※BL注意

 天涯はもう薄く明け染めているが、まだ充分に光はない。空の端に浮く薄雲が紫に棚引いている。いまだ明けやらぬ、彼は誰時。ひとりの少年が足音を忍ばせ、しかしそれ以上に急いでいた。
 髪は茶に染めてあるが紳士然とセットしてあり、同年代の学生が行う染髪とは趣を異にするものだ。眼鏡をかけ、制服を一部の隙なく着こなしている。彼らしくないのは風呂敷を使わずに荷をショルダーバッグに入れていることだ。もし同級生や顔見知りが遠くで見れば柳生比呂士と呼んで手を振るだろうが、近くで見れば記憶との間違い探しが始まる。
 まず背丈が少し高い。ハーフミラーコーティングが施されて目の奥が見えづらいとはいえ、少し横から見れば目が糸のように細いことも理解できる。よく見れば髪の毛は作り物のように不自然で、形も整えられすぎて逆にいびつだ。言葉を交わせばその穏やかさは、社会の要望に合わせて形成された紳士の型に則ったものではなく、知性ゆえの教養に裏打ちされたものである。
 制服と、ウィッグと、伊達眼鏡を借りて柳生になりすました柳蓮二だった。
 柳はすでに死んだ人間とされた身だ。そのままの姿で出歩くことは物理的にはできるが、万が一柳の顔を知っている人間と会った場合、警察なり病院なり葬式なりに連行される可能性がある。柳生になれば、知人に見られたとしても、柳生だと騙って逃げれば良い。この状況では下手に生きていることを公表するとマスコミの餌食になりかねない。行動の自由を保つには、公的に死んでいた方が幾分かだけ楽であった。
 半狂乱の柳生を一晩がかりで宥め、ようやっと落ち着いたばかりの人間をひとり残すのは不安の種ではあったが、それでも急がねばならなかった。
 電柱の影から首を出し、柳は病院の白い外観を見上げた。病と苦しみと、ささやかな希望と絶望を秘めた要塞に足を踏み入れる。慣れた消毒液の匂いを掻き乱しながら、五階まで静かに駆け上がった。
 幸村のいる501号室の扉を開ける。そこではふたつのカーテンがベッドをぐるりと覆い隠していた。柳は臆せずに窓際のカーテンを開ける。そこにはうつ伏せに眠った幸村がいる。背中から生えた童子は少し前に見たときよりもずっと形がはっきりとしており、さすがに普通のパジャマでは収まりきらないらしく、掛け布団の下の幸村は白い肌を晒している。柳は起こさぬよう布団を剥ぎ、左手を当てた。手のひらからぬるりとした液体が滲みだしてきて、幸村の背中に塗りたくる。かまいたちの薬だ。薬は幸村の皮膚に浸透し、すぐになにも残さず消えてしまう。
 その作業が終わり、柳は急ぎ戻るため、布団とカーテンを元に戻した。
「俺が恋しくて夜這いかい、柳生。ゆうべは女の子のように泣いていたのに、案外大胆なんだね」
 幸村を模した声質と、異質な口調が静寂に木霊する。柳はきっと振り向くと、そこにはパジャマ姿の、もうひとりの「幸村」がスライドドアにもたれかかって腕を組んでいた。その目は狐のように鋭い。口角を片方だけ上げて、恐れるものはなにもないとでもいうかのごとしだ。
 本物の幸村はベッドで眠っている。あれは、幸村の仮面をつけたまがいもの(フェイク)にすぎない。声も姿も立ち居振る舞いも双子のように洗練されていたが、たったひとつ、人を食ったような笑みの痕跡はいまだ健在なのだ。
 柳はごくりと唾を嚥下し、付け焼刃と承知しつつ柳生の口調を真似る。
「猿芝居はやめたまえ、仁王君」
