※BL注意

 じゃあまたの柳生、と空々しく、白々しく手を振った仁王に向け、柳生はキッと眼鏡の奥から切りつけるような視線を投げた。噛みしめた奥歯が軋り、無我夢中で石を土ごと掴んで仁王に投げた。投げられた本人は土まみれの小石を手で弾き落とすと、背中を向けつつ去って行った。振られた手は瓢軽に過ぎた。
「も、もう二度と私の前に現れないでください!」
 柳生の叫びに仁王はなにも答えずに路地の角を曲がっていく。銀髪の後ろ姿を精一杯の虚勢で睨みつけたものの、すぐに怒気以上の羞恥と悔恨に目の前が滲んでくる。振りあげかけた手を下ろし、その場に膝をついた。そして外された制服のボタンを、悔しさと共に再び留め始めた。ワイシャツの背中は泥や草の色素に汚れているだろうし、スラックスには染みが白くこびりついていた。手首には首から外されたネクタイで縛られた跡がうっすらと残っている。口の奥に生臭い苦みが残っていて唾を吐きたかったが、公園に唾を吐くことが倫理に反するような気がして、仁王に物色された買い物袋の中身からティッシュを探し出してそれに吐いた。しゃっくりを噛み殺して、涙を流さぬように堪えた。
 秘密の趣味を盾に仁王にある行為を強要されるようになったのはここ最近のことだった。ブロマイド一枚で脅迫されて、関東大会決勝で入れ替わり作戦を強制されたことがある。そのときはまだ許せる範囲の強要ではあったが、ここ一週間はまた違うことを無理強いされていた。男性同士の性行為、男色である。
 もちろん柳生にはそんな趣味は毛頭ない。しかし仁王はその気でもあるのか、暇さえ見つければ柳生を人の目のつかない場所へと連れ込んだ。最近できるだけ仁王と遭遇することのないように行動していたつもりだが、待ち伏せでもされていたのか、必要なものを買いにコンビニへ行った帰りに見つかった。自然の多い公園に連れ込まれた。その後は思い出すだけで吐き気がする。本来なら強制猥褻罪が適用されるはずであったが、最近ナイトホスピタルを経営し始めて夜家にいないほど忙しい親に言うのも、内容を含めてためらわれた。警察に訴えてみることも考えたが、真田の祖父や父に聞かれる可能性があり、なんとなく気まずくなり結局言い出せずにいた。親告罪であるがゆえに被害を受けた柳生が言いださずにいるとずっと仁王の行為は黙認されるものとなる。それにもし訴えたとしても、柳生は男性であるがゆえに仁王を強姦罪で起訴することはできない。そのうえ、警察に事情聴取される場合や法廷陳述では被害すべてを洗いざらい供述せねばならない。衆人環視の前で、だ。そのようなことは、やはりできるわけがなかった。
 そして最悪の事態も起きた。昨夜の集団失踪事件で外出することが御法度になっていて人通りが少ないとはいえ、屋外で柳生を姦淫したのだ。
 芝生の上にばらまかれた食材を拾った。薄いビニールが指に食い込んで痛かった。
 小学六年生の妹は修学旅行中で家にいないのも幸いした。まだしばらく家に帰ることはできないような気がした。親は病院にかかりきりで、宿直室に連日連夜泊まっていて家に帰ることはあまりないが、もし早く帰宅していた場合は柳生の顔を見るだけで心配するだろう。万に一つの事態が起ころうと、親に心配をかけるわけにはいかなかった。
 だからといって公園でどうすればいいのかも分からない。柳生は目をハンカチでぬぐって、光の当たらない水道の前に膝をついた。子供が転んだときや喉が渇いた時によく使われる、水飲み用の水道だ。口腔を冷やす水を口に含んですぐに吐瀉することを数回繰り返す。屋外の水道というだけで使うことに抵抗はあったが、やはり口の中がどうも気持ち悪い。幾度も強いられたディープ・スロートの味が喉の奥にしつこく残っている。家に帰ったら歯を磨いて、すぐに新しい歯ブラシを開けよう。
 風がびゅうと渦を巻いた。セットを乱されたままの髪を押さえた。しかしその直後、柳生の首筋にあてがわれたのはひやりと冷たい、泥臭い金属の刃だった。
「な……っ!」
「静かにしろ」
 背後になにものかの気配を感じた。柳生は思わずうなじに添えられた刃を握ったが、さほど鋭くもないし大きくもない。鎌のような半月の形状をしたものだった。次の瞬間には口を塞がれた。外そうともがいたが、予想以上に力は強い。
「その服を置いていけ。さすれば不要な危害は加えない」
