ふっと明かりがなくなった。最初は、また接触が悪くなったのかと思ってボタン式のスイッチをかちかちと押した。それでも視界は一向に明るさを取り戻さない。嘘だ嘘だ、縋るような思いでペンライトを弄ったがやはり四つの発光ダイオードは白くならない。どんな光さえも出口を見失うような暗闇に目を凝らすも、見えるのは霊魂と瓜二つに浮遊し、目線を追尾するペンライトの残像だけだ。やはり切れたのだ。心許なく、しかしそれにしか頼る術のないペンライトが、長時間の連続使用に電池が保てなくなった。
 たったひとつの光を失った。この死体の山からジャッカルを探し出す術を失った。その現実がブン太の胸に、横隔膜を巻き込んで鉄亜鈴のように重く冷たく沈んだ。
 視覚を奪われた代わりに他の感覚が鋭敏になる。埋葬虫の這いまわる無数の足音が聞こえた。一体一体を丹念に見て、縷々に検分した屍を引きずって別の場所へ移す作業を繰り返したため、全身を腐敗した体液がべっとりと濡らした。さらにそれから発する腐臭が鼻を突く。髪の一本、汗腺、毛穴の奥まで染み込んだ臭気はいくら身体を石鹸に浸しても二度と取れないのではないかとさえ思った。
 どうすればいい。どうすればジャッカルを見つけ出すことができる。もう死体の山は三分の一程度にまで減っている。しかしそれは目が見えたからそこまで分類できたようなものだ。どうする、どうする?
 そのとき、ふと赤也が最後に言い捨てた言葉が甦った。「ジャッカル先輩の首級とったときだけ、死に水の代わりにワタアメを口にふくませたっけか」――その言葉が真であれば、これしかジャッカルを判別する方法はないのではないかと思った。
 ブン太は手探りで無造作に転がる生首を持ち上げた。ボウリングの玉ほどの重さの生肉に触れてぞくっとなる感覚には慣れすぎて、もう感じない。鼻もばかになった。目が痒くなって掻きすぎたら激痛とともに右目が潰れた。全身に直走る電気のような激痛も薄まっているが、蝿のとまった傷口がどうも痒かった。傷が治っていく種類の痒みではなく、生肉に蛆が湧いて孵化し蠢いているのだ。他に見るものがいれば動く死体同然の外貌だった。それでも生ける人間はここにはいない。
 ブン太は唾を嚥下すると、意を決して口を開いた。生首が半分ほど虚ろに開ける口唇に噛みついた。死体の口の中で蛆が潰れ、唾液から生えた黴を直に舐めたため、苦い味がした。口内を舌で蹂躙するも、甘味はどこにも感じえない。ブン太は即座に首級を投げ捨てた。ごろごろと転がる音がどこかへ消えて行った。その場に両手両膝をついて腹の奥から込み上げる嘔吐感にえずいたが、もう酸は上がってこず、代わりに昔誤飲した煙草の比ではない苦い腸液と、電気の味がする唾の混合液が、数筋足元の死体へ落ちただけだった。目の奥がかっと熱を湧かせたが哀しみの涙ではなく毒を口にしたときと同じ生理的な涙だった。あらかたえずいた後、ブン太は腐汁の染みた包帯で口を拭った。
 もし本当に赤也が死んだジャッカルの口にワタアメを放り込んだのならば、口のなかにはまだ甘さか、或いはミュータンス菌の働きによって糖類の変化した酸が残っているはずだ。
 ブン太は首だけの屍に手を伸ばし、また口を吸った。これもまた苦い。舌の上で蟲が這い、潰れ、足の数本をブン太の味蕾に残す。
 今度こそはジャッカルを見捨てない。かつて愛したイザナミを、黄泉比良坂ヨモツヒラサカまできてイザナギのように逃げ帰るようには決してならぬ。そのためならばどんなにこの身が穢れても構わない。どんな奈落の底に堕とされようと、まだ世界は作り終わっていないのだから。
 
