※BL注意

 白く滑らかな泡を何度洗い流しても、仁王の手の感触がいまだ生々しく肌に刻印されていた。まるで今も直に触れられているような不快感が身体の芯に根強く残り、あかすりで擦っても皮膚が赤くなるだけで、洗い流すたびに湯の温度でひりひり痛む。
 濡れた髪を額に張り付かせたまま、柳生は再びボディーソープをあかすりに染み込ませた。風呂に入ってからもう四回目だった。布地を擦り合わせてできる泡は、乱反射によって白く光り、大きな泡には虹色が変幻している。それを、擦りすぎでところどころ針の穴程度の瘡蓋が浮く内股の皮膚に、病的なまでに擦りつけた。曇った鏡を拭うと、首筋には仁王の唇によって現れた吸引性皮下出血の跡がいくつも残っている自らの姿が見える。
 全身泡だらけのまま洗顔フォームを顔に塗りたくり、うなじまで徹底して洗い、頭からぬるま湯のシャワーをくぐった。それでも紫の斑は消えない。少し曇った鏡に映る自分の顔が仁王に似ていて反吐が出る。これで乾かせば余計仁王雅治に似てくる。寝ぐせで髪がはねれば余計に、髪を脱色すれば、どんなに普段の柳生の生活になぞらえて生活していても別人だと勘違いされる。眼鏡を外せば双子と間違われるほどに似通った顔立ち、体つきから逃れようと、柳生は紳士になることを徹底した。詐欺師とまったく逆になるために。
 つい最近まではあまり苦にはならず、逆にテニスで勝つ戦術のひとつとして、この外見は重宝されていた。入れ替わることによって対戦相手の混乱を招き、平常心に戻る前に一気にケリをつける。紳士のやるこっちゃない、と赤也はぼやいていたが、負けた人間の言う言葉でもない。
 しかしこの容姿は、連日のようにレイプされる身となっては耐えがたい屈辱だった。鏡を見るたびに詐欺師の顔を思い出す。同じ性別の人間に劣情を抱かれること自体、紳士であることを自らに課す柳生にとっては苦しみの一要素でしかなかった。毎日のように半身を貫く仁王の毒牙と、拒否できない秘密を作ってしまっている自己嫌悪と、いつどちらか、もしくは両方の秘密が露見するか分からない予感がないまぜになって、夏掛けの中でなんども逃げる場所を想った。紳士の仮面をかぶりつづけるにも、仁王と顔を合わせる限りは塗装がぽろぽろと剥げてくる。どんなに厚く塗っても落ちてきて、今日は、仁王なのかまだ疑ってしまう柳や、勝手に手を貸そうとして振り払われたブン太を、自分の態度で不快にさせてしまったのではないかと思うと、逃げ場所さえないような気がしてくる。学校が臨時休校になって、正直安堵した。これで人と会う必要性が減ったと思った。それでも仁王は仁王で、神出鬼没に現れる。休校で安心したのは束の間で、ひとりになれることはすなわち、仁王がやって来さえすればいつでも犯されるという危険の方が大きいという諸刃だということに気付けなかった。
 そう、たとえば――
「柳生、柳生、」
 すりガラスの奥で、感情の根幹が拒否する聞きなれた声が、柳生の名を呼んだ。柳生が肩を大きく跳ね上げつつガラスにとりついた瞬間には、窓は外から差し出された生白い手によって全開にまで開かれている。頭ひとつ入るかどうかという小さな隙間から覗くのは、冷たいコンクリートのビルではなくて、白くブリーチされた髪の毛だった。それが悪戯っぽい顔を貼りつかせて、関節を外したりはめたりしながら、風呂場へとねじ込まれていく。
 頭が。左の手指が。肘が続き、タンクトップで剥きだされた肩が、まるで軟体動物のようにするすると狭い四角形を通り抜ける。ごき、ごき、と関節が曲がる方向を変える気分の悪い音を立てながら、仁王は柳生と似通った、しかし孕んだ空気の違う決定的な顔立ちに、にや、とたった今策謀を思いついた狐狸のような笑みを浮かべる。
 思わぬ闖入者に、柳生はその場に腰を抜かしたまま背後へすさった。しかし石鹸にぬめる床に手をついた瞬間、ずるりと滑って転倒し、横ざまに倒れた。後頭部をしたたかに打ちつけたが、痛みは全く感じない。歯の根が合わない。がちがちと小刻みに鳴る音ばかりがいやに耳についた。流しっぱなしのシャワーがタイルの泡を排水溝へ送る。
