最早言葉も発さぬ肉塊は磯辺を赤く染め上げていた。波に踊る内臓は夜目にしるく映えている。
 何か詞を紡ぎ出そうとした瞬間に命が絶えた口唇は虚ろを開けていた。
 今後閉じられる事もないだろう唇から、突然動く物があった事に、寄りつこうとしていた蟹さえも気付く事はなかった。
 もぞもぞと小さな翼を広げる蒼い蝶は、この世の宿主の身体からそっと飛び去った。エイサーの囃子に送られて、木手永四郎の魂はニライカナイへ向けて旅立っていく。


   *


 理由もなく、死にたかった。
 理由なんてそこらへんに幾らでも転がって寄り添っているのに、その答えが見つからない。

 平古場が目の前で草を掴みながら倒れている。浜辺から米兵が叫ぶ声こそ聞こえなくなったが、今も尚蟲に食われているだろう。時折花火が星の居場所を奪って地上を照らし出すが、木々に遮られては届く術がない。消し炭が世界の形を成しているように、生命の息吹が何処にも見えない。
 夜が満ちていた。甲斐は言葉も無く平古場の横にへたりこんで背中を丸めていた。
 背中に張り付いたTシャツも、殴られた痛みも、自分ではない他の何かが受け取っているかのようで、自分は感覚の情報を何処か違う場所から受信しているような気分にあった。現実感がまるでない。目の前の景色は全てドラマのロケだろうと深層心理が眼前の光景を修正する。
 しかし、この痛みは何処から湧いては波打っているのだろう。頬は熱を孕んで痛覚に訴え、眼球は水晶体を通して真夜中の森を網膜に映している。血の味を伝える味蕾は確かに存在しており、Tシャツが背中に張り付いている事も理解できている。鼓膜は花火の爆音を受け取っている。向こう脛に小さな蜘蛛が這い、闇に紛れて姿を消した。こうべがずっと下を向いていた為か、後頭部で痛みが線の形を成す。
 足が麻痺していた。逃げよう、走ろうと思っても、足が震えて命令を聞いてくれない。自分の足じゃないから聞いてあげないよと足がそう言っている。脊椎損傷による下半身麻痺では決してない。幾ら脳をフル回転させてもまだ余りある混乱が、純粋なる恐怖を超えていた。
 平古場の言葉が脳裏に甦る。お前だけでも逃げろ――逃げられるわけがなかった。一人で逃げるのも二人で逃げるのも大した変わりはない。走るという事はそれ自体が孤独な行為に他ならない。マラソンみたいなものだ。横に人がいるかどうかの問題だ。その前に、足が動かなければ歩くも走るもなければ逃げると言う選択肢も存在しないのだ。
 平古場を置いて一人で行くなど出来なかった。もしここから一人で走り出したとしよう。その場合、孤独感に駆られるに違いない。助けとなる人物がいない。ああ利己的な考えだよ、でもそれが本音だろ。この状況は、昔崖から落ちた時の状況と酷似しているようにも感じ、一層一人では行動出来まい。涙は空っぽだし、心の底は真っ黒なコールタールに覆われて波一つ立たない。脳髄は情報が注がれすぎて許容量を遥かに超え、情報の対流も起こらなかった。ただ時間が過ぎていく、それに伴う情報が海馬に押し込まれては流れ出してゆく。
 指の先さえ動かせない時間が無為に過ぎていた。このまま夜が終わるのではないかという漠然とした考えが現れては消える。
 星を語っていたあの時間は何処に去ってしまったのだろう。星を眺めるだけで良かった、そんな時間は既に情報の濁流に沈み、思い出せない遠いものになってくる。
 助けて欲しかった。実を失くした心の内で虚ろな本音が願った。他人事のように思えるこの異常事態の中、何とかレンジャーという五色コスチュームを着た謎のヒーロー五人組が参上して助けてくれるのではないか。そんな下らない妄想を破って千切ってゴミ箱に捨てる。助けてくれる人物などいないのだ。何処にも誰にも。それなら自分が助ける側に回らなければ何も前進しないだろう、甲斐裕次郎。助けるとしたら何処に? 誰に? 頼れる人物などいない。じゃあ誰が助けるのだ、それは自分ではないか。さあ、平古場を連れて逃げろ。動かない足に縄でも鎖でも付けて引っ張って、無理矢理にでも足を前に出せ。そして一歩一歩自分の足で逃げるのだ。平古場を連れて。無理だよ、と心の中の諦念が溜息を吐く。それでも行け。平古場を連れて行けるのは甲斐裕次郎、お前だけなんだ。
 自分に言い聞かせて身体を無理矢理動かした。倒れたままの平古場の身体をひっくり返し、ぐったりと動かない腕を肩に回し、同様に自分の左腕を平古場の肩に回した。膝を伸ばして立ち上がる。担ぎ上げた平古場の身体は哀しいぐらいに軽かった。黒いタンクトップから伸びている腕が熱を持っていない。死に瀕する人間ってこんなに冷たいんだと実感する。首を横に振ってその考えを振り捨てた。前だけを見ろ。前だけを見て進め。今は平古場を助けるんだ。助けなければいけないんだ。
 覚悟が必要だった。覚悟が無ければ、歩く事すら叶わない。
