壁に手を這わせながら、一段一段階段を上がっていた。視界は暗くぼんやりと滲んでいて、いちいち何も置かれていないのをチェックしてから足の裏に体重をかけて前へ進んでいく。しかし壁に触れる指先も、階段を上る裸足の踵も、ゴム手袋を着けたように感覚が朧だ。派手に殴り合いをした所為か、手首の古傷も開いて、血液が点々と床に染みを作る。そして何よりも、指が触れる物に自分の肉体の一部が幻のように滑り込む事も時々あった。視界は色が動いているだけで、動いてある物が何かと言う事すら判別がつかない。
 へへっ、もう目も見えないみたいやし。平古場は自嘲するように口の端を歪ませた。
 手探りで階段の頂上まで上り詰める。しかし其処にはドアもなく、四角い、人の背丈程の穴が壁に開いているだけだった。更に上に行くには、ここからまた別の階段を使用しなければならないらしい。平古場は今まで上ってきた長い階段を捨てて、通路に出た。人気のない通路で、銀色のカーゴが一つ見えた。奥には非常ベルの赤い光と、恐らく非常階段を表す緑色の表示が朦朧とした世界に於いてより鮮明に浮かび上がっていた。
 平古場は「ゴメンな」と呟きながら、屋上に向けて歩んでいた。でも甲斐には置手紙を残してきた。未練は全くないと言えば嘘になる。しかし自分を探させない為にはそれしか方法がなかったのだ。時折消火器に足を取られて転びそうになるが、その度に体勢を立て直す。
「ゴメンな」
 その言葉を一体何度呟いただろうか。しかし言葉は夜明け前の病院に特有の静けさに融解して滓すら残さない。
 何の為に生まれてきたのか分からないような自分に対して、皆が色々と策を練ってくれた。知念には裏切ったような事をして本当に申し訳ないと思っている。しかし自分には知念に謝る手立ても会う手段を持っていなくて、唯一の通信ツールである携帯電話の行方は知れず。兵士と喧嘩をした時に荷物ごと忘れたか、ポケットから落ちたのだろう。しかし今ない物に何と言おうと戻ってこないのだ。せめて最後に別れを告げたかった。
 平古場凛は屋上を目指していた。壁に貼り付けられたプラスチックの札に顔を近づけて文字を判別すると、『屋上には左の階段をお使い下さい』という文字が印刷されている。赤い矢印の指し示す方角に進むと、階段とエレベーターらしき扉がある。エレベーターの上矢印ボタンを押してすぐに、ピンポーンと呑気な案内音声が「3階です」と告げた。左右に開いた扉の間にふらふらとした足取りで入り、Rのボタンを押す。ドアは自然に閉まって、ささやかな静寂を生み出した。動かない身体を酷使した為か息は荒い。べったりと背中につけた壁は金属の冷たさだ。頭もくらくらして、立っていられるのが不思議なくらいだ。しかし数秒の静寂は息を鎮める程の時間を持たなかった。
 再び扉が開くと、前には小さな階段とスロープがドアに横付けされている。平古場は心臓部分の生地を鷲掴みにしながら、どうにかしてエレベーターから出た。
 階段を上る。通せんぼするドアのノブを時計回りに捻って押し開けた。くらくらするほど匂いのする海風が吹きつけ、ぶわっ、と髪が乱舞した。金髪を掻き上げて、平古場は空を仰いだ。
 夜明け前の空はまだ白み始めるには遠い。しかし刻々と空が光を取り戻していくのが分かる。かつて夜空に広がっていた星々は上り始める太陽に居場所を譲るかの如く空に溶け出して、明けの明星だけが強い光で存在を主張していた。雲一つない明けの空は海より青く、空気自体が仄かに発光しているかのようだった。空の果ては、海と同化するような色になり始めている。
 しかし平古場は唇を引き結び、右手で左手首を握り締めながら海の見えるフェンスに向かった。用を果たしていない物干し台のまばらな林の中を一歩一歩進んだ。そして水平線が所々木々に遮られている景色へと向かう。背の低い建物群が水平線を隠さないのは、この病院が小高い丘の上に建っているからであろうか。この病院も記憶を辿ればいつか来た事がある。小学校低学年の頃に甲斐が怪我をして、足を折った時に収容された病院だ。自身の身体に巣食っていた導き神の幼い一柱が魂をちゃんと導いてやれなかったから、蝶の形をした魂を追った甲斐が足を滑らせて落下したのだ。平古場も甲斐の見舞いに来た。