 見る間に仁王の右肩が窓の桟をくぐりぬける。骨盤の角度を器用に変えながら、まるで母体から生まれ出る胎児のように仁王は窓を通り抜けた。太ももまで風呂場に侵入してきたあたりで真下の浴槽に頭から落ち、どぱぁと派手な水飛沫を上げた。顔を上げると犬のように頭を振って水気を飛ばす。濡れた毛髪が枯死した藻のように額に張り付いており、それをかきあげて仁王は唇の端を吊り上げた。
「よう」
 泡だらけのまま、柳生は気死したようにその場で身を凍らせた。
「逢いとうて逢いとうて、また来たがよ」
 その言葉に、柳生ははっとなって更衣室のドアを真横に叩きつけるかのように滑らせた。四つ足になって這い、膝が更衣室に敷かれた薄いマットをめくった。しかしほぼ同時に背後から仁王の手が伸びてきて、柳生を後ろから押し倒す。背中で冷たい皮膚が顎の形で動き、声帯を震わせぬ声で囁きかけた。
「静かにしんしゃい。お前さんの両親や妹に見つかったらどうするつもりじゃ」
「い、今は」
 柳君がいる、という言葉が喉の奥まできたが、舌に乗りかけたところで慌てて飲み込んだ。仁王に知らせるには柳の許可が必要だと思ったが、それ以上に、一度死んだ人間が生きていると知らせることによって仁王がどんな行動に出るかをより強く危惧した。そして柳に知られることも、恐怖の一要素になった。柳は面白おかしく吹聴する人間ではないとは重々承知だが、底いない記憶の地層、仁王に強制される行為が刻まれること自体を懼れたのだ。
 全身に消え残った白い泡が、汚れを流し去る白でなく、汚れそのものの白に認識を一変させる。耳元で、蟹の泡のように細かい泡が弾ける。
「もし拒んだら、分かるじゃろ?」
 柳生の顔の前に、くしゃくしゃになった一葉の写真が差し出された。まばらな人混みをバックに、ビロウドのような光沢を放つ翠色のドレスを着た少女が、貴族的な笑みを浮かべている。深く淹れたアッサムティーのような髪が長く背中まで伸びている。オッドアイなのか、カラーコンタクトを入れたのか、目の色が左右異なっていた。しかし写真の少女は、隣にいる蒼色の西洋的な衣装を着た少女より高く、二十センチメートルほどの身長差があるのだ。
 顔をよく見れば、それが誰なのか一目瞭然だった。
 柳生は脳髄から血が引く冷たさを芯から覚え、その写真をひったくった。身体をねじりつつ洗面台まで這い、火傷で赤くなった左手でピンクの柄の剃刀を引っ掴んで、翠の少女の顔に突き刺した。幾度も重ねられた傷から血が流れぬのがおかしいほどの鮮明な写真が、瞬く間に繊維の塵を散らす。
「柳生、お前さんは絶対優先順位間違っとうよ。そんな紙っ切れ一枚が、世間のお前さんに対する評価を下げるとか思うんか」
 必死で写真を切り刻む柳生に背中から覆いかぶさりながら仁王は飄々と肩に冷たい手を置く。耳に仁王の銀髪から落つる雫が垂れ落ちる。
「コスプレ趣味なんか隠すほどのものじゃなかし。俺に化けるのもコスプレの一種じゃろうに。まあ、翠の娘の格好も似合っとうから、焼き増しはいくらでもあるわけじゃけど」
 柳生は怯えたように、仁王の顔を自らの肩越しに見上げた。とたんに前髪が鷲掴みにされ、噛みつくような口づけを施される。唇が離れると同時に唇を拭った。
「じゃ、始めようかの」
 仁王の声が、地獄の邏卒のように肝に響いた。
 蛇の如く這う指が、狐のように優しい声が、そのくせけだもののように意思に反して動く身体が、神経の油に官能の情炎をともす。身体の自由が奪われていく。この肉体が仁王の傀儡となっていく。
 ――たすけてください。たすけて、たすけてください、やなぎくん、たすけてください、たすけて、やなぎくん、やなぎくん、やなぎくん……
 声が、出ない。どうして、どうして、声が、声が。
 たすけて、たすけて、たすけて――
「やなぎくん………………」
 ……………………
 ………………


