仁王に昼食を食べる早さをからかわれながら、すぐに教室を出た。財布あり、時間あり、空腹あり。その三点をプラスして導き出される答えは一つ、食堂だ。
 食堂に行く理由といえば、一般的に考えればいくつか考え付くことができる。単純に、昼食を持ってきていないときの空腹の埋め合わせ、温かい昼食を食べたいという理由、菓子パンやプリンなど甘いおやつなどを必要とする場合、食べてもまだ足りないときなどだ。ただ弁当と財布の両方を忘れた人はたとえどんなに空腹でも食堂へ行く用事がなくなるから、それはそれでかなり不憫だ。
 ブン太は弁当も財布も持ってきており、更にはお菓子までテニスバッグに準備しているので、全てを食べればそんなに腹は減らないはずだった。しかし食堂は食欲を満たす理由だけではないのだ。
 券売機に並ぶ学生の列には並ばず、真っ先に飲食スペースへ飛び込む。鼻孔をあたたかな味噌汁の匂いがついた。くんくんと匂いに釣られそうになったが、そこは我慢する。マンモス校ならではの広い飲食スペースには多くの学生たちがひしめきあっていた。がやがやとしているが、小さめの音量で流されるクラシックが喧噪を、耳障りなものである印象を抑制している。
 券売機を必要としない菓子パンとプリンを両手で抱えて、ブン太はぐるりと飲食スペースを見回した。
 食堂を利用する他の理由――友達と会うこともそのひとつだ。
 多くの学生の黒や茶色、それに少し派手な髪色が混じる中で、髪の質感とは遠い茶色を探し、見つける。ジャッカルのスキンヘッドが前後に揺れている。その横では、楽しそうになにやら話しかけているワカメ頭があった。食堂で昼食を摂るメンバーは、ジャッカルと赤也の二人であり、ブン太は不足分を買いに来て、昼休みが終了する直前までだべるのが通例となっていた。しかし今日は時間いっぱいまで談笑するわけにもいかなかった。
 ブン太はよっこらせと袋を抱えながら、ジャッカルの向いの椅子に腰を下ろした。
「遅かったな」
 ジャッカルは浅黒い肌の中でそれだけ白い手のひらに乗せたGショックの時計を確かめた。
「いーだろ。それとさ、早速なんだけどよジャッカル、昨日部室にこれ忘れてなかったか? あれ、ちょっと待ってろな」
 突っ込んだポケットの内側を指先でぐるりと撫でると、体温で生ぬるい熱を帯びた金属の細い鎖が小指に絡んだ。それを持ち主の眼前に持ち上げると、ジャッカルは「あ、それ!」と目を剥いた。
「エスカプラーリオだ。失くしてたとこだったんだ。サンキュな、見つけてくれて」
「いーっていーって」
 顔の前で手を振る。ジャッカルは口元を少しほころばせ、金の鎖を首にかけた。鎖の両端についた飾りの片方が、急に居場所を取り戻したかのように濃い地肌に馴染んだ。
「それは置いといて、明日、裏の神社で祭りやるってこと知ってるか?」
 午前中はずっと移動教室が重なっていて、昼休みまでに祭りのことを伝えられたのは、隣のクラスで同じ組み合わせの真田、柳生、少しだけクラスの離れた柳だけだった。しかし三人とも祭りのことは知っていたようだった。真田には「知らないとはたるんどる!」と腕組みをされ、慌てて逃げる羽目になった。
「そうなのか? でもこの時期に祭りって、夏にやるならまだしもこの時期じゃ遅いだろ」
 何かをしながら扱うのは苦手らしく丁寧に箸を置き、ジャッカルは怪訝な顔をした。丼からもうもうと上がる湯気に顔を突っ込んだまま、赤也が焼き肉と姫飯を頬張る。
「ひーははひっふは、はふりはんははは、へっはふはひ、はほひひはほうほ(いーじゃないっすか。まつりなんだから、せっかくだし、楽しみましょうよ)」
「赤也、せめて飲み込んでから言えよ。それで?」
 赤也に呆れたまま、ジャッカルがブン太に続きを促した。
「やるんだって。その祭り、桜が狂い咲いたらやるらしいぜ。でも柳によると、その祭り、最後にやったのは十年前とかって話なんだってよ」
