朝がやってくるんだ。
 今日もまた昇り始める太陽が、平古場をニライカナイに連れていく。
 そんな事、許してやるもんかって思った。
 それでも太陽は、水平線へ向かって、ゆっくりと昇り始める。

 潮風はまだ吹いていた。海から遠く離れていても、膨大な空気に混ざる潮の匂いは鼻腔を刺激している。琉球の、ニライカナイの匂いだ。ニライカナイから吹きつける風がきゅるきゅると鳴り、首筋の髪を絶えずもてあそぶ。居場所を探す風の旅人は、今日も宿を探して彷徨っている。短夜に冷やされた風は、海の水みたいでちっともカラッとしていない。
 空はとっくに朝の光に満ち溢れていて、すっかり白んだ水平線は地球の丸みを帯びて左右に伸びていた。薄い朝靄が眼下に薄くたなびいて、景色に湿気を混ぜている。薄桃色に染まった光景。薄明はすっかり拭い尽くされ、太陽が出ていないという一点を除けば清浄な朝と何ら変わりない。しかし例え太陽神が大宙の航海に出ようとも、この景色は永遠に続くのではないかとばかり思う。世界に静謐が満ちて、ずっとこのまま凍ってしまえ。
 凪ぐ事のない旅人が、立ち上がる者の長髪を靡かせて去っていく。
 ぎし、と軋む音がした。フェンスに指を絡ませて立ち上がった平古場が、妙に焦点の合わない目で困ったような笑顔を浮かべている。平古場はおはようとでも言うように右掌を向けて唇が動いたが、何を言ったかまでは分からない。「来たのか」とか、「どうしたんだ」とか、もしかしたら本当に「おはよう」と言ったのかもしれない。甲斐は夢遊病患者のように足が前へ行き、平古場はそのまま甲斐が立ち尽くすドアの方へ一歩一歩、危なっかしい足取りで歩いてくる。思わず、大丈夫かと言いかけて、飲み込んだ。何処かおかしい。それに気付くのに二秒も必要としなかった。平古場の視線は明らかに甲斐よりも五メートルは左にずれた場所をふらついていて、目の前に物干し台の脚が生えているのに気付いていない。案の定、重心を移した瞬間物干し台を支えるコンクリート塊に足を取られ、危うい所で保っていたはずの均衡が崩れた。
 甲斐は思わず平古場の眼前まで駆け、その肩を正面から支えた。布地越しに伝わる儚い体温は、人の、肉の冷たさではない。夜気のように冷たい。哀しくなるぐらい重さがなかった。支える腕に力を込めれば、今にでも空中に霧散しそうになる。平古場の腕から流れる血液が剥き出しのふくらはぎに滴り、伝う。液体と呼ぶよりも空気が圧縮されて液体になっているのだと言われた方が納得出来る。
 半分ほど抱き締めたような微妙な距離のまま、顔が見えない位置で、平古場は呟くように問うたが何を言ったかまでは分からない。しかし半ば諦念の混じった言葉なのは確かだった。この位置からは見えないだろうが、苦笑いの一つでも浮かべているのかもしれない。
 平古場は甲斐の腕をべたべたと触った。盲目丸出しの手付きだ。冷たい手が首に触れ頬に触れてびくっとした。目の向きは甲斐の顔だが、視線はコンクリートの屋上の、床を突き抜けた更に先にある。鼻と鼻の距離は煙草一本分にも満たない。
 恐ろしい事が脳裏によぎった。針先ほどだった不安は空気を送り込まれたように一気に膨れ上がり、甲斐の心臓を圧迫した。平古場の肩を両腕でしっかりと掴み、問う。
「やぁーは、わんが分かるか?」
 冷たい腕が肌を這いずるのをやめた。相変わらず焦点の合わない瞳は、動揺した風に皿となり、すぐに困ったように細められた。
 力の無い、笑顔。
「分からないわけ、ねーやっしー。……やっぱり、来たんばぁ?」
 笑顔に力がなければ、声にも力が入っていなかった。
「最後の場所、やっぱりここじゃねえや」
 支える腕が震えそうで、指が拳を握りそうで、それらを必死に押し隠す。
「わん……何処に行けばいいんだろな」
 勝手に何処かに行くなんて言うんじゃねえよ。バカだのアホだのフラーだの、語彙の少ない辞書の中から罵倒する言葉だけを引っこ抜いて、思い切り叩きつけてやりたいと思う。どうして置いて行くんだ、一人で何処か行くなんて許さない、分かったらさっさと、
 言えなかったのは、平古場の肩が小刻みに震えているからだ。
「海に、ニライカナイに行かないといけないんだよな」
 なら俺は海へ行く。神が導けなかった者の魂をニライカナイへ導いてやらなきゃなんない。ひとりだけ、神について行かなかったやつがいるみたいだから。平古場はだいたいそんな意味の事を言ったと思う。
 死ぬのは怖いけど、もう恐怖には慣れている、だから――
「海に、連れて行ってくれないか」
 平古場が顔を上げた。その目は焦点が合ってないくせに今まで見たことがないくらい真摯で、それなのに迷いに押し潰されそうな目だった。
