エタノールが香る病院の空気に、柳生は水蒸気混じりの息をついた。
「このことを丸井君に伝えることはあまりお勧めできません。今の彼にはあまりにもショックが大きすぎます。この話は、彼が精神的にも肉体的にも回復してからにした方がいいんじゃないですか?」
 その提案は道理にかなっているとしか言えなかった。ベッドに腰かけたままの幸村を中心とした小さな円陣を形作る真田、柳生、赤也がみんなして視線を床に下ろした。
 昨夜午後七時四十五分頃、駅へと向かっていた丸井ブン太が何者かに全身四十七ヶ所を切りつけられ、一時は出血によるショック症状と、呼吸停止に陥るほどの重傷を負った。連れ立って歩いていたはずのジャッカル桑原は失踪し、現在捜索中。ほぼ同時刻に、祭りに来ていた老若男女合わせて四百十六名が、屋台だけを残して全員跡形もなく失踪したと神社近くの民家から通報があった。住民の騒ぎように警察が出動したところ、実際に四百十六名の行方が掴めていないという。
 赤也は「いったいなにがあったんだよ」と呟いたきり口ごもり、唇を噛んでいる。その首、額、両腕には包帯が巻かれ、見るだに痛々しかった。
 現在、ブン太は金井総合病院に収容され、幸村の隣室にいる。小声で話している上に絶対安静なので聞かれる可能性は少ないながらも、やはり全員の声はいつにも増してトーンを落としていた。ベッドに腰かけた幸村が、細い指を組んでうつむいた。
 時刻はまだ正午を回っていなかった。昨夜発生した集団失踪事件と、ブン太を襲撃した暫定的通り魔、そして神社裏で発見された同校生徒の遺体発見の事実を通達し、そのまま大事を取って生徒は全員集団下校という措置が取られ、それに付随して一週間の臨時休校が通達された。学校では午後一時から海友会館一階大教室で警察を交えた説明会が行われるため、部活をしなければならない生徒がお払い箱になったという現状もある。
「そのうえ柳までが遺体で見つかったなんてね……」
「うむ。ただおかしな点があってな。警視庁に勤務している父に話を聞いたのだが、蓮二の死に方がいささか異様だったときいた。聞きだすことは、本来は守秘義務に違反するので言うのは気が引けるのだが」
「異様とは?」
 真田は再び「うむ」と唸り、極めて低い声で報告する。
「直接の死因は背後から腹部にかけて、先の鈍いもので貫かれた傷らしい。体内に桜の花弁や木片が残っていたことから、凶器は桜の枝だろう。犯人は枝を折るなりなんなりして背後から蓮二を刺殺したとの見立てだ。腹部大動脈を突き破ったほどの力と凶器から推察しても、成人男性でもそんな怪力を出すのは難しいと考えられる。そのうえ奇妙な事に血液が一滴たりとて残っていなかったそうだ。乾燥して、ほとんど木乃伊のようだったともな」
「ミイラ!?」と赤也は目を剥いた。
「うっそ、俺昨日柳先輩に会ってきたんッスよ。あんだけピンピンしてたのに、そんな一晩でカラッカラになるもんなんスか?」
「だからおかしいと言っているのだ。人間一人が木乃伊になるには自然条件下では三ヶ月かかる。それは乾燥した気候にある場合だ。蓮二が発見されたのは神社の裏、満開の桜の根元の腐葉土から上半身が地上に這いでていたらしい。仮に木乃伊になったとして、真っ先に腐敗するのは内臓だが、傷口から脱出していた腸に僅かの腐敗が見られるだけだった。そしてもうひとつ、生活反応のない傷だったが背中が割られ、体積が半分ほどになっていた」
 赤也が腕を組んで、難しい顔をしながらふくろうのように首をかしげた。その様子を見て柳生はミイラ作成についての簡単な解説を付け加えた。その説明を聞いて赤也はさらに頭を傾げたが、真田は困ったように一瞥しただけだ。
「つまり、蓮二は極短時間で血液と水分、そして内臓をあらかた抜かれたとしか考えられん」
「怨恨……でしょうか」
「分からん。しかし、蓮二が恨みを買うような真似をする男とは到底思えないがな」