「それなら知らねえな。ここに来る前だったし。で、祭りってどんなだ?」
「俺もよく知んね」
 菓子パンの袋を開けて、ジャムパンを噛み切って咀嚼する。
 斜向かいで、ぱんぱんにしていた頬の中身を食道に流し込んだ赤也が、牛のイラストの印刷されたテトラパックを開けてストローを刺す。
「祭りって最高じゃないっすか! ジャッカル先輩、祭り好きっすよね?」
「好きだが、懐は秋を通り越してるんだ。余計なお金は使えない。お小遣いも先週使い切ったし」
「なあに、冬が過ぎたら春じゃないっすか! 夜桜見るだけでもいいじゃないっすか。ほら、行きましょうよ〜」
 ジャッカルの制服の裾を掴み、駄々っ子のようにゆすぶった。ブン太も「行こうぜジャッカル〜」とねだると、ため息をひとつついて、
「そうだな。行くか」
 と、苦笑いを零した。両者顔を明るくして、ブン太と赤也の両手がぱんと音を立てて叩かれた。
「じゃあ明日の午後六時、神社の鳥居で待ち合わせな! 赤也も遅れんなよ」
「了解っす!」
 ふざけて赤也が兵隊式に敬礼するのを見送って、ブン太はすぐさま人口密度が高まり始めた食堂を後にした。
 伝え忘れた人と伝えた人のリストを頭の中で突き合わせる。伝えたのは真田、柳、柳生、ジャッカル、赤也。そういえばしい太にはまだ伝えてないなと一年生の教室へ向かおうとしたら、まだ見つかっていない事実が脳裏によぎった。新しい弟のような後輩のことが、そして未だに行方の知れないこの状況が、じれったくて仕方がなかった。
 それだけでない。放課後は、昨日の幸村の状態を確認するために、もう一度病院へ行こうと決めていた。そのためには、もう一度、幸村の罹患している病気について調べる必要があった。外見に影響する病気はブン太の知る限り、そんなに多くはない。幸村の病気に酷似した免疫系の病気であるギラン・バレー症候群を参考にすればいいだろう。人通りの決して少なくない廊下を突っ切り、図書室へ向かった。
 図書室の鍵はかけられていなかった。冷たい金属光沢を握り、ひねって押しあける。空調が効きすぎているのか、半袖では少し肌寒い。扉ひとつ隔てた廊下から滲みだす喧噪以外には、エアコンの音しか存在しないほどだ。古びた紙が音という音を食べつくしているかのようだ。蛍光灯は暗く、締め切られたカーテン越しに光が染み出している。そもそも図書室の窓は本の日焼けを防ぐために北に面しているのもあり、窓から射し込む光もそう多くはない。
「あれ、やってない? でも、開いてる……んだよなぁ」
 一度出て壁を確認するが、電気がつけられていないのにも関わらず「開館中」という木彫りのプレートがかけられている。
 図書室はふだん、昼休み中は開いているものだ。ただの節電か。ブン太はそう結論付けて、蛍光灯のスイッチを押した。蝿が翅を震わすような音を立てて天井の蛍光灯が瞬き、図書室を照らし出した。本棚や机の下にぼんやりと広がる。本は大小、厚薄、新旧取り混ぜ、一定の法則に則って詰め込まれている。流行の小説ぐらいは借りにくるので、だいたいの書棚のカテゴリー分けは分かる。医学や看護のあたりを探せば、免疫系の病気の症状ぐらいは分かるはずだ。
 本の森を、表示を地図に進んでいく。目当ての本が積まれた棚は端から二番目にあった。厚さも高さも様々な背表紙が隙間なく並んでいる中で「免疫」の文字を探す。薄いハードカバーで絵本のような形のものを抜き出し、ぱらぱらとページを繰った。目次の最後から二番目に見つけたのはギラン・バレー症候群の文字だ。
 急性、多発性の根神経炎の一つ。運動神経の障害によって四肢に力が入らなくなる病気。深部腱反射も消失する。感覚神経の障害によって感覚鈍磨や、痺れ、痛みも発生する――それは知っている。しかし変だ。治療法の項目を見ても、手術の語はどこにも出てこない。すぐ下の行まで視線を進めると、「手術は必要がない」と明記されていた。ならば、関東大会決勝で行ったあの手術はなんのためだ?