 何故そんな目で懇願する。海に行きたいと言うのに、どうしてそんな悲しい瞳を向ける。
 その間にも空は光を取り戻していく。一片の雲もたなびかない晴れ渡った蒼穹の端っこで、太陽は少しずつ水平線へ近づき、やがて越えるだろう。たった一つの星が一本の線を越えるだけなのに、夜にはそれが何度も繰り返されてきたのに。一個の天体が一日のスタートラインを切る、たったそれだけの事で地上は光で埋め尽くされ、地上と空の狭間で這うあまねく生き物に新たな一日を告げる。それは同時に平古場を殺すだろう。迷っている暇などない。それなのにどうして思考は停止したまま動かないのだ。
 太陽が昇ったら、平古場は死ぬ。王子様を殺せなかった人魚姫は朝の光を浴びながら、元居た世界――海――の泡沫と消える。それと同じだ。空蝉と変わった平古場は朝の光を浴びながら、海の彼方に姿を消す。
 いままでずっと隣でガキのように笑っていた平古場が、死ぬ。しかし何か方法はあるはずだ。一刻でも一分でも一秒でも平古場を永く生かす方法が。夏休みの宿題だって出さなければある程度は期限が伸びるのだ。それと同じだ。そうだ考えろ。考えるしか能がないだろうこの凡人め、武術とテニスと提出期限を伸ばすしか能がないのか。最初から考えろ。
 太陽が昇れば、平古場はこの世界の泡沫と消えてしまう。
 今思えば単純だった。単純すぎて吐き気がした。こんな事、子供でも分かったのに。
 そうなんだ。太陽がない場所へ行けばいいんだ。そうすれば平古場は太陽に触れずにいられる。そうすれば、死なない。
 これなら絶対だと思った。まるで、誰にも見つからない秘密基地にぴったりの場所を見つけ出した子供みたいだ。
 風が吹いていた。海風が朝靄を流して、景色の濃淡が移動する。黒く茂る森から、早起きのクマゼミが腹腔を振動させ始める。朝ぼらけの頃は、既に老人なら起きだす時間帯。夢の目覚めは今、いずこにあろう。甘美な夢も、冷や汗の浮くような悪夢も、太陽が昇れば全てが終わる。平古場が今ここにいる事は夢じゃない。夢になんてさせない。その為なら――太陽の下になぞ、連れて行かない。夜もすがら護ってくれていた闇が平古場を見放そうと、今から太陽の専制政治が始まろうと、今なら何でも出来る。何でもやれる。そう思った。
 決めた。
 平古場を生かす為なら。何処にだって行ってやろう。太陽が駄目なら、地の果てだって連れていこう。
 逃げ出すんだ。――太陽の島から。
「……駄目さ」
 口が勝手に言葉を紡いでいた。「え?」と平古場が不思議そうな、意外そうな顔をする。平古場の肩をしっかりと掴み、甲斐は回れ右をした。屋上へ繋がるドアをくぐる。平古場が戸惑ったように首を背後に回したり、駄目の意味を必死に尋ねたりしている。甲斐は平古場に肩を貸し、エレベーターに続く僅か数段の階段を靴底で叩きながら、その問いに答える。
「海になんか行かせない。ニライカナイになんか――」
 ――絶対に渡さない。
 エレベーターのボタンを連打したが、待つ暇も惜しかった。真横に据え置きされた階段を降りる。一階までまっしぐらに駆けた。鍵のかけられていない夜間外来のドアを押し開ける。薬やエタノールが飽和しかけた、むせるような匂いから開放される。肺胞から汚れを洗い流してくれるような空気だ。しかし太陽が昇ろうとしている今、新たな空気の味を確かめる深呼吸をする暇も惜しい。
 一番近くにあった茂みを踏みつけて進んだ。茂みとは言え、幹と幹の間にテナガザルのように伸びるツタは距離を置いて立つ幹を繋ぎ、暗緑色が森の離散を妨げているようにも見えた。さしずめ、天然の檻か。鬱蒼と茂るそれらは手の加わっていない雑木林だと教わった方がまだ信頼できる。導き神から逃げたあの時のように、枝や葉が容赦なしに全身を叩き引っ掻き殴打する。頬に脛に木々の引っ掻き傷が線を引く。常緑広葉樹の緑が残像の赤をちらつかせている。空気が違っていた。湿気た腐葉土と木々が放つマイナスイオンの匂いが、林立する幹の間にひっそりと立ち込めている。その空気をかき乱して走る。前方の蝉が鳴くのを止めて、過ぎた場所の蝉が注意深く鳴き始める。枝や枯れ木の割れる音は存外に大きい。後ろから太陽が追ってくる。歩くのもままならない平古場を落とさないように一度しっかりと肩を組んでから、小枝や生木を踏み折り、太い幹を避けてひた走る。
 刹那のように短い間でも、太陽の下へいさせない為に。太陽から、少しでも遠くへ。
 ふと思い浮かぶ同級生の顔。知念はこんな気持ちで、平古場を探していたのだろうか。


