夜桜が散る紗幕の奥で誰かが走っている。傷だらけで、後ろを完全に怯えた目でちらちら見ている。小柄な男の子で小学生に見えるが、中学のスラックスをはいて、半袖のワイシャツを着ている。テニスバッグさえ投げうって、助けてと連呼し、人の名前を連呼している。
 右腕の鎌をしならせ、男子を横から追い越したと同時に、スモールサイズのスラックスがぱっくりと裂けて、目の前でどうと倒れられた。もう一度立ち上がった影が、兇刃を食らう度によろけたり、つまずいたりする。それをぼんやりとした目で追いかけるものの、その男子が誰か分からない。やけにぼんやりとした、霞んだ景色。
 左腕の鎌を男子の膝に埋め込み、直後大きく刃を振るった。今度こそ、逃げることはかなわない。男子は、ずず、ずず、となおも遠ざかろうとしている。
 男子の辿りついた先は袋小路だ。冷えていそうなコンクリート塀に背を当てている男子は、赤く染められた月光に照らされつつ、顔を守るように両手を交差した。か細い声で、男子は誰かの名前を呟いた。直後上がったのは、鎌であり、桜の花弁にも似た紅の飛沫。今の今まで頭のあった場所から黒く体液を吹き上げ、男子の首が皮一枚残して、横ざまに倒れて転がる。みるみるうちに広がる不吉な水たまりは足と頭部を喪った身体を徐々に浸していく。その状態を見て、本当に楽しそうに大声を立てて笑う。笑う。楽しむ。笑う――
 がばっとベッドから起き上がった。窓から射し込む白い光は太陽のものだと知っていたが、眼前に持ち上げた両手の平の汗をちらちらと光らせていた。
 パジャマ代わりのTシャツがじっとりと濡れて、背中に張り付いている。髪が顔にへばりつき、手でそれを払った。呼吸は自らが犬だと形容してもいいほど浅く速い。
 しばらく呆然と視線の先を眺めていたが、夢の内容に息を飲んで、唇を噛んだ。
 こういう夢ばかりを見る。自分の手首から外側に向けて生えた、あるはずのない両刃鎌が、どこか見覚えがある、それでいて思い出せない少年の首を落とす夢。
 頭を左右から掴んで、唸るように呟いた。
「……畜生」
 畜生、畜生、畜生……っ!

  *

 夕暮れの日差しが強かった。毒々しいくらいに朱塗りの雲は空の際に追いやられている。ブン太は目に流れ込みそうな汗をパワーリストで拭った。探し人を求めて一日住宅街や山を駆けまわったりした代償が汗なのかもしれない。それでも筋肉痛にはならないだろう。こういう所だけは今さらながら、三人の鬼才のスパルタには感謝だ。ただ汗はどうしてもべとついて気持が悪かった。ブン太は一度帰ってからTシャツを取り換え、自転車を飛ばした。橙色に染まったアスファルトがどんどん後ろへ流れていく。
 昨日の夕べは結局なにひとつ幸村におかしいことはなかった。新しく発売されたパイナップルオレンジ味のガムを買って戻ってくると、真田はもう帰ったと言われて、早く家に帰宅するよう指示された。そして今日になり、ブン太は一日、しい太の捜索に費やしたのだ。今までどんな理由でも使うのを躊躇っていたかまいたちの風になる能力は、やはり便利と言えば便利ではあったが、夕方になるまで決定的なしい太の行方は知れず、失意の念を残しながら神社へ向かう。
 自転車を近くの茂みに隠し、人の溢れかえる波に乗り、約束の鳥居へ向かう。歩道に隣接された緋色の鳥居は長く影を伸ばしているが、石段までは届かない。神社の規模に比べると参道は非常に長い。プールを縦に二つほど並べてもそっくり入るほどだ。長い参道では今、無数の露店がテントを並べて客を寄せている。わたあめ、りんごあめ、かき氷、チョコバナナ、くじ引き、射的……どれくらい遊んだり食べたりできるだろうと考えたとたんに唾液腺が緩んでくる。
 ジャッカルは鳥居に背中を預けながら、Gショックの時計を持っていた。その首筋でエスカプラーリオが夕暮れを弾いて光っている。その横でせわしなく話しかけているのがワカメ頭もとい赤也だ。
 いかにも暇そうな二人に合流すると、赤也が元気の有り余る犬のようにブン太とジャッカルを引っ張った。丸い砂を踏んで、ざりざりと音がした。
「ほらほらお二人さん、なんかゲームやりましょうよ!」
「ばっか。俺はジャッカルと甘いもの巡りすんだよ。なあ、ジャッカル。お前は俺と一緒に回ってくれるから祭りに来たんだよなぁ?」
 頼もしい後衛の顔を見上げると、ジャッカルは形の良い眉を困ったように下げる。
