月が赤い。行きいそぐ夏の風が、季節違いに桜の花びらを運んでくる。神社から駅まで、一キロもない道に入って数分も経っていなかった。電柱の下は円錐形に明るくなり、それが点々と連なっている。ライトの周囲で蛾や小さな虫が飛びまわり、蜂の羽音にも似た音が、電柱に近づくたびに大きくなる。耳に残る。ひぐらしも寝静まった後は、永劫にさえ感じられる静寂ばかりがしんしんとわだかまっている。
 ブン太とジャッカルの二人はつい数分前に祭りから離れ、闇へと続く街路を急いでいた。ジャッカルは学校には秘密のアルバイトをしているらしく、七時五十分までに駅に最寄駅についていなければならないらしい。前からジャッカルが奨学金を得て在学しているのは知っていたが、学校にアルバイトを隠してまで通っているとは思わなかった。進級感覚とはいえ内部受験が待ち構えているが、目下の心配は学費と生活費らしい。親がブラジル料理店に復職したのはいいが、やはりしばらくはまだ苦しい生活が続くそうだ。
「わりぃな、ブン太、駅までついてこさせちまって。祭り、先に戻っててもよかったんだぜ」
 隣の少し高い位置から落ち着いたテノールが話しかけた。ブン太は味のなくなったガムを膨らませる。
「遠まわしだなぁ。ストレートに赤也が心配だとか言えよ」
「心配ってほどじゃねぇけどよ、なにか仕出かしたら面倒なんだ」
「あいつなら大丈夫だろぃ。どうせ遊んでるし、猛獣使いの達人もいるんだからよ。むしろジャッカルをひとりにするのが心配なだけだっつーの」
「それは俺のセリフなんだがな」
 進む足を止めもせず、ジャッカルは剃った頭に手をやった。
「ブン太の気持ちも分かるけどな、俺も俺で心配なんだよ。しい太はまだ見つからないし、それでなくとも最近の失踪事件は多いだろ。いつ誰が被害に遭うかも分からない。もしお前まで消えたら、俺はどうすればいい。誰の背中を守ればいい」
「俺の背中。ずっと守ってりゃいいだろぃ。俺も、お前だけに背中を預けるって決めてるから。それでイーブンじゃん。問題無いだろ?」
「だから俺が言ってるのは、」
 続けようとして、ジャッカルは諦めたように口をつぐんだ。首に下げられた金色のエスカプラーリオの飾りを弄って、静かになったジャッカルはため息をひとつつくと、「とにかくどこにも行くなよ」とか細い声で呟いた。
「当ったり前だろ。あ、もしかしてお前、俺としい太の名前が似てるからってそんな心配してんのか? 杞憂だな、それ」
 笑顔を作って、昨日柳に言われた言葉をリサイクルした。けたけたと笑ってお茶を濁した。しかしジャッカルは立ち止まったまま動かない。うつむいている。
 固く握られた手を引き、「早くしねえと電車来るだろ。行こうぜ」と夜道へ一歩を踏み出し、
 頬に熱が疾った。
 歩む足が止まり、ブン太は顔に手を翳した。じわりと片頬に血液が集まり、一筋なにかが流れる。ぺたぺたと指先で熱の線に触れる。指紋にぬるぬるとした温かみが広がった。光の円錐に指先を晒すと、手のひらが赤い。ジャッカルが顔を覗き込んできて、「怪我したのか」と目を剥いた。そのまま待ってろと指示された。ジャッカルがポケットの中を漁り始め、紙くずや定期券や財布を出して、絆創膏がないと見るや奥底へ押し戻す。
 血に汚れた指が震えはじめた。まばたきを忘れた眼球が乾いて、ちりちりと針で刺すように痛みはじめる。嚥下することも忘れた生唾が舌の脇に溜まっていき、飲み下すと存外に大きな音が耳に届く。
 まさか、かまいたち……? いや、そんなわけはないだろ? まさか、違うよな……でも、
 同時に肩に衝撃が走り、視界の端に赤い飛沫が散った。炎の鞭を振るわれたかのような激痛が思考を漂白する。倒れるように膝を突いた。脂肪に達するまで裂かれた左肩に手をあてがうも、今度はばっくりと開いた傷口から泉のように血液が迸り出ていることに気づいた。ぼたぼたと腕を伝って液体がアスファルトを斑に染める。名前をなんども呼ばれた。名を呼ぶ声も苦鳴に潰される。ジャッカルまでも二の腕に左手を押し付けてうめいた。指の間から幾筋も漏れだす液体は赤い。