  *

 今までになんど冷たい暗闇に放り出されただろう。
 桜の枝にはらわたを引きずりだされ、弦一郎には身体をふたつに分断された。生きられないだろう、生きていられるほうがおかしいだろう、それぐらい肉体をめちゃくちゃに破壊されても、そのたびに新たな身体を得る。一度氷のようになった魂の入れ物は、死を確信したときから肉芽が盛り上がり、背中を割って新たに転生する。
 記憶のなかで最初に死んだのは、四年と四ヶ月と十二日前。その日は晴れていた。汗だくで斜陽の落ちるコートに倒れ込んで、こう言われた。「俺達ずっとパートナーでいような。ふたりで組めばいつか世界だって相手にできる」――無邪気な言葉を耳にしたとたん、目頭が熱くなった。視界の明瞭を剥奪する熱い透明な液体がどす黒く染まったようにも思えた。なにも知らせないほうがいいという自らの判断が裏切りのように聞こえた。ふっと顔をそむけ、友人に、どっちが強いのか勝負を申し込んだ。5-4、このゲームを取れば勝ちというところでコーチに怒られて慌てて帰った。またな、と手を振った。でも、それきりだった。
 幼い頃の柳は帰り道、友人との永遠の別れになるかもしれない予感に咽び泣きながらひとりでバスに乗った。泣いて、泣いて、涙を止めようとしても枯れることを知らないかのように次から次へと涙があふれてきて、ずっと目を拭った。汗でぬれたタオルがまた重くなった。もう会えないかもしれない、連絡先も教えていない。また逢いたくなっても、忽然と引っ越すことになったため、再び連絡するのが躊躇われた。そのうちにバスが終点につく。折り返しのバスはない。まだ携帯電話も普及していない時期、電話ボックスを探すこともなく、ただ考える時間を求めて歩いて帰った。肩にかかるテニスバッグの重みがいつも以上に重く感じられたのは、疲労のせいだけではあるまい。
 人気のない、民家も畑の間に間に点在するような田舎じみた都会の穴。街灯の下、顔がよく見えなかった男とすれ違った瞬間、右脇腹に激痛を感じてその場に崩折れた。腹を押さえた指の間から血がどくどくと溢れだす。あらゆる思考を霞の中に放り出され、痛い、苦しいという生存本能だけがくっきりと夜闇に浮かび上がる。すれ違った男に、助けて、と手を伸ばした瞬間、その男は柳の首を狙って幅広の刃を振りかざした。助けて、博士、声なき魂の断末魔だけを残して記憶はそこで一度途切れた。次に見た景色は、見慣れぬ天井の板だ。モクレンのように目が多い天井が、黄泉がえる幼い柳をじっと観察していた。蛍光灯はなく、部屋の隅にある行灯が風の流れる度に光を揺らめかせているだけだった。年末年始やお盆のときにしか見ない本家のお爺様が、木の皮のような顔を更に強張らせて、柳家次代当主はお前だと、枯れたような声で言った。柳家の血を引く人間は、誰が三人目のかまいたちにふさわしいかを試すため、十歳になった男児を刺すという因習がある。それで死なずに再生した人間が次期当主に選ばれる。それでなければ柳家の忌まわしい血を受け継げないという。
 運命ならば、受け入れるしかない。定められているならば、それに従うしかない。なんどでも死に、生き返り、また肉体がどんなに活性を失おうと、命が絶えることはない。しかし柳は死ぬことのできない身体に怖気だった。最初に聞いたときは受け入れられずに、笑ってごまかそうとした。不死の事例なぞ聞いたことがない。人間を含め生物の死亡率は100%である。死なないということは時間さえも彼を殺してはくれないということだ。死は生に見放された者が最後に行き着く場であるが、その死にすら見捨てられた。