 今日は厄日だ。仁王によって半裸に剥かれた上に、追い剥ぎに遭うとは運がないどころの話ではない。
 聞いたことのある声だった。しかしその声を生で聞くことはありえない、と認識を修正する。もう死んだ人間の声など耳にすることはできない。誰かがその声を真似ない限りは。そして柳生は、その「真似」が出来る人間を一人だけ知っていた。先刻柳生を犯しその場を去った仁王雅治その人だ。なるほど、仁王ならば、服を置いていけと命令し、間接的に人を脱がせるなど赤子の手をひねるより容易いだろう。
 しかしその要求を再び呑むわけにもいかなかった。柳生は渾身の力を込めて背後の人間の手を振り払い、鎌を奪い取った。サリーのように長い布をまとっただけの黒い影を、全力をもって突き飛ばし、腕がまるごと露出した肩を掴み、その細首に鈍い輝きを押し付ける。人影が柳の形をしていることに一瞬ためらいを感じたが、唾を呑み込んで刃を強く当てた。腹にまたがり、完全なるマウントポジションをとったまま、柳生は柳の形をした人間に向け、声を押し殺した。
「仁王君、あなたは……本当に最低な人間ですね」
「いったいなんのことだ、柳生。答えを、」
 柳の声で仁王は尋ねた。あくまでもしらを切るつもりか。
「どうしてあなたはそんなに人をもてあそぶことができるのですかっ!」
 どうして亡くなった柳君に化けるのですか柳君について下手な詮索をしようとした赤也よりも不謹慎すぎますあなたが誰にでも化けることができるのは周知の事実ですが時間とタイミングを考えたまえ今柳君の家では柳君が亡くなったことに哀しんでいるんですよその遺族の皆様の気持ちを無視して化けるとはなにごとですか……
 息をつぐ間もなく一気に言い終えると、堰を切ったように目の奥が熱を帯びた。
「そのうえ私までもてあそんで……恥を知りたまえ」
 それだけを言うのがやっとで、鎌を土に向けて力なく振り下ろした。土を抉る音と、金属が石を擦る嫌な震動が手に伝わった。
「ひとつ聞こう。お前は、俺を誰だと認識している」
「仁王君でしょう。柳君はすでに鬼籍に入っているのです。そんなたちの悪いことをするのはあなたしか考えられません」
「その認識は誤りだ。俺は柳蓮二だ」
 全身の血が逆流するような怒りが口を衝いて出た。
「嘘をつくのも大概にしたまえ! 死人が歩きまわるなんてありえないでしょう。また私を騙してどこかへ連れ込もうとする魂胆なのでしょうが、お生憎様です。もう騙されるものですか」
「騙してなどいない。誤解を解きたいから早く俺の上からどいてくれ、柳生。呼吸がうまくできないのでな」
 柳生は視線をそらして、おずおずと下りた。柳の顔をした人間は上半身を起こして、一回深く空気を吸って、長く息を吐いた。
 柳の姿の人間は全身に、まるでシーツのように長い布をまとっていた。目を凝らすと、白い部分は本物のシーツでできていることに気づいた。それも一枚ではなく、適当な布が色も長さも関係なしに巻きつけられている。長さが足りずに右肩が鎖骨にいたるまでまるごと露出しており、古代ローマの市民服でも着ているかのように太ももの真ん中まで布が下がっていたが、裸足は泥に汚れている。
「だいたいなんですかその格好は。着るならばもう少しマシなものを選ばないのですか」
「服は俺の死体が運ばれた際に押収されてしまったようだからな。家に帰ろうとしたが留守で鍵もなく、仕方なくゴミ捨て場から拾ってきた。捨てられていた洋服はみなサイズが合わなくてな」
 また嘘をついて。柳生はレンズの奥から、まるで変質者を見るような目つきを向けた。
「全裸でゴミ捨て場に?」
「ああ。警察やマスコミ関係者のいない裏通りを選んで通った。人通りが少ないことに救われたが、一度通りがかりの女性に悲鳴を上げられた。事情を鑑みなければ今の俺は確実に変質者だな。身一つで再生するのも善し悪しだ」
「再生……また冗談を」
「俺は真実しか言っていないつもりだが、その真実はお前が則る常識との乖離がある。一回の説明で信じられる人間の方が稀だ」
 柳生は片方の眉をひそめながら、声を抑えて尋ねた。
「稀? そうでしょうね、死人が生き返るわけがありません」
「しかしその常識だけは俺に通用しないらしい。説明は長くなりそうだが」
「あなたが仁王君でないとここで証明できるなら、私の家でなんなりと話したまえ。まともな服さえ着ていない状態で、しかも公式には死んでいるあなたを街に放置するわけにもいきませんからね」