「でも人間ってよく分かんないっすよ。もしかしたら柳先輩も、なぁんか人に言えないようなことしてたのかも」
「冗談とはいえ口を慎みたまえ、切原君。不謹慎にも程がありますよ」
 指摘されて肩を落とした赤也から視線を幸村に送り、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「とにかく私達は今から丸井君を見舞いに行きます。幸村君もどうですか」
「もちろん行くよ。面会謝絶の札はもう取り外されたみたいだから入っても大丈夫そうだよ」
 いち早く動いた真田を先頭に廊下を出て、502号室と様の文字の間に手書きされた文字が「丸井ブン太」であることを確認して中にぞろぞろと入った。染められた頭がドアを振り向くことはなかった。
 まともにものが置かれていない病室には、弟が置いて行ったものと思われる作りかけのプラモデルや、封も開けられていないガムが二、三本棚の上に置かれているだけだった。柳生が簡単に挨拶してフルーツの詰まったバスケットを棚に上げたが、上半身を起こして背を丸めているブン太は、一言も話さないばかりか目線を動かすことすらしなかった。左頬には大きなガーゼが貼られ、額には包帯。腕から足まで包帯やギプスで固定されて座るだけの人形がそこにいた。
 柳生がベッド横に膝をついてブン太の手を取ってみたが、一切の反応を示さない。肩をそっと揺らすと、きっ、と手負いの雀のように鋭く睨まれ、手を振り払われた。唇が小さく動いたが声が出ることはなかった。ブン太はまた首の角度や目線を定位置に戻して、大理石のように表情を消し、彫刻そっくりに動かなくなる。頬も白く色が抜け、半分眠っているかのような位置にあるまぶたをかすかに動かす。これで漆黒のドレスを着せたらそれなりの原寸大ビスクドールと呼称してもおかしくはなかった。
 それきり静寂に包まれた病室の空気に遠慮するように、幸村が呟いた。
「……彼はもう話せないよ」
 ――気管を横一文字にすっぱりと切られたんだって。ただそれ以外はまだよく分からないんだ。長時間の酸欠か大量出血によって脳に酸素が行きわたらず脳機能に障害が残った低酸素脳症にかかっているのか、それとも単に精神的ショックによるものかは医者にはまだ判断がつかないみたい。なにしろ声を出すこともできなければ鉛筆を握られるぐらい怪我が浅いわけでもない。首を上下左右に振ろうものなら傷が開く。現在の意思疎通は極めて困難であり不可能に近い。本来ならベッドに寝転ばせて、床ずれしないようにまめな体位変換をすべきなんだけど、ブン太は人に身体を移動させられることを拒んでいる。誰がやってもこんな感じ。無理に動かそうものならますます抵抗するだけなんだ。好きなガムにさえ手を付けてない。栄養失調になる可能性もあるけど腕を動かそうとしたら傷口が開くのも厭わず振り払うから、看護師もけっこう手を焼いていたよ。なにがブン太をこうしたのかは分からない。だけど、このままの状況が長く続けば柳と同じ結末を辿るかもしれないね――
 穏やかな、それでいて沈んだ声を押し殺すように解説されて、総員が口をつぐんだ。
「まるで、翼ももがれた舌切雀……」
 幸村の誰に言うともなしの独白が、空気に染みたとたんに霧散する。

  *

 太陽が急ぎ過ぎたのかもしれない。一日中、腹が不思議なほどに鳴らなかった。いつもガムを噛んでいた習慣をすっかり忘れていたが口寂しくはない。テニスとかゲームとかでめいっぱい楽しみたい欲求も湧いてこない。眠気もまったくない代わりに、景色が全てぼんやりとして見える。カーテンが開けられていて、遥か遠くの摩天楼に齧られた月が赤い光を投げかけている。ぼんやりと眺めているうちに、月が地平線から離れて空中に止まった。少しずつ動いてはいるのだが、まったくそんな感覚がしない。時の流れがめちゃくちゃになったかのような不思議な時間感覚が思考の糸を絡ませる。