「狂言と言ってくれないか? それと猿の役なんて言うのはやめてくれないかな。簡単すぎて面白くもなんともないんだから。せめて狐の役をくれないかい。狂言師の一生は猿に始まり狐に終わる。狐の役は難しいからね」
「煙に巻くのもたいがいにしなさい。私が言いたいのはそんなことではありません」
「ならなんだと言いたいんだい、柳生……いや、生きた柳と呼んだ方が適当かな?」
 別に驚くほどではなかった。もともと似ていないことを承知でやっている。露見するのも予定のうちだ。
「柳君はすでに亡くなっているのはあなたも知っているでしょう。どうしてそんな不謹慎な嘘をつくのですか」
「だって柳生なら、昨日左手に火傷を負っていただろ。一日で治るわけがない。これ言っちゃえば終わりだけど、似てないよ、その格好。俺みたいに完璧にやんなきゃ」
 柳は木製の柄をショルダーバッグから引き抜き、折り畳まれていた刃を柄と垂直にまで開いた。薄明を鈍く弾く鎌の刃に、幸村の顔と仁王の笑みが同居した顔が映る。
「それで仁王、お前は俺をどうするつもりだ。警察にでも突き出すか?」
「そんなつまらんことはせんよ」
 柳が元の口調に戻ったことを起点として、仁王も元来の声に変わる。会話しているのは柳生と幸村に見えるが、会話しているのは柳と仁王なのだ。
 神の子面をした仁王は、柳に向けてゆっくりと歩みを進めた。距離が縮むが、柳は構えた鎌を握る指に力を込めるだけだ。
「ただ俺は気になるだけぜよ。生き返ってからのお前さん、どうもあいつに似て見えてのう……少し話をしとうて」
「断る」
 仁王は「ほう」と呟き、にやっと笑う。しかし網膜に残像として残るだけの時間、仁王の顔は哀しみにも似た色を湛えた。それを詐欺師の笑みで塗り固めたようにも見えた。
 目の前に立つ贋作の心臓に向けて鎌の切っ先を向けると、柳はちらと窓外の薄明を見る。空は太陽が昇りかける直前ですっかり白んでいる。ちらちらとだが老人の姿が家と家を結ぶ道路に覗き始めている。
「俺にはあまり出歩く時間が残されていなくてな。お前のたわごとに付き合っている時間はない」
「どうせかまいたちじゃ。風のように去ることができるんじゃろうに、冷たいのう。少しくらいあったかくなったらどうじゃ」
 そのとき突如幸村のいるベッドから衣擦れが聞こえ、思わずそちらに目線を移した。その隙を逃さず、手首になにかが投げられ、鎌が不意打ちに弾け飛んだ。床に金属音を立ててくるくる回る鎌を振り返ったとたん、床に伸ばした手に無数の熱が食い込んだ。ぎりぎりと筋肉に、テグスのような細い糸が食い込む。絡まった操り人形のごとく、柳の動きが糸に拘束される。
 仁王の右腕だけが天井へ掲げられ、陶磁器のような指に絡まる糸がきりきりと音を立てて動いた。両腕が女を抱こうとするように広がり、仁王は幸村の姿のまま倒れ込んでくる。腕(かいな)は糸に御され、華奢な身体をかき抱いた。体温が二枚の布地越しに浸透してくる。
「ほら、やっぱり冷たくないぜよ」
「なんの真似だ」
「キスの真似。そんな引きなさんな。これでも女として過ごした時間の方がずっと長い。男に甘えたいのも自然の摂理っちゅうもんじゃ」
 身じろぎしたらぷつぷつとところどころ千切れることからして、どうやらこの糸は案外脆いらしい。蜘蛛の糸かと疑ったが仄かに獣の体臭がする。獣の体毛を縒り合わせ、さらに丁子か椿の油を塗ったものだろう。
