少し喉が渇いた。階段を下りて、一階の自動販売機で炭酸飲料を買ってその場で飲み干し、捨てる。ガムを探してスラックスのポケットに手を突っ込んで探った。しかし布地の狭間には布の感触しかなかった。他のポケットを探り、あったと思えば昨日父親にパシリにされて買った煙草のカートンについてきた、ピンク色の百円ライターしかなかった。
「やべ……忘れたかも」
 財布の中身が今の時点で心細い金額しか残っていなかった。家までの電車賃を考えれば、新しいガムを買うと家まで徒歩で帰ることになる。現在の時刻だと乗られたはずの電車を一本逃してしまうことになるが、それはもう仕方がなかった。ガムがないと生きていける自信がない。
 ブン太はガムを忘れた自分に舌打ちし、泣く泣く階段を戻り、幸村の病室へ向かった。
 運よく、幸村の病室のスライドドアは半分ほど開いていた。なるべく音を立てないように、抜き足差し足忍び足という表現がぴったりなぐらいに、音を立てずに侵入した。
 手前のベッドには誰もいなかった。その代わりに掛け布団が、幸村にしては珍しく、布団から出たままに盛り上がって空洞を晒していた。ブン太は棚の上に放置されていた真新しいガムをポケットに入れた。
「誰?」
 その声がしたのは、ブン太が誤ってテニスバッグを壁にこすりつけてしまったときだ。幸村の声だ。
 しかしその声は、異様なまでの違和感を伴っていた。いつも優しい、いつも笑顔の、いつもの調子の、幸村のはずの声の主は尋ねる。それでもたった二文字の言葉だけでは違和感を拭いきれない。先刻までの微笑んだ表情とは無縁なまでの棘を生やした問いがかけられる。
「そこにいるのは、ブン太?」
 そこで、初めて幸村の声の異常に気づいた。
 この部屋にはたった二人しかいないのに、幸村の声が、いつもの声と、それより少し子供じみた声の二重唱だったのだ。かすれたように、声は静寂の充ち満ちる病室に反響する。
「幸、村くん……? どうしたんだよその声」
 ブン太はふらふらと、二重唱のするベッドに向かった。よく見ればベッドを覆うカーテンは半開きだった。それに気づいて、向かいのベッドに座る幸村は、叩きつけるようにカーテンを閉じた。突然の拒絶行為に、ブン太の脳は一瞬で活性を取り戻した。思わず声を荒げた。ずかずかとベッドに歩み寄る。
「どうしたんだよその声! 今度は発作か、なら医者呼んでく、」
 ここが夜の病院だということも忘れた。幸村は拒絶を内包した声で穏やかに返した。
「いいから、出ていってくれ」
「そんなわけにもいかねえだろ!」
 ブン太は容赦なく奥のベッドのカーテンを開いた。しゃっ、とカーテンレールが金属的に擦れあった。月明かりが彼の顔を隠すものなく照らし上げた。
 ベッドに座っていたのは、幸村とはとうてい言えなかった。
 初め、二人の人間が前後に重なっているかのように見えた。しかしよく見れば全く違う。幸村の背面に、六つか七つぐらいの身長の子供の、身体の厚みが半分ぐらいのものが貼りついていたのだ。本来の幸村の頭の向こうに、もうひとつの人間の顔が上唇まで形成されて、頭皮に噛みついているかのようにして埋まって――いや、生えていたのだ。その子供は、いつか写真で見た小さな頃の幸村そっくりで、なまじ見た経験があるというだけで、その印象をよりおぞましいものにしたてあげた。
 足が勝手に後ろへとしりぞく。
 しかしパンドラの箱を開けた中にたった一つ希望が残されていたという神話のように、一瞬で自失状態に陥ったブン太の中に唯一残っていた感情があった。友の身に何が起こっているのかを判明させたい、一面だけで見ればゴシップを暴き立てるマスコミにも似た醜悪なまでの好奇心が、幸村にその状態であることはなぜかと問うたのだ。
 つい十数分前までは、手前のベッドで、記憶とまったく同じ状態で座って談笑していたのに。わずかな時間で、なにがあった?
