頸に巻きついた十本の指に力が込められ、そのまま意識に霧がかかった。首筋に爪を立て、いったい何本の吉川線を引いたことか、しかし首を絞める手は、ブン太が死を意識する直前で緩められた。顔が軽く欝血し、頬が火照った。まだ塞ぎやらぬ傷から血の雫を落としながら、ブン太の手はくたりと重力に従った。身体が動かない。
 まぶたに当たる日光が減り、陰に入ったことが分かった。森林特有のひんやりとした空気が頬を撫でた。鼻が敏く、薄い桜の香を嗅いだ。しかしその裏側が内包するのは、数多の人間を今までに屠殺した、腐敗した、腐った鉄錆の匂いである。
 蝿のはばたきが大きくなる。薄い頬の産毛に、蟲の脚が留まったような感触を覚えた。ヴ、ヴヴ、と耳朶を擦るか擦らないかというところで薄翅の音がした。二、三回毛だらけの脚が頬を擦ったが、誰かの手がそれを振り払う。
 その時、突如膝と肩を抱えていた腕が、ブン太の身体を宙に放り投げた。神経を何重にも布でくるんだような感覚のまま、指先に綿がぎりぎりまで詰まったかのように動けぬまま、土くれでできた階段を転がり落ちた。腐ったような死臭をまともに吸い、鼻が真正面からバットを受けたかのようだった。傷だらけの肘を突いて自らが落ち込んだ階段を見上げた。木の根で淵を固めた、一メートルに満たない穴が、階段の頂上に開いていた。その穴から放り投げられたのは、単三乾電池を一回り大きくしたような円筒だけだった。思わずそれを目で追い、手で握る。
 ぶづっ。
 手のひらの触覚が、異様な粒と液体の感触を伝えた。光に当てると、手のひらが薄い紅に染まっている。それだけではない。手のひらについた白濁の液体、それには無数の粒が破裂した残骸が散っていた。目を凝らして、じっと見る。
 白い身体。ぼってりした胴体。細かな目。足はなく、米粒のよう。
 蛆虫である。しかもその中の数匹が半分ほど残った首をのたうつようにもたげ――潰れた喉では悲鳴を上げることもできず、ブン太は思わず手を振り払った。その反動で後ろに転ぶ。今度は、ぐにゅ、と尻の下で冷たい肉がずれた。ごろごろと転がると、尻に付着した腐った体液を嗅ぎつけた蝿が嵐のように頬を打った。あまねく肌に留まり、這う。口へ耳へ鼻へ目へ髪の奥へと動く産毛が忍び込む。かさかさと内耳へ潜り込む蝿の音が直接鼓膜を刺激する。頭を振っても耳をほじっても蟲は身体の奥へ無心に入り込む。背の傷口に蝿が卵を産みに集まる。
 ブン太が這い上がることもできずに死肉の墓穴で悶えていると、光の射す方から、はっ、と嘲弄の響きが届いた。もじゃもじゃ頭の影が光の穴の縁に手をかけて、赤く染まった目でニンマリと口端を持ち上げる。
「言っとっけど、ジャッカル先輩がどこ出身かって知らないはずないッスよね。あの人の生まれはブラジル、キリスト教文化圏ですよ。六道輪廻を語る? はっ、なにそれありえねえ。仏教の考えですよそれ。ジャッカル先輩が日本に何年住んでるか知ったこっちゃないけど、輪廻を知っていたとしても、幼いころから信じていた宗教観ってそんな簡単に消えないでしょ」
 顎をしゃくって、悪魔は舌切雀をせせら笑う。
 キリスト教文化圏では人間は死後天国か地獄か、それと煉獄ぐらいしかない。死者は永遠の生命を与えられるだけであり、輪廻は存在しないのだ。
「アンタだってどうせジャッカル先輩を探したいんでしょ? なら、ほら……アンタのいるそのカタコンベから探し出してみてくださいよ。必ずどっかに埋もれてますから、根気良く探せば、いつかは見つかるかもしれないッスよ。まあどうせ見つかんないけどね」
 ひゃっひゃっ。ひゃっひゃっひゃ。絶えぬ笑いが箱の外の音のように遠い。
 ブン太は唾を呑んだ。まとわりつく蝿を潰すことも忘れた。背中にパジャマの薄い生地を張り付けていた夏の汗が、違う汗にじわじわと侵食されていく。
 やはり、病院で見せたあの優しい表情は仮面だったのか。
