朝が明ける。
 知念の脳髄はその事実を拒否し、同時に悟っていた。正気は既に殆ど残っていない。狂気ばかりが、明るみ始めた海を見て、破滅願望に唇の端を歪ませていた。
 元は切傷だった火傷の痕が鼓動と共に、手首に重い鈍痛を波打たせている。しかし知念は動かせば痛む傷を心の底から無視していた。足はだらしなく引き摺っているが、移動手段にきちんとしたも何もない。
 知念寛に僅かに残された正気の欠片は、今も"平古場を探せ"と命令を下している。しかし他の全てを多い尽くす狂気が"探しても無駄だ"と、正気よりも冷静な判断を下していた。最早どちらが正気でどちらが狂気かなど意味を成さない。葛藤は溢れんばかりの狂気を生み出して、知念を破滅の泥沼に突き落とすのみだ。残されたのはただ想いだけだった。
 平古場は何処にいる。平古場を探せ。しかし平古場を見つけて今更どうするつもりだ。無茶するなと叱りつけるか? それとも涙ながらに別れの挨拶を交わすのか? どれもこれも下らない。どんなに探しても平古場が見つからない今こうして走っているのは思考を放棄した惰性であり、同じくして狂気の沙汰でしかない事を、大脳の何処かは知っている。しかし狂気がそれを拒み、知念を走らせ続けるのだ。
 走るのは逃避の一手段だった。既に崩れて形を失った正気が、肉体の限界を訴えている。乳酸は既に限界値を大幅に超えていた。汗が一切滲まないのは、自身の肉体が"篝火神の油"として燃え尽きるのを待つだけである事――炎を目前にした松明である証左であった。現に幾度か転んだ痕が火傷の傷として残っている。そして、手首と膝の傷は燃えるように、痛い。
 知念は一時立ち止まり、手首の傷に視線を注ぐ。真一文字に切り裂いた筈の手首は、傷口に熱した金属を当てたような様相を呈している。水膨れが破裂して、液体を内包していた皮は皮膚の紋様を残しながらもべろりと垂れ下がっている。薄白く変色した肉が傷の形と全く同じ線状になっている。その周囲を赤く肉が覗いており、その上を浸出液がてらてらと傷口を光らせていた。知念はその痕を見て暫し、不思議そうに凝視していた。どうしてこんなに汚くなっているのだろう? その後に右手で無造作に垂れ下がった皮を掴むと、べり、べり、と剥がしにかかった。力を入れないと取れない。思い切ってベリッと剥がした。目的の面積よりも幅広の皮には血の滲んだ生肉がへばりついている。その汚物から手を離すようにして捨てると、知念はまた歩き始めた。手首がじんじんと痛むが、瞬間、傷口がボッと青い炎に包まれ、すぐに消えた。傷口は更に焼け焦げたような惨状を呈する。歩きながらその傷口をもう一度見遣ると、知念は首を傾げた。どうしてまだ綺麗にならないのだろう。痛みは眼中になしと言いたげに、知念はごく自然に思う。洗わないといけない。傷を触ったから。平古場の血を触ったときもこうして洗ったな、と正気が懐古する。
 そこまで考えて、知念はふと周囲を見回した。自分は今まで何処を走っていたのだろう。草原が青々と波打つ、それに合わせてふくらはぎが痒さを訴える。近くに樹木はなく、人家も見えない。右手には緑に盛り上がった小山が見えている。少し遠くにアスファルト舗装された道が横たわっているが、正午の鐘を聴いた場所でも、平古場にニライカナイを尋ねられた場所でもない。見える景色は似ているが、場所が全然違う。空の明るい方角は正面にある。自分は夜明けを探して走ってきたとでもいうのか。
