「永四郎……ぬーやが、それ……」
 首筋に金属の冷たさを感じながら、知念は唾を嚥下した。
「何って、分かるでしょう? 十五歳にもなって」
 鋭利な感触が首の皮膚を撫で、刃を熱するような痛みが流れた。火傷しそうな熱エネルギーを持った液体が首の筋に沿って線を引き、服に吸い込まれる。冷や汗の湧くような感覚を憶えたが、汗はもう一滴として滲まない。
「どうしてだよ。何でそんなもの持っているんやが」
「どうしてもこうしてもありません。篝火神である君の為なんですよ」
「ならこれ離せよ」
「無理だ、と言ったら?」
 一度だけ手首に埋めた刃が、頚動脈をかき切る位置に寄せられている。折刃式のカッターナイフは脆弱にも刃の鋭さを誇示しているかのように光を弾く。背後に上がる下弦の月が、星空を割って木手のレンズに飼われている。眼鏡の奥に一切の光が見えず、胸の内は窺い知れない。
 木手がカッターナイフを握り直して続きを繋げる。
「篝火神となった者は、夜明けと共に現世での使命を終えます。水分を粗方蒸発させられた後に残るのは、篝火の油と化す肉体です。全身を炎に包まれて、その中で焼死を遂げます。焼死はどの手段による死因でも、最も醜く、苦痛を伴う死に方だそうですよ」
 冷や汗が伝う感触は、血の間違いだろう。
 木手はこの上なく冷酷に、雄弁に死を語る。
「救いがあるとすれば、たった一つ、遺体を残さない事です。しかしそれ以外の条件は焼身と一緒ですよ。全身の皮膚が炎の熱に炙られて激痛に見舞われ、息を吸った瞬間に気道に火傷を負い、呼吸困難。瞼を開いた瞬間に眼球が熱に焼かれて縮み、鼻も耳も口も全て焼かれて原形を止めません。もし生き残れたとしてもお生憎様、火傷した箇所から体液が止めどなく流れ出して苦しみぬいた後に死に至るでしょう。そんな無残で惨めな死に方よりも、ここで死んだ方が断然楽ですよ?」
 先刻引かれた血の線に並行して、新たな痛みがなぞられた。
 眼鏡の角度が僅かに動き、月影がレンズから逃げた。硝子の奥に覗く眼球という鏡が新たな月を映す。色は本気を湛えて、今にも崩れそうだ。知念が察知すると同時に、木手がカッターナイフを横に薙ぎ払った。鮮血が迸るはずであった。カッターが突いた場所は虚空であったが、半秒速かったら頚動脈を抉り出して血液を12秒間噴出すはずだった急所だ。しかしすんでの所で知念は身を引き、背後に飛びすさった。白い前髪が数本刃を受け、風に吹かれて見失う。夏草の上に降りるまでの数秒で、知念はゆっくりと立ち上がった。
 首筋に描かれた2本の傷を掌に包みながら、知念は生唾を飲んだ。喉仏に開いた一筋の線から、生暖かい血液がぬるりとした。呼吸器官すれすれの所で肉を切られた箇所から思い出したように痛みが迸った。昨日手首に刃を埋めた時よりもぱっくりと口を開けた傷が空気に触れていた。
 木手は平静な態度を露ほども崩さずに体勢を整え、再びナイフを構える。
「流石に疾いですね」
 慇懃な姿勢は健在か。
「でも次は仕留めますよ。確実にね」
 殺し屋、という単語が脳裏を掠めた。去年の地区大会から言われ始めた二つ名である。どんな手段を講じても相手の急所を突いて速攻で仕留め、勝負に打ち勝つ。テニスだけだと思っていた。それがまさか、殺し屋という通名の正体を目前で見る事になろうとは。
 凍えた瞳の奥に少しだけ炎が灯っていた。
 直感が察知した。木手は本気だ。あのカッターナイフには見覚えがある。月明かりの下でも痛みの記憶と共に、容易に思い出せる。平古場の手首を切り裂いた、あの青いカッターナイフだ。そして 知念も一度だけ、己が手で自らを傷つけた刃だ。
 風が吹いた。足元の草が靡いて脹脛を打った。海鳴りが遠い。
 じりじりと後に引いた。両者の距離を保ちつつ、木手が歩み寄ってくる。油断の色は微塵もない。数歩下がった所で、土の塊が崩れるような音を聞いた。スニーカーを履いた踵で、崖を構成する石の一部が夜の海に消えた。地面が踵のすぐ後ろから海に落ち込んでいた。
 地を蹴る音、瞬間カッターの先端が月を弾いた。横に飛んだ知念を襲うは、策略もなしに振り下ろされたカッターである。知念は刃を持つ腕を掴んだが、いかんせん木手の勢いが強すぎる。そのまま後ろに転倒し、尻餅をついた。起き上がる暇も取らせず、腕を振り解いた木手が銛の使い方で再度刃を振り下ろす。力を殺せず、逃げる事も叶わず、木手の背後に星空を見る。背中が草を感じている。手が震えるまで木手のカッターを押さえるが、仰向けに倒れた状況ではそれも難しい。刃先が近づき、姿がぼやける。
 力負けしてカッターが頬を深く切りつけた。炎が掠めたような痛みに力が弱まる。その隙を狙って木手の一撃が振り下ろされる。抵抗した右手が刃を掴み、肉に金属が食い込む粘質の音、血が溢れて腕に幾筋も絡みつく。
「君が……」
 押し殺した呟きが不意に木手の口から漏れた。
「君が、平古場君を殺したようなものでしょう!」
 力が強まり、知念は震える手で木手の腕を押さえつける。力と力の拮抗したせめぎあい、どちらが勝ってもおかしくはない。
「君がもっと適切に行動していれば、平古場君は苦しまなかった」
「永四ろ……」
「恨みますよ。一人で背負い込んで結局何も出来ないで! 責任を全部おっかぶせて放任ですか! 何の為に俺が平古場君と甲斐君を那覇に送り出したか分かっていますか? 君をこのシマに残らせた理由は何なんですか? 答えなさいよ、知念君。理由なんて一つしかないでしょ? 平古場君は死ぬんだ! 昔のように、単純に『護る』と宣言しても、今更どうにもならないんですよ」
「!……」
 木手はナイフを押し込む手に更に力を込める。悲愴さすら漂うその言動は、木手が今まで押し殺してきた感情の塊だった。誰にも言わず、唯一人で考えて抱え込んでいた、プラスもマイナスもごちゃ混ぜの思考が怒りによって極限まで煮詰められた濃縮体だった。およそ論理を欠いた咆哮は、敵を目の前にした狼に似た凄惨さを放っていた。