 誰に触られようとも決して離さなかったエスカプラーリオを、再び握りしめた。汗に濡れて、体温を吸って、手のひらには跡が刻まれて、それでも絶対にこの手から離さないように指に絡ませた。
 終日人が病室に入ったり出たりした。誰かがごちゃごちゃ話していたけれど、そのどれにもとんと興味が湧かなかった。聞こえて理解していたが、それに反応するような億劫なことはできなかった。
 罪悪感がひもすがら魂に敷き詰められて、どこにも休む余地なんてなかった。
 ――ジャッカルを殺したのは、俺だ。
 祭りに誘ったのも、神隠し事件が多発しているのにも関わらず夜道を歩かせたこと、かまいたちを振りきれなかったのも、喉を切られて身動きできなくなったときも、ジャッカルに負ぶわれて元来の俊足を鈍らせて格好の餌食になったことも、守ろうとして守られたことも、目の前にいたのにみすみす首をかき切られたことも、全て、全て、全て。
 俺の、所為だ。
 もっとしっかりしていれば、もっと判断力があれば、もっと強くなっていれば、もっと風のように迅ければ、ジャッカルは死ななかった。
 まだ生々しく脳裏に紅の記憶が黄泉がえる。手を開くとぬるつく生暖かさが、息を吸うと鉄の強い生臭さが、血を吐いた生命の味が、そして生きていたジャッカルの声が、体温が、背中が、これまでにないほど鮮明に五感を覆い尽くす。その度にブン太の精神は軋んで、ひびが張り巡らされて、粉のように砕けてすり下ろされ、風に吹かれて消えていく。幼稚園にひとり残される幼児のように声を上げて泣きたかった。ジャッカルの名を叫んで名前にすがりたかった。声を呑むしかできないこの喉で。
 それでもジャッカルはもうこの世にいない。目の前でいなくなってしまったことで初めて大切さに気付くなんて、ばかだ。失う前に気付けない。みんな、知らないうちにどこかへいってしまう。
 ジャッカルがいたから毎日が楽しかった。ボケると必ず突っ込んでくれた。なんだかんだ言っていつも暴走しがちな俺達のストッパーになってくれた。ジャッカルが一日風邪を引くなりして部活に来ないだけでいらいらして、どうでもいいミスが増えた。それは他のメンバーが休んだときよりも、ジャッカルの休んだ日が特に顕著だった。背中を守ってくれているだけでこれまでにないほどの安心に包まれて、少しくらい危険な賭けにも果敢に突っ込めていけた。
 ジャッカルがいただけで笑っていられたのに。ジャッカルの笑う声を聞いていたいだけだったのに。ずっと、背中にいてほしかった。取り戻したくてどんなに手を伸ばしても、脳裏に浮かぶ幻は頬に涙の一筋を描きながら風に紛れてかき消える。笑顔なのに、泣いている顔に、届いているはずなのに、掴めない――
 エスカプラーリオをいだき、胸の中にジャッカルの名を唱えた。なんども反芻するが、戻ってくるものはない。「ブン太」と、穏やかなテノールで呼んでほしい。
 戻ってきて、戻ってきて、戻ってきて。
「(でなければ、俺は……)」
 ブン太は窓を見上げた。窓の外にのみ救いがあるような考えに囚われた。鳥は朝方には鳴き、飛び立つ。翼をもがれ、声も出せぬ鳥のように空に飛び立ち、亡きものとなれば、あわよくばジャッカルと会えるかもしれない。確実に会えるという保証はないが、会えない保証もない。ただまともに動くこともできないこの身では、巣立つ雛にさえなれないのだ。
 赤い月はもう高いところへ昇り、窓の桟にくっつきそうなほどだった。夜に慣れ過ぎた目は月も太陽のように強く、目を細めねば、手を翳さねば夜空を見ることができない。包帯で分厚く固められて丸まっちくなった右腕の影から切り取られた月の弧を見る。
「ブン太」
 気配の皆無だった病室に、突如声が現れた。少しだけ低い声。そして昨日まで、まるで兄弟のように背中で聞いていた、もう聞けなくなったはずの声。
 まさか……会いに来てくれた?