 なあ裕次郎。
 お前には教えてなかったけどよ。ニライカナイって、楽園の意味があるんだって。来訪神、豊穣や生命の根源があるんだってさ。
 死は誰しも逃げられない事だけどよ。俺もすぐに死んじまうだろうけどよ。
 毎日が夢のようだった。俺にとっては皆のいた場所の方が、何倍も、何十倍も、楽園だったよ。
 天国よりも、ニライカナイよりも、世界中のどんな場所よりも、ずっとずっと――


 不意に森が途切れて、足が重力から見放されて、身体中から熱が引いたのを皮切りにがらがらと岩肌を転がった。空とざらついた岩とが横転して混ざる。数えられないほどあちこちをぶつけた。皮膚が擦れて皮が剥けた。恐怖を感じるより先に、無意識に平古場を庇うように抱き締めたが、一瞬遅かった。人差し指が金髪を掠っただけだ。景色は横転し続ける。
 砂塗れの平地についてなお二、三回横転した後、甲斐は砂に手を突き、片膝を突く。その瞬間に膝の痛みが神経系に走った。すぐに確認する。右膝の表皮がべろりと剥げ、まぶされたような白砂が滲み始めた血を吸っていた。見ている内にも粘性のある血が砂混じりに一筋垂れる。立ち上がろうとするが、痛みがそれを制止した。
 フラー、こんな痛みで怯んでどうする。そうやって自分を鼓舞し、どうにかして立ち上がる。そして、周囲にこうべを巡らせた。
 そこは、見捨てられた浜辺だった。
 誰もいない。何もない。時代からも人からも見捨てられた自然の浜辺には、人工の痕跡が一切無い。渚から離れた白砂には草がこれでもかと繁茂し、緑の間に砂まみれのゴミが打ち棄てられている中で、唯一つ海だけはエメラルドに染まっていた。波は穏やかに押し寄せるが、クラゲ防止のネットも張られておらず、遠くにブイも浮かんでいない。ただ目の痛くなるような青が水平線までずっと延びていた。そして水平線から顔を覗かせた眩い光が網膜を刺した。
 終わるんだ。穴に落ちるような底なしの絶望。しかしその穴の淵に指をかけて、必死に這い登る。まだだ。まだ、終わらせない。歯の奥を、ぎりり、と鳴らす。
 プールの対角線ぐらいの距離に、古びたヨットが一艘、外の白板にフジツボをへばりつけていた。マストが中ほどから折られて、狭い甲板で砂に汚れた大きい布がくしゃくしゃになっている。使えるかどうかは分からない。
 例え逃げ水のような希望にでも、すがりつきたかった。
 痛みを訴える神経の叫びを無視して、足を引き摺って、ヨットの残骸に向かった。この一秒の為なら死んでもよかった。一秒でも永く平古場を生かせるなら。
 三歩としない内に足首が掴まれた。冷たくて、そのくせ力の無い指だった。振り返る。比喩ではなく透き通った青い指が、踝を掴んでいた。
「もう、いいやし」
 何でだよ。そう言う自分の声が自分以外の誰かが喋っているように現実感が無い。目の前にあるヨットだけを見て、そのヨットだけに希望が載せられているように、そんな願いだけを求めていた。平古場と何処までも行ける、そう信じていたのに、どうして平古場は自分の邪魔をする。お前を一秒でも長く生かす為なのに。どうしてだ。
