どうして俺には誰も事の顛末を教えてくれないのだろう。田仁志慧は自転車の上で風を切りながら一人ごちる。身体の割に小さいペダルを漕ぐと膝がハンドルに当たるがそれはもう仕方がない。サドルは一番上まで上げたのだ。漕ぎづらいのは不可抗力だから諦める他ないだろう。自転車を降りるつもりはないけど、走る気にはならない。それにこうやって坂を下っていると、熱帯夜とは言え多少は涼しかった。夜気は亜熱帯の熱を残したまま田仁志のすぐ傍を風と化して通り過ぎていく。汗の浮いた額に心地よい冷気を送っているのが少しだけ嬉しかった。いつも通学時に通る下り坂を下りながら、田仁志は思考を巡らせていた。
 最近の木手は変な命令ばかりする。知念は何故か平古場にとんでもなく執着しているし、甲斐は平古場と何処かへ行ってしまうし。何よりも平古場が日々壊れていくのが忍びない。平古場は任務だとか使命だとかいうやつで血が必要で、その為に手首を切っている。昨日の今頃は甲斐に血を飲ませる事に協力はしたが、それ以上の事は何も伝えられてはいなかった。血を飲ませて、それで何が出来るのかは知らなかった。伝統だと木手に説明されて、仕方なく血イリチーに混ぜて平古場の血を胃に取り込みはした。昨日、''島民は全て導き神の手駒''と言われたが、後でそれは嘘で平古場自身もよく分かっていないのだと木手に説明された。説明を受けたのは全て木手からで、憶えている限り全ての情報源は木手に集約されていた。
 先刻木手に電話をしてみたが、携帯電話は沈黙を保っている。甲斐にも知念にも何度メールをしたことか。一通として返ってこないし、知念には昼に電話して怒鳴られた。正直何で怒られるんだよと逆ギレしたい所だ。しかしついさっきまで何度電話をしても出なかったのだから今回も結果は同じだろうと田仁志は意識を運転に戻す。
 本来は沖縄ならではの家屋が立ち並ぶ閑静な住宅街であるはずが、一ブロック隣の道では、いつになく熱狂したエイサーが踊られて、道ジュネーが延々と繰り広げられている。時折曲がり角から垣間見えるのは小さな身体に纏われる民族衣装や法被だった。大きなイベントがなくて殆ど観光名所としてのアピールが出来ない島だから、こんな時しか名を馳せる機会はないのだろう。それはそれで少し哀れに思った。
 小さい頃はエイサーに地元有志として参加させられた事もあったが、それはもう昔の話だ。比嘉島のエイサーは子供を中心とした大規模なもので、お祭り騒ぎは夜を通り越して朝まで続く。子供を動員したり夜明けまで続いたりという部分は本土とは異質な面のようで、同時に伝統が守られていると豪語する老人の意見だった。エイサーはお盆期間、特にウークイ(お送り)の日に、帰ってきた先祖の魂を後生の世界へ送り出す為に踊られる。小さい頃は眠くて仕方がなかった。中学校に上がってからやっと解放されて万々歳をした覚えがある。
 風を切る自転車はいつの間にか住宅街を抜け、浜辺へと向かっていた。仄薫る海風が鼻腔にくすぐったい。
 夜の島はただ静かだった。音がないわけではない。自転車のチェーンは軽やかに回り、何処からか地謡の声、パーランクー、三線や大太鼓らが軽やかに勇壮な旋律を紡ぎ出す。しかしそれはあくまで遠い場所で行われているのであって、目の前で開かれているわけではない。今田仁志の耳によく聞こえるは、押しては引く海の漣であった。風はなく、静か。星が天蓋を覆い尽くしていて、本土にプラネタリウムとかいう施設が存在する事を哀れに思う。
 違う。この島の方が一人ぼっちなのか。
 浜辺のすぐ前を横切る防波堤の前まで来てブレーキを握りこむ。猿のような音をたてて自転車が止まり、田仁志は自転車から降りた。鍵をかけなくても、盗む奴なんてこの島にはいない。むしろちょっと借りているのは田仁志慧の方であった。