 ジャッカルを失い、喪失の海に漂っていたブン太を、失跡者の死に気づかぬ素振りのまま明るい言葉や優しい励ましをかけていた後輩は、やはり悪魔の演技だったか。相当な役者だ。仮面をつけるのは夜だけだと踏んだのは一足早すぎて、血の底なし沼に足を突っ込んだようなものか。
 考えればおかしかったのだ。どんなに昔からかまいたちによる神隠しが頻発していようと、物質的に考えて、人間の質量が煙のようにかき消えるなどありえない。必ずどこかに人間の質量があるはずだ。いくら蟲を湧かせようと、土に返ろうと、骨を晒そうと、やはり人間の質量を隠すことは容易ではない。
 一通り笑い終わると、悪魔と契約を結んだかまいたちは、鎌のような視線でブン太を見下ろした。
「そうだ。ジャッカル先輩の首級とったときだけ、死に水の代わりにワタアメを口に含ませたっけか。もしペンライトの電池が切れたら、それを頼りに探してみるのもいいかもね」
 それだけの言葉を残して、桜を映す歪な窓から延びる光柱が細くなり、やがて消えた。蝿の羽音だけが延々と鼓膜を抉り続ける静寂が津波のごとき質量をもって、孤独の潮を連れてきた。
 ここにあるのは、腐り果てた死体のみ。生けるは腐肉に群がる埋葬虫しでむしの朋輩。
 その時、胃袋が見えない手に握りつぶされた。口を両手で塞いだものの、喉を内側から押し上げる強い酸が粘膜を焼く。その場に、指で濾された胃酸の太い糸を吐きだした。べしゃべしゃと跳ねた雫が膝に散り、指と指の間に病院食の残骸が濾過され残った。なんども吐ききれずにえずき、酸っぱい咳をした。恐怖でも孤独でもない生理的な涙が目尻に滲んだ。
 まさかこんなところからジャッカルを探さねばならないなんて。
 腐肉は蛆をわかせ、鼠を呼び寄せ、蜘蛛が巣を張る。死体は腐り、膨張し、蟲に喰われていく。腐敗水泡が全身へ散り、まるで火傷のようである。肌からはほとんど生前の面影を感じえない。化学の実験で嗅いだものの何倍も強いアンモニアや硫化水素を混じらせた死臭を滞らせている。肉を掴もうとすれば肉と骨の結合が弱まった死体からは骨が剥きだす。どんなに精巧なゾンビを撃つシューティングゲームよりももっとリアルな血と肉の色。傷口に蠢々たる白い蛆。首と、首のない死体が山と積まれたなかで、たったひとりの死体を捜すなど――
 しかしどこかにジャッカルがいるのだ。うずたかく積もる死肉にまぎれ、たったひとりで細菌や蟲に凌辱されているのだ。ブン太を庇って斬首された相棒を、せめてこの腐りの蠱毒から引きずり出して自らの手で供養せねばならぬという義務感に似た気持ちが、早鐘を打たせる。
 一縷の望みにしがみつき、ブン太はペンライトのスイッチを入れた。眼窩から飛び出す、白濁した眼球がじろりと粘着的な視線でブン太を見た。再び喉元までせり上がった吐き気をえずくだけでどうにかやり過ごす。そうして死体の山を一人一人ジャッカルか否かを確認しながら、次々と切り崩していった。悪夢的なトレジャーハントは惨、また惨。――

  *

 ドアの向こうから聞こえる剣戟にいてもたってもいられず、柳生はドアノブを右へ左へと騒々しく回し、内側から開かないことを悟った。次には窓にとりついてカラメル色の目張りを剥がし始める。仁王が再び窓から入り込まないようにした処置が、かえってこの部屋を籠居の刑場に変えている。手の甲から肘にかけて巻かれた新しい包帯はところどころ血液を漏出させている。幸村も二重の手でガムテープをはがし、バスケットボール大に丸めてゴミ箱に投げ捨てた。それでもやはり生ぬるい。柳生は椅子を頭上に持ち上げ、ガラスに叩きつけた。目をつむった上から細かい破片が散った。椅子を下ろせばヒビが蜘蛛の巣のように張り巡らされた防犯ガラスがビル街を透過するだけだ。もつれる手でがちゃがちゃとロックを弄った。
「柳君、私が着くまで……」
 柳生は小さな声で悲壮に叫んだ。