「回るって言っちゃあ回るけどよ、俺は今日、金は使えねえんだ。本当に回るだけだぞ。分かってるんだろうな、ブン太?」
「わーかってる。ほら行こうぜ、ジャッカル」
 ジャッカルの背を押しながら、赤也と目を合わせて親指を立てた。
 夕暮れは早い。吊られた提灯が点滅するかと思うとすぐに二列の破線が頭上で光り始める。南米の血が入って背の高いジャッカルのスキンヘッドに掠るか掠らないかという低さに吊り下げられた提灯が揺れている。風は夜桜を運んでいる。桃色を通り越して臙脂に近い桜吹雪が、昇り始めた赤っぽい上弦の月と異常なまでに強いコントラストを演出している。神社への石段に座り、ぼやあっとした闇の中で煙草をふかす大人や、焼きそばに食いつく子供もいた。
 長く連なった屋台とごった返す人並みとざわめきの間を縫うように歩き、りんごあめやわたあめを買った。たまにジャッカルがおごってくれた(赤也いわく「それ強制っしょ」。でもやめるつもりはない)。あらかたの食べ物系の露店を制覇し、さて今から焼きそばでも啜ろうかと三人は人ごみを離れて神社の石段に座った。時折神社へ段を上っていく人に道を開けながらふざけつつ食べていると、前方から見慣れた人影が近づいてきていることに気づいた。
「丸井。ジャッカル。赤也か。どうだ、祭りは?」
 柳生とも幸村とも違う穏やかさで柳は尋ねた。
 残暑の厳しい季節にしては珍しく長袖Tシャツにジーンズというラフな格好だ。いつも柳は祭りに来る時に和服を着ている場合が多いから、彼の私服を見ることが数か月ぶりであるかのような錯覚がある。
「楽しいに決まってんだろぃ。つーか、腹減った。なんかある? ガムとか」
「今お前の左手にあるのは焼きそばだと思うが、違うか?」
「これだけじゃあ、全っ然足らねえ」
「ってか丸井先輩、俺たち露店制覇してきたばっか……」
 赤也の顔が少しだけ驚愕の色に染まる。
「るっせぇな。食欲は人間の三大欲求のひとつだぜ。おいそれと手放したら餓死しちまうだろ。ジャッカル、これ食い終わったらもっかい露店見に行こうぜ」
 言うが早いか、ブン太は茶碗を傾けるようにして茶色い麺を口に押し込み、頬をぱんぱんにしてロクに噛まずにごっくりと飲み込んだ。
「いいけどよ、ちょっと電車の時間がやばいんだ。十分だけだぞ」
「そんだけありゃ充分。ほら行こうぜジャッカル!」
 ジャッカルを引っ張っていこうとすると、横あいから穏やかな声が尋ねた。
「そうだ、赤也。少し夜桜を見たい。神社まで付き合ってはくれないか」


 石段を登りながら数えると二百に少しだけ届かなかった。
 鳥居はそんなに大きいわけでもなく、特別な意匠が凝らされているわけでもない。直線の丸太が組み合わされて朱塗りされ、手首ほど太さの苔むした注連縄が吊り下げられているだけである。しかし目の前に立つと、神社の切妻屋根につくように赤い十三夜が夜空で一つだけ強い光を放っている光景が見えた。ただこうした祭りが大々的に行われることを考えると少し奇妙ではある。神社の規模としては明らかに小さいのだ。縦横奥行き、全てが四メートルあるかどうかだ。
 夜桜は人を寄せるのに充分のようで、石段からはちらほらと子供が上ってくる。境内に散った無数の桜はめまいがするほど濃く赤い。
「やっぱり綺麗っすよね。それにしてもどうしてこんなに鮮やかに咲くんすかね? もう秋なのに」
 伸びた枝を手のひらで支えて柳は穏やかに解説した。
「桜は一定期間低温に晒されてから温暖な気候になると開花の準備を始める。これを休眠打破という。ただ夏場の急激な乾燥への防御反応で葉が落ちたり、台風などの影響によって葉が一枚も無くなったりした場合には、開花の抑制物質が葉に供給されずに桜の狂い咲きが起こるそうだ。桜は春の季語だが、ここまで見事だと季節など関係ないように思える。赤也はどうだ」
「俺は祭りと花見ができりゃそれでオッケーっすよ」
「お前とブン太にとっては花より団子というわけか」
 赤也は駆けだすと、財布の中を探って五円玉を賽銭箱に投げた。触られすぎて表面がぼろぼろの太い縄を揺らして、子供の頭ぐらいはある鈴を鳴らした。二回手を打って頭を下げた。手を合わせた赤也は目をぎゅっとつむり、しばらく頭を上げなかった。柳もふっと笑って五円玉を賽銭箱に寄付し、二拝二拍手一拝する。
「『柳先輩、なーに願ったんすか』とお前は言う。違うか、赤也?」