 もうロクに目も見えていないはずなのに、どうしてそんな目で見るんだ。
 ゆらり、平古場は立ち上がる。先刻よりもずっと軽やかで、空気のような立ち居振る舞いだ。そしてその身体の奥には、何故か青いアゲハチョウと、顔を透かして弧を描く浜辺が覗く。それなのに、平古場は笑顔だった。まるで、部活でダブルフォルトを犯してしまった時のような、苦笑い。
「もう、止められねえよ」
 バカ言うなよ、お前はまだ、
 肩を掴もうとした手のひらがすり抜けた。甲斐は思わず自分の両手を凝視し、平古場は自分の肩に自身の腕を置いてすり抜かせてみせた。諦めたような、仕方ないな、という笑顔になる。
 蒼穹を眺めて、平古場が訊いた。
「あのさ。十年ぐらい前、わったーが初めて会った時の事、憶えてるばぁ?」
 十年、今の自分の年と引き算してみる。しかし憶えている限り、平古場は小学校の頃からずっと一緒に遊んでいた記憶しかない。
「憶えていなくてもいいんだけどさ。やぁー、わんに、遊ぼうって言ってくれたよな。でーじセンチな事言ってるような気がするけどさ。それよ、すっげー嬉しかったんやさ」
「そんな事、」
「そんな事、じゃないんだ。わん、友達いなかったからさ。知念しかいなかったからさ。だから……嬉しかったんだ。今じゃないと、伝えられないから」
 ここみたいに夏草の茂った浜辺、夜闇の中で一小節だけ鳴いた蝉の声、遊ぼうと手を差し出してくれたあの時の希望、それらを語りながら懐古するように、平古場は言葉を紡ぎ出す。子供の時に出逢って、中学生という大人の世界の入り口で別れるんだな、と平古場は笑う。夜に出逢って、朝に別れる。子供の内に出会って、子供の内に死ぬ。それもいいと、平古場は微笑む。
 太陽は昇っていく。平古場の輪郭がそれに伴って薄く、そして透けた胸には一羽の青い蝶が展翅台に留められたように翅を広げている。
「そういえばさ。海に来させないとか言っておいて、結局海には来ちゃったんだよな。やっぱ運ねえよな、やぁー。でもよ、……今まで、ありがとな」
 平古場が海の方へ一歩を踏み出した。甲斐にはそれが止められない。足の鈍痛を振り払えない、足が現実感を失って棒立ちになっている。海風が凪いでいた。対して平古場は柔らかい太陽の光を浴びて、身体の輪郭を薄めながら、前が見えているかのように歩んでいく。
 平古場が行ってしまう。波打ち際を踏んだのに、そこには波が立たない。平古場のくるぶしまで浸かっていた波が、足を踏み出すごとにふくらはぎへ、膝へと高くなっていく。
 行かせたくない。そう思った瞬間、甲斐は走り出していた。世界が平古場だけに収束され、それ以外の何もかもが見えなくなった。砂を弾けさせ、波が押し寄せる水際にスニーカーのまま突っ込んで、ばしゃばしゃと水を蹴散らして、揺れる視界の中で平古場だけを見て、平古場の身体に両腕を向けて、水音に気付いた平古場がこっちを向いて、甲斐の方へ駆け寄ってくるのを見て、平古場は背を向けたまま俯いて、離さない、そう思って、倒れこむように背中から平古場を抱きしめようと腕を伸ばして、