 仁王に手込めにされたことは紳士にとっては屈辱であった。ところが柳生をそれ以上に恐れさせたのは、仁王に姦淫されることだけではない。彼はそれが人に知られることこそを最上級の禁忌としていたのだ。その禁忌が破られ、なんど死を想ったか。狂乱のうちになんど刃物を手にし、死を求めて血管を裂いたか。そして死にきれず拍動とともに灼熱する傷にえずいたか。
 全ては幼少時代までさかのぼる。柳生が生まれた翌年、女性が生まれて一ヶ月が経ったかどうかのみどりごを連れて雪山を越えようとし、願い叶わず凍死したという。女性の遺族側は、柳生の父が不義を犯して産ませた子供を育てることへの社会的、経済的苦痛が女性の自殺を招いたとし、裁判を起こした。証拠不十分と弁護士の尽力により無罪判決で済んだ話らしいが、その話がどこかから漏れた。おそらく噂好きな有閑マダムの井戸端会議からだろうと柳生は思っている。事の重大さに気づいたのは、同級生が次第に柳生と遊ぶ回数を減らすようになったころからだ。最初にブランコを貸してくれる人がいなくなった。次にバドミントンのラケットが減り、必要なプリントが回されぬようになった。教科書がトイレでびしょぬれになって見つかった。
 幼かったころの柳生は泣いた。しゃっくりを繰り返して、泥だらけの上靴を洗いながら、原因を考えた。周りの罵倒から断片的な情報を集めていくたびに、事実がジグソーパズルのピースのようにかちりかちりと形を成していくのが分かった。不義の子、庶子、落胤、腹違い、そんな難しい言葉を聞いていると、子供心に理解できたことはひとつだけであった。それは、「父が大人げないことをやったこと」。それが具体的にはなにをさすかまでは知ることはできなかったが、とにかく「お母さんの違う兄弟がいる」ということまでは分かった。母は、不安がる幼い比呂士を抱きしめ、「大丈夫、あなたはお父さんの本当の子よ」と、いつもカルテをめくる指で茶色の後頭部を撫でた。
 柳生の父はこのスキャンダルで大学を追放されたものの、なんどかノーベル賞級の研究や発見をした功績により、それ以上の厳重な処分はなかった。しかし柳生家は息子の比呂士に対し日々苛烈さを増すいじめに耐えかねて神奈川へ引っ越した。転校先では、柳生は他の子供たちにいじめられないよう、自らを厳しく律した。父が大人げないことをやったのならば、自分が大人になればいい。大人になるためには、まず社会のマナーをしっかり学んで、実行する。誰にでも平等に、誰にでも優しく、クラス全体に貢献するよう常になんらかの行動を起こす。そんな姿勢が先生に褒められてから、余計にその傾向はエスカレートした。まるで柳生比呂士という名がつけられたアンドロイドの電磁知性に紳士というソフトをインストールして、それを日々バージョンアップして性能を高めていくような、そんな快感があった。
 しかしそれから、自分のかぶる紳士の仮面がはがせなくなった。家に帰ればいつも楽しくコントローラーを握ってテレビの前に張り付いていたり、友人と外を駆けまわったりすることが、なんだか大人っぽくないような気がして次第にやらなくなった。遊ぶだけでは大人になれないような気がした。それでいつも勉強した。自ら望んで塾に行くようになったし、見るものも次第に大人びていった。全て、人に頼られたく、人に悪い目で見られないようにするがため。どんなに羽目を外そうとしても、楽しもうとすれば身体がぎこちなくしか動かなくなる。紳士であれと自らを規定したために、紳士の服を纏い、紳士のように振る舞い、紳士のように生きて死ぬ。社会の要望に合わせて着せ替えさせられたアンドロイドのようだと思った。しかし今さらやめられなかった。