生という縄に縛られて肉体の奴隷となる。太陽の光を浴びながら永遠に老いる。それは生きていない。死んでいるのと同じだ。死と生が対極のもので、なおかつそれが片方しかないのならば、残された生は失われた片割れを補うために眠りのなかでのみ死を補完する。全てのものはバランスによって成り立つ。タナトスエロス、夢とウツツ、挙げればきりがない。対極にあるふたつのものは互いに境界線を守り、同じ重さで対等だ。命が生まれたら同じ数が死ぬように、夢のなかにおらねば現、現から一歩踏み出ればそこは夢であるように、互いが互いを侵食せぬように厳格なる掟が設けられている。バランスが傾けば一蓮托生、滅びの道を辿るだけだ。やじろべえの片方だけに重石をつけるとたちまちに床へ墜ちて壊れるように。
 ならば死ねぬ人間は、逆算すればどんなに生き永らえても、生きた長さだけ死んでいるのと同義であるか。今さら死にたいなどとは、烏滸がましいにもほどがある。死人が死を求めるとは、徒なこと。ならば生者から黄泉への希望を奪うのは、単なる戯に過ぎないか。……

 ……また指先が、あつくなる。
 渇望せずともまた心臓は動きだす。
 誰一人、眠らせてはくれぬのか。

  *

 両手首を拘束する包帯は縄の代わりだ。医者の家系だけあって、家でも応急手当などができるよう処置の道具が揃っている。目隠しの包帯を巻いて、部屋の隅で手首を縛ってある。柳生はすぐそこに散らばる真田の臓物をちりとりで掬い、無造作にバケツふたつに突っ込んでラップで簡単に密閉した。血臭を嗅ぎつけてか、蝿が数匹、開放されたままの玄関から忍び込んでいる。それが柳の上を周回し、ときに傷口へ留まったが、卵を産みつける前になにかに気付いてふっと飛び立った。
 フローリングを汚す乾ききった鉄錆色の中心には壊れた人間が倒れていた。真田はずいぶん前にかまいたちが遺体を引き取りにやってきて鎮守の桜へ捧げにいった。柳の遺体は上半身のシャツを脱がされ、うつぶせのまま丁寧に上下をくっつけられている。腹を藁束のように切断されているが、壊れたプラスチック人形を子供が直そうとして途中で放り出したように少し斜めになっていた。これは紛れもなくむくろであるはずなのだが、よく見れば創痍では肉芽のような薄い桃色の組織が盛り上がってきている。薄膜を張ったような表面はケロイドのように光を反射している。傷口だけではない。それは衣服を剥ぎとられた背中全面で同じ現象が発生していた。それだけでなく、幸村の背中で起こっている身体組織の分裂が柳の身体でも起こっている。見る間にも背中が盛り上がり、やがて七、八歳ぐらいの少年の姿に形を得始めた。わずか八時間ほどでこれだ。夜にはすっかりと形になっていることだろう。
「さすがは死神じゃけ。死んでおるから再び死ぬわけがなかし」
 くつくつ、と柳生は漏れる嗤いを手で隠した。片手には真田の介錯に用いた源清麿を引っ提げている。はこぼれひとつせず、そのうえ鎌の先端を切断した刃には鎬にも峰にも乾いた鉄錆ばかりがべったりと付着している。
「俺は管狐で魂の扱いは上手くないから、雅が来るまで待たんといけんが……もう少しで死神も転生しよるから、どうせだし神社まで連れていくか。もちろん神の姫様もな」
 管狐は、14年前に乗っ取った「仁王雅治」の肉体と、それにとりつく本人格である「狐」を完全に区別するときには、依代である肉体を「マサハル」、狐の人格を「雅」と呼び分ける。更に「雅」の場合、人格を男性性と女性性に分割し、読みを「まさ」と「みやび」のふたつで使い分けるのだ。これは仁王自体が約五百年の長きに渡ってこれだけは変えずに守ってきた掟であり、使役する管狐にはより強く分類させている。