 水がないから水を探そう。手を洗う為の。今必要なのは消毒液ではない。石鹸と水だ。最低水があればいい。水が一杯あるのは何処だ。ああ、海なら途方もなく水がある。じゃあ海だ、海に行こう。知念の思考は自然にそう結論づけ、足は前へ前へと進んだ。自身の影が全く見えない。目の前には白く光る水平線が横たわっている。
 正気は何処に行ってしまったのか、そう考える必要性もなかった。
 知念の中には、海に行こう、それだけしか結論はなかった。歩む内にも腕が炎を纏い、時折音を立てて火花が飛んだ。本来なら激痛で動くことも叶わない傷だ。しかし知念の狂気は感覚器官と意識とを切り分け、痛みに塗り潰されることなく意識は極めて明瞭だった。
 ざつ、ざつ、スニーカーの底が煩雑な道なき道を擦りながら進む。そうして行き着いた先は、海だった。
 防砂の林を抜け、浜の砂を蹴り、渚にくるぶしまで入る。靴が水を吸って重い。規則的だがある程度の不規則性を以って押し寄せる白波は、ふくらはぎの中ほどまで水位を上昇させては海に帰っていく。
 海に帰る。海は死の世界だ。ニライカナイは海の彼方に存在すると平古場に言われた。ニライカナイは神の国だと。神の国はやけに潮臭いんだな、そう思う。死者と赤子の魂の在り処。魂の揺籠。海から生物の全てが始まった、という考えを思い出した。何十億年もの昔、生命のスープと呼ばれた太古の海で原始生命が誕生した。生命のルーツは海にあると言って良い。人間も羊水の海から陸に上がって命の息吹を上げる。最初に陸に上がったイクチオステガには鳴き声はあったのだろうかと無為に思う。
 そして命は海に消える。海に身を投げて自殺なんて事例は山ほどある。ギリシャの詩人サッフォーは失恋で世を儚んで身を投げたし、離岸流に呑まれて海に引きずりこまれる事故など飽きもせず真夏の報道番組にネタを提供し続けている。死体処理も同じで、散骨を海で行う者もいる。船上の死者は所定の手続きを以て水葬に処される。下らぬ。生なぞ荒波に揉まれてなお抗う笹舟のようなものだ。いつ沈んでも、いつ死者が出てもおかしくはない。ただ平古場の船には最初から穴が開いていて、沈没の秒読みを伴っていた。自分の船は水が滲み出しているのも気付かない愚か者の船長が操る船だ。さぞや冷や冷やものだったろう。
 海は死の国だ。ニライカナイの海上他界説も然り。浦島太郎が竜宮に行って得られた物は、決して開いてはならない玉手箱に詰め込まれた時間と死だ。
 海は終の国だ。平古場が死に、木手も死に、知念も死ぬ、誰も救われない残酷劇の舞台上だ。
 すっかり白い水平線は光を投げ掛けている。左腕が一瞬炎に包まれ、血肉を焦がして消えた。浸出液が一滴二滴と波間に波紋を作った。
 ぐるりと海を見渡す。太陽が昇る直前の色をした海が、漣はあるものの概ね平坦に広がっていた。その膨大な水溜りの端っこに足を突っ込んで立っている、その実感は妙に希薄で無責任だ。仮死状態の精神だ。身体と精神も合致しない。
 知念はそのまま海を歩く。膝まで冷たい塩水に浸かり、しかしそれ以上は深い所まで行けない。足は自然に左を向く。靴に水が染みて、ざっくざっくと雨の日の小学生のような足音がする。ねえおかあさん、あめふったからながぐつをはいていくね、いってらっしゃいひろし、けがしないでね、うんいってきまあす……火傷にリスカ、気が狂い、殺されかけるという憂き目。これで幼い日の約束を守れたと誰が断言出来ようか。