 仁王は柳のかぶるウィッグを鷲掴みに剥ぎ、髪をまとめていたウィッグネットもくしゃくしゃにして部屋の隅に投げ捨てる。そして伊達眼鏡を外して、ベッドに放り投げた。少しだけ髪が乱れただけの柳が、いままさに登り始めた紅い旭日に照らされた。仁王の顔も、血を浴びたかのように朝の日輪に染められる。
 仮面を手で撫ぜると、すぐさま平時の仁王へと歪んだ。まるで顔に張り付いたマスクを剥ぐような感覚で顔は変化を遂げる。毛根から毛先に向けて髪が病的な蒼い月色に染まった。その顔はふっと笑むと、そのまま背伸びして顔を柳に近づけた。顔をそむけると、頭を両脇から掴まれて、はっとした瞬間唇になにか柔らかな肉の感触が絡みついた。舌が舌を擦る粘性の唾液の音が淫猥に反響する。娼婦が愛する客に施すような濃厚極まる接吻である。
 ところがフラッシュバックした景色はまったくもって違っていた。
 無数に蓮の浮葉が水面を敷く霧のかかった寺、一輪の蓮華を捧げ持つ稚児の少年、鎧を着た武士に撫でられた髪、復興途中の京に上がり、見目麗しき青年となり、なにか言の葉を呟いては式を用いる。そしてやってきた清廉な、そして女を模る狐の姿。
 記憶に現れた女の処女性と、唾液を貪る仁王の娼婦然とした姿が、まるでお互いの足りないところを埋めるかのように、突然に重なった。
 とたん、頭痛が感覚神経を刹那にして焼いた。中でも頭部を猛烈な熱が襲う。
 痛い。痛い。頭が。痛む。
 脳髄を万力で締め付けられているか、それとも痛みを感ずる神経が頓珍漢な電気信号を脳に伝達しているのかはっきりしない。ぷちぷちと千切れて指に絡まる糸をそのままに、自由になった右手だけで頭を掴んだ。ぎりぎりと痛みがするまで力を込める。昨日も味わった、この頭痛の原因はなんだ。
 瞼の裏をスクリーンに昨夜の夢が黄泉がえる。狐へと戻った女は、確かに、この仁王と瓜二つの形相をしていた。鏡で映したほど、今の仁王はよく似ていた。違うのは髪の毛が少しだけ短いというただそれだけのことである。
 唇が離れると、仁王はさみしそうに小首をかしげた。
「ようやっと見つけたに、どうしてなんも応えてくれんのじゃ、一蓮?」
 一蓮という名に柳は覚えがある。夢に現れた、爛漫たる桜の時雨の下、無数の火縄銃に全身を貫かれて死んだ男の名だ。ただしその人間が実在するかどうかとなると話は別である。夢に現れる人間は思い出せなくても必ずどこかで見た事のある人間の顔しか出てこない。それに適当な名前が割り振られたという可能性も充分にあり、寝言を聴かれていたとしても不思議ではない。いつ詐欺師にネタを掴まれていても仁王ならばおかしくないということだ。
 しかし柳蓮二は柳蓮二。「一蓮」という人間ではない。イコールでつながる要素が皆無だ。
「一蓮? お前の認識は間違っている。俺は、」
「柳じゃなか。一蓮じゃよ。太閤にうとまれて荒野に放逐され、この地まで逃げた末に撃ち殺されたんじゃ。稀代の陰陽師・蜂巣一蓮が」
 疑問は氷解しない。頭痛は頂点に達し、頭が今にも割れるとさえ覚悟した。心臓が全身へと血を送り出す度に、頭を鈍器で乱打されるかのようだ。心臓の音が他の全ての音を打ち消さんばかりに聴覚を塗り潰す。歯を噛みしめ過ぎてぶるぶると震えながら、首を左右に振る。今にも頭骨が割れ、脳漿が噴き出すかもしれないほど。
 陰陽師だと? 歴史上にいたことにはいたが、それと柳を結びつける確信はどこから湧いた?