 一段が大きな防波堤の階段を乗り越え、田仁志は海を目下に望んだ。背の高い草の生えた、ロクに整備されていない浜。そこは早乙女のスパルタ教育には使われない、比嘉中テニス部レギュラーにとって秘密基地のような場所だった。何もかも忘れて、心を安らがせるのは海を目下に望んだ景色だけだ。ガジュマルの樹が生えた浜辺は、今も昔も変わらない姿でずっと佇んでいる。ガジュマルはたった一本、蛸のような脚を絡ませて砂上に突っ立っている。
 そのガジュマルの根元に腰を下ろした。砂が硬くて、ずっと座っていると痛くなる。手で掬い上げると指の間から落ちていくのに、砂は形がないのに、ちゃんと硬度を持っている。
 海に臨む樹の足元で、田仁志は大きく深呼吸した。吸って、吐いて。腹が膨らみ、へこむ。まあへこむと言っても腹の肉が段数を増すだけだ。
 先刻と打って変わり、海の波はそんなに高くはない。まあ低いとも言えないが、穏やかに白波を映えさせているのが確かであった。もう夜は更け、日付は変わっているだろう。月が昇って少し経ったが、まだ地平線から顔を出したばかりと言える。頂点に達しているときの青白い鋭さとは縁遠い、血を薄めたような鈍い下弦の中で兎が杵を持ち上げている。醤油に浸けた餅を想像した瞬間、腹が食料を要求する声を上げた。その腹をピシャリと叩き、田仁志は「腹減ったさぁ」と誰ともなしに口にする。
 去年の今頃は、エイサーに伴われて開催された祭りで、ホットドッグなり焼き蕎麦なりを頬張っていた。思い出せば毎年のように繰り返されていた光景だった。甲斐と平古場はいつも両手に綿飴、金魚掬いや射的の景品が入った袋を提げて笑っていた。知念は出店を手伝っていて親孝行だと思ったし、木手はいつ甲斐や平古場が悪戯を始めてもいいよう、常にゴーヤーを片手に祭りを練り歩いていた。それでも平古場は木手の目を盗んで、すっかり酔った早乙女からお金をせびっていたらしい。あくどい事をするものだ。今となってはそれも懐かしい。
 祭りはシマの公民館で行われているはずだ。しかし今年ばかりは行く気にはなれなかった。祭りは誰かと行くのが楽しいのであって、一人で行くなど意味は無い。満たされるのは腹だけだ。今日は甲斐も平古場も那覇に遊びに行っているそうだし、知念には怒られるし、木手に一緒に行こうと誘ったがけんもほろろに断られた。今、皆は何処で何をしているのだろう。
 その瞬間、何処からか狼の吠えるような音が届いてきた。狼というべきか、動物よりは人間染みた声であった。しかし人間の声と断定するには、余りにも獣に似た咆哮に思えた。
 どうしたのであろうか。
 立ち上がって尻についた砂を払う。何が起こったのだろう。夜闇のマントの中にいては、幾ら月が照らそうとも見えないものだってある。声の方向には崖があったはずだ。目を凝らす――しかし崖はこの浜からでは見ることが出来ない。
 また、自分には何も教えてはくれないのだろうか。
 この同じシマにいるのに、教えてくれないのか。
 木手も知念も平古場も、何かを知っているようだ。それなのに何も教えてくれない。木手には違う話で問いを逸らされるし、知念には口をつぐまれる。平古場にははぐらし方を教わりたい。甲斐は何も知らされていなかったようだから訊いても意味を成さない。甲斐には教えて、何故自分には何も教えてくれないのだろうか。一人だけ仲間外れにされているのだろうか。
 携帯を取り出して幾つかキーを押す。木手永四郎を探す。通話ボタンを押した。耳に押し当てて返答を期待したが、待てど暮らせど聞こえてこなかった。最終的には女性の柔らかな声が『――ピー、という発信音の後にご用件をお入れ下さい』と告げ、それと同時に通話を切ってポケットに捻じ込んだ。
 ご用件なんて、たった十数秒の録音になど収まりきるはずがない。むすっとした状態が治らぬままその場から踏み出そうと、足を踏み出した刹那、視線の端を何か蒼い物が横切った。
 反射的に顔を向けて、蒼の主を探す。それは以外にすぐ見つかった。
 海上を、蒼い蝶が飛んでいるのだ。それも一匹だけではない。文明に穢されていない小川に飛び違う蛍のように、夜の海を埋め尽くすほどの蝶が続々と海を渡っていたのだ。蝶の群れを統率するは、数匹しかいない緋色の蛾だった。そしてよく見てみると、蛾は海の上に揺らめく不知火を辿っている。昔噺で語られる人魂の如き薄青色の炎が、道標のように海上を照らし出していた。 