「平古場君は生まれた時から苦しんでいた。宿命に運命に使命に全てに自分を縛る何もかもに。それらの重圧を隠す為に今までおちゃらけた態度を取っていたのが分かりますか? 誰にも心配をかけたくなかったからですよ! でも偽りの明るさであろうと、それで平古場君に助けられた人は一杯いるんですよ、俺みたいにね! 俺は平古場君に借りがありますよ。だから俺は、その恩人を最後まで傷つけた君を、許す事ができません。だから――」
 木手はナイフを頭上に掲げ、血を吐くように吠えた。
「死んで下さい、君が!」
 死の恐怖――それは、人を見境ない行動に追い立てる本能的な手段だと悟るのに、時間は必要なかった。
 無我夢中で木手を蹴りつけて、木手がバランスを崩す。いつもであれば決して平衡感覚が崩れる事はないのに、今に限って崩れた。土の崩れる音。木手の身体が沈む、そしてその姿は忽然と闇に紛れ、見えなくなった。星空を遮る影が消え、風を切るような音。
 そして、肉が岩場に叩きつけられる、ベチャ、という湿った音が海鳴りの音を超えた。続いて、水深の浅い岩場に質量のあるものが落ちたような激しい音。
 音のある静謐が訪れた。海嘯が月夜に響き渡って、夜風に夏草が波打っている。何処かでエイサーの道ジュネーの囃子が聞こえてくる。しかし蝉はもういない。
 知念は荒い息をそのままに、草原に腰を下ろしていた。
「永……四郎?」
 尻餅をついたまま、呆然と呟いた。
 次の瞬間、状況に脳が追いつかないまま、慌てて崖の際にしがみついた。触るだけで土が崩れて、少し後に下がった。海は白く波を逆巻いている。しかし周囲の岩には、黒っぽい液体がインク壺を零した様に広がっていた。太陽の下で見れば、黒は鮮やかな原色を晒していたかもしれない。黒の跡を追って夜の海に目を凝らす自分がいるのに、脳が見るなと警鐘を鳴らす。しかし視線は明らかに人間の姿を探していた。
 月明かりのしたに、岩ではない何かが倒れていた。
 それらしい形を見つけはしたが、知念の脳は必死でそれを「人間」だと認識するのを拒否していた。見るなと感情が視線を抑制し、確認しろと理性が視線を無理矢理崖の下に連れて行く。眩い月明かりに照らされて、潮の中に四本の肉が飛び出た何かの姿を確認した。
 白波を赤く染めて、海が人の形を冒涜した物を洗っていた。関節を幾つも持ったような腕が、足が、在り得ない方向を向いていた。ワイシャツの脇からはみ出た奇妙な形をした管が波に揺れている。腹部が海を染めているようだ。そして首は確実に折れていた。180度後ろに曲がった顔は、苦悶も微笑みも存在しておらず、限りない無表情を浮かべていた。フレームだけを残した眼鏡が、片耳だけを足掛かりにしてなんとか頭に繋がれているようだった。
 押しては引く細波が、肉塊を規則的に潮へ沈めている。
 あれで生きていると言えるなら、全世界の飛び降り自殺者は一人残らず命を取り留めているだろう。
 知念は茫然自失の態で崖から離れた。石に躓いて転倒した。内腑を全て絞り上げたような吐き気が食道へせり上がり、その場に両手を突いた。内臓を晒して死んだ木手の死体が視界にフラッシュバックする。苦しさに目を瞑ったが、その瞼の裏にさえ墜落死体が浮かび上がった。血を飛び散らせて、内臓を剥き出して、踏み潰された昆虫のように無残な死に様。
 吐き気がした。もう何も吐けないと思っていたのに、酸の味をした黄色い液体が糸を引いて零れ落ちた。消化液の苦味が伝った。
 死んでいる。殺した。殺してしまった。
 むっと強い酸の匂いが鼻腔を刺激する。内腑へ染み渡る臭気は胃の中から吐けるものを要求するが、もう胃にも腸にもそんなものは残っていなかった。
 罪の意識どころではない。今の知念にあるのは嫌悪の塊だった。死体を醜く感じ、醜い姿に変えたのは誰だ、それは自分ではないか。見る影もないほど凄惨な死体へと人体を変形させ、どうして自分が生きている。正当防衛という単語を思い出して合理化しようとするが、それでも人を殺めたのに変わりはない。どうしてあの場面で木手を蹴った、崖に向かって蹴ったのだ、攻撃を防ぐ方法なら武術で幾らでも習ってきただろう、知念寛、どうして刃を止めさせるより先に死なせてしまったのだ、正当防衛などまやかしだ、それで人を手に掛けたのなら殺人犯と一緒ではないか、どうして殺したのだ、崖に突き落としたのだ、対処方法など幾らでもあったろう、木手も死なず自分も死なせぬ方法が、答えろ知念寛、どうしてだ、どうして考えられなかったのだ、どうして助けることが出来なかったのだ、どうしてだ、どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてドウシテどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてドウシテどうしてどうしてドウシテどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてドウシテどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてドウシテどうしてどうしてどうしてドウシテどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてドウシテどうしてどうしてどうしてドウシテどうしてどうしてドウシテどうしてどうしてドウシテドウシテどうしてどうしてドウシテどうしてドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテどうしてドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテどうしてドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテどうしてドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテどうしてドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテどうしてドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテドウシテどうしてドウシテ……

 木手は、死んだんだ。

「う――あああああああっっ!」
 地を蹴った。走った。頭が割れそうだった。肉を穿つ傷が脈打った。血が融けた鉄のように熱い。スニーカーの底で、首飾りを作った名も無き花が踏み潰された。全身が燃えるように熱かった。 燃え尽きるんだ。悟る他なかった。木手を殺した恐怖、死体と自分の醜さへの嫌悪、ふと浮かび上がる木手と一緒にアイスを食べた記憶、平古場が見つからない焦燥、思い出、夏の日々、甲斐への恨み、海遊び、田仁志と殴り合いの喧嘩をした幼い頃、テニスの夏、海で素潜りを強制された、早乙女の竹刀の響き、幸せが全て戻って来るような希望が一挙に去来し、そしてシャボン玉が壊れるかのように全てが一斉に弾けて消えた。
 夜がただ広がっているだけだった。孤独の夜が、絶望の闇が、全てを見ている月が、ただ知念の横に、ひたりと寄り添うだけだった。幾度となく振り払っても闇は蜘蛛の糸のように絡みついて離れない。振り払ってもその分余計に絡みつく、際限の無い夜の罠。
 走り出した足が夜に絡め取られ、足元のアスファルトが過ぎる速さが鈍り、やがて止まった。
 耳鳴りがしそうだった。音がないようで、何処かで楽しげなエイサーが三線を掻き鳴らしている。しかし知念の傍には誰一人としていない。
 一人。
 空を見た。星が広がっていた。同じ空の下に、自分と、死体と、何処かで生きている平古場とが存在しているのだ。同じく連綿と続く途方もない星霜の中で、平古場と自分がほんの一瞬で死んで消滅してしまう。
 兄弟のように、或いは双子のように、毎日接してきた友の姿は、何処にだって見つからない。幼い頃、夜に取り残された自分の道標となってくれた、月の友。
 えっく、と一度だけしゃっくりをした。
 下弦の月が夜に穴を開けている。星空の穴は眩く煌き、雲一つ無いのに滲んでいた。月の歪みは泪となって頬を伝った。でもそれは、知念の求める月ではなかった。


 わんぬとーとーめーはまーんかい沈んでしまとーんやがやー?
   (俺のお月様は何処に沈んだのですか?)


 足が動いた。目的地はなかった。月の色をした髪の友を探す目的の脚は、既に逃避の手段へと変わりつつあった。
 行く当てもない放浪が始まる。何処かで花火の音が鳴り響いていた。


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