 平古場の靴先を肥えた腐葉土に擦りながら、一歩前に踏み出す。一歩。また一歩。一寸先も見えない闇の中を、意志を導に進み出す。足の裏で土が軟らかにへこむ。その実感に身体がようやく自由を取り戻していく。自分が自分であり、平古場が平古場である感覚。
 小さな防風林を進みゆくと、唐突に藪が途切れた。半ズボンを擦る枝が消え、目の前に広がるはアスファルトに固められた小さな駐車場だった。寂れて、車が十台も止められないほど狭い。その上、夜は澱のように足元に沈んでいる。風化したアスファルト上には細かな礫が散っている。踏むと鳴る礫を押し潰すようにして甲斐は平古場を引き摺った。駐車場を出た辺りからは道が左右に伸びている。迷わず左へ歩き出す。甲斐の記憶にある限り、その方向へ二時間歩けば乗ってきた基地周りのバス停がある筈だ。電灯も点滅するような道で頼れるは昇り始めた下弦の月だった。影が濃い。月は太陽と見紛う程にあまねく大地を照らしていた。花火は既に枯れていた。
 それから何十分歩いたか分からない。足に疲労が塊として蓄積されるまで、甲斐はひたすらに歩き続けた。その間にも肩にかかる重力は少しずつ減っていく。気付けば先刻よりも軽く、歩み続ける足も速まっていく。軽さを感じる度に静かに焦りが募る。車が全くといって良いほど通らない道の脇を、曲線に沿って歩いた。
 暫く歩いていると、遠くから車の排気音が届いてきた。潮騒だけが聞こえる静謐の中、車の音は珍しい。甲斐は顔を上げると、砂糖黍畑の向こうにちらちらした車のライトを見た。しかもその光はこの道の沿線にあるではないか。そう考える間にも、車の音は徐々に近づいてくる。夜の閑寂を割って、大きな駆動音がやってくる。大きな白いバスが「回送中」の札を掲げて、黄ばんだライトを投げ掛けて迫りよってくる。
 甲斐は思わず平古場をその場に下ろし、スピードを上げようとしていたバスの前に躍り出た。大きく両手両足を広げる。猿の警告音のようなブレーキをかけてバスが前のめりに失速した。ライトが眩しかったが、甲斐は運転手の驚きに満ちた顔を正面から見つめた。バスは甲斐の僅か二メートル先で止まった。
「く、くぬぅやなわらばー! 死にたいんばぁ!?」
 運転手がサイドの窓を滑らせて、引き攣った叫びを上げた。奇しくもその声を上げたのは、昼間、終点で起こしてくれた穏やかな老翁だった。
 甲斐は老翁の言葉を無視し、横へ走り寄って訴えた。
「なあ、お願いさぁ、乗せてくれ!」
 老翁がある種恐ろしいまでの速度で驚いた顔を苦笑いにまで変えた。口調まで穏やかさを取り繕って答える。
「で、でもねぇ。今は回送中で、だあれも乗せられないんだよ。悪いね」
「そこを何とか! 頼むさぁ。瀕死の友達がいるんやさ」
「瀕死?」
 老翁は復唱すると、やっと甲斐の傷に気がついたらしい。呆れたような口調で返す。
「喧嘩でもしたのかい?」
「まあそうなんだけど……えっと、何つったら」
 視線を逸らして頭を掻いた。本当の事なんて多分死んでも言えないだろう。言ったとしても信じてくれないのがオチだ。どう説明したらいいだろう。しかし今は考えている暇も惜しい。勢いよく甲斐は顔を上げた。
「説明は後! とにかく怪我人がいるんやっしー。頼む! ……近くの病院まで、お願い出来ませんか?」
 老翁は腕を組んで首を傾ける。乗せてくれ、乗せてくれと無言で願った。どんなに''やなわらばー''と貶されても譲れなかった。いざとなったらバスジャックするつもりだった。どんなに優しい大人にも失望する所だった。
 悩んでいた表情は優しい笑みを取り戻し、「いいよ、乗りなされ」とバスの扉を開いた。
「おじい……ありがと!」
 平古場を何とか立たせて、バスの中に持っていく。寿命の切れかけた蛍光灯で暗さが目立った。平古場の身体を一番後ろの赤い長椅子に横たわらせる。横で心配げな色を浮かべる老翁が尋ねる。
「で、何処の病院に?」
 一瞬言葉に詰まった。顔を伏せて記憶の糸を手繰るが、比嘉島の通称「Dr.木手診療所」しか思い浮かばない。本島で知っている病院なぞ一つとして思い浮かばない。思わず「一番近い所」と返すと、老翁は一つ頷いて運転席に戻った。
 床がゆっくりと動き出し、振動を始めた。窓の外は硝子の反射でよく窺えないが、バスは少しずつ速度を増してきている。
 平古場の髪が一筋、まるで血の気が無い唇にさらりとかかった。その髪を除けるが、平古場の反応はない。内出血が所々見られるが、顔色は人の肌と断言できるのがおかしい方で、紙を練り合わせて人の顔を作ったのだと言った方がまだ納得できる。本当に生きているのか疑わしくて首の脈を取ると、微かにだが速い脈が伝わってきた。冷めゆく温もりの中、それだけが唯一の希望に思えた。
 甲斐は平古場の手を両手で握り締めて祈った。こんな時だけカミサマが助けてくれるなんて甘い考えだ。それでも縋る他なかった。目を瞑って、平古場の冷たい手に、ぎゅっと力を込める。