「試してみれば良い。数学の方が検証しやすいだろうな」
「それではいくつか問題を出しますよ。命数法で、一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、杼、穰、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議の次は?」「無量大数だ」
「では小数の方で、分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、埃、渺、漠、模糊、逡巡、須臾、瞬息、弾指、刹那、六徳、虚空、清浄、阿頼耶、阿摩羅の次は?」「涅槃寂静。語源は仏教用語であり、命数法の小数では唯一の漢字四字で表わされる」
「それでは59,852×14,527は?」「869,470,004だ」
 ことごとく正確に答えていく声に少し苛立ち、もう証明は充分になされたはずなのにまた難問が口を突いて出た。
「31,592×62,978は?」「1,989,600,976だ」「円周率は何桁まで暗唱できますか?」「3.141592653589793238462643383279502……500桁までならば言えるが、それ以上は流石に難しいな」「完全数には6や28、496などがありますが、そのもうひとつ上の完全数をひとつ言って下さい」「8,128だ。他にも33,550,336などがあるな」
 ここまでくるともはや雑学の分類である。記憶にある限りの難題を易々と解かれ、柳生は息をついた。もし仁王だったとしたら、ここまで正確に難問に答えることはできないだろう。
 しばらくして、柳の声が「気は済んだか」と尋ねた。ええ、と答えるしかなかった。仁王ではない事実を固めようと意固地になるばかりに、暗に死者が目の前で生き返り、話し、動いていることを証明してしまっていた。
 柳生は嘆息して、髪を押さえつつ頭を振った。
「……いいですよ。私の家に泊まりたまえ。しばらくの間かくまいましょう」

  *

 蛍光灯のスイッチを押すと、闇に閉ざされていたリビングに光が戻った。視界が一気に利くようになり、影が殊更に強く浮かび出る。数日の間たったひとりで守っていた家に、会話が戻った。
 適当なジャージと、途中のコンビニに寄って購入した下着類を渡されて、バスルームごと借りた。熱帯夜の呼気に汗ばんだ全身が体温より少し高い程度の熱湯に流されていくのを感じ、同い年の少年としては神経質に片付いた更衣室で必要な服をまとった。七センチ近い身長差のため少し小さいジャージだったが、ないよりも格段によい。
 リビングに案内されると、ダイニングキッチンで現在独り暮らし同然のはずなのに至極まっとうな夕食を作り始めた。午後八時を十分ほど過ぎていたから、朝食のように軽いものが食卓に並んだ。パンの焼ける香ばしい芳香が鼻孔をくすぐり、腹の虫が鳴って、柳は腹を押さえた。平生は紳士的に振舞う柳生のいやに尖った返事を聞きながら、トーストを平底の皿に重ねる。機嫌を隠しきれないようなのか、ときおり柳生はコーヒーを淹れようとして缶ごと豆をこぼし、片付けた後は紅茶を淹れようとして手に熱湯をかけてしまった。流水で冷やして簡単な手当てを終えたあとに、タンニンが沈殿した中途半端な温度のアイスティーをガラスコップに注いだ。しかしベタなことに砂糖と塩を間違えかけた。集中力が乱されているだろうが、その理由が判然としなかった。
 使う人間の社会的地位を察することのできるような食器が数枚並び、柳生の真向かいの椅子に腰かける。柳生は彼らしくもなくまともに目を合わせずに、忙しなく視線をフローリングに泳がせていた。
 冷えたトーストを食むこともなく時間が過ぎた。柳生とならば沈黙を苦にすることはないが、情報伝達がなければ時間は無駄なものとなる。しかし柳生はリモコンを幅広のプラズマテレビに向けてボタンをいくつか押した。民放のほとんどは昨夜の集団失踪事件でもちきりだ。どのチャンネルに変わっても、マイクを持ったレポーターが見た事のある街並みを走ってせわしなくカメラを誘導したり、刑事事件の専門家が討論したり、神社裏で発見された奇怪なミイラ遺体についての解説をしていた。乾燥した状態で発見された少年遺体の名前も生前の顔写真とともに公表されており、柳は眉をひそめた。