「むっ」
 当たる確率は九十三パーセントであり、赤也が残りの七パーセントを選択する可能性は低い。どうやら当たったようだ。
「お前は次の全国大会で優勝することを願ったのだろう? お互いさまだ。俺も同じことを祈願した。叶うことが前提だがな」
「あったりまえっしょ! 先輩たちは高等部でインターハイ行って、優勝カップ持ってくるんっしょ? 俺も持って帰りますよ。勝つのは俺たち立海大。誰にもカップは渡さねぇ」
「頼もしいものだな。俺達の代で塗ってしまった泥を払拭してくれ、赤也」
「当然っすよ!」
 満面の笑みを浮かべて、赤也はハイタッチしようと手を上げ、途端に顔の色を失った。
 それと同時に右腕をひったくった。掴んだ赤也の手首にはいつもつけているパワーリストがない。立海大附属中学テニス部レギュラーは常に装着を義務付けられた重石で、特定の場合のみ外すことを許される。それは試合中に真田か幸村に命令された場合のみで、平時には外すことを許されていない品物だ。
 気まずくなるぐらいの沈黙の後、柳は手を離した。
「……聞きたいことがある。ついてこい」
 神社の裏にわだかまる闇に潜った。後ろからは足音がしない。早く来いと呼びかけると、思い出したようにスニーカーの足音が追ってきた。
 想像以上に暗い。足元さえ見えない。赤也の顔もぼんやりと見える程度だ。神社の裏にはこれといって不思議なものはなかった。せいぜい稲荷神の小型の石像くらいだ。赤也は気まずそうな無言のまま、ズボンのポケットに両手を差し込んだままだ。
 祭りの喧騒は遠く、桜を中心とした鎮守の杜に遮られてぼんやりとしたものになっている。森林特有の冷えた湿気っぽさが喉の奥を冷やして気持ちがいい。
「先にはっきりさせておこう、赤也。お前がパワーリストのことでお咎めを受けると思うのは筋違いだ」
「へっ? ってことは俺、お咎めなしってこと?」
 存外に驚かれてしまった。短く収めた返答に対し、赤也は大袈裟に息をついて胸を撫で下ろした。
「まず聞くぞ。お前がパワーリストを外している理由は単純に破損したから。違うか?」
「え? まあそうッスけど……それを聞いてどうすんすか?」
「気に病む必要はない。俺はただ事実の確認をしたいだけだ。続けるぞ。そのパワーリストは、お前が眠りから覚めた時には既に壊れて転がっている。これはどうだ?」
「当たっちゃいますけど、いったいなにを聞きたいんスか」
「最後に聞くから今は質問に答えるだけでいい。次の質問だ。そのパワーリストは刃物のようなもので縦に一閃されている。是か非か」
 生唾を飲んだ音が耳に届いた。
「やはりな。これでひとつ確信できた。赤也、そこを動くな」
 刹那、柳は赤也を神社の壁に突き飛ばし、肩を赤い板に押し付けた。赤也が「うお」と発する直前、その首筋には輝く刃があてがわれている。逃げられないように上半身で赤也をかびた板に、潰さんばかりの力を込めて押し付けた。少し低い所にある耳に唇を近づけ、声帯を震わせぬように、声を押し殺した。
「……浦山を殺したのは、お前か」
 赤也の拍動が一気に速度を増したことがシャツの布地越しに分かった。
 一瞬の間の後、赤也の声のボルテージが振り切れた。
「な、なんッスかその言いがかり! 俺はしい太なんて殺してない! ばかばかしい……とにかくこの鎌離して下さいよ」
「それは無理な相談だな、かまいたち」
 胸を手のひらで押されたが、逆に力を込めて壁に押し付ける。赤也は力技でもがいたが、その度に強く肺を押すので、酸欠のように赤也の呼吸が早まっていく。
 鎌の刃を頸に深く埋め込む。逃げることができないように。いくら赤也が痛いと訴えても、その度に強く刃で頸筋を圧迫した。
「殺害した記憶がない、そう弁明したいところだろうが、すまないな。こ最近の失踪事件を綜合的に見るのと、先祖を検証した結果、お前がかまいたちの末裔の一人だと判明した。それだけではない。先刻お前が柏手を打っている時に、両手首の外側に残る一筋の痣を見つけた。これが証拠だ。俺たちかまいたちは三人一組で行動する。その二番目は、理由こそ不明だが眠っている間に他人を殺傷する。手首から外側に向けて生える鎌によってな」