 いや、もともと仁王は詐欺師と呼ばれる男だ。どこまでが嘘で、偽物で、カモフラージュなのか、皆目見当がつかない。今まで語った全てが嘘ということもあながち嘘でもないわけだ。虚構を意のままに操る男をどこまで信じられよう。たとえそれが中学時代をともに過ごした仲間であっても、ある境界から先へは決して信じることができない。
 柳が懊悩する一方、仁王は語勢を弱め、柳の髪を指で愛おしげに梳きながら語る。窓から太陽を受けた埃が太い筋を斜めに光らせるなか、仁王はまるで恋人を前にした女のように首を傾げる。
「どうして否定できる? 一蓮は六道を輪廻した果てに、俺に逢いに来ると言ってくれた。そしてもし逢えたら、共に死に、共に同じ一つの蓮に托される生を待とうと、そう契ってくれた。その言葉がなけりゃ、俺は今まで生きてこれんかった。あまりに遅いから、俺は黄泉への扉をこじ開けようとまで思うたに、どうしてそう冷たいか。お前さんは魂の雛型さえ失うたか?」
「雛……型、だと?」
 仁王の顔が嫋やかに笑むが、すぐに陰に沈んだ。
「知らんなら、ええ。俺が勝手に呼んどるだけじゃから。覚えてないなら、俺も俺で手はあるしのう」
 柳から離れた仁王は鎌を拾うと、手首を支点にくるくると回した。その鎌で柳を絡げる糸を丁寧に切断していく。半分ほどの糸が切れたところで柳は冷たいリノリウムに両膝をついた。頭痛が引くどころか、余計に強くなっていく。頭部を両手で掴む。ぎりぎりと震える。身体を動かすことができずに頭を左右から押しながらその場にうずくまる。血液が動脈静脈毛細血管から搾り取られて一滴残さず脳へ凝縮されているかのよう。頭が、脳が熱いくせに、頭部を押さえる指は陶器のように冷たく硬い。
 顎をくいと持ち上げられた先に見えるのは、詐欺師という二つ名を疑うほど優しい笑みだった。
「のう柳、取り引きになるんじゃけ、どうじゃ。久遠の命をあげたる。肉体がなんど死んでも魂だけは別の身体に移し替えて、俺が生きる限り半永久的に死なないようにしたる。その代わりにここで死んではくれんかの」
 まるで朝食のおかずを決めるかのように軽く、しかしごく小さな声で仁王は言った。
 鼓膜だけに届き、蕭然たる病院の空気に喰われて消える声だった。
「断る。せっかく永らえたこの命を徒になぞ……」
「無駄死にじゃなかよ。永遠に生きる言うたがよ。もしいま参謀が、この場で俺に殺されて魂を俺に預けてくれたとする。そしたらジャッカルと浦山を殺したかまいたちの二番目に憑依させちょる管狐を剥がして、人死にをもう出さないように図る。何百年と練ってきた計画はすべて水泡に帰す。お前以外、もう誰も死ぬことはない――どうじゃ、悪い条件とは言えんと思うがのう」
「いや、条件としては、不適当だ」
 朦朧たる意識のなかで、柳は頭痛に歯を食いしばりながら、回答を声帯から押し出す。
「お前が、この事件をやめさせる、と、主張するのは、勝手だ。しかしそれを、真実かどうか、証明する要素が、ない。全てが真実である、可能性と、もし俺が、この場でお前の言葉を許諾して、殺されたとしても、お前が、いま言ったことを実行する、可能性は、ともに百パーセントを満たさない。永遠の命が存在した事例はない。伝説の中だけだ。そんな悪魔のささやきのごとき賭けに誰が乗るか」
 仁王は寂しそうに口端を吊り上げた。
「一瞬でそこまで頭が働くとは、やっぱり参謀の二つ名は伊達じゃないのう」
 ――所詮、身から出た錆か。
 目の前の唇がそう動き、ふっとわらい、仁王は鎌を握り直した。
「なら、俺はこの場でお前の腹でもえぐるか。魂だけでも持って帰る。あとで、今までに集めてきた一蓮の魂のかけらを合わせて、お前の魂から柳蓮二の要素を失わせて、一蓮にする」
「……っ!」
「そして組み合わさった魂を、もうすぐ飛び立てる籠の中の鳥に捧ぐ」
 息を呑んだ。明け方に現れる死神のように白く浮かび上がった顔には幾許もの表情はない。今まさに振り上げられた鎌の先端が、暁光を鋭く弾いた。
 柳は須臾にして消されるだろう命への無念を、頭を襲う激痛とともに噛みしめた。
 しかし、いつまで経っても鎌の刃が振り下ろされる音が届かなかった。薄く目を開き、仁王の影を見上げる。幸村のペルソナをはがした仁王が――いや、仁王という名前さえレプリカかもしれない存在が――鎌をゆっくりと柳の首筋に当てながら、低い声で言った。その声がどうしてか震えている。