 ――凛を、ニライカナイに連れて行かないで下さい。


 バスは夜の中を走っていく。





 時間の経過と共に窓の外に明かりが過ぎるようになった。バスは相も変わらず床を小刻みに振動させ、窓外の景色を刻々と変化させていく。硝子越しでは全く見えない星の代わりに、文明の灯が地上を煌かせている。夜を証明する光だが、夜の深まると共にその数を減らしつつあった。
 死人のような手指をぎゅっと握り締めながら、甲斐はひたすら病院に着く事を祈った。バスは既に市街地へと入っていた。病院は幾つかあるはずだ。平古場の指をずっと握っていると、冷たい指が少しずつ温もりを取り戻しているように感ずる。それが自分の体温だとは思わなかった。生きている、ただそれだけの希望を持って、平古場の手を自身の指で包み込んだ。
 永劫とも思える時間の後、やっと白い外観を持つ直方体の建物が見えた。角を曲がるとバスの頭はその建物に向いている事に気付く。真横を通った看板の文字は色褪せていた。辛うじて総合病院という文字は判別できたが、看板は一瞬で夜闇に紛れた。バスは小さな坂を登ると、玄関口のすぐ目の前で止まった。ブレーキの反動で平古場の体がずり落ちかけ、その肩を掴んで引き上げる。バスの扉は降車用の甲高い電子音の後に、空気音を立てて横滑りした。
「ほら、早く行きなされ」
 平古場の肩に自分の腕を回して立たせる。そして出口の階段を慎重に降りた。靴底でぺたぺたと一段ずつ踏み、平古場に僅かな刺激も与えぬようにバスを降りる。
「ありがとうな、おじい!」
 閉まる寸前の扉に向かってそう呼ぶと、老翁は笑顔で親指を上げた。バスはエンジン音を残して、坂の下の闇に消えた。
 平古場の爪先を引き摺りながら自動ドアの前に立ち、スニーカーを脱いでスリッパに履き替える。夜間外来の窓口に歩み寄って、人気のないカウンターに歩み寄る。
「あの……誰かいるか!」

 その後の事はよく憶えていない。
 憶えているのは、慌てて医師や看護婦が駆け寄ってきた事、平古場がストレッチャーに乗せられてICUに運び込まれた事、保険証と身分証明書の提示を要求された事、血液型を聞かれて注射で血を抜かれて今からクロスチェックをしますから血液型が適合したら献血をお願いしますと言われた事、チューブやコードを沢山繋がれている姿がカーテンの隙間から見えた事、コードがついた金属板を胸に当てられて大きく反り返った平古場の身体、何やってんだよ平古場を殺す気かと暴れかけて看護士に押さえつけられた事、コーラを点滴しているのかと思って硝子張りの治療室に飛び込もうとした事、木手のような医師に絶望的だと言われて長椅子に崩れ落ちた事。それでも涙は滲まなくて、ただ何かがすっぽりと抜け落ちたような空虚さが残っていた。それはまるで、脳から一切の生存本能を抉り取られたような、そんな空白だけが残っていた。