 病院の中を屋上目掛けて一直線にやって来られた事は既視感故だろう。そして屋上から水平線を眺められる事も知っていた。
 平古場は屋上の一番東のフェンスに取り付いて、絶望が瞬く間に思考を塗り潰したのを感じた。高いフェンスが行く手を阻んでいた。この先の虚空に身を委ねて、今までの罪を清算したいと思っていたのに。格子に指を絡ませて、初めはゆっくり、すぐに激しく揺すぶった。しかしフェンスはがしゃがしゃと不快な金属音を鳴らすだけで外れる気配も背を縮ませる気配もない。その瞬間に平古場の指は格子をすり抜けた。
 両掌を目の前に出すと、揺らぐように時折青く発光して、向こう側のフェンスの模様が透けて見えた。その気になればいつでもフェンスをすり抜けて行けたかもしれなかったのに、平古場は敢えてそうしなかった。
 格子に背中を預けて、湧き立つ思いに思考を委ねた。今までの俺の生は何だったのだろう。人を弄んで、それで満足だったのか? 未来を全て捨て、刹那のままに生きてきた。失うものを作らぬように。いつ失われるとも知れない希望をかりそめの道標として生きてきた。いつこの身体が空に融けて消えても、誰も哀しまないように、叶えられる未来をも捨てた。誰かを愛すると後が苦しいから、恋人も作らなかった。
 一人部屋で閉じこもっているだけではいけないからとして、沖縄武術の道場に入れられた。そこで自分が日々強くなる事を実感して、強さを求めて琉球空手に熱中した。中学の時に転入してきた木手にひょこひょこついていってテニス部に入った。習ってきた縮地法が役に立って、一年も経たない内にテニス部のレギュラーにまでのしあがれた。そこで初めて生きがいを知った。でも幾ら頑張っても自分は三年生の全国大会前には死んでしまうのを知ってしまい、今までの全てが無だったと気づいたら半狂乱になっていて知念に助けられた事がある。あの時の自分は本当に馬鹿だった。カッターを手首に当てて横に滑らせて肉を抉った時は本気で死ぬつもりだった。知念に手当てして貰わなかったら今の自分はないだろう。知念には感謝しても感謝しきれない恩がある。返せないままに終わってしまうのかと思ったら、口端が自嘲的に吊り上がった。各階に設置された公衆電話まで行く体力はもう残されていない。「ありがとう」すら言えない愚か者にはお似合いのラストだ。
 最後を意識すると、三年間一緒にテニスをやってきた人の顔が浮かんでは消えていく。
 永四郎、お前にはよくテスト前にノートを借りてたっけか。ゴメンな。それとゴーヤー、死んでも忘れない。
 田仁志、デブとかブタとか言って貶しまくってゴメンな。でも誰よりもイジリやすかったっけ。
 裕次郎、ここまで連れて来てくれてありがとな。そしてゴメンな。お前と一緒によく馬鹿やったけど、楽しかったさ。
 寛、心配させてゴメンな。お前がニライカナイに来るのはまだちょっと早いから、ゆっくり待っていてくれよな。
 新垣にも、不知火にも、どれだけ苦しめられたか分からないほどの早乙女にも、そんな遺言のような言葉が思い浮かぶ。
 不思議と涙は出なかった。代わりとでも言うように、ただ時の中で身を委ねるような、圧倒的な諦念の泡が儚さを伴って膨らんでゆく。晩年の老人染みた考えだ。死を根底に流した静けさとでも形容しようか。手を伸ばせばすぐそこにある死に踏み込めずに、平古場は一人嘲笑う。
 生きたいとも死にたいとも思わなかった。生きるべきか死すべきか判断がつかなかった。
 その時、海の彼方から、何か小さな物が飛来してくるのを認識した。朧な視界の中で、青い蝶だけが殊更はっきりと見える。背後に立たれたら一発で分かるような強烈な気配を持ったソレは薄ぼんやりと光るほど青い。翅あるものとして小さな、そして胴に比べたら大きな翼を羽ばたかせていた。
(…………永四郎?)