 視界の隅で数匹の蝶が緋色の蛾を先頭に海を渡っていく。その赤い蛾が目印にするは青く揺らぐ海上の炎だった。船が行くのに最適な箇所を指し示す澪標(みをつくし)に似た、炎をかたどった知念の命である。その炎は今にも波に揉み消されるかの如く儚い。しかし平古場から羽化を終えた赤い蛾――導き神――はその炎を道標として海を渡っているのだ。夜を照らし出す篝火は、力を失う闇に伴って勢いを弱めつつある。標がなくなるとカミは消える、カミを消せば平古場も消えると強引に関連づけると、澪標は火勢を強め、手首から肩までを覆う炎が俄然勢いを増した。
 燃え尽きる。悟るしかない。現に左腕を覆う炎は風に煽られるがまま舞い上がり、知念の指を短くするまで燃え盛っていた。
 海を当てもなく彷徨っていると、岩場につく。岩に足を取られながらも、前に進み、水平線に近づこうと足掻く。
 そこでふと、海の水が微かに赤を混じらせていたのに気付いた。顔を上げる。見渡す。地獄の鬼のようにそそり立つ崖が茶色いインクを岩肌に散らしているのに気付く。その崖下に自分がいる。蟹が横這いに足元を去っていく。
 目の前の大岩の先には何があるのだろう。死んだはずの好奇心に従って前進する。言う事を聞かない足にバランスを崩しながらも進む。そこに何があるかについて知る覚悟はない。知覚する、認識する、それ自体は重い事柄だ。知ることはその物の情報を支配する事であり、情報を支配された物はそれ以外の姿ではなくなる。多くの人に存在を知られたら、記憶された存在はより多くの人の認識に沿って変化していく。人は曲解された概念を共通の偶像として認識しているにすぎない。もともと情報がオリジナルと違う事は古今東西変わらぬ事なのだ。
 視界から田仁志の背中のような大岩が去る。ぽっかりと空いた空間に人がいた。倒れている。虚ろな目が死んだ魚のように白い皮膜をかぶり、だらしなく開かれた口腔にはヤドカリが宿を取っている。揺らめく黒は海草ではなく髪の毛だと分かる。周囲の水は赤く濁ってはいるがまだ底がよく見える。蟹がかさかさと動き回り、人の服の中へ入って姿を消す。
 どうしてこの人はこんな場所で寝ているのだろう。知念は倒れている身体の横に両膝をつき、身体を揺らした。もう朝だばぁよ学校始まるさぁそれよりどうしてここで寝ているんばぁ風邪引くよだから起きよう、なあ木手。口唇が声帯の力を借りずに囁く。
 木手の屍体をぐるりと回転させる。大きく捲れて赤く染まったシャツの隙間から白い腹が見える。柔らかい脇腹を力任せに抉り取ったような腹からは内臓が粗方なくなっていて、その代わりに水がたぷたぷと波打っている。
 瞬間、頬の傷に電撃的な痛みが走った。「あが」と低く呟いて片手を頬に当てる。直に刃を握った右手までが深い火傷の色をしている。どうしてこんな色をしているのだろう。理由は何処にあるのだろう。
 脳裏に思い出される緋の記憶。月夜をバックに佇む木手に、突然刃を向けられる。押し倒されて、刃先がぐいぐいと押し込まれる。殺すつもりのカッターナイフは誰を殺そうとしているのだろう。理性が現実を拒否し、フラッシュバックする光景を他人の記憶として否定する。ここまで来ても現実を見ないのか、と幻聴が何処からか聞こえた。
 自分はその時何をしていた?