 ぎりぎりぎり、と鎌が頸に埋まっていく。刃は皮膚を押し切るような形で筋肉に一本の線を刻む。さして鋭くもないなまくらな輝きが、突き破った皮膚から生ぬるい液体を滲みださせる。現に肩を強く握っている柳の手は赤也の血液に染まり始めている。赤也にいくら体力があろうと、身長差が二十センチ近くあっては、いくらもがけど抜け出すのは容易ではない。
「痛い痛い痛い痛いっ! やめてください、柳先輩、俺は、」
「痛いようにやっているのが分からんか? お前を殺さねば、被害者が増加する。それを防ぐための、極めて現実的な処置だ」
 鎌に力を込めると、赤也の細い身体が苦悶にしなる。力も削られたらしく、壁と柳の間で弱々しい抵抗を繰り返すばかりである。
「覚悟を決めろ。さらばだ、赤也」
 もしこれが一秒遅ければ、赤也の頸は刎ねられて地に転がっていたかもしれない。柳が鎌に力を込めようと握りなおした瞬間、口の中に突如血の味が湧いたのは柳の方であった。鎌が腐葉土に音もなく刺さる。赤也の膝が崩折れ、柳は血の味を口の端から垂れ流したままその場でたたらを踏んだ。赤也は素手だ。手首からは鎌の一丁も生やしてはいない。
 どんなイレギュラー要素があった!? その時、背中を突いたなにかが腹の生地を破って突き出てきた。血と、引きずられた腸を絡ませているのは満開の桜の枝である。
 咳に血が絡んだ。黒い血が腐葉土に吐き出され、染みた。腹圧がかかった途端、傷口から小腸が溢れ出る。創傷を押さえた手のひらが体温と同じ腸管に直に触れた。膝を折ると、ほぼ同時に手の甲に熱い線が疾った。開いた傷口から新たに鮮血が流れ、手のひらを汚した。腸が腹の中で位置を変える不快感に襲われる。痛みが脈打ち、全身から血の気が引き、傷口から熱い血液が下肢へと零れる。
 赤い月にかかっていた叢雲が晴れた。風に花が舞い踊る。月光が照らし出したのは、手首から一メートルはある大鎌を生やし、中腰になったまま刃に付着した柳の血を舐める切原赤也――かまいたち――の姿であった。
 覚悟など決めてなるものか――落ちていた鎌をひったくり、渾身の力を込めて刃を振りかざした。二つの刃が火花を散らした。火の粉は、赤也の笑った赤目をくっきりと映し出す。しかし赤也は一度刃を交えた後、すぐに嘘のように消失した。
「赤……也……っ」
 血が溢れる。止まらない。誰か、赤也を止めてくれ。誰か、誰か……っ!
 ぐたりと自らの血の海に倒れた。微生物が八百万に棲む土と、生ぬるい血の匂いが頬につく。意識に急激に靄が広がる。手を伸ばした。その指に桜の枝が、血を吸うかのように伸びてきている。いや、本当に血を吸っているのだ。傷口から離れない桜は横倒しになった柳の創痍に枝を張り巡らせている。血管に木を生やしつつ、柳の意識が途絶える。桜の花びらが、ものも言わずに柳の背に振りかかる。


 少し遠くが静かになったのは錯覚だったのだろうか。しかし、顔を上げるとその静寂は波紋のように祭り全体に広がっていく。かき氷売りの少年は額の汗を拭って、沈黙の円の方向を見遣った。
「おやっさん、なんか静かになってるんすけど、いったいなんでしょうかね?」
 水玉模様の捩じり鉢巻きを額に巻き直しながら、頭一つ分高い親方に問いかけた。
「さあな。それよりも」
 売るとするか――という言葉を少年は幻視した。
 突如静寂を割って女の悲鳴が響き渡ったのだ。続いて、男や子供の叫びが夜空を割る。釣り下がっていた提灯が一度に消え、屋台に供給されていた電気まで消えた。少年は屋台から身を乗り出したが、露店と露店の間の歩道では何人かが踵を返し始めている。その幾人かに従うようにして、人波が一斉に歩道へと流れ始めた。遠くから戦々恐々とした雰囲気が伝わってくる。
「おやっさん、なんかちょっとやばくないすかね?」
 しかしその返答が親方から発されることは遂になかった。
 目の前の人波が、赤のインクをぶちまけたかのようになったからだ。鉄錆臭いインクを頭からかぶり、少年は光景を疑った。
 人が倒れていく。首と身体を分断されて、頭は様々な表情のまま転がっている。恐怖、混乱、苦笑いの末の無表情……そして少年の心理でまだ驚愕が勝っていた時、死屍を足蹴にした人影を見た。
 その殺人鬼の姿が、少年の網膜が映した最後の姿であった。

 五分とせぬうちに、参道は血の海になっていた。死屍累々となった参道で生ける者は、誰一人としていなかった。
 


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