 有無を言わさずごつごつした手をひったくった。パッチワークされたアスファルトを蹴る。ジャッカルの足が遅くなったのを叱咤し、ブン太は闇雲に夜の住宅街を駆け抜けた。その間にも、ブン太の五体には無数の傷跡が次々と口を開き、血を流出させている。筋肉が蠕動する度に傷痍が引き攣れて、のたうちまわりたいほどの激痛が電気を直接流したように神経を刺激する。心臓の拍動に合わせて傷口から血が泉のように湧き出す。気道を塞ぐ前に、味気をなくして体温をしみこませたガムを路地の隅に吐き捨てた。
「走れジャッカル!」
 姿の見えない殺戮者――かまいたちの突然の襲撃に、ブン太は舌を打った。まさかこんなときに、ジャッカルがいるというのに、こんなところで遭うなんて! 住宅の角を出鱈目に曲がって殺戮者を撒こうとしても、風と人間では比較対象が違い過ぎる。ブン太もかまいたちではあるが、人を転ばせるだけの、極めて脆弱な力しかもたらされてはいなかった。人を持って走るほど力が強いわけではない。もし自分に腕力があれば、ジャッカルだけでもどこかに隠して、自分を囮にすることさえできたのに。だからといって単独行動をしてどちらか一方が助かろうものなら、かまいたちは風になる能力を持ったブン太よりも、一般人でしかないジャッカルを獲物にするに決まっている。もしそうなればジャッカルは無力だ。目の前で首を刎ねられかねない。どちらにせよ置いていくわけにはいかない。しかし一緒に走るだけでも結果は見えている。
 なんども背後を確認しながら、住宅街を駆け抜ける。その時に見た。塀の上に立ち、すぐに消えた人影。影法師は切りつけるたびにどこかでコンマ以下の秒数静止し、獲物が逃げるのをつぶさに観察しているようだった。趣味の悪いやつ、と吐き捨てる。
 右、左、左、右、左、右、右、左、Y字路を適当に曲がり、あまり見たことのない場所へと追い込まれていく。息が切れても走る。喉の奥が渇いて舌にへばりつく。既に完膚は無い。数十ヶ所に深浅関わらず創傷が口を開き、赤い血液を垂れ流している。服が血まみれで走りづらい。それは後ろで自分に従って走ってきてくれるジャッカルも同じだろう。せめて自らが死のうとジャッカルだけでも逃がさなければならない。
 もしジャッカルがいなくなったら、俺は誰の前に立てばいい? 誰に安心して背中を預ければいい? 不吉な考えがよぎって、ブン太は思考を振り切るように足を動かした。
 その時、突如目前にコンクリートの塀が立ち塞がった。袋小路、袋のネズミ、この状態を表せる、似たような言葉なんていくらでもあるだろう。歯の奥がぎりりと軋る。
「畜生、こんなときに……っ!」
 ジャッカルを奥に突き飛ばし、ブン太は殺戮者に向き直った。呉藍の十三夜を背に負い、かまいたちは一歩一歩、歩みを進めてくる。背水の陣。生唾を飲み込む音がいやに大きく聞こえた。
「お前、なんだよ」
 返事はない。武者震いする足が情けない。拳を石よりも固く結び、腹の奥から叫んだ。
「俺たちから離れろ。少なくてもジャッカルにだけは手を出すな! もしジャッカルに手ぇ出したら俺はお前を許さねぇ。かまいたち、お前が誰かについてはもう調べがついてんだよ」
 もちろんはったりだ。歯の裏に溜まった生唾を飲み下す。
「もしジャッカルに手ぇ出して見ろ、そんときゃお前のその細首掻っ切って、」
「できるもんならやってみなよ、天才さん」
 初めて口を利いたかまいたちの唇が鎌のように吊り上がる。不遜な声が突如、ブン太の海馬から或る人間の記憶を引きずりだした。その名を呼ばずにはいられぬほど。
「その声、もしかしてお前、赤――」
 その言葉を最後まで言い終えることが今のブン太には果たしてできたのだろうか。
 一陣の風がブン太を中心に渦を巻いた瞬間、全身の皮膚から無数の傷が口を開いた。ちょうど喉仏の真上、顎と首の付け根でブン太の首が横一文字にぱっくりと割れた。頸動脈どころか食道まで達しない深さの皮膚の谷が、熱い渓流を迸らせ始める。喉を押さえたはずの手のひらが口へ向かい、吐き出された激しい咳に大量の赤が混じった。肺の中に空気がなくなるような咳に、身体が折れ曲がる。疾風の速さで迫った鎌がブン太の声帯だけを切断したのだ。声帯は気管と直結しているため、溢れだした血液が気道を塞ぐ。生臭い鉄錆の味に吐き気を覚えて吐瀉するも、喉の奥から逆流する液体は止まらない。たちまち両手が臙脂に染まる。痛みに視界が滲む。酸素が足りない、いきができない……