 それでもやはり周りの人間に媚びるだけの自分がときおり厭になる。そんなとき、偶然見て夢中になったのが特撮のドラマだった。現実の不条理に慣れ過ぎた柳生にとって、正義のヒーローたちが悪の結社と闘って勝利する、二元論をそのまま体現した単純な構図に憧れた。漫画や特撮の世界ならどんなに破天荒な行動をしても正義の下ならば許される。紳士の二つ名が通りはじめた時期では、特撮好きの趣味を他人に知られるわけにはいかないので、妹に付き添う振りをして映画やヒーローショーにまで足を運んだ。次に柳生の心を奪ったのは、妹に貸してもらった少女向けの絵柄をした漫画だった。漫画なぞただのカストリ雑誌の延長線上としか捉えずにいた認識が一変し、いままで目にしてきた古典文学よりも強く心を奪われた。コスプレを知るまでに、さほどの時間はかからなかったと思う。綺麗な服を着て、自分が男から女になれるという現実の殻を破りたいという好奇心もあり、初めてビロウドのドレスに袖を通した。鏡の奥で見る人間はほとんど別人だった。等身大のビスクドールがそこにいた。端正な顔立ちがここで役に立つ。背丈という一点を除けば、柳生は他のどのコスプレイヤーよりも美しく、完璧なアンティークドールであった。七体の薔薇乙女のうちの一人になれるような気がした。
 だが、ささやかな陶酔はやがて後悔へと変わる。どこからか情報が漏れ、コスプレをした柳生のブロマイドを手に入れた仁王が、この秘密の趣味をばらすと脅し始めたのだ。コスプレをすることは柳生の中ではオタクのなかでもかなりディープな趣味と定義されており、オタクだと断定されれば周囲の目が変わる。それこそを一番に恐怖した。最初こそはただ諧謔を弄しているのだと思った。実際彼は最初テニスの試合において相手から勝利をもぎ取る方向で柳生に入れ替わりを要求した。しかし仁王の要求はすぐにエスカレートし、男色にまで発展した。毎日のように身体に注入される嫌悪感は行為の記録とともに、コンピューターウィルスのように精神を侵食していく。昨夜は二回の姦淫を要求され、しかも後者にいたっては柳に知られてしまった。それこそが柳生にとって本能に触れるほど嫌うことだった。もし未成年の分際で行った男性同士での情交が風聞として世に知られれば、この地域に引っ越してから今まで最新の注意を払って積み上げてきた自分の信用は地に堕ち泥にまみれる。またいじめを受ける。柳に情事のあとを見られたとき、柳生の脳裏に去来したのはいじめを受けた小学時代であり、またいじめを受けるという恐怖そのものであった。
 知られては生きているかいもない。むしろ死んだほうが全てを考えなくても済む。あの時間帯、ようやく冷静になってから考えれば自らの状態がよくわかる。太陽が昇るまでの長きにわたり、柳生は狂っていた。包丁を、カッターナイフを、かみそりを、家にあるあらゆる刃物を用いて自らを破壊しようとした。動脈を切断すれば死ねるという知識ぐらいはある。幾筋も皮膚に傷を刻んだ。その度に死に切れぬ。創傷と記憶の痛みが絶えず精神を切り裂いた。左腕を血まみれにして狂っていた柳生を宥めたのは柳だった。
「柳生、俺のいぬ場所で死んではくれるなよ」
 柳生の腕に消毒液を吹きかけながら、柳は低い声で言った。柳生は右手で裸眼を拭いながら無為にしゃっくりを繰り返した。その度に肩が跳ね上がった。目が赤也のように赤くなっているような気がしたが、熱さは顔よりもむしろ左腕に集まっていた。左腕は肘から手首にかけてざっくりと何十本も肉色が走っている。左手の指は天井を向いたまま力なく丸まっており、身体が震える度に痛みが走ってぴくぴくと痙攣した。柳に心配をかけたという罪悪感と、修理を待つ機械のように為すがままな己が悔しいのに、なにもできていない。社会奉仕するだけのアンドロイドのような自分が、逆に壊れて修理されているのだ。なんと情けない。
「……私は、もう生きていく自信がありません」
「自信だけで生きていくというのならば、お前も存外に奇矯な人間だな」
 奇矯……言動や行動が常人と異なっていること、突飛、奇妙。柳生は唇を噛んで、奇矯の意味を反芻する。その二文字が寛大を見失った精神を容赦なく刺した。
「だって、私はもうがらくたです、ジャンクなんです。社会では完璧でない人間は排除されます。なんらかの欠陥があるだけで、それだけで、社会からは見捨てられるんです」