 ブン太が顎に手を当ててうなっていると、横ざまから名前を呼ばれた。しかし思考にはまっていた最中のブン太にとってはその唐突さは朝のパッチンガムより強烈なもので、思わず「うわっ」と叫んで両肩を跳ね上げ、足がたたらを踏み絡み、尻もちをついた。その拍子に本を取り落とし、本は不均等に開かれて背表紙を表に落ちた。
 声をかけた人物は、目を閉じているのかと錯覚するほど細い目を困惑に染めた。
「どうかしたのか、ブン太」
「……なんだ、柳かよ。驚かせんなって」
 心臓の早鐘を隠すように、胸に手のひらを当てる。
「あーびっくりした。突然どうしたんだよ、話しかけてきて」
「見たい棚のところにお前がいてな。少しだけどいてくれるように頼みたかったのだが、余計すぎたな。すまない」
 詫びの代わりに本を拾ってもらった。ブン太はそれをしぶしぶ受け取って、背表紙と背表紙の空白に差し込んだ。
「その本は免疫の研究で著名な杉田玄三郎の著書だな。一般向け、あるいは子供向けに内容をかみ砕いて分かりやすくした医学書だ。精市の病気はすでにお前も知っているはずだが、なぜ今頃調べにきたんだ?」
「なんというか、ええっと……ただ、幸村君の病気ってどんなんだったか忘れただけだって」
「そうか」
 柳はいつもと寸分変わらぬ穏やかさだ。本の壁を背にして生き字引は尋ねる。
「おおかた復習しに来たのだろう。精市の病気はギラン・バレー症候群に酷似した免疫系の病気だ。運動神経、感覚神経の障害に起因する症状が発生する」
「あーそうそう、それ調べてたんだよ。なんでもないなんでもない。もう分かったから」
「『もう分かった』というのは誤解だ。俺達はまだ中学生だ。知らないことは山ほどある。もう知っているという理由で思考や学びを放棄するのは怠惰というものだ」
「うん分か……ってないから、これから調べっから! な!」
 危うくまた「分かった」と言いそうになった口を無理やり方向修正して、どうにか柳を納得させる。
「そうだ。ひとつ聞いていいか?」
 柳の了解の返事の後に、ブン太は唇を引き結んだ。頭の中でぐちゃぐちゃになった焦りと、もどかしさと、やるせなさと、醜悪な好奇心を蒸留してから、口を開いた。
「あのさ。しい太がいなくなったの、知ってるだろ?」
「そうだな。九月十八日の午後七時十分、駅で同級生が見たのが最後だそうだ。それ以来、俺のデータでは有力な目撃証言が得られていない。今日浦山の家族が捜索届を出すらしいな」
 捜索届。
 その言葉の重さに、ブン太は口をつぐんだ。あえて「行方不明」や「失踪」という単語を避けていたから余計、腹の奥へずんと重く沈んだ。まさかそこまで大きくなっているとは予想できこそすれ、納得はできなかった。現実を突きつけられるつらさは、重い。あまり短くない爪が手のひらに食い込んだ。
「安心しろとは言えない。俺はこれを、単なる男子中学生の家出だとはどうしても思えない節があることに気づいた」
 返答に、ブン太は思わず顔を上げた。
「ちょっと待てよ。普通、いなくなるとしたら家出かそこらだろ? すぐ帰ってくるんだよな?」
「その考えは早計にすぎる。ここからは俺の推測になるが、構わないだろうか?」
 ブン太は、迷わずうなずいた。柳は「講義」するときの癖か、小さく息を吸い込んだ。
「昔からこの地方では神隠しがよく起こったそうだ。この地方で神隠しと思われる例を累計するとこの四百年間で千四名。一年に二点五一名となる。これは現実的に考えても異常なほどの多さだ。行方不明者は戦後になってようやく減った程度らしいな。だからそれほど大きな騒ぎにはならない。そしてここ六十年の失踪者はほとんどが戻ってきている。よって、神隠しは戦前まで俺達の生活基盤に根を下ろしていたということだ。その神隠しの事例では、失踪した人間のほとんど、約九百八十八名は見つからないまま。見つかった少数の人間は死体か、もしくは統合失調症に類する病を患っていたという。失踪中の記憶が鮮明に残り、話せる人間はごくわずかだったそうだ」
「神隠し?」
 ブン太が腕を組んでうーんと唸ると、柳はすかさず説明に入る。
「人間が突然行方をくらますことだ。アニメ映画でもおなじみだろう。しかしこの地方の神隠しは、いささか伝承と異なる点が多い。少し長くなるぞ、いいか?」
 ブン太はガムを噛むのを忘れて、うん、と顎を下ろした。
 いつも自分たちレギュラーを見て、羨ましいと口癖のように言っていた、弟にも似ている後輩の行方を知る手がかりを、藁でもいいから掴みたい思いだった。