 言葉も出なかった。声の代わりにエイサーの囃子が空気に染み出していた。
 理解する為だけに必要とされる時間が流れる。しかしそれも長くは続かなかった。
「何じゃ、もう始まっちまってんのか、ああ!?」
 突如酒浸りの声が静寂を破り、田仁志はその身体からは想像出来ない速さで振り返った。防波堤の一番上で、かの早乙女晴美が泡盛の瓶を片手に仁王立ちになっていた。
「か、監督……」
「なんじゃいその態度はぁ! ワシは挨拶を教えなかったか!」
 酒をグビリとあおられ、口角泡を飛ばす勢いで一喝される。挨拶ついでに慌てて頭を下げた。フン、と早乙女は泡盛の瓶を口につけて飲んだ。空になるのが分かると、早乙女は瓶を砂に投げつけてその場にどっかりと腰を下ろした。やっと存在を思い出されたようで、
「おお、お前も来ていたのか。田仁志」
 と声をかけられた。雰囲気に気圧されて、「あ、はい……」と普通の返事しか返せない。一方早乙女は田仁志の心境も知らず、「夜風は酔い覚ましに効くな」と悠長な事を言っている。しかし目の前に広がる海で尋常ではない事態が発生しているのを思い出して、慌てて問うた。しかし早乙女はそっけない返答をする。
「ああ。どうせまた平古場がまた何かやらかしたんだろう」
 といって、早乙女は何処から出したのか酒瓶を取り出し、またあおった。もしかしたらアルコール中毒なのかもしれない。
「違うばぁって! あれ! あのハビル(蝶)達って、一体ぬーやが!」
 海の方角を指差して強い語調で訊くと、早乙女はいかにも面倒そうな口ぶりでその場に座りなおす。
「あくまでも聞いた話だからな。質問してもワシは詳しい事はしらんぞ。あれはなぁ。平古場の使命みたいなもんなんだとよ。ワシらには手出しも出来んし、止める事も出来ん。だから見守る事しか出来ねえわけよ」
「や、やんどぉー、ただ見てるだけなんて」
「でもな、そう言ってるお前に、この光景が止められるのか? 止められるもんなら止めてみろ。その前に今このシマがどうなってんのか知らねえといけねえがな」
「……」
「お前は何もかも知ってるわけじゃないだろう」
 確かにそうだ。誰も何も教えてくれない。何が発生しているかも分からない。知ろうと思っても知る手段がない。
 早乙女は「ま、そういうワシもそれほど知らんのだがな」と注釈を入れて、また酒に手を伸ばした。しかしアルコールは胃袋まで到達せず、早乙女は酒瓶を田仁志に向ける。
「呑むか?」
 首を横に振った上に敬語も付け足してやったのだ、上等な断り方と言えるだろう? それでも早乙女の機嫌を損ねたようだった。早乙女は大きく息を吐く。今も蝶が灯篭流しのように渡っていく海を眺めながら、ぽつりと漏らした。
「今年こそは全国で優勝出来ると思ったんだがな」
 田仁志は早乙女と距離を取って座る。アルコールの匂いは充分に届いてくる。
「今年こそ?」
「ああ。木手がせっかくお前らを集めてくれて、それで全国に行ったんだろう? それなのにこんな事になっちまった。平古場は自殺未遂、知念も情緒不安定とかってぇ聞いたぞ。木手は大丈夫そうだが、甲斐は根性ねえ事にぶっ倒れやがって。これで全国に行くたぁお笑い種だ。ワシが中学生の頃にゃ、あんなので倒れたり精神病んだりなんて軟弱者の証拠でな。何回も言ったがワシらの代だけだったんじゃぞ、26年前に全国大会で勝ち進んだのは。それに比べたらどんなに軽い特訓なのかあいつらは分かりゃしねえ」
 早乙女は竹刀を振り下ろすような手付きをして、腕を組む。酔っ払い特有の説教が始まった。何処かが支離滅裂で、同じ話を何度も繰り返す。絡む。
「ただ残念なのが平古場だな。明日には死んじまうんだろ?」
 死という言葉に反応して、びくりと身体が震えた。対する早乙女は何処吹く風で悪戯に説教を長引かせている。
 ――死?