 答えはない。赤い月に細面の半分を無造作に照らされながら、幸村精市は唇を噛みしめた。前歯が肉に埋まり、頬へと血が流れた。
「……ってくれ」
 か細い声が、激しく震えた。
 四つの眼球で、ブン太をぎょろりと見つめた。爆発したように、幸村は叫んだ。
「出て、出てってくれ!」
 頭を鈍器で殴られたと錯覚した。幸村の二組の双眸が月明かりの照り返しを鋭く弾き、狂いの光が網膜も視神経も焼き尽くし、脳の感覚中枢さえも破壊されたかのようだった。世界が真っ暗になる。音が遠くなる。全身から力が抜ける。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚が追剥に出くわしたかのように容赦なく剥奪される。
 無感覚の極北が、精神を鋭い牙で咀嚼した。圧倒的な孤独感が、痛みのない刃物で全身を少しずつ削り取っていく。
 丸井ブン太は冷たいリノリウムの床に倒れた。マリオネットの糸が切れたかのように、呆気なく。乾いていく角膜に、肝臓のように赤い月が像を結んでいた。
 麻痺した五感は、忍び寄る人間の足音にも鈍感であった。いささかの電気刺激も神経へ伝達させなかった。
「なんだ。自称天才も、神の子には勝てないんだ」
 半開きのスライドドアから現れたのは、驚くなかれ――これもまた幸村の微笑である。ベッドの上に座る幸村と違い、ドアに手を添えたままの幸村は人間の質感が全て作り物であるかのような気配を帯電させている。しかしその姿はブン太の、そして他のテニス部メンバーの記憶と寸分の狂いもない幸村精市である。そして声も、判別がつかないまでに雛型そっくりに変調していた。
「幸村、この自称天才さんをどうする?」
「幸村」は、にこやかに「幸村」に問いかける。
 ベッドに座ったまま、震えるような声で指示した。握りこまれたシーツが、手のひらの皮を突き破るのを辛うじて阻止していた。
「……家に、帰してやってくれ」
「了解」
「ただし、」
 ベッドの上の、四つの目が、ぎろりと「幸村」を睨んだ。
「なんの気も起こすな。ブン太になにかあったときは、俺が、お前を潰す」
「潰せばいい。やれるもんならの。しかし覚えておけ、俺は逆鱗に自ら触れるような猿じゃない」
 微笑みを歪曲させ、「幸村」は人を騙すときの語り口と同じくらいに優しい手つきでブン太に触れた。脇の下から手を入れて、そのまま引きずる。
 糸が切れた人形にはまだ意識があった。皮膚が擦れる痛みも、引きずられる熱も、彼岸前なのに寒くなりはじめた夜気も、なにもかも失って、それでも恐怖だけを克明に心臓へ焼きつけているだけの状態だ。全身が動いていることが分からない恐怖が皮膚をそそけだたせるはずだったが、皮膚感覚さえもないのだ。ただ純粋な思考だけが、今のブン太にある全てである。
 口を開く、舌を動かす、声帯を震わせる、それを耳で聞く。日常的にやっている作業の感触を断たれつつも、ブン太はなお声を出した。
「ゆき、む、ら、くん……おま、え、なん、で、」
 聴覚さえ奪われ、話す言葉もたどたどしい。通常であれば、鼓膜を塞がれていても骨振動によって、自分の声はやや変質して聞こえるはずだ。その生理的機能さえ無視して、なにを話しているかさえ分からない。
 神の子たる所以だ。対峙する者の戦意をことごとく奪い、イップスに追い込み、ついには五感まで剥奪するという、常識的に見てもありえない能力。それが幸村の意志でブン太に向けられたとしか思えない。人間は一切の刺激がない状態に置くと、八時間ほどもすれば気が狂うという。
 果てがないほど暗く、耳鳴りさえ存在が許されないほど音がなく、生きられる程度に生ぬるい世界が、よもやこの世界には自分一人しかいないのかという圧倒的な孤独感をもって、精神を磨り潰す。時間の経過が分からない。実際は数分が経過しただけなのに、何十分も、何時間も過ぎたかのようだ。
「ど、こだよ、ゆきむ、らく、ん」
 幸村の名を呼び続けるブン太を引きずる「幸村」は、不憫そうに、あるいは不快げに眉をひそめると、
「すまんな」
 と一つあやまり、ブン太の首に手をかけた。特定の場所に極短時間圧力を加えるだけで、ブン太の顎はがっくりと垂れる。頸動脈を数秒絞められて、脳が一時的な酸欠に陥ったのだ。形容するならば、おちた、という状態である。感覚がない状態ならば苦しみもなかったはずだ。意識を失った身体は、おそらく、このまま朝方まで眠ってしまうだろう。
 雀のように、ちいちい騒がれても面倒なだけだ。夢の中に留めておく方がいい。どうせこれから見たくもない夢を見ねばならないのだ。少しの間、ガムでも飴でもしゃぶらせておけばいい。

  *

 昨日のことは、夢にしてはリアルすぎると思う。まず、どこからが夢で現実かの境が見えない。全部が夢のような気がするし、逆に全てが現実だったと説明されても違和感がない。それでもやっぱりあの姿の幸村は徹底して現実的ではなかった。だから夢なのだと思いたがった。