  *


 また、あの夢を見た。
 いつも見る時代がかった夢。時雨のごとく舞い落ちる桜の紗幕に覆われて、女を抱いて立っている。肌には染みも皺もなく、顎は尖るほど細い。厚くはない唇が月の木漏れ日に濡れている。これまでにないほど美しいのに、髪は一筋の異端も許さぬ銀を湛えている。柔らかな髪を探ると、中からふたつの耳が突き出している。普通の人間の耳殻ではない。畜生のように尖った耳が、髪の流れを割って上へと突き出しているのだ。
 この女は狐だ。柳はそのことを何故だか知っている。理由こそ思い出せないが、この女は間違いなく共に長く暮らしてきた狐の女なのだ。そして、愛した。
 狐は柳と目を合わせると、怯えたように身体を震わせ、周りへと目を遣るのだ。
 堀のようにぐるりとめぐらされた火縄銃の黒い口が、目玉のように頭を狙う。
 柳は口の端を困ったように上げ、そして狐の女の顎を撫ぜる。唇のそばについた小さなほくろさえ、涙の通り道となって光っていた。
 顎を撫でたまま、そのままなにかを口走る。女はその度に首を振り、涙を散らして胸にしがみつく。細工物のように壊れそうな肩を両手で握り、正面を向いたまま身体を引き離す。
<一蓮様、一蓮様がおられなければ私は――>
 柳は、いや、一蓮と呼ばれた男は、穏やかに答える。
 もしそなたが死なで我が死なば、我は六道を輪廻した果てにそなたに逢いに参ろう。
 そしてまた逢うたときこそは、共に一つの蓮の上に托される生に望みを持とう。
 一蓮はそう語ると、女の首筋になにやらぼそぼそと呟く。すると女の顔や手にみるみるうちに銀の毛が生え、身体は小さくなっていった。爪も剥がれた足が履く襤褸ぼろ草鞋の傍にぐったりとなった小さな狐を、一蓮は蹴って追い払う。狐はいくども後ろ髪を引かれて振り返ったが、石を投げて追い払う。その腕には衣ばかりが空蝉のごとく残っている。
 これでよかったのだ。
 火縄銃が火を噴いた。叢雲の高くにまで轟く火薬の音が失せるのを待たず、一蓮はこときれていた。
 夢は、そこで途切れている。


 風呂がどたどたと騒がしかった。むっくりと枕から身を起こすと、枕元に置かれた懐中時計の金色の針が夜十時六分五十七秒、いや五十八秒を指した。柳生に部屋を借りてから一時間と経過していない。耳を澄ませばシャワーの音が微かに届いてくる。柳生はまだ浴槽に浸かっているのだろう。長くなると言っていたのは本当のようだ。
 仮眠にしては充分な時間であったと思う。眠気が治まっている。また夢の続きを見てしまったが、夢は所詮夢に変わりはない。
 夢は幻だ。実体のないものをいくら詳細に語ったとて、信じるに値せぬだろう。夢はひとときの幻想で、目覚めると同時に現実に融けて消えていき、ついには跡形もなく消失してしまう。
 ベッドから起き上がり目をこすった。柳生ではない人間の声が届いてきた。「また来るぜよ柳生」と、声質と独特の訛りから推察すると仁王だ。同時にささやかな重量のあるものが壁に叩きつけられる音がした。仁王の声はそれきり消えた。代わりに延々と流れる水音に、かすかなすすり泣きが混じった。
 寝室のドアノブをひねってみたが、やはり鍵は鍵だ。金属音を立てるだけで、どうも開く気配がない。柳は失礼だと頭の端で考えつつ、奥のクローゼットの足元に落ちていた二本のヘアピンを取り、鍵穴に差し込んで操作した。初めてだったのにも関わらず、案外簡単に開いた扉を開く。シャワーの音がする浴室まで向かうと、すすり泣きが大きくなる。更衣室の扉をノックしたが、奥から届くのはやはり嗚咽だ。
「柳生、なにかあったのか?」
 返事はない。
「入っても構わないか?」
 すすり泣き。答えは返ってこない。
「沈黙は了承とみなすぞ」と言ったが、それにも返答がないので、柳は困る他なかった。ここまで来て引き下がるわけにもいかないので、できるだけゆっくりと扉を開く。
 鼻孔を水垢混じりの湿気がつついた。風呂場への扉も窓も開け放されて、夏の夜気が足元に流れ込む。突き当りにある窓の横の壁には洗剤の粉がぶちまけられ、今も流れ続けるシャワーによって泡立っている。浴槽の中の湯は洗剤によって白く濁り、泡立ち、空箱を浮かべていた。その白い景色に浮いた一輪の彼岸花の紅色が毒々しいまでに映えている。
 尋常でないのは、柳生の方だった。大の大人ぐらいの身長を持つ男が、一糸まとわぬまま漆喰の壁にもたれかかるようにしてへたりこんでいる。濡れてセットの崩れた茶色の髪、洗面台から落ちた眼鏡。スポーツを続けて、中学生には見えないほど引き締まった肉体を震わせて、柳生は顔を伏せていた。しゃっくりと嗚咽がないまぜになって、泣き続けている。髪にはまだ石鹸の泡が残っており、洗い流されずに皮膚に残ったアルカリ性が白い皮膚に赤い炎症を広く残していた。
 柳生の横に膝をつき、柳は濡れた肩を揺らした。
 どうしたと尋ねる前に気づいた。首筋に点々と、紫斑がまだ生々しく赤い色を残していることに。
 柳の頭の中でひとつの可能性に合点がいく。しかし分析に感情が追い付かない。
 まさか仁王が柳生を襲ったか? 思い出せば公園で会った柳生の服は、彼にしては乱れすぎていた。そしてやけに、柳と会話する際に仁王ではないことをしつこいぐらいに証明しようとしていた。あまり立ち入りすぎるのも無礼と考えなにも聞かなかったが、配慮の結果生じた無知がこのような状況をもたらすとは。歯の奥をきりりと鳴らす。
 そのとき柳生が泣き腫らした顔を上げた。
「やなぎくん……」
 しゃっくりに二回肩を震わせた後、柳生の顔が握りつぶされた紙屑のように歪んだ。突如柳の胸に倒れかかり、そのまま子供のように声を立てて泣き始めた。
 凌辱された少女のように、と形容するには、あまりにも直接的にすぎた。柳は柳生の髪を撫でながら、時の過ぎるのを待った。
 ぐしゃぐしゃの髪と、眼鏡をかけていない柳生が自らに縋って泣き続ける姿が、なぜかいつも夢見る女に似ていて、ずき、と頭が痛んだ。一度自らの頭を押さえた手で、そのまま震える柳生の背をさする。かける言葉を、脳に刷られた辞書をいくら浚っても見つからなかった。雨音と聞き紛うシャワーに助けられた。
 浴槽の彼岸花が流れ込む風に押され、泡立つ湯にたゆたう。
 花言葉も異名も数多い。その中のひとつに<想うは貴方一人>の意味があることを思い出す。奥歯を噛みしめ、柳は記憶の頭痛を振り払うようにマットに拳を叩きつけた。