「……柳蓮二としてのお前さんに、最後に言っちょく。本当にお前さんが一蓮でないなら、死んでからも俺ん前に現れるんじゃなかよ?」
「仁王、もうやめるんだ!」
 突然闖入した二重唱に、仁王は「邪魔するなかよ幸村!」と一喝した刹那に、鎌が手から外れてリノリウムの床に落ちた。金属特有の耳と心臓に深く刻まれる甲高い音。仁王の目が虚空に二筋の光の筋を引きつつ、どうと音を立てて倒れた。「ゆ、きむ、ら……?」と水揚げされた魚のように口を動かした。目は虚ろに天井を泳いでいる。自らの身に起きたことを理解するまでの数秒の間に、呂律の回らない舌が幸村の裏切りをなじり、足と腕は空を蹴り殴った。
 髪に指を埋めながら、柳は鎌を奪い返す。激痛に苛まれながらも仁王から離れ、ベッドに腰を下ろした。スプリングの軋みが神経を逆撫でする。それもすぐに止み、柳は頭を左右から掴んだ。痛みが治まるのを待つ。まるで仁王が倒れたのを見計らったかのように頭痛が鎮まりはじめる。
「柳、怪我は、怪我はしてない?」
 聞きなれた声と、それより少し甲高い声の二重唱が柳の名を呼んだ。隆起した頭部を隠すように毛布をかぶった幸村が柳の肩に冷たい指を置いた。
「傷はない。頭痛が少しあったが、どうにか持ち直したようだ」
「ならよかった」
 幸村が安堵の息をつく。
「仁王がこんなはっきりした行動に移ったのは初めてだよ。柳は急いでこの場から離れた方がいい」
 何故だと問うと、幸村はこころなし俯きがちとなる。
「この病院は詐欺師の手の内だ。今すぐ逃げないと、下手をすれば仁王はまた暴走しかねない。さっきの仁王の言動を見る限り、また柳を殺しにくる可能性も否定はできない。もうこれ以上の人死にはごめんだよ」
「人死に……か。やはり一端を担っていたのは仁王だったか」
「それは違う。そこの詐欺師は昔の俺の願いを叶えようとしただけだよ。今までに発生した事件は行きがけの駄賃に過ぎない。全ての責任は俺にある。……なんにせよ、ここではあまり詳しくは話せない。早くしないと狐も五感を取り戻す……だから柳、」
 斜めに差し込む光に融かされそうな蝋めいて白い顔に、霊山のように不可侵で微動だにしない目が柳の網膜を射抜いた。
「お前だけでも早く逃げて」
 もう二度とこの病院には来ない方がいい。幸村は小さい声でそう告げた。
「城に幽閉された人間は自力で外に出ることは叶わない。俺は病院という城から出られない。その城に狐がいるならば俺はいつかとって食われ、遅かれ早かれ殺される。でも柳の城壁はまだ開いているんだよ。一秒でも早く、ここから去って。できるだけ遠くに、できるだけ長く、誰にも見つからないように、身を潜めるんだ。狐というイリュージョニストが演出を務める舞台の役者に抜擢されてはならない。狐はこの地域に生きとし生けるもの全てを観客にして、これまでにない残酷劇グランギニョルを繰り広げるはずだ」
 ほら。早く。
 俺はここにいるから。
 覚悟などとうの昔に決め、年齢と同じくらいの時間を費やして死の概念をこねくりまわしていたかのような貌だった。幸村は先刻の不動の表情を崩し、太陽の反射光を胸まで浴びながら、綿のようにふうわりと笑った。
 さほどの時間も要らなかった。柳は立ち上がると、有無も言わさず幸村の手をひったくった。
「みすみす狐に喰わせるままにするは惜しいのでな。騎士を気取るわけではないが、俺と一緒に城を出てもらうぞ、神の姫」


「……幸村んやつ、この世界を『舞台』と喩えるか、うまいこといいよったのう。脚本、演出、キャストも決まっちょるんに、肝心の姫様の降板とくるか。今さら変更はできんぜよ。観客は待たせられん、公演日はもう動かせん。脚本は変更になるが、無事に完結すればええ。
 そのためにも残酷劇への招待券を贈ろうかのう。最初の観客は姫を連れ出す騎士じゃない。まずは、舌をも切られた比翼の雀でええか――」

  *