「それで生を手放すとでもいうのか? とんだ茶番だ」
 柳は彼らしくもなく侮蔑したように鼻で嗤う。今度は、軟膏のようなものでも塗っているのか、ぬるぬるしたものを柳生の左腕に塗りつけ始めた。じわ、と皮膚が内側から血が吸い上げられるように熱くなる。痛みが吸い寄せられるように薄まる。傷が今どのようになっているか見る気もしないが、これが柳を死の沼から掬い上げた力か、と思考の隅が妙に冷静に分析する。
 柳の一本一本の指がやわやわと傷口の上をなぞり、肉の渓谷にぬめる軟膏を塗りこんでいく。
「ジャンク品くらい修理しないのか。完全な設計図を作ってその通りに作った機械でも、操るOSと身体に命令を与えるユーザインターフェースが生命の肉体である限り必ずどこかに誤算が生じる。完全を求める場所を考えろ。太宰治の言葉だったかな、『人間は死に依って完成せられる』という言葉は。人間である限り、生きている間は完成するに値しないのだ、柳生」
「柳君がそう言うとは思いもしませんでしたよ。完成に一番近いあなたが。ではなぜあなたは完全を求めるのですか。データを求めることは、完全を求めるがためではないのですか」
 誰よりも豊富な智識、的確に情報を用いて組み合わせ発展させる智慧、穏やかな物腰、恵まれた身体能力、そして永遠を生きる肉体。これらを持つだけでも相当に完成された人間だと柳生は思う。紳士の皮をかぶる、恐怖におびえるだけのただの子供である柳生よりも、ずっと大人らしい。そんな人間が、人間は生きているうちには完成しないのだと語りかける。いつもデータを用いて先の現象を予測し、確実な対処をできる、それだけでも充分に大人だ。
 柳は無言で救急箱の中に両手を入れ、整頓されすぎて逆にごちゃごちゃした中から包帯を取り出した。医者の息子である柳生よりもずっと手際よく柳は手当てを進め、包帯を巻いた。
「いわゆる、ないものねだりだろうな」
 包帯止めで包帯の端を止めると、柳は深く長く息をついた。ソファに腰を下ろし、膝に両腕を乗せて、手相占いでもするかのようにじっと手を見た。
「……この手にないものほど、水のように掬えば指の間からこぼれおちていくような、手に入れることはできても、うまく扱うために的確な処理が必要なものほど欲しくなる。知識を蒐集し、解析し、的確な対処をすれば未来も見えると思うのは錯覚だろうか。俺も欲深いな。死から見放されたこの身も、人間であることに変わりはない。是非もないことではあるが。しかしな、」
「……しかし、とは?」
「先刻の太宰の言葉やお前の言葉を合わせれば、俺はやはり死んでいるということなのだろうな。今お前は、俺について『完成に一番近い』と評した。そして、太宰は『人間は死に依って完成せられる』と、著作・『パンドラの匣』で記した。人間は死の瞬間に一番人間らしくなる。死は人間の行為が精算され、結果を残すことになる。死は完成と同義だ。しかし完全なものはいずれ滅びる定めにある。死体現象がその滅びだ。しかし俺にはその『滅び』がない。なんどでも死に候い、生に候う。だから俺は永劫に死の瞬間を繰り返すことになる。人間の完成とはそういうことだ。柳生、お前は完成を求めたいと、永遠に死を繰り返したいと、そう思うのか? 滅びていくだけの存在になりたいというならば、烏滸がましいにもほどがあるぞ」
 穏やかな長広舌に、柳生は柳の細い瞳を引いた顎から見上げた。やや上がった口の端と、僅かにハの字を描いた柳眉は、無言の沈黙のなかで死後を失った我が身を見放していた。
 星が薄れ始めた窓の外で鳥が鳴いた。ちゅん、ちゅん、と電線に止まった二羽のスズメがはばたいて消えた。スズメが飛び立ったときに、小さく「あ」と呟いた柳は、枝のように伸ばした節くれだった指を引っ込めた。そして柳はいつも変化の少ない顔に、不思議そうな色を浮かべて、骨に直接皮が貼りついたような指を凝然と見つめた。まるで、今鳥に向けて伸ばした手が、何を意味していたか自分でも理解に困っているかのように、柳生には見えた。