 喉と口を押さえたまま血だまりにひざまずくような体勢になった無力なかまいたちに向けて、大鎌が死神のように掲げられた。しかしその刹那、背後からなにか大きなものが投じられ、目の前にいたかまいたちがまともに食らって「畜生」と呻いた。夜闇を割って頑丈な金属の音が轟いた。四角い金属の網は、道路横のクリークにはめられているコンクリート製の蓋の間、数個置きに設置されていたものだ。一瞬の隙を突き、ジャッカルがブン太の前にしゃがんで「おぶされ」と促した。咳をしながら血に滲んだ背中に倒れこむと、ジャッカルはすっくと立ち上がって襲撃者を透破抜き、そのまま駆けだした。
 汗と血で濡れた背中に揺られながらもジャッカルは足を引きずっている。傷は深いのだ。嘔吐するような咳になんどもえずき、幾度も喉の奥へ押し込める。なんどもずり落ちかける度にジャッカルのごつごつした腕が引っ張り上げる。酸欠に思考が飛びそうになる。ナマス切りになった全身の皮膚が、痛みと熱の他にもうひとつ、ジャッカルの背中を感じた。
 なあ、この背中は誰のだよ。ジャッカルのだよな……?
 テニスの試合の時、いつも頼りにしていた後衛の背の記憶は、ブン太にはあまりない。それはいつもブン太が前にいて、後衛の背中を見る機会なんてほとんどなかったからだ。歩く時はいつも横か、自分が少し前にいた。背中を預けていたのは、こちらの方だったのに。それなのにこの背中がとても、頼れるとは思っていなかった。
 でもさ、俺はお前の前衛だろ? 前衛が後ろにいちゃ、なんにもならねえじゃねえかよ。どうして俺はいまここに、ジャッカルの後ろにいるんだろう。前にいるべきは俺なのに。なあジャッカル。お前はこんなやつに背中を預けて、安心できるのか? こんな無力な前衛を。こんなに使えない前衛を。
 酸欠の苦しさに咳も次第に弱くなってくる。視界にかかった白い霞が意識まで覆い尽くしていく。全身が切り傷の痛みに疼き、叫びだしそうなほど苦しい。涙が出て血と混じった。それなのにジャッカルは文句ひとつ、不平ひとつ、苦しさのひとつも口にせず、ただかまいたちから逃げ回っている。
 血に染まった手が、ふと首筋のアクセサリーに触れた。いや、これは違う……ジャッカルの故郷のお守り、エスカプラーリオ。輪の両端にふたつのお守りがついていて、首にかけた際に前後にひとつずつ配置され、前も後ろも護ってくれるというものだ。祖母からもらったというブラジルのお守りである。
 ああ、とブン太は思った。
 これがあったから、ジャッカルはブン太が前衛の時は後ろを守ってもらっていたのか。そして今はこれが、ジャッカルの前方を守護してくれる。
「ブン太、待ってろ、すぐに病院に連れてく」
 そう言うなよ。
「あいつは俺が撒く。だからお前はあいつの姿を覚えろ。後で俺の代わりに追及するんだぞ」
 俺の代わりに?
 ジャッカルの代わりなんて、どこにいると思ってるんだよ。こんなへたれがジャッカルのように頼れるやつの代わりを果たせると思っているのかよ。だとしたら大間違いだ。
 そう反論したくても、声が出なければ意味がなかった。首を振ってもジャッカルには見えない。
 背を叩いた。力は入らなかった。その反応に対し「頼むぞ」と声が笑った、気がした。
 しかしその瞬間、ジャッカルの足が止まった。霞む視界でも、袋小路に追い込まれていたことははっきりと分かる。湿気た空気が夜に冷やされてカエルのような生臭さが漂っている。
 切り割られた耳朶をジャッカルの背中に預けたら声帯の動きまでが殊更はっきりとした。切れた呼吸の音が鼓膜まで届く。滲む汗と血が、走りまわって高くなった体温によって温められている。
「かまいたち、お前はなんだ。どうして俺達を狙うんだ。答えろ!」
 沈黙の後、かまいたちの黒い影は「言えねぇな」とだけ答えた。「そこをどけ」「断る」などと言い合いが続き、ジャッカルは遂にこう言った。
「俺はどうなってもいい。だからブン太だけでも、これ以上の危害は加えるな!」
 その言葉にブン太は目を剥いた。ジャッカルの背中を拳で叩く度に血の跡がTシャツを更に赤く染める。首を横に振ったが、ジャッカルに聞こえるわけもない。
 どうしてそんなことを言う、助けるのは俺の方だろぃ?