 声を伴わず意識が尋ねかけた。青い蝶が近づく度に、その蝶は木手なのだと、尚更はっきり自覚できた。
 蝶は丁寧に柵を越えて平古場の元へと飛んでくる。右腕を蝶の方に伸ばした。蝶は平古場の指先に留まり、図鑑に載っているような鮮やかな翅を下ろした。
 ああ……お前も死んじまったか。同情よりも慰めに近い自嘲に唇が歪む。木手はこのように笑っていたっけ、と記憶を引きずり出した。笑う事は滅多になかったが、たった一回だけ見せた笑顔は海馬のアルバムの中にちゃんと記録されている。今目の前にある景色もろくに見られないような網膜なぞあてにするものか。脳が心に見せるかつての写真には「幸せ」という副題をつけてもよいだろう。
 平古場は蝶を胸に抱き締めた。壊れないように、思い出は硝子細工のトロフィーの如く。蝶は何の抵抗も示さずに素直に平古場の胸の中に納まった。
 落とした瞼の裏で、まるで映画を見るように、映像が浮かぶ。


 最初に出てきた記憶は、西日が斜めに射し込む教室だった。文字列を追っていたが、声に呼ばれて視線を上げる。そこには今と比べ幼い平古場がいた。その横には、屋内にも関わらず帽子を被っている甲斐と、相変わらず前髪が白い知念と、身長しか変わっていない田仁志がいる。
 今より少しだけ幼い平古場は不躾に笑顔で尋ねる。
「なぁ、やぁー、友達いないんばぁ?」
「……君には関係ないでしょう」
 視線が文字列に戻る。しかし横にいる甲斐が平古場の肩から身を乗り出して問い掛けた。
「な、それならさぁ」
「あ、裕次郎、駄目やっしー! 永四郎にはわんから言うやさ」
 いきなり名前で呼びますか。木手の声が反駁する。
 スゥ、と息を吸うと、小さな平古場はクラスのマドンナも惚れるような爽やかな表情で尋ねた。
「なぁ。やぁー、わったーと友達にならねえ?」
「……友達、ですか?」
 不審げに木手は返す。平古場と甲斐がうんうんと首を上下に振り、知念がゆっくりと一つ頷き、田仁志がサーターアンターギーを齧りつつ二重顎をこさえる。
「ああ。だってよー、やぁーって全然喋んねえじゃん。つまんねーやつだけど、仲間に入れてやるよ」
 今更だが、この頃の自分は傲慢で不遜で馬鹿だったな、と思う。しかし入学ついでに転入初日で近寄ってくるクラスメイトを一言で切って捨てた人物が、余りに直球の問いに言葉をなくしたのだ。
「無言っつー事は友達になったって事で決定するばぁ。でさ、本題。部活何にするつもりばぁ?」
「……テニス」
 ぶすりとした答えにも、平古場は表情豊かに返す。
「テニスかぁ。難しそうだな」
「そんな事はありませんよ。確かにテニスは相手の心理を読んだり、ボールをコントロールしたり色々としなきゃならない事は一杯ありますが、それ以上に自分の力が純粋に評価できるシステムですから、やりがいがありますよ。それにシングルスだと勝利の責任も敗北の責任も本人次第だから、努力がどれだけ報われるかはプレイヤー次第だしね」
「……評価とか責任とか堅っ苦しいのは嫌いだけどさぁ、結局やぁーはテニスが好きなんばぁ?」
「ええ、好きですよ」
「それって、楽しいんやが?」
「人によるけどね」
 木手は眼鏡を手の甲で押し上げる。視線がもう一度文庫本に戻る。
「だからよー、勧誘とかってしないんばぁ? この学校って野球ぐらいしか能ないじゃん」
 すると今まで平古場の後ろにいた甲斐が平古場の肩から身を乗り出して口を挟んだ。
「ここのテニス部って結構評判悪いだろ? 海の町だから気性も荒いし、不良も蔓延っていてさ。去年には部活停止処分も受けるほどだったらしいぜ。だからか、この学年でテニス部希望者はやぁーを除いて一人もいないそうだばぁよ」