 太宰治の言葉には続きがある。「虫や小鳥は、生きてうごいているうちは完璧だが、死んだとたんに、ただの死骸だ」と。
 柳生は思う。柳は完璧に見えて、誰よりも不完全ではないかと。智慧と智識が生きているがゆえに、死と生のどちらに縋って生きようとしているのかも分からない、不安定で不完全な人間。だから完璧な存在となるよう自らを律し、完璧に近づこうとする人間の典型なのではないかと。死を亡失した肉体に悩むがゆえ、誰よりも深淵たる、暗澹たる矛盾の幽玄にいるのに、ただひとつの答えだけを探し求めているかのように見える。
「データさえも、ただの死体だ。俺がいま生きているのは、その死体の断片を組み合わせて自由自在に動かしているに過ぎん。やはり俺は、死神なのだろうな」
 手のひらを見つめ続けていた柳は、すっくと立ち上がった。
「さて、俺は今から、精市のところへ向かうとしよう。すまないが、ウィッグや眼鏡を貸してはくれないか。眼鏡は伊達で構わん。死人が動き回っては、体面としても悪いだろう?」
 少し眉を下げ、困ったような笑顔だった。
 どうして、行かないでくれと願わなかったのだろうか。最初に柳が言った「俺のいぬ場所で死んではくれるなよ」という言葉がふいに蘇る。死地が去るように思えた。墓場がどこかへ行ってしまう。スクラップはどこで壊れればいい?
 それでも「紳士」というソフトは、アンドロイドの行動を決定する。「いってらっしゃい」が、勝手に柳生の口をつく。手を振って、死地の無事のみを祈る。

 追憶の景色を海馬に押し込み、圧縮して奥底に詰める。血臭漂い始める香を振り払い、柳生はようやく窓のロックを外した。
「柳君……死なないでください」

  *

 右八相の構えから袈裟切りに疾る白刃を鎌で受け流す。脳の芯に響く甲高い剣戟を漆喰の壁に吸わせたが、二の太刀はほとんど横薙ぎの一閃。咄嗟に後ろに跳んだ。右手の袖が裂ける。細く脂肪を傷つけた切っ先は血の糸を引いて、柳の腹部へと突きを繰り出した。柳生に借りっぱなしだったワイシャツの脇腹が裂けたが肉に触れてはいない。後ろに跳ぼうとした刹那、水平に傾けられていた刀身が真横に滑った。臍の真上を皮一枚割った。切っ先の滑った場所にじわりと熱が集まる。
 瞬間、今度は左肩から右脇腹にかけて、切っ先が疾った。氷のような金属が皮膚を撫ぜ、肉の内部を移動する、厭な感触である。横にどうと倒れ、鉄錆混じりの唾を吐いた。喉の奥から弾けるように湧き出した血の味は生臭く、唾液と混じり合った。握りこんだ鎌の柄が染まっていく。血痰を吐くように、なんども咳をした。
 想像はしていたが、やはり真田は剣道を十年以上続けているのは伊達ではない。まるで近藤勇のように一太刀が重いのだが、雷のごとき速さで刃を閃かせる。技術よりもむしろ気合いで相手を圧倒する、天然理心流の太刀筋である。幕末、攘夷志士を次から次へと撫で斬りにしただけはある。
 真田は紅色を塗った刃を持ち上げた。その眼球は管狐と同じように薄く赤みを帯びている。
「立て、蓮二。立ち上がらぬならばここで打ち首とする」
「弦、一郎、お前は……」
 そこまで言って、血の霧を吐きだした。
「もはや言葉さえ出せぬようだな、蓮二。いや、輪廻の体現よ。再び六道を輪廻し、次こそは天上の蓮の上に生を托されるを待つがいい」
 また、六道輪廻。
 柳蓮二である前に、既に違う他の誰かだと、仁王もコケティッシュな声で語った。
 しかし、ここで輪廻してはいられない。やらねばならぬことがある。
 柳は自らの身体から流れた血の海から這い上がり、目を薄く開いた。手をついたソファの本革にべったりと血の手形が捺された。ふう、ふう、と息を歯の奥で殺して、鎌を斜めに構えた。柳の意思を汲んでか、真田もまた正眼に打ち身を構えた。