「あの家に生まれついたのが運の尽きだったんだよ。そう思わんか?」
 水平線を眺める早乙女は「よっこらせ」と座り直して語り始める。
「ワシの彼女にな、蘭っていう娘がおった。綺麗なうぃなぐ(女子)でな。平古場の姉と呼んでも差し支えないちゅらかーぎー(美人)だった。現に姓は平古場だった。混じり気の無い金髪だったから、鬼畜米英との混血だとも噂されたよ。あの時のワシは面食いだったから彼女と付き合ったものさ。しかしな、その子も平古場と同じだった。手を切って自殺未遂したんじゃよ。それも何度も。海に入るたびに白い肌に残った傷痕が映えた。見たくないから止めろと言っても止めんかった。軟弱者はいらんとな。何度も喧嘩して、泣かせた回数は数知れないさ。でも一向に止める気配はなかった。だから別れた。そしてその年の今頃――ワシらが丁度お前らぐらいの時かな。彼女は忽然と姿を消した。何故だと思う?」
 首を横に振る。
「死んだそうだ」
 思わず顔を上げた。
「後になって分かったんじゃが、あの子は『使命を果たして死んだ』んだと説明された。新しい"導き神"を血に宿して育てて羽化させたんだと。それがどうしたというんじゃ。もう時代は戦後だ、お国の為に命を捨てるなんて時代は終わったんだばーよ! それなのに蘭はな……蘭は……」
 早乙女は酒の勢いか膝に顔を埋め、しくしくと泣き出した。去年県大会出場後にボロ負けして、とりあえず催された酒席でも、早乙女はこのように泣き出した。泣き上戸確定だが、からかう気にはなれなかった。いつもであれば「泣くなよ監督〜」とか言って平古場や甲斐が泡盛を勧めるからどうにか収まっていたが、今はその二人は居ないし泡盛の瓶も空だ。
 勝手に泣けと突き放したい所だが、今の話を聞けば放っておかずにはいられなかった。何をするのが一番良いのかも分からぬまま早乙女の背をさする。仕舞いには「お前良い奴だなぁ」と涙目で言われたが、目の前で泣かれているからこうしているのであって、全くの善意というわけでもなかった。むしろ田仁志にとっては、情報源はいまや早乙女にしか残されていなかったからだ。より多くの事を聞き出せば、自分もこのシマから仲間はずれにされるのを防げるのではないかと、淡い希望を持ちながら。そしてその希望に人間の醜さを感じながら、田仁志は腫れ物に触れるように言葉を続けた。
「で、その子はどうなったんやがやー?」
「戻ってこなかったさ。写真も撮らせてくれなかったから、何にも残っとらん。そう、何もじゃ。ワシ以外は誰も憶えておらん。いっそ夢だったかのようで、やんどぉー、記憶はちゃんと残っててな、夢なんかじゃないさぁ、あの日々は、誰がどう言おうと蘭はこのシマにおったんじゃ、どうしてワシはあの時……」
 その後は言葉にならないようで、音が輪郭を崩して涙に濡れた。
 背中をさする手を止めて、田仁志は思案した。『ワシ以外は誰も憶えとらん』……その言葉が意味する所を想像して、慌てて首を左右に振った。仮にも三年間一緒にテニスに携わってきた仲間を忘れるなぞありえない。しかし早乙女はそう言っている。酒は理性を取り去ると聞くから、酒の所為で幻覚や錯話症になっていなければその話は本当と言えよう。
 平古場凛が「平古場蘭」という人物と同じ行動を取っている。そして「蘭」は今頃の時期に忽然と消え、誰の記憶にも残っていない。
 平古場は甲斐と一緒に遊びに行ったと聞いた。しかし今思えばいささか奇妙な行動だ。もし甲斐一人で考え付いて平古場を連れて行ったとしたら、血を飲ませようとした一日前に泣き叫んだのは何なのだ。血が嫌いであれほど飲むのを嫌がっていた甲斐は何故、血を飲ませた張本人と共に遊びに行けるのだ? そして知念はどうだ。平古場を探す事に一日を費やす奴だ。何かを、あるいは全てを知っているからこそあんなに必死になって走っているのだろう。昼に掴みかかられた時は驚きの方が勝ったが、今考えるとあの鬼の形相は「今を逃したら二度と会えない」という悲愴さに塗れていたようにも思える。
 そして木手が田仁志に命令した、知念を本島に渡らせない為の張り紙作戦――あれは平古場に近づけさせない為の行動も見えた。
 今思えば知念は常時平古場の隣にいた。そしてそれをありがたいとは思っていながらも、「暗い奴」と冗談めかして発言していた平古場を思い出す。関係が近すぎるからこそ逆に疎ましくなる感情があるのではないか。そして木手は知念を平古場に近づけさせない為に甲斐を使って本島に送り出した。それは何故だ? 