 甲斐に補われて、平古場は言葉を繋げる。
「という事。勧誘とかして、やぁーがしたいテニスってやつの練習相手を確保するとか何とか考えないんばぁ?」
「結局の所、貴方は何が言いたいんです」
「だから、どうせやりたい事ないから、テニス部入ってやるって言っているわけさぁ。異論は? 無いよな。よし、決定!」


 どうやら人の魂(蝶)に触れると、その魂の持ち主の記憶を探れるようだ。魂に触ったのは初めてだったから、これはちょっとした発見と言えた。
 かなり長い間木手の思い出に埋没していると、空が少しずつ光を取り戻しているのが分かった。せめて最後に海へ行きたかったと淡く思う。
 幾つ目の回想の後に、夜中の崖に立っているような景色が見えた。残像が網膜に残るほど強烈な光を放つ半分の月が海上に昇っている。それだけでも十分幻想的な光景だが、この東の崖は数年前から立ち入り禁止区域になっているはずの場所だった。
 木手はみじろぎこそするものの、立っている場所から移動する気配はない。月明かりに背を向けて、草原に伸びる自身の影を正面に、誰かを待っている様子だった。
 すると間もなく、知念が息を切らして走ってきた。
『来ましたね』
『平古場は、平古場は何処だ、何処にいたんだ?』
『安心して下さいな、知念君。平古場君は無事ですよ。まだ羽化は始まっちゃいない』
『そうか、よかった……』
 ああ、自分を探してくれていたのか。嬉しさを罪悪感が上回る。
 知念と木手のやりとりを眺めている内に、どれだけ知念を困らせていたのかについて気付いた。だが今見ている景色は記憶であり、血が通った瞼のスクリーンに投影された映画だ。観客は映画に乱入できない。
 木手と知念のやりとりを見ている内に、木手は尋ねた。
『知っていますか? ニライカナイについて』
 木手は訊くというよりも、自分で確認しているように知識の糸を紡いでいく。その中に、平古場でさえ初めて聞く名前のカミが出てきた。
 ――篝火神
 木手曰く、「導き神のサポートとして、燃え尽きる役目」と。そしてそれが、知念寛だという。知念は平古場消滅と同時に燃え尽き、使命を終える存在だと。
「『嘘だ!』」
 記憶の中の知念が低く叫び、平古場が同時に呻いた。
『君も死ぬんですよ』
 口論があって、知念が回れ右をして駆け出した。しかし木手を介して平古場の見ている景色もまた動き出し、次の瞬間、筋肉の筋が浮き出る知念の首筋に、折り刃式の脆弱なカッターナイフが突きつけられていた。言葉が伝わらない事も厭わず、思わず平古場は叫んでいた。
「知念、逃げろっ!」
 知念はそのままの体勢で動かない。暫く話した後、木手はいきなりカッターを真横に薙ぎ払う。知念はそれを避ける。木手はカッターを銛のように両手で振り下ろすと、受け損ねた知念がバランスを崩して尻餅を突いた。そこにすかさずカッターナイフが振り下ろされる。崖の淵すれすれでの攻防、いつ木手が崖に落ちても、知念が木手に刺し殺されてもおかしくない、綱渡りのような状況だった。ホラー映画を見ているような感じだ。しかしカメラの姿は見えないし、木手はどうか知らないが、知念に演技力を求める事がそもそも間違っている。
『君が平古場君を殺したようなものでしょう』
『君がもっと適切に行動していれば、平古場君は苦しまなかった』
『恨みますよ。一人で背負い込んで結局何も出来ないで! 責任を全部おっかぶせて放任ですか!』
 違う。平古場は首を横に振った。
 元々、"導き神"は神故に無慈悲で公平だ。平古場にどうする事も出来ないし、知念にだってどうする事も出来ない。知識を手に入れても無意味で、こうやって遊ぶ為に那覇に来るのも得策とは言えない、そんな種類の存在だ。それはどの神にも同じで、恐らく木手の話に出てきた"篝火神"も同じだろう。それに木手の話を信じるならば、知念も今頃死の苦しみにのた打ち回っているはずだ。