 長椅子に背中を預けたまま、時間だけが無為に過ぎた。全く人気のない待合室には入院患者すらも座っていない。緑色の常夜灯は呑気に出口を指し示す。頬や鳩尾に残る鈍痛も現実感を持っておらず、別世界にいる自分の身体が電気信号として感覚器官である自分の身体に間接的に伝えているのではないかという考えまで湧いてくる。かち、かち、という秒針が世界を無慈悲に押し流している。待合室の壁に掛けられたアナログ時計は一秒一秒を確実に刻み、平古場を死へと追いやる秒読みを始めていた。しかしそれはとっくの昔から始められた事で、今に限った事ではないのだろう。平古場は生まれた時から、5599日というカウントダウンを確実に刻み続けていたのだから。生けとし生けるモノに必ず訪れる死は、日々が秒読み、カウントダウンではないか。平古場はそれがちょっと人より早いだけで、いつかは自分の肉体にも死は必ず訪れる。秦の始皇帝が不老不死を求めて蓬莱に徐福を遣わしたのは、皇帝であろうと乞食であろうと、何人たりとも死から逃れられない事を示しているではないか。死なぞ何処にでも転がっている。目の前にしないだけだ。透明な隣人だ。メメント・モリという言葉がかつて古代ローマから中世ヨーロッパに存在したように、死を常に思うべきなのだろう。
 ――ああ木手、今になったら、君が何故本を読むように勧めたのかが分かるような気がするよ。そんな君は今何処にいて何を考えているのだろう。平古場の末期を知り、故に俺へと教えた知識は本の中から来たんだね。
 眠気もなければ起きているという実感も無い。寒くもなければ暑さも感じず、死にたいとは思えなくて生きたいとも思わなかった。考える事も考えない事も出来ず、ただ情報の混乱の中で、甲斐は一人、椅子に座っていた。
 死にたかった。理由なんて山ほどあった。平古場が苦しんでいるというのに、何も出来ない自分。死んじまえ。平古場に最後の想い出を作ってあげてくれと頼まれたのに、このザマは何だ。花火すらロクに見られず、米軍兵士と喧嘩してボロ負けして、予定より断然早い羽化が始まって、逃げて、人が一人死んでいて、平古場は今まさに失血のショック症状で死に掛けている。血液型なんてくそ食らえ、そんな概念がなかったら我が身の血液なんて最後の一滴まで絞り出してぶっとい輸血の針を平古場の左腕の血管にブチ込んでやる。平古場がどんなに嫌がっても生かしてやる。血をミイラになるまで搾り取って平古場の血管に針を押し込んで血液を注入してやる。平古場が生きる為ならば、死にたいほど死にたい。それでもまだ死にたくない自分がいる。理論の破綻。理屈の矛盾。理屈って何だろうなと考えると木手の顔が出てきて、木手が嫌うよな、と半ば自虐的に口元を歪めた。
 幼い頃に遊んだシャボン玉のように、取りとめもない考えが浮かんでは弾け、弾けては浮かぶ。
 でも分かっていたのだ。いつか平古場が死ぬ事は。早乙女に追いかけられたあの日、平古場は、大人になれるのかな、と呟いた。アメリカに行くなんていう夢を語ったのはそれが叶わないと知っての事だ。夢は見るものだ。現実に目覚めた朝、夢は壊れて現に戻る。眠っている間に見た世界を、夢を飼い慣らして人間は生きていく。未来に描く理想を温めながら、人間は叶わぬ夢を追い続ける。それは人が呼ぶ「希望」ではないだろうか。叶う事がまれな望みだからこそ「希望」なのではないだろうか。
 しかし、だからこそ夢を見たかった。今だけでいい。平古場が起きて、生きて、苦しみもなく平和に歳をとって生きてくれと願った。
 一緒にフロリダに行こう? 一緒にカノープスを見よう? 南十字星を上空高く眺めよう? 生きよう? 生きて、明日の夜明けも生き抜いて、そうして未来を積み重ねていつか――フロリダに行こうよ。





 トコシエにも思えた時間の後に、治療室の扉を開けて平古場が出てきた。思わず平古場に取り付いて手を握る。リストバンドで覆われていた手首は包帯に差し替えられ、ピンで留められて、不謹慎ではあるがすっきりとした印象を持てる。白衣の医師が額の汗を拭った。
「恐るべき回復力ですね……驚きましたよ。普通の人間だったら、とうに失血死している所です。我々も正直助けることは難しいと考えていました。クランケの生命力の勝利でしょうね」
 甲斐は医師の言葉も聞かず、平古場の手を握り締めた。未だに冷たいものの、温もりが戻り始めている。しかし微かにだが、身体の奥にシーツの皺が垣間見える事に、甲斐以外の者は誰も気付く様子を見せなかった。
「とにかく明日の朝まで様子を見ましょう」
 医師は一つ大きな欠伸をすると、背伸びをしながら廊下を進んでいった。
 よかった……
 甲斐が息を吐いた瞬間、膝からがくりと力が抜けた。え、と思う間にも視界全てがブラックアウトする。頭の中から血が抜け落ちる冷たさ。床のリノリウムに膝を打つ感覚、急激に襲い来る圧倒的な睡魔は甲斐の全てを飲み込んだ。


TOP > 小説目録 > 海風TOP > 次へ