 体力が大幅に削られた今、できることはただひとつだけである。先端が切断されて極端に短くなった鎌を握り直した。間合いを測ることもせず、ただ盲目的に真田の身体へ突進し、鎌の刃を振りかざした。打ち物が走り、再び胴を袈裟がけに斬られる。左腕が藁束のように宙を飛び血の帯を引いた。しかし柳は止まらなかった。ただ我と身を投げ込み、真田を捕まえて離さぬように、唇を動かした。夢で聞いたあの言葉。狐の女に言い、変化がとけた短い呪文を、柳は真田に囁きかけたのだ。
 真田の声が、まるで憑物の落ちたように「蓮二?」と呟いた。柳はふっと笑った。「弦……」と最後まで真田の名を呼ぶこと叶わず、その場に崩れ落ちた。胸から血の海に落ちて、ばしゃんと跳ねた。自らの腸の温度が直に分かった。細長い視界の少し向こうに、斜めに腰斬された断面から血と内臓をまき散らしていた。小腸がもとの身体を求めるように柳の上半身へと伸びてきていた。
 世界が冷たく暗くなる。今度こそ、黄泉へとこの身を落とせますように。

  *

 庭を回って家の中に入ったときにはすでに遅かった。
 リビングはすでに血の海になっており、惨劇の中心では腰から下が切断されて内臓をばらまく死体があった。図鑑で見たはずの腸、肝臓、腎臓は生で見るほうがずっとリアルすぎた。ほんの数十秒前までには普通に活動していた痕跡が、体温にあたためられて血腥さを増している。
 柳生の顔が青くなり、白くなり、紫色になった唇が魂消るように柳の名を叫んだ。躊躇なく血に膝を浸して、柳の背を揺らした。泣いていた。死なないでください、死なないでください、そればかりを言っていたが、あの状態で生きていられる人間がはたしているのだろうか。柳はすでに動かず、腰を基準に上下に分断されている。
 真田はその場に膝をついて、なにやらぶつぶつと呟いていた。右手には紅に彩られた刀――おそらく柳を二つに切断したのであろうもの――が、半分ほど開いた指に惰性的に下げられていた。
「真田、お前は……」
 二重の声が震えた。しかしそれ以上の言葉を続けることはできなかった。
 予告どおり、真田は柳を殺した。下手な拷問より残酷な方法で。今まで法規を当然のごとく順守していた邸宅のなかを刑場として処刑された。しかし柳が殺される理由がない。ただの怨恨だとすれば、この手は執拗に過ぎる。平生の真田が伝家の宝刀を持ち出して殺人を犯す理由は、彼の性格をよく知る幸村ならばよく分かった。それならば真田を誰かが操っているとしか考えられぬ。見えない糸で操ることができる人間はたったひとりだけ知っている。最も怖いコート上の詐欺師、ただひとりだ。しかし仁王はここにはいない。それならば遠隔地にいても人間を傀儡とすることができる方法――記憶を探ると、思い当たる節があった。この前真田が幸村を見舞いにきたとき、口の中に流し込んだ銀色の管狐。あれはすでにブン太に一時憑依して家に帰らせ、翌朝に回収したらしい。同じように、管狐が真田を操っていたとすれば……
 言いたい言葉が溢れすぎて、どれを言えばいいのか分からなくなった。柳生の、しゃくりあげるように悲痛な叫びばかりが波紋のように室内に木霊した。
 その時、真田の手の中の刃が持ち上げられた。幸村は柳生の肩を後ろから引っ張った。柳を殺したならば、柳生や幸村が次に狙われない保証はない。ところが刃先はくるりと回り、ごつごつした手が柄を逆手に持った。
 次の瞬間には、源清磨は真田の腹部に深く突き刺さったのだ。止める暇もなかった。切っ先は背中まで貫いた。幸村と柳生が目を剥いて唖然とするなか、真田は歯を噛みしめながら、さらに刀を真一文字に引ききった。ぶづぶづぶづっと繊維と皮膚が引き千切られ、どっと血が滲む。水風船が割れたように血が真田の口腔から噴き出した反動で、源清麿が血みどろのフローリングに落ちて跳ねた。丸い鍔が転がってフローリングに紅の轍を引く。紺色の着物がたちまちに違う色に染まり、細く血走った桃色の内臓が溢れだした。柳の横に倒れ込み、真田の口から再び血の奔流が迸りはじめた。帽子が外れ、血の海に転がった。