 だから――――知念をこれ以上責めないでくれ。同じ島で生まれ育ち、隣に居た友を。自分を護ってくれた、かけがえのない友を。
 そう思った瞬間に、抱いていた蝶の触覚が片方力なく動いた。意見の相違だな、と平古場は蝶に向けて片目を瞑った。
 記憶の中では、文字通り崖っぷちのせめぎあいに、終止符が打たれようとしていた。知念が木手のガードが開いた腹に向けて、思い切り足を突き出した。後方に押し出された木手の膝元で土が大きく崩れて重力に抉られる。そして視界を占めるものが夜の星空から半分の月へ移るうちに、木手の身体は重力に従って頭から宙に放り出されていた。目を瞑るとまるで自分が落ちているかのような浮遊感が全身を支配する。不思議と時間がゆっくりと流れていた。今まで幾つか垣間見た木手の記憶の断片が、写真のフィルムをぶちまけたように映し出されては消えてゆく。その内に何枚か、小さな木手の姿や、甲斐、知念、田仁志、平古場、新垣、不知火、何故か早乙女、クラスメイト、木手の両親や祖父母、そして平古場も知らない人の姿がめくるめくフィルムに映し出された。カッターナイフが手から離れて近くを浮遊して、何処かに行ってしまう。カッターに手を伸ばす……
 宙に手を伸ばした瞬間に手首がズキリ、と痛みを思い出した。瞼をこじ開けると、手首を覆う包帯の色が変わっていた。所々焦げ茶色に変色した血液で、包帯が真っ赤になっていた。それがよく見えるようになったのは、空が明るくなったからだ。朝が明ける色をした空は明るいが、太陽が眠気に負けているかのようだ。まだ太陽は昇っていない。天球の東はもう明るいが、こんな所で終わってたまるかという一種意地にも似た思いが、沸騰石を入れ忘れた試験管のように、一気に沸騰した。
 ドアから人影が飛び出し、蝶が指先から飛び立ったのは、それらと全く同時だった。


  *


 瞼を持ち上げると天井が見えた。朝が近づき始めている事が容易に分かる。元は白く塗られた板なのに、窓の外に広がる紺色の空が天井を染めているのだろう。蛍光灯も必要ないぐらいに、空は明るみつつある。
 顔に違和感があった。手を頬に持っていく。頬にへばりついた目の粗い布、それを留める紙テープの硬い感触が伝わる。思い出したように頬で鈍痛が脈打ち始める。
 朝が来たんだ。
 いや、もしかしたらまだ夜が始まったばかりで、昨日コートで倒れた時に見た景色がフラッシュバックしただけかもしれない。しかしその瞬間、左腕に巻いた腕時計の電子音が病院のしじまにそっと割り込んだ。もぞもぞと動いて時計を確認する。デジタル文字がAM4:00を報せている。時刻の上には日付が表示されていた。8月16日――紛れもない昨日の明日である今日の日付が明記されていた。
 今日は何をしようか。一人思う。今日は部活に出て、思い切り汗を流そう。その後でアイスクリン屋に寄って、冷たいのを食べようか。なあ平古場、お前は何食べたい? ミントとかバニラもあるし、でもやっぱりミルク味が最高だな。だってアイスクリン屋のおばあはミルク味に力入れているから。え? まあ、確かに商業戦略だろうよ。でもさ、美味いのは事実だろ? でさ、明日は何しようか。あ、でも明日は全国か。って事は今日だっけ、船で本島まで渡って、飛行機に乗って東京に行くの。何処だっけ。確か、東京都立アリーナテニスコートだっけ? それじゃあ遊びに行けないか。でもさ、全国終わったら、時間出来るだろ? だからディズニーランドとかシーとか行けるじゃん。木手には教えないよ。だってあいつ、何かにつけて一緒についてくるじゃん、ゴーヤー付きで。だから気の休まる暇がねーよ。だから、監督と主将の目をだまくらかしてさ、行こうよ色んな所。東京なら空港あるだろ? だから行けるよ、アメリカ。そうだな、フロリダには宇宙センターとかあるだろ? どうにか交渉すれば宇宙にも行けんじゃねえかなぁって思うんだけど、やっぱり流石にそれは無理か。でも行ってみたいな、アメリカ。一緒に行こうよ。なあ、平古場。