 もし平古場が「消える」と仮定したら、全ての辻褄が合う。
 絡んでいた糸が一気に解れた。


 未だ酒が身体に回っているらしい早乙女を防波堤に置き去りにし、田仁志は自転車を飛ばした。上り坂を汗だくで登りきり、とりあえずシマ中を駆け回る。誰でもいい。木手でも知念でもいい。何処だ、何処にいる。探す理由なぞないが、ある程度を理解して何も行動を起こさないほどの愚鈍さはとうに捨てた。
 途中、道ジュネーで踊っていた数人の近所の子供達から「あーっ、慧兄ちゃんどー!」と人目もはばからず手を振られたが、振り返しはしなかった。子供達の声は囃子に揉み消され、ドップラー効果で小さくなっていった。
 暫くシマを自転車で爆進していた。夜が永遠に続くような錯覚を持っていた。しかし左腕でブレスレットの間からちらちらと垣間見えるは、夜が半分は更けた事を示す文字盤だった。蛍光色でデジタル文字がAM2時48分を告げている。記憶を辿れば、夜明けは5時。時間がない。
 死ぬ気で自転車を飛ばしていると、ふと、自分は何をやっているのだろうと訝しむ時がある。その思いすら振り切って、出来るだけ考えないようにして、ペダルを漕ぐ。
 住宅と住宅の間に通された珊瑚の砂で作られた路は、下弦の月に照らされて青白く光を放っていた。白い路が途切れると、今度は一気に自然に帰る。丈の高い草が向こう脛をぺしぺしと叩く。木手と知念の姿を求めて視線を左右に巡らせたが、あるのは夜の風景ばかりだった。いないかもしれない。そんな危惧が振り払いきれないぐらい大きなものとなってくる。
 呼吸を整える為に自転車から降りて、ハンドルを握り締めながら歩いた。ようやく息が鎮まると、田仁志はまたサドルに跨り、知念と木手の姿を探した。それが何回繰り返された事だろう。
 最後には息も続かなくなって、藪の中に自転車を捨てた。歩くしかなかった。
 知念もこんな思いをして走っていたのかと思うと涙が出てくる。人って、こんな狭いシマにいても見つからないものなんだ。今更ながら思い知る。しかし知念は偽装工作に嵌められても尚、平古場を探して走っていったのだ。どれだけ深く考えていたのだろう。俺はそんなに人を大事に考えられる奴に喧嘩を売ったんだと思い返すと、死にたくなった。でもそんなのは思うだけだ。本当に死のうとは決心出来なかった。
 俯きながら考え、それでも足元の道路は後ろへ過ぎていく。長針はいつの間にか12を過ぎ、短針は3を向いていた。
 足は場所も考えずに先へ進み、結局ついた場所は、学校だった。やはり人の輪からは逃れられないのか。苦楽を共にした仲間達と三年間過ごした場所。春先に何故か掃除されていてぴかぴかになっていた部室。ボールを転がされて派手に転倒し、甲斐を押し潰して死なせかけたいつぞやの夏。知らぬ間に一つ上の三年生が去って広くなった部室とコート。そして自分達も、数日後に控えた全国大会後にはこの場所を去らねばならない、下手な感傷に浸る暇があれば一歩でも足を動かせと理性が急かしているが、足はもう、シマ中を駆け回れるほどの余力は残していなかった。
 部室には鍵がかかっていない。他の県では鍵がかけてないと安心出来ないと言うから哀れなものだと思う。田仁志はドアノブを捻ると、ドアの奥に暗い闇が滞っているのを感じた。視界が利かなくなる吸い込まれそうな黒だった。電気をつけようと壁に指を這わせる。しかしなかなか見つからない。 しかし次の瞬間、闇が冥府よりなお暗鬱とした声を発した。
誰だたーが
 その声色に全身の筋肉が強張った。てっきり誰も居ないものと踏んで、警戒もしていなかった。一瞬だけでは声の主が誰か特定する事は難しい。しかし声は続け様に尋ねた。
「慧君……か?」
 人間からありとあらゆる希望を抉り取ったらこんな声になるのかなと思った。機械並みに平板な声は、知っている人物の声と同一のように感じ得た。徐々に夜目が利くようになると、田仁志は闇の中に息づく者の輪郭がおぼろげに見えてきた。幽かに青みを帯びた人間の姿が夜の中に浮かび上がる。
「知念……?」
 刹那、声の主の纏っていた空気がガソリンの如く燃え盛ったのを感じ取った。
「その名で呼ぶな!」
「知念! 知念やが?」