「やはり、俺が死んでいることは周知のようだな」
「でもあなたが柳君だと信じるに足る証拠を下さいましたからね。疑いたくても疑えませんよ」
「だろうな。それにしても、自分が死んでいるという報道を聞くのも複雑なものだ」
 柳生が向けたリモコンの先で小うるさいテレビの電源がふっつりと光を失い、ディスプレイに反射したダイニングの光景が濁った。リモコンを置いた柳生は指を組み、肺胞を絞るほどのため息をついた。
「ではあなたがなぜこうして生きているかについての解答を要求しますよ」
「これは俺達の問題だ。下手に明かすと無駄な争いに巻き込むかもしれない。あまり推奨できないが」
「生きているあなたに会った時点で関係者です。今さらどんなことに巻き込まれても驚きはしません。それにあなたが仁王君ではないということの証明がほしいだけですよ」
 そうか、と柳は息をついた。
 危険のない程度に端折るかとも考えたが、柳生の、今にも泣きだしそうなまでの真摯さに負けた。どうしてそんなに張りつめた空気を孕んでいるのかと問うのは立ち入りすぎるかとも頭の端で考えて、問いを飲み込み解答だけを選別して舌の上に乗せた。

 かまいたちの御三家の第三番目に位を持つ柳家は、立海大附属中学校裏の神社を中心として活動していた。柳家は代々かまいたちを受け継ぎ、他のかまいたち二人と人間の血液を採取し、神社に献上していた。どうしても足りないときは天誅、祟り、或いは神隠しと称して人間をさらい、人身御供として神社に奉納した。なぜ血を捧げねばならないのかについては祖父から固く口止めされており、柳自身も知ることを禁じられているのでよくは分からない。
 かまいたちの御三家というのがその汚い役目を請け負っていた一族である。転ばせる役目の丸井家、斬る役目の切原家、そして人を治す役目の柳家。かまいたちを受け継ぐ人間は、かまいたちと呼ばれる所以の能力を伝授される。一番目を含む三人には疾風のように迅く移動する脚を、二番目は人を屠る大鎌が与えられる。三番目は特殊で、薬を生成する知識と体質をもつ人間が跡継ぎに選ばれる。
 一度殺されたのにも関わらず生きかえった理由もそれである。かまいたちによる傷は深い割に痛まないというが、それは柳家のかまいたちが体内で生成する薬によって塗布された瞬間に創痍が塞がり、更にごく短期間で治癒するからだ。体内で合成する薬品なので、それは三番目のかまいたちが怪我をした瞬間にも効力を発揮し、すぐに再生が始まる。ただし再生が始まったときには既に肉体に意識がなかったり、死んでいたりする場合は、背中から細胞の同じ別個体が、蝉の羽化するように分離する。空蝉となった身体には骨も残っていない、皮膚だけの抜け殻だ。源氏物語で着物だけを残して去った空蝉のように。

 さほど長くもない、しかし普通の人間が信ずるには難い話を、拍子抜けするほどの素直さで、柳生は適当な相槌を打ちながら静聴していた。話の終わりに柳生と簡単な質疑応答が交わされ、全て説明を終えると、時刻はすでに午後九時を回っていた。
 ここまで疑問が爆発せずに小さく消化されていくことに、逆にうそ寒い心地になった。ただ柳生の疑問の大きな矛先は柳の語る非現実的な真実ではなく、もっと違う方角に向いていたらしい。
「私は少しシャワーを浴びてきます。長くなりますので、柳君は先に私のベッドで寝ていてください。遠慮せずでも、私はソファで眠らせていただきますので」
「すまないな、なにからなにまで」
「気になさらないでください。私がそうしたいだけですので。ただし、外側から鍵はかけさせていただきますよ」
 柳を部屋に案内し、チェック柄のパジャマとトランクスを胸に抱いた柳生は、後ろ手にドアを閉める直前にうつむき気味になって、ぽつりと伝えた。
「あ、それと……部屋の奥のクローゼットには触れないようにお願いしますね」
 ドアが、鍵が、閉じられる音。
 部屋を物色するのも無礼にすぎるので、柳は倒れるようにベッドに倒れ込んだ。マットレスのスプリングが身体の下できぃきぃと軋む。適度に冷たく清潔なシーツは、柳の家の布団を連想させた。
 疲れた。
 頭の中で、目覚めてからの数時間を反芻する。
 そのうちにまどろみが脳をとろけさせ、柳は睡魔に身を委ねた。


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