  *

 ひどく静かな夜だった。犬一匹の咆哮が、まるで狼男が生誕するかのように夜闇に轟く。
 もう助けを呼ぶ声さえ発することのできない首を持ち上げ、赤也は口角を弦月のごとく持ち上げる。サッカーボールより少し小さいぐらいの肉塊からはぼたぼたと鮮血が落ちるが、光が足りないせいでタールのように黒くぬめる。
 油を流したように暗い色の水たまりに、ブン太は恭しく桜の枝を浸した。黒い血だまりは見る間に面積を減らし、ついには染み一つなくなる。まだ縫合されたばかりの傷から滲みだすブン太の血液も手首を伝って桜の枝に吸収されていく。
 最初の狩りは上出来だった。獲物の足が遅かったのもあるし、髪の長い女だったことも幸いした。ミュールでなんども転んだし、髪の毛を掴めば後はすぐに首を取れる。
 この生贄もまた、ジャッカルと創造する世界の礎になる。とても神聖な儀式だ。カミサマしか作れない「セカイ」を、自らの手で作り出すのだから。
 神聖な、神聖な、神聖なもの。
「先に行ってるッスよ先輩」
 赤也は首と、首のない死体を抱えて、風になった。桜の花弁が渦を巻いた。煽られた髪を押さえ、ブン太はうつむいた。間もなく凪ぎ、そろそろと目を開く。
 丁字路にひとり残された。天井川の真横、芝が黒く傾斜を作るなか、光の足りないせいで黒く見える彼岸花が月明かりを浴び、幽霊のごとく立っている。赤い月明かりを人の形に切り取った黒がアスファルトに落ちて、まるでジャッカルがすぐそばにいるかのような錯覚を覚えさせる。
 首にかけたままの、ジャッカルの遺したエスカプラーリオを握る。ボタンほどの金属にメシアと聖母を象ったお守りが、赤い月の光を受けて鋭く光った。
 その場にしゃがみこんで、ブン太は自らの影に手を伸ばす。闇に浸された指は黒に融けて、そのままシルエットの顎を伝う。開いた傷から流れる血液に自らの魂が混ざり、影が血を吸うことによって、ジャッカルに自分の魂を分け与えられるかのような錯覚に酩酊し、ブン太は愛おしげに指をアスファルトに這わせる。
 ――見守っていてくれよな、ジャッカル。
 今背後には誰もいないが、いずれこの空白も埋まる。後ろはジャッカルだけの居場所だから。誰にも渡すものか。もし侵そうものならば、その人間も殺して、奈落の礎にすればいい。邪魔するものは容赦しない。たとえこの身が滅びるとしても、その前にジャッカルと夢の奈落を作って見せる。
 ブン太は風となり、その場から消えた。
 彼岸花……死人花、地獄花、剃刀花、狐花と数多の異名を持つ花が、かまいたちの風に押され、いま漣へ。


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