 捕まえたと思った瞬間、その身体は弾け飛んでいた。

 自分の身体を抱くようにしていた甲斐の腕の間から、一羽の蝶が翅を羽ばたかせた。海のようなアゲハチョウは太陽の光を浴びて、涙のように光った。
 ――間に合わなかった……
 膝から力が抜けた。膝小僧から、ばしゃんと派手な水音を立ててへたりこむ。息が出来なくなった。目頭に生まれた熱の点が一挙に大きくなっていく。頬を熱い雫が路を作って顎を伝う。唇が震える。それを抑えるために強く歯を噛み締める。水の冷たさを全く知覚出来ない。膝が潮に触れてじんじんと痛んだが、それさえもどうでもいい。間に合わなかった。みすみす平古場を、ニライカナイに渡してしまった。今まで平古場がやってきたことは、何もかも無駄だったとでも言いたいのか、神は。
 いまだ自分の身体を抱き続ける腕に力がこもる。海の波が腹まで高くて、波に揺られながら甲斐は顔をゆっくりと上げた。
 朝の太陽はもう水平線から離れて、あまねく大地に光を降り注いでいた。これから地上の全ての生き物に朝と夜を与え、天球を旅する神の化身。強烈な残像が網膜に焼きつき、まるで無数の蝶がいるかのような錯覚さえする。
 青い蝶は、ふわり、ひらり、と空気と戯れるように舞っていた。そして甲斐の周囲をゆっくりと回る。甲斐の目の前で、蝶は空高く舞い上がり、海の彼方へ羽ばたいた。


 今、平古場は自由なのだと思う。
 地上の理から解放され、自分の翼で空を確かめている。使命にがんじがらめにされて、身体が壊れそうになっても苦しみに耐えてきた肉体から解放されて、最後の最後まで足掻いて足掻いて足掻いて、それでやっと見つけた新たな自由を謳歌したように飛んでいる。
 朝の光が降り注いで、海から吹く風も止んで、動くものは青い光を仄かに放つ一羽の蝶だけ。
 誰も邪魔できない。邪魔しちゃいけない。漠然と、そう思う。
 何故なら今の平古場は、誰よりも自由なのだから。


 全ては海から始まった。
 海に、ニライカナイに囲まれた島の中で、全ては巡り巡る。
 子の魂はニライカナイより訪れ、死者の魂はニライカナイへと帰る。
 ニライカナイは、海の果てにある。
 ニライカナイは、いつか行ける場所にある。

 甲斐は常世を夢に見る。
 それは終わらぬ夢にして、
 いつかは行ける場所にある。








 周囲はひたすら蒼に包まれていた。水と、空気の蒼だった。陸の見えない遥かな海の真ん中で、一羽の蝶が探し人を求めて彷徨っていた。蝶に涙はない。神々の国に辿り着けねば、この蝶はいずれ消える運命にあうだろう。彼のような蝶を二度と出さないために、導き神が生まれたのだ。しかし新たな神は、迷える蝶を探し出せもしない。
 すると、もう一羽の蝶がその姿を見つけて飛び寄ってきた。蝶は互いに互いの生前の姿を重ね見る。
『……ほら、行か、寛』
 蝶がそう言ったように感じた。手を伸ばしたように、感じた。
 探し人を見つけた蝶はその手を取り、海の彼方へ飛び去った。二人が行く先は、遥か彼岸にある。しかしそれでも、行くんだと決意していた。
 海の彼方には、ニライカナイ――楽園があるのだから。




























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