 幸村は思わず真田に駆け寄った。
「真田! どうしてお前までが、」
 唇を濃い紅に染め、苦悶の表情で真田は呻いた。苦悶より強く表れているのは、屈辱の色か。
「から、からだを、乗っ取られるなど、武士の、恥」
「たのむ、生きて、お願いだ、真田、こんなところでお前は犬死にするタマじゃない! それは真田もよく分かってるはずだ!」
 真田の左手を両手で包んで、泣きそうになりながら希った。前にも見た光景だった。
 しかし真田は痙攣しながら首を横に振る。
「無辜の蓮二を、き、斬る、など……死を、もって、」
 その短い言葉を紡ぐ間にも白くなっていく真田の顔は死の近きを克明に表している。どんどん温度を失っていく血まみれの真田の手を握り締めた。真田の顔には出血性ショックによって死が白く縁取られている。まだ意識を手放していないのは、常人には及びもつかない精神力の賜物である。しかしその精神の弾力は、徒に真田の苦痛を長引かせるだけであった。幸村が繰り返す「生きて」という願いも真田の精神力を死の淵から呼び戻し、さらなる苦痛を呼び寄せるだけである。幸村は髪を振り乱し、真田に襲いかかる死を拒絶した。それでも静けさを濃密にしていく刑場で、長きにわたる入院で筋力の衰えた指で、真田の左手を強く握りしめた。手のひらの内側から熱が引いていく。自分の体温が真田にしみ込む前に、冷たい血と肉が幸村の手を冷やした。これ以上見ているのもつらい。でも生きていてほしい。幸村は手から力を抜くのも忘れたまま、泣きそうになる顔をうつむいて隠した。しかし肩が小刻みに震えることまでは、どうしても隠せなかった。
「お願いだ……死なないで……」
「幸、村」
 幸村の頬を冷たい指が撫でた。ごつごつして節くれだった優しくない指が顎を伝って、人差し指の指紋が目尻を撫でた。血を吐きだして汚れた、弦のようにまっすぐだった口が、笑みの形に歪んだ。
 しかし次の瞬間、幸村の頬すれすれに白刃が振り下ろされた。長すぎる刃は、かすかにもたげられていた首を刹那のうちに両断した。頸椎の椎間板を巧妙に通り、肉色の切断面からは血が噴き出して、驚愕と屈辱に縁取られた厳しい顔が胴と皮一枚繋がることもなく、ごろり、と転がった。目玉が急激に生気を吸い取られて黒くなっていった。手の中に残った冷たい手のひらが、幸村の体温に混じってまだなまぬるかった。
「っ、真田! ……柳生、きさまっ!」
 弾かれたように背後を振り向いた瞬間、首筋に鉄色の刃先があてがわれた。ひやり、と背中へと怖気が走った。
「これにて遊びは終わりです。三文芝居とはいえ、なかなか面白かったですよ」
 血を絡ませた刃を左手で持ちながら、柳生は口元をにやりと歪ませた。右手は返り血のついた眼鏡を床に投げ捨て、茶色の髪をぐしゃぐしゃと乱した。詐欺師がそこにいた。目だけが紅玉のように赤い詐欺師が笑っていた。そのくせ柳生の面影を残す、厭にばか丁寧な口調で詐欺師は言った。
「抵抗するのはお勧めしません。いいですか、この世は舞台です。男も女も役者に過ぎない。今のはシェイクスピアの『お気に召すまま』の一篇です。忘れてはなりませんよ、幸村君。残酷劇の舞台には悲劇のヒロインが必要なんですよ。降板するのは許されません」
「……さすがは詐欺師だな」
 つばでも吐き捨てたい気分だ。
「まるで気付かなかったよ。いつのまに入れ替わっていた」
「邪推なされますね。私は最初から、柳生比呂士ですよ。ただし、今ここにいる柳生比呂士はウィルスに冒されたアンドロイドだということをお忘れなきよう」
 アルビノのように赤く染まった目だけを笑わせて、アンドロイドは笑む。
 

2008/9/12改訂

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