「……やっぱありえねーだろぃ」
 窓から降り注ぐ朝の日射しを斜めに受けながら、ブン太は机にへばり、髪をかきむしった。
 まだ朝のホームルームが始まるまで十分ほどあった。教室では、机についた生徒よりも、群れて雑談をしているグループの数の方が多い。エアコンは稼働しているものの、教室の広さにひぃひぃ悲鳴を上げていた。これでも一時間目が終わるあたりにはカーディガンが必要なほど教室を冷やす。
 机に伏せて両腕を枕に寝るときのように、顔を横に倒して、はぁ、と息をつく。どこをどう考えてもありえない。
 幸村の後頭部に、小さな子供の頭部があったこと。その後のことはよく思い出せない。純粋な恐怖と呼ぶにはあまりにもどろどろしすぎていた。
 次に気がついた時は枕元で携帯がけたたましく歌っていた。パジャマ代わりのジャージを着ていて、明日の準備もしていて、制服はいつもはやらないのにちゃんとハンガーにかけてあった。家族に聞いてみたが、皆、ブン太は昨日いつもどおりに帰ってきていつもどおりに食卓を囲んでいつもどおりに風呂に入って、と「いつもどおり」のオンパレード状態だった。記憶は全然「いつもどおり」ではないのに、だ。考えたら考えるほどドツボにはまるような気がしていたが、それでも本当のことを判明させずにはいられなかった。
 絶えずドアが開閉されるので、いつ友人が入ってきても仕方ない状況ではあったが、これはいささか突然すぎた。
「天才さんにも悩みごとぐらいあるみたいじゃのう」
 背中越しに覗き込んできた仁王は、うなじで結った髪束をぴんと弾いた。
「仁王かよ。話しかけんな。今いらだってんだよ」
「なんじゃ、つまらん」
 相変わらず出身地の知れない方言だ。仁王はブン太の前の机に、無造作に腰を下ろした。ブン太の顔の前にガムを差し出して、「食わんか」と尋ねる。
「カルシウムか糖分が足りないんじゃろ」
「わり」
 とガムの一枚を引っ張った瞬間、ぺし、と指先がなにかに力弱く叩かれた。
「……パッチンガムかよ」
 よりによって古典すぎる。この発想はもう昭和モダンの中にしか残っていないに違いない。おそらくネタとしては相当な骨董的価値を秘めているだろう。
 ブン太がまたへそを曲げて机に突っ伏すと、仁王は相変わらず本心の見えない笑みのまま、違うガムを一枚だけ差し出した。そのガムと仁王の表情の間で視線をなんどか往復させるが、またなにか悪戯されそうだ。結局、いらね、とだけ答えた。
「おまん、小さいときからガムばっか食うたとに、食べないとはどういう風の吹きまわしじゃろうなあ。雀百まで踊り忘れぬように、丸井百までガムを忘れぬじゃなかったんか」
「今噛んでる。だからいらねえ」
「ははっ、明日スコールが来るのう」
 その冗談を本気にするつもりも失せた。
「スコールが来たら神社の桜も散るのう。残念なことこの上ないけんのう。あーもったいないもったいない」
 桜?
 もう夏休みも終わってるんだぞ?
 いきなり起き上がったブン太の顔を見て、仁王は片方の眉を下げ、首を傾ける。
「……なんじゃ、知らんかったととぼけるのはナシやけん」
「とぼけるわけねえだろ。咲いてんのか、あの桜」
 あの桜とは、立海大附属中学校のすぐ裏手にそびえる山に寄り添うようにして建設された神社にある桜のことだ。鎮守の森として社を覆うように植えられた数十本の桜が卒業式の季節に爛漫と咲き誇るので、毎年三月一日は告白の名所だと立海大附属中学に代々語り継がれている。周辺住民にとっても似たりよったりで、都会の中でも数少ない花見のスポットとして、よく知られている神社であった。
 しかし桜が花開くのは言わずもがな春である。今は秋にさしかかりつつあるとはいえまだまだ夏の残滓が消えていない。
「滅多にないことじゃが、あの神社の桜は狂いやすいそうじゃ。だからか、時季外れに桜が返り咲いたら吉兆として、この地域では祭りを催すんだと。明日は土曜日じゃから、境内にたくさんの露店が出ると思うけえの」
 祭り、という言葉に、ブン太の胸はアドレナリンを注入されたかのように高鳴った。机を両手で叩いて、バネを内蔵された人形のように勢いよく立ちあがる。その様は黒髭危機一髪で短剣の刺し場所が悪かったときとそっくりだ。机の反響音で教室にいた生徒の大半が振り向いたが、人目構わずブン太は声を明らめた。
「もっちろん行く行く! わた飴とかりんご飴とか売ってるよなっ」
「お、おお。売りよると思うぜよ」
 仁王の顔からは、害のない地雷を踏んでしまったときのような、ばつの悪さがあった。
「おー、こうしちゃいらんねえ! 仁王、今からジャッカルとかに伝えてくる!」
 ブン太は猛然と教室の扉を開けた。それと同時に、教室の黒板の上や廊下の天井に備え付けられたスピーカーに、サァーっと薄いノイズが混じった。間もなく流れたのは、耳慣れたチャイムの電子音声だった。


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