 突如、激痛が左腕を這い登った。神経に直接電流を流したようにびくりと反応する腕、痛みを知覚すると同時に見た腕が、指先から肩までが炙ったような色に変わっているのが分かった。追うように脈打つ痛みは手首から末端へ、創傷から身体へ近い方へ伸びていく。じん、じん、と心臓の拍動に合わせて、皮膚の浅い所が痛んでいく。皮を剥いでそこに酸をぶっかけた方がまだ痛くない。そして激痛は知念から徐々に現実感を取り戻させていく。
「……あ」
 木手が死んでいる。腹の中身がごっそりと抜け落ち、腹腔を晒して死んでいる。
 木手の身体を抱くように持ち上げた。海に沈んでいた髪から雨のように雫が落ちて太腿を濡らしてゆく。硬くて冷たい身体、その肩に右腕を回した。顎が固まっていたのか、そのままの姿勢で半分抱くような姿勢で木手の屍体を膝に乗せる。耳にかけられた割れた眼鏡のフレームが水面に落ち、水底で流れに泳いだ。少し身体を動かす。木手の左の前頭葉から、ゼリー状の何かが血に混じって水に落ちる。
「あ……」
 木手が死んでいる。
 そうだ。俺が殺した。しかし何故どうして。
 木手の頭に手をやると、ゼリー状のものが掌に落ちた。それを何の躊躇いもなく目の前に持ってくる。
 脳(・)だと分かった。
「!」
 思わず手を振り払うと、脳の欠片は海に落ち、押し寄せる海水に揺れた。後ろに下がると、木手が海に落ちてずぶずぶと沈んだ。半面が沈んだ貌は生の気配がまるでない。白い皮膜がかかった眼球は魚と同じように、ひたすらに無感情だった。
 波が服を濡らしている。しかし身体は炎のように熱い。現実感が生々しいまでに戻ってきた。それが幸いであるはずはなかった。
「あ……あ……」
 血肉が炎であるような灼熱感が全身を覆いつくす。いや、蝉の声に焦点を合わせると蝉の合唱がいきなり聞こえるように、ただ知覚のピントが合っていなかった、それだけのように思える。今まで、例え少なくとも認識は確実に痛みを感じていた。感覚が戻ってくる。そして自分が木手を殺したという現実感も共に。
 今まで壊れていた正気のパズルが最後のピースを以って形を成した。
 しかし最早、壊れていた方が楽だった。
 自分が木手を殺していた。その事実は、せっかく取り戻した正気を壊さない程度に重い負荷をかける事だった。
「う、あ、あ……」
 水平線から太陽の天辺が覗く。
 俺は、木手を、殺した。
 平古場を、見つけられないまま。
 燃え尽きる。
 太陽の洗礼を浴びた肩が突如として炎の柱を上げる。ガソリンが引火したように、知念の視界が一瞬で炎の蒼に包まれた。両腕を開いて腕を見る。全身が松明であるかのように炎が吹き上がる。服をはためかせ、全身から炎が噴出する。
 自分は燃え尽きる。平古場を見つけられないまま。木手を殺しておいて、自分も死ぬ。それでもいいのか。狂って悔やみきれないまま、燃えて死ぬのか。
 まだやりたい事はいっぱいあったのに。まだ15なのに。明日があるって、「また明日」と手を振る子供のように信じて疑わなかったのに。ああだから自分はこの期に及んでも平古場を探し出せると思っていたのだ。いくら探しても見つからない現実を否定し、平古場がこの島に本当にいるかなんて考えもしなかった。考える事を最初から放棄していたのだ。子供が考えなしに行動するように、自分もまた幼かっただけなのであろうか。平古場を見つけ出せると、幼児染みた万能感に突き動かされて走っていたのか。
 強烈な上昇気流は、炎の熱をもって全身を焼く。指が燃えて短くなり、髪が炎にまかれ、目も熱に焼かれて縮み、耳も既に炎に食われた。身体の内側から発する熱は血肉を容赦なく焼き炙る。それでも知念はまだ意識を保っていた。肌が焼かれる想像を絶する苦痛と共に、知念はまだ生きながらにして、火葬されていた。
 死ぬ。燃え尽きる。
 これで終わったのか。償えたのか。木手を殺し、平古場を最後まで見つけられなかった仕打ちがこれなのだろうか。生きていたいなどと思わない。だから、今少しだけ、懺悔をする時間を下さい。
 しかし太陽は無情にも水平線から昇っていく。友を信じたセリヌンティウスは日没と共に処刑台に上げられ、メロスはやってこない。いつか本で読んだ場面が脳裏に鮮明に浮かび上がる。

 最後の景色に、ふいに平古場の笑顔がよぎった。その笑顔は瞬時に炎の中にくべられ、風のように姿を消した。



 木手の屍体を前にして、一人分の服が波に揺れていた。
 一匹の蒼い蝶が迷い子のように海上を漂い、やがてその場を離れて飛翔する。行く当てはない。それでも蝶は友を探して飛び始める。例え、探し人が見つからなかったとしても。
 太陽は地上の全てを、今日もまた焼き始める。


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