 ブン太は首の傷が開くのも構わず振り返ると、白いワイシャツを着た制服姿の人間の影があった。地肌が濃いからか、口から上が闇に食われ紛れる。その代わりのようにスラックスの裾は月明かりを浴びて、向こう側に濃い影を伸ばしていた。服だけが夜にも関わらず映えている。
 その人影は極めて静かに、幽霊のようにブン太のベッドに近づくと、ろくに動けないブン太の背中に回った。
 背中に張り付いた体温から腕が伸ばされる。その手のひらを指に絡ませた。昨日引いた手と同じ、ごつごつした指だった。生きた人間の体重がずっしりと背中にかかる。耳元の唇が声帯を震わせない無声音で、ブン太の耳にだけ届くように囁きかけた。
「やっと、見つけたぜ、ブン太」
 安息を与えてくれる声が、名前を呼んでほしいという先刻のささやかな願いを叶えた。
「なんとか言えよ、せっかく会いにきたのに。まさか俺を忘れているわけないだろ」
 分からないわけがない。この声は、昨夜かまいたちに襲撃されて首を刎ねられ死んだ、ジャッカル桑原そのものだった。
 答えようとしたが、声が出ずに喉を押さえてうつむいた。ジャッカルは沈黙の後突然気付いたように「すまねぇ」とだけ呟いて、ブン太に回す腕の力を強くした。生きた人間の体温と心臓の鼓動が今はただ記憶の水底を浚った。
 ジャッカルが背中にいる。後ろの拍動が定期的に背中を叩く心地よいリズムが、漣立っていた精神を子守唄のように鎮めていく。時計の秒針よりもずっと優しくて、十何時間も動かずに座っていた布団の中途半端なぬくもりよりもあたたかい。
 やはりジャッカルの首が刎ねられたのは幻覚だったのだ。こんなにあたたかいのに、こんなに優しいのに、こんなに柔らかいのに、ジャッカルが死んでいるわけがない。昨日の夜は夢を見ていたのだ。たちの悪い夢だ。それは祭りの帰途でかまいたちに遭って、ジャッカルが死ぬという、どんな残酷劇にもありうる陳腐なシナリオだ。本当はただの通り魔に遭って、全身を切りつけられただけだ。かまいたちの姿はまぼろしで、ジャッカルはその場にいなくて、こうして生きている。
 もう一度、戻りたかった。
 楽しかった時に。ジャッカルとテニスをすることができていた日々に。
「あのな、希望を壊すようなこと言うかもしれないが……お前がどう思おうと俺は、たぶん死んでる」
 うそつけ。なんでそんなこと言うんだよ。そう口を動かすと、声が聞こえているかのようにジャッカルは続けた。
「昨日の夜、俺はかまいたちに首を落とされた。でも今俺がここにいるのは、夜の間、魂だけ戻るのを許されたからだ。だから朝になったらお前のもとからいなくならなきゃならない。分かるか」
 首をぶんぶんと横に振った。せっかく会えたのにまた別れねばならないつらさは、心臓が万力にかけられるようだ。
 頭をくしゃっと撫でられる。ジャッカルの正面に回ろうとしたが、じっとしろと言われてもがくのをやめた。
「人間の魂の行方って、知ってるか?」
 痛みも構わず首をゆっくりと横に振る。傷口がひきつれて首の包帯が血に湿っぽくなっていた。ジャッカルは、イエスなら一回、ノーなら二回、疑問があるなら三回手を握れと指示し、ブン太は骨ばった手に重ねた指に三回、ゆっくりと力をこめた。ジャッカルの首が傾き、説明が続いた。
「魂は六道という世界を輪廻する。生前の業罪によって、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つに分けられる。天道は俗に言う天国で、人間道は人間に転生する場合だ。修羅道は争いの続く世界。畜生道は牛や犬になって、餓鬼道ではなにも食えずに空腹に苦しむ。そして地獄だ。俺がどこに堕ちるかは分からないが、地獄であっても構わないと思ってる」
 そんなわけない、とブン太は手を二回握った。
「でもな、やっぱりどこの世界に行っても、お前がいなきゃ俺の居場所がないんだよ。だからブン太、ひとつ提案があるんだ」