 朝帰ったら看護師に怒られて、また包帯が増えた。いくら病院で空調が完璧に管理されていても、包帯の内側はとんでもなく蒸し暑い。でも良い方で考えよう。自他の血に濡れそぼって、外を歩き回って砂に汚れて、夏の汗に濡れた包帯が新しくて綺麗な布に替えられて、すっきりして気持ち良かった。相変わらず声は出なかったけれども、ナースにもらったなんとかという名前の鎮痛剤のおかげで、全身を突っ走るはずの激痛はかなり緩和されている。看護師はみんな、平均よりは少し早い傷の治りに、よかったですねとほほ笑んだ。本当に治癒の速いことはいいことだ。動き回って人を殺せるから。殺すのは自分ではないけれど、それの手伝いができる。それはジャッカルと過ごせる夢の世界の創造へ奉仕していることとなる。
 ブン太が味気ない病院食を左手でゆっくりと食べ終えて、看護師が空になったトレイを戻しに行った。すると入れ違いになって、乾燥ワカメみたいなもじゃもじゃ頭がドアから首を出した。ウィッスと憎めない瓢軽な笑顔で言って、病室に入る。その額、首、腕には汚れ気のない包帯が乱れなく巻かれている。
 赤也? と、声は出ないものの唇を動かすと、呼ばれた主は声が聞こえたかのようにウィンクして、「っはよーございまーす、ブン太先輩」と元気な挨拶をかけた。
 赤也は病室に入ると、パイプ椅子を引き出してどっかりと傍若無人に腰をどんと下ろした。しばしまじまじと矯めつ眇めつ見つめられ、なんとなく居心地が悪くなってつんとそっぽを向くと、赤也は「よかったー」とまたにこにこと笑った。首をゆっくりと傾げて、掛け布団の上に置いた拳を三回握って疑問の意を示した。
「ブン太先輩、元気取り戻したみたいッスね! よかったぁ、昨日は人形みたいに動かなかったから俺すっげーどきどきもんだったんスよ。心配して損した! 俺の心配返して下さい」
 と赤也はねだるように手を突き出したが、目はまだ笑っている。その瞳には、数時間前まで支配していた殺人鬼の面影は欠片もない。ブン太は宙に漢字で「心配」の文字を書いて、空気を握って赤也のてのひらに押し付けた。包帯越しに指が触れた。おかしなものだ。病院のただなかに殺人鬼が微塵の屈託もない面をして共犯者の見舞いに来るのだから。月下では首を狩る吸血鬼、太陽の光を浴びればたちまち仮面をかぶる無邪気なサイコパスだ。大層な役者だと思う。パーソナルという言葉はラテン語で人を意味するペルソナからきているが、ペルソナとは仮面の意も含んでいる。死と生の仮面を自在につけかえる仮面舞踏会とは、比喩とするにはいささか気障すぎた。
 踊り果つる相手のいない舞踏会など出席するのもいやだ。しかし別の舞台を用意すればいいだけの話だ。
「あの、ブン太先輩。もしかしたら今、ジャッカル先輩のこと考えてんスか?」
 ブン太の伝達なき思案により生まれた沈黙をジャッカル失踪の方向に解釈したか、赤也はこめかみを掻いて急にまじめくさった顔になった。
「俺ばかだからあんまりうまいこと言えないですけど……ジャッカル先輩はきっと帰ってきますよ。さすがに死んじまった柳先輩は無理だけど……ジャッカル先輩の方はまだ見つかっていないんです。生きている可能性もゼロじゃないと思います。だからそんなに落ち込まないでください」
 ふと、赤也から漂ってきた匂いが鼻孔をかすめた。
「今までしい太とか行方不明になった人は戻ってきてないッスけど、ジャッカル先輩も帰ってこないってこととはイコールでつながらないッスよ。必ずどっかにいます、ジャッカル先輩は見つかります」
 数種類のデオドラントスプレーが混ぜ合わされたなか、それだけははっきりとした匂いだ。
「でもそれまでのあいだ、ブン太先輩がもし、心臓潰れるってくらいめちゃくちゃツラかったとしたら、そんときは俺呼んでください」
 真剣な顔をして語りかけてくる理由は、俺を殺すためか、赤也?
 指先に、肺に、猫のようにねじれた髪の毛に染みついているものは、どんなに誤魔化そうとしてもこびりついて離れない。人を殺したことを太陽が照らすよりも鮮やかに証明する死臭だ。病院のように管理された末に生まれる、オブラートのように薄いものではない。血が腐り、肉が熟れ崩れ、蛆を湧かせて蠅を纏わせる匂いだった。
 こんなに無邪気に、真摯に励ましてくれる下手人は、他に見たこともないけれど。
 もしかしたら殺人鬼の顔こそが仮面であるのではないかと疑いたくなるほど、今の赤也は白めいていた。
 


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