 そこまで想像が膨らんだ瞬間、ふと空気が消毒用アルコールと薬と、ほんの僅かに甘ったるい死の臭いを飽和させている事に気付いた。身体を包み込んでいるのは毎日潜り込む煎餅布団ではなくて、清潔だが硬いベッドに取って代わられている。
 平古場は何処だ。そう脳裏に過ぎった瞬間、甲斐は電気でも流されたように跳ね起きた。ベッドの三面を隠すカーテンを勢いに任せて横に引く。しかしそこには散らかされた無人のベッドがあるだけで、人間がいる気配は微塵もない。
 身体中の血液が一気に頭から落ちていった。平古場がいない。探さないといけない。最後の最期で、自分の知らない所で、手の届かない所で死ぬなんて、絶対に許さない。甲斐は掛け布団を閃かせて立ち上がった。
 しかしその瞬間足元に一枚、ひらりと紙が舞い落ちた。文庫本サイズの紙は文面を隠さずに、表面に晒している。甲斐は焦りの中に割り込んだ好奇心の萌芽に従って、腰を折って紙を拾う。大きくて字間が開いた文が何行か、丁寧に書かれてある。元々字は丁寧なのだろう。甲斐は純粋にその文面に目を通す。


"拝けい 裕次郎へ。
 勝手にいなくなってゴメンな。オレは今から消えて死ぬと思う。何にも残らないけどさ、でもオレにはオレの意識しか残ってないんだ。あー、何言ってんだか自分で分かんなくなってきた。たぶん最後にカッコいいこと書きたいだけ。でもさ、オレ、おまえにすっげー感しゃしてる。おまえがいなきゃ、オレ、ここまで来れなかっただろうし。楽しかったよ、ありがとう。
 オレはこれから最後の場所を探しに行きます。また勝手なことしたけど、そこは許してくれな。あーやっぱ許してくれなくていいや(笑)。オレのこと、忘れてくれたら嬉しいです。さよなら、いままでありがとう。
 けーぐ 凛より"


「……ふざけんなよ」
 甲斐はその小さな紙を全力で破り捨てた。見る間に紙は見る間に吹雪と散った。
 無意識に病室から飛び出して左右確認、車が来るわけではないが、平古場を見つけられる可能性を少しでも高くする為に。
"最後の場所を探しに行く"だぁ? ふざけるな。誰がそんな事許すと思っている。あの何考えているか分からない脳味噌の中身を滅茶苦茶になるまで調べてやって、その後に脳味噌をごちゃ混ぜにして元に戻してやる。
 とりあえず右に行こうかと足を踏み出す、それと同時に失速して足は居場所を失って躊躇う。
 平古場が何処に行くかなんて、そんな事、考えなくても分かる。木手みたいに複雑な思考回路なんて持ち合わせていないに違いない。脳味噌をいじくり回す価値すらない。
 平古場はあの場所に行くに違いない。海が近くはないこの建物で、病室に突っ込まれた病人が行ける場所なんて高が知れている。
 甲斐はその場所に向けて、足を踏み鳴らして歩み始めた。
 行き着く場所なんて、屋上以外に何処があるというのだ? 甲斐は屋上を目指して歩きながら、自分の感情が徐々に沈静していくのを感じた。
 既に開いてあった屋上のドアで、全てを悟った。甲斐は何も考えず、屋上のドアへと飛び込んだ。

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