 なぜ? 三回。
 しばしの沈黙の後、ジャッカルはふっと笑って、声を落とした。耳元で低い声がささやいた。

「俺達で、死の世界でも生の世界でもない、夢の世界を作ろう」

 世界が、止まった。
「いろいろ省略しないと全て話し終わることはできないんだけどよ、神社の桜は樹木子っていう吸血桜だ。柳はそれに殺された。でもそれは悪いことじゃない。むしろ新しい世界を作るのに好都合な人身御供だ。あいつは自分をかまいたちだと言っているが、真っ赤な嘘だ。あいつは死神だ。死神は、鎌で魂を刈り取る死の象徴だが、同時に再生を司る。かまいたちの三番目も同じだ。鎌を用いて、薬で再生を促す」
 ごく、と生唾を飲んだ。心臓が孵化直前の蛇の卵のように奇妙にのたうった。
「本音言っちまえば、柳が死んで、お前と会う可能性がなくなってホッとした。おっと、ヒロシに聞かれたら不謹慎だって怒られそうだな。ただ、昨夜柳が赤也を殺そうとした。理由はかまいたちだったから、というだけの理由だ。かまいたちだって理由だけで狙われたんだから、お前も下手すれば柳に殺されていたかもしれない。怪我はしてるけど、お前が生きていてくれて、心の底から安心したぜ」
 はは、とジャッカルは笑った。ばーか、と口を動かした。死んだ柳にはとんと興味が湧かなかった自分は薄情者に思えるがどうせ当たりだ。ジャッカルが帰ってきてくれた。そしてまたこれからも過ごせるかもしれない可能性を促してくれている。
「話を本筋に戻すぞ。夢の世界を作るために、協力してもらいたいことがある。かまいたちの二番目、つまり赤也と手を組め。あいつは気付いていないだろうが、無意識によみがえるかまいたちの血が、夢への扉を開こうとしている。最近の連続神隠しは、全て赤也が人身御供を連れてきて、桜に血液――命の水――を吸わせていることによって発生していることだ。昔の人間は、血が出ると死ぬと考え、血こそが命だと考えた。最初は酸素や栄養素を運ぶだけの液体だったものが、昔の人間が信じたことによって魂そのものになっているんだよ。
 人間は夢を見る。夢を考えるのは魂だ。その魂は夢を現実に変える力を持つ。たとえは少しずれているかもしれないが、聖書にある奇跡とかと同じようなものだと考えてくれればいい。魂を大量に吸った桜を従えてしまえば、俺とお前が住める夢の世界を創造することができるんだよ」
 反対する余地など、どこにもなかった。たとえどんなに人が死んでも、ジャッカルと自分だけの存在が世界の全てのように思えてきたのだから。どんなことでもしようとさえ思えた。ジャッカルと、自らの居場所を作るためならば、たとえかまいたちと結託して共犯者に、夢の世界の狂信者になっても構わないとさえ思った。ジャッカルの言う新たな世界を作れた暁には、花を摘んでこれから屠る数多の命への献花としよう。奈 落ジゴクの花束を、奈 落narakaの礎となった生命の地へ抛るのだ。
 今背中にいるジャッカルは、人間をたくさん殺めることによって世界を創造することを褒めてくれるだろうか? 微笑みかけてくれるだろうか? 今から手のひらを染める紅が、殺人の痛みを塗りつぶし罪の贖いに変ずるときを夢見て、深い法悦に吐息が火照った。
 いろいろありすぎて疲れたのか、それともいとしい相棒のために狂ったのか、どっちでもよかった。
 いや、違う。

「(狂ったのは、ジャッカルを屠った世界そのものだ)」
 憎しみよりも強い嬉しみに、唇の端がつり上がった。

 なあ、ジャッカルは喜んでくれるよな? 喜んで、笑顔でいてくれるよな?
 累々と積もる死屍の頂上で、ふたつの花束を捧げるんだ。ひとつはお前のための花束。もうひとつは、世界の礎となる屍への桜を。
 お前は、笑顔で花束を受け取ってくれるよな――?


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