。兵士に纏わりついた無数の虫が這い回り、そしてすぐに兵士の血と肉へ、頭を潜り込ませて沈んでいく。驚いた事に兵士は何の反応も見せず、ただ平古場の前に迫り、胸倉を掴み、再び吊るし上げて暴行を加えた。
「やめれ……」
 甲斐は無意識の内に立ち上がり、米兵の脇腹へ蹴りを見舞った。しかし力が入らず、兵士は最後に平古場の鳩尾を膝で蹴り上げて、甲斐の真横に叩きつけた。顔を防波堤にぶつけて思い切り擦り傷が出来た。唾液と胃酸混じりの血を吐いて兵士を見上げる平古場の表情は痣の色が色濃く――それ以上に怒りよりも苦しみよりも強い哀れみの色を湛えていた。
 甲斐は平古場の上半身を抱えて起こした。兵士はずんずんと軍靴を砂地にめり込ませて迫ってくる。
「遅ェよ……」
 平古場の呟きは血を吐くようだった。
「遅ェんだよ……」
 兵士は軍服の背中から、眼球のように、ぬめるように輝く軍刀を抜き出した。銃刀法違反に確実に引っ掛かるような軍用ナイフは、酒で理性を失った米兵の手に渡り、獲物を眼中に収めていた。逆手に持って佇む男は、杭を地面に刺すような動きで、頭上に大きく振りかぶった。花火の背景に男の影が大きく立ち塞がる。
 甲斐は最後を覚悟した。目を瞑ったそのすぐ横で、闇を満たした呟きが唐突に零れ落ちる。

「――来た」

 ――え?
 金属音が響き渡る。その音に釣られるようにして、甲斐は恐る恐る瞼を持ち上げた。
 兵士の皮膚を食い破って、何百匹もの幼虫が一斉に肌へ噴きあがった。兵士の肌を埋めつくす量の蟲は一瞬にして蛹と化し、蝶へと「第二の羽化」を始める。羽化した蝶は蝿と似た動きで米兵へ卵を産みつけていった。何も持つものがなくなった兵士の手は頭に伸び、左右から頭を強く掴んだ。断末魔が浜に響き渡った。兵士は狂ったように叫び、眼球が零れそうなほど目を剥き出して浜をのた打ち回った。猛スピードで再生される蝶の生態系を見ているようだ。しかし蝶とその幼虫が食うものは、葉っぱでもなければ花の蜜という平和で悠長な食物ではない。一人の兵士を――人間を喰っているのだ。
 目の前で人が蟲に喰われる――そんな光景は後にも先にもなかったろう。何も考えられず、恐怖もほとんど感じないまま、甲斐は無為に凄惨な光景を眺めていた。止める術も逃げる術も、何よりも平古場を助ける術すらも、何もかも脳に浮かんではこなかった。
 手首を掴まれた。立たされる。防波堤を越えて、駆け足になって防風林の中を突っ切った。身体に当たった茂みや木の枝が容赦なく肌を叩き、折れて服に纏わりつく。花火の音が追ってくる。悲鳴はもう聞こえない。代わりに誘蛾灯の周りで飛ぶ蛾のような音が今でもよく聞こえてくる。
「カミだなんて……クソ食らえやし……」
 平古場が走りながら毒づく。
「あにひゃーの『羽化』は不完全さぁ……栄養も準備も足りない状態で羽化しやがった。栄養が足らないなら何処かで栄養を取らねえといけねえんやし。やんどぉー……あんな形でマブイを喰うなんて……」
「……」
「カミなんかじゃねーらん。あにひゃーはもう、魔物マジムンやさ……」
魔物マジムン……」
 言う合間にも平古場の声は、見る見るうちに小さくか細くなっていく。
「あにひゃーは本来、わんの魂を喰うつもりだったんどー。まだ養分が足らねえなら、次に狙ってくるのはわったーやし。だから……少しでも遠くへ……」
 平古場の声は走る音に掻き消されて、聞き取れなくなっていく。地面一杯に敷き詰められた小枝を踏み折る音が平古場の声を打ち消す。走るのでも精一杯だった平古場の足は森の出口も見つけられないまま減速し、身体がくの字に折れ曲がっていく。傷が多すぎる左腕で黒いタンクトップの心臓部を掴んで、耐えているようにも見える。元々擦れた声が荒い呼吸に擦れて聞こえ辛い。
「やぁーだけでも……」
 手近な幹に縋り、それでも甲斐を先に行かせようと、手を引く。その手は既に冷たく、死人と呼んでも差し支えがない。
「やぁーだけ、でも……」
 幹の断片をぼろぼろと足元に落としながら、平古場は前へ進もうとする。しかしその足元は既に覚束ない。
 歩こうと足を踏み出した瞬間、とさ、と音を立てて、平古場の身体が崩れ落ちた。
「――え?」
 その無意識の呟きは、花火の合間に訪れる静寂に消えた。
 木々の奥に、樹冠の切れ目に、甲斐の真横に、夜が満ちていた。
 甲斐は、たった一人だった。
 




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