「ひとつは、夜。柳田国男は『遠野物語』の八で、『黄昏に女や子供の家の外に出てゐる者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ』と表記している。黄昏時は別名『逢魔ヶ時』と言って、人間が、夜に出現すると伝えられる幽霊や、妖怪などの怪しいものと接触するかもしれない時間帯だ。ほぼ同じ読みで『大禍時』とも書き、著しく不吉な時間とされている。すれ違う人間の顔が誰のものか分からない時間帯という理由から、黄昏時という言葉の語源は『誰そ彼』という意味を持つ。しかしこの地方で神隠しにより失踪した者は押し並べて夜に消えているんだ。事例はないことはないだろうが、本家と比べれば、地域性と考えてもいささか偏りすぎではないかと俺は思う。
 そしてもうひとつ、風だ。被害者は風の強い日に家に帰らなくなった。九月十八日午後七時頃の風速は秒速十四メートルちょうどだ。台風になる風の条件は風速十七点二メートル以上だから、数字で考えても充分に強い風だと推測できる。十二歳男子の平均体重は四十四点九キログラム。塵旋風(つむじ風)が起こったと仮定しても、竜巻程度の風にならねば子供であろうと吹き飛ばすのは容易なことではない。ただ、風が人に並ぶ力を有しているとしたら、なんらかの理由で浦山を連れ去ったと考えた方が妥当だ。理由はデータが少なすぎてはっきりとした結論を出すことはできないが……」
 柳の言い草に、突如ブン太の脳の中で、存在することを忘れていた事象を一つ思い出させた。少し高い所にある肩を両手で掴んで、激しく前後に揺する。
「そ、それじゃあなんだよ、風がしい太を連れて行ったとでも……」
 言いかけて、その考えを吹き飛ばすように首を振った。唇をかみしめてうつむいた先では薄汚れた上履きが木目を踏んでいる。
 柳は細いががっしりとした指でブン太の肩を掴むと、全く逆の理由で、柳は頭を縦に振った。少し上の位置からブン太の耳朶に唇を近づけ、鼓膜にだけ届いて消えるほどの小さな声で、柳は囁いた。
「遺伝子レベルで刻み込まれているはずだ。俺たちが――かまいたちだということを」
 追及が、五時間目の余鈴にかき消される。
 三十秒ほどしか流されなかった録音された鐘の音が消えるまで、ブン太はその場に立ったまま、拳をぎゅっと握りしめていた。残響も静寂に飲み込まれたあたりになって、ブン太はやっと口を開いた。口腔で消えるか消えまいかという蚊の啼くような声を発する。
「どうしても……たいんだ」
 今度は顔を上げて、柳の目を正面から見据える。
「絶対しい太を見つけたい。それなら、何年も使ってなかったかまいたちの力、使ってもいいと思ってる」
「しかしその力を用いてでも浦山が無事で見つかる可能性は極めて低い。徒労に終わるだけかもしれない。それでも構わないのか?」
「風になる力を使ったことなかったんだけどさ。やる。もう誰ひとりとして、俺の手の届くところで傷ついてほしくないんだ。そのためならこの手で、しい太を連れ去ったやつの尻尾や手がかりを掴んでやる」
 目の前に持ってきた手のひらをゆっくりと握りしめる。
 藁にもすがる思いで藁を掴まされたとしても、その手で次のヒントを探すのだ。
「尻尾を掴む、か。お前らしいな。ならばひとつ、探すヒントを出そう。明日は神社で返り咲きの祭りがあることは知っているな。ということは人が集まるということだ。さすれば、一か所に人が集中し、そこをくまなく探した後、他の場所を探すといいだろう。人間の数は有限だから、一か所を探すと他の場所が減る。祭りにしい太が来なければ、祭り以外の場所は人が少なくなり、より探しやすくなるという理屈だ。風に変じてから、街を見るといいだろう」
 ブン太はくるりと柳に背を向けて、肩越しに振り向いた。
「最初っからそのつもりに決まってんだろ。俺は天才だぜ」
「なら頼もしいな。ただ、ジャッカルと赤也と一緒に祭りぐらいは楽しんでくるといい。約束を忘れるなよ」
「ってなんで知ってんだよ」
「お前の行動パターンは予測済みだ。そして、この時刻で授業に遅刻する確率は、七十六パーセントだ」
「それなら、残りの二十四パーセントを選択する他ないだろぃ」
 ブン太は緑の色素を残したガムをぷうっと膨らませて、控えめなピースを顔の前に掲げた。


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