 ジャッカルとかまいたちはまたしばらく言葉を交わし合っていたが、投げられる言葉のひとつひとつが決して友好的なものではないことは容易に察しがついた。酸欠と痛みが世界を濃白色に染めていく中で、ジャッカルと自らの血液が異様に強く映えていた。意識が遠くなっていく。身体の末端まで神経が繋がっていないかのように、全身がゆっくりと自由を失っていく。指先が温度を夜気に吸われていくのがリアルに感じる。動かなくなりつつある指で、エスカプラーリオを握った。まぶたが重い。眠い。
 そのときだった。空気を切り裂く不吉な音の直後、足元に、ごとっ、と質量のあるものが落ちた。次の瞬間ジャッカルの膝が崩れた。頭皮で遮られていたはずの視界が一挙に開ける。百七十八センチの長身がたたらを踏むこともなく後ろに傾ぎ、ブン太を自らの背中と塀の間に押し付けるように倒れた。後頭部をもろにコンクリートにぶつけ、ブン太は朦朧と広い肩を探った。
 ジャッカル……?
 相方の身になにが起きたかを意識する前に、顔に生ぬるい液体が飛び散った。それは色のついた噴水だった。首があった場所には、血の噴水しかなかった。ぐったりと倒れかかるジャッカルの身体は、重くて、苦しくて、痛くて。首の切断面から溢れる血液がブン太の身体ごとじっとりと濡らした。エスカプラーリオの鎖が肉の断面からずるずるずるとずれて、血にまみれたまま指に絡みついた。
 なんだよ、これ。たちの悪いスプラッタ映画の撮影なんだよな? なあそうなんだろ? ジャッカル、答えろって。まだ、ほら、まだこんなにあたたかいんだ。ジャッカルはこんなところで死ぬタマじゃないの、誰よりも知ってんだから。なあ、なんとか言えよ。ジャッカル……ジャッカ、ル?
 しかしこの量の血液は? 全身をくまなく濡らして、徐々に噴き上がる速度のゆるやかになる赤い噴水が意味しているものは、ただのひとつしかない。
 首から上がなくなった痩躯を揺すると、なんの抵抗もなく横にぐんにゃりと転がった。断面から白い頸椎が見えた。血だまりに浸った身体がなおも不吉な血だまりを広げていく。背中を揺する。揺する。揺する。
 ――反応が、ない。
 名を呼んだ。声が出ない。どうして。どうして。
 力が入らない。折り重なるように倒れ、背中を抱きしめた。涙腺から涙が後から後から湧いて出て、目尻から血へと伝った。
 いかないでよ。いくなよ。おれをおいていくなよ。なあ、ジャッカル……
 そのとき、ぬっと月明かりに逆光となって、かまいたちの足が立ち塞がった。ブン太の手が押しのけられる。しかしブン太はその腕に噛みついた。ジャッカルは誰にも渡さない、そう思って顎に強く力を込めた。かまいたちは獣じみた叫びをあげて歯から逃れようとブン太の頭を殴って、叩いて、爪先をブン太の腹になんかいも蹴り込んで、そうして振り払った。
 なにもなかったかのように首を失ったジャッカルを抱え、人の頭ぐらいある塊をサッカーボールのように脇に抱えると、一陣の風となった。どこから湧いたのか花吹雪が渦を巻いて散った。
 かまいたちも、襲われたジャッカルも、どこにもいない。ただ血だまりが延々と広がっているかのようにも見えた。叫べない。縋れない。
 世界が白くなる。途方もない睡魔が全身をくまなく浸し、ずんと身体が重くなる。
「(ジャッカル、ジャッカル、ジャッカル……っ)」
 俺の前から、離れるんじゃねえよ。
 その言葉さえ、切断された声帯から漏れることはなかった。己の不甲斐なさが、ジャッカルを死地に追い込んだ。途方もない罪悪感が心臓を鷲掴みにする。もっとしっかりしていれば、喉さえ切られなければ、最初にかまいたちを振り切っていれさえすれば、ジャッカルはこうして首を失うことはなかったはずなのに。
 意識の糸が、途切れる。地獄絵図と化した袋小路ではエスカプラーリオだけがブン太の指に、お前だけでも護るとでもいうように絡みついていた。


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