「だから、呼ぶな! わんは知念じゃない! 知念なんかじゃ、知念なんかじゃ……知念はここにいない」
 だが声質は紛れもなく知念寛その人であった。
 その時声の方向から、ぢぎぢぎぢぎっ、とカッターナイフの伸びるような音がして、慌てて電気のスイッチを探って押した。ブゥー……ンと誘蛾灯と間違える音の後に、部室の闇が駆逐される。それと同時か、赤黒い血液が床へ。
「わんが殺した、知念が殺した、永四郎を殺した、知念が殺した、永四郎を殺した、殺した殺した殺した死んだ、償わないと、わんが殺したのに、わんが……寛は誰も殺していない」
 清涼飲料のロゴが描かれた赤いベンチに背を預け、天井を見上げる知念は、暗記するようにぶつぶつと呟いていた。その目の色は正気ではなく、本人が言う殺人に手を染めた者の目でもない。殺人を犯したとしても、それを殺人だと受け入れたくなくて、果てには狂ったような目付き。まとまりを欠いた単語の羅列の後に、知念の首がぐるりと田仁志を向いた。血を流し続ける左手首を気遣う事もせず、知念は正気を失ったように呟いた。
「贖罪」
 知念は、笑った。
「平古場を見つけられなかった。永四郎を殺した。人を殺した。それは罪。償うべき。代償は血。これが贖罪。あがなう。違う?」
 頬に一閃された傷が笑みに歪んでいた。涙が一筋流れて、血液が混ざった。血液の色をした涙が知念の出っ張った頬骨を伝い、顎を伝い、血の涙となって床に落ちた。まだ笑顔だった。その間にも、左の手指から落ちた雫が血溜まりを形成していた。しかし目の錯覚だろうか? 知念の腕から流れ落ちる血液、正確には傷口の周辺から白い煙が腕に絡みつくように立ち上っている。同時に鼻腔をつつく刺激の正体が分かった。料理の時に立つ、油や香辛料が放つ悠長な香りではない。生の血肉が燃える、胸の悪くなる匂いだ。 
 焦点の合っていない瞳が田仁志を見つめている。瞳孔には部室の景色が歪んだ形で映っている。
 田仁志は何も出来なかった。これが、今、自分が知りたかった答えなのだろうか、と。自分は今、こんな世界に足を踏み入れようとしているのか、と。
 目の前にいる知念は、田仁志の知っている知念ではなかった。明らかに常軌を逸した言動と行動は、異界に対する未知の恐怖を喚起した。何よりも本能が訴えている。がんがんと警鐘を鳴らしている。麻痺しそうなほど、心臓が胸郭を叩いている。’’関われば、こうなる’’。関われば……
 駄目だ、逃げるな、知りたいと願ったのだろう? 何の為に今まで自転車を漕いだ。何の為に知念を探した。何の為に木手を探した。それは今この瞬間を願っての事だろう。それなのに逃げ出そうと思うとは何たる意志薄弱。だが今は何をすべきなのだ? こうなった知念には何を言えば良いのだ。傷の手当でもしなければそんなに長くないうちに失血して死ぬぞ。どうして動かないのだ、田仁志慧。今正気を保っているのはお前だけなのだぞ。
 動けない。
 足が竦んでいた。一歩として前に進むことも叶わない。ともすれば今此処で回れ右して夜の闇に駆け出したい気分だ。しかし本能は警告ばかりを響き渡らせている。金縛りを彷彿とさせる呪縛の中、田仁志は葛藤の鎖に繋がれたまま長い間思案していた。思い出したように動いた知念は傷口を見て――笑っている。
 限界だった。
 救急箱を探し出そうと部室に視線を走らせた瞬間、足が意志に反して後ろを向き、地を蹴った。戻ろうとしても一度駆け出した足は止まらない。とうに走れないと思った足は止めようと思うと逆にスピードを上げ、夜の中を疾駆した。そしてその内に知念がいかに異常だったかを考えると、足はブレーキを捨ててしまった。
 夜の集落を駆け抜けた。周囲の景色が生垣のブーゲンビリアから草原に変わった。そして上り坂にさしかかると、一度も漕がなかった自転車のようにスピードが徐々に遅くなり、やがて止まった。周りには夜が静かに佇んでいるだけで、雑誌に載っていない、太陽がない沖縄があった。
 どうすれば良いのか、自分に出来る事は何もないのか。思考はループして、夜の底へ澱のように沈んでいく。

 ――俺は、どうすればいいんだよ。

 携帯電話は今も鳴らない。
 


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