 それはなぜか。雅の名を冠する妖狐は狐ではあるが、既に肉体は殷の時代には滅びている。その代わり他人の肉体に乗り移り、魂のみの存在として生き永らえているためだ。14年前に雅は、不義の子供を産んだというレッテルに潰され、山で嬰児と心中を選んだ女の子供に取り付いた。それ以来ずっと「仁王雅治」を演じ続けている。
「ひとつ聞くよ」
 柳生は仁王の姿のまま、ん、と小さく唸って峰を自らの肩に乗せた。紫色の唇が小さく動き、幸村は言葉を紡ぎだす。
「お前はこの世界を劇場と称した。ならばこの残酷劇はなにをモチーフとしているんだ」
「モチーフか」
 柳生は天井を見上げ、四桁の掛け算を出題されたときのように視線を泳がせた。
「こん身体に憑いちょる管狐は雅の魂の一部じゃからだいたいの考えは分かるが、そのことは考えたこともなかったのう」
「劇にはシナリオがあるだろう。それすらもないのか」
「いんや、なくはなかよ。敢てゆうんなら、この舞台を完成させるために書き下ろしたようなもんじゃ。お前さんが囚われた姫君。参謀は姫を助け出そうとした騎士ぜよ。じゃが、騎士が死神だと知って、姫を助け出そうとした騎士その二、つまり武士に成敗される。そして活けるマネキンが死んだ武士の役目を引き継ぐんじゃ。死神の骸を土産にな。並行してもうひとつ、脚色した舌切雀の物語も同時上演中じゃよ」
 幸村の顔が、合点のいったかのような色に変わった。声を出せないという点だけで見れば、ブン太は舌切雀以外のなにものでもない。幸村は謎かけに謎かけで返した。
「舌切雀は今、どこにいる」
「鳥籠じゃよ。鋏に捕らえられて翼まで失った、孤独で愛(かな)しい舌切雀。背中にあった羽根をもがれて、翼を必死で探しちょうよ。ダニやノミの湧いた羽毛の山にもぐりこんで、あれじゃない、これでもない、ってな」
 柳生はひとつずつ摘んで捨てるように手をひらつかせてみせた。城から解放され、傀儡に捕らえられた神の姫は、ぎ、と歯の奥を軋らせる。幸村は敏い子だ。気障な比喩を理解できないほど戯けた人間ではない。なにせ二つ名に神の子を冠するほどだ。
 ふっと視線を落とした先、乾いた血だまりに倒れる屍の背から盛り上がる肉の塊は、幸村の背から分離しようとする姫よりもずっと早いスピードで表面を波打たせている。後数分で完全に分離するだろう。
「怖いねぇ、うちの参謀は」
 柳は幾度肉体の死を経ようと黄泉の客には決してならぬ。しかし、それでいいのだ。そう簡単に魂を手放してもらっては、わざわざ真田を招いて殺害させた意味がない。おいそれと死ねぬならば、魂の雛型だけでもふるいにかけよう。そして今まで無数の人間から集めた一蓮の魂のかけらを寄せ集めて人間を再生させる。たったひとり、本当に愛した人間を。
 窓の外はすでに光を失い、溶けた金属のような円盤は地平線下にある。代わりに満月を少し過ぎて細くなった楕円がビル街の上でいざよっているばかりだ。
 棚の上に用意していた着物を柳の横に置いた。紅蓮の生地に薄桃の蓮が咲く柄の着物。金のかんざしや、足袋、紅の下駄、そして自らの部屋から持ってきたトランクスを持ってくる。さすがに子供向けのドレスは持っておらず、七体の薔薇乙女たちで最年少者のドレスも、柳生の体格に合わせて作られている。子供の姿をかたどって生き返る柳にはサイズが合わない。それならば少し大きくても、妹の部屋からいくつか綺麗なものをかっさらってきた方が充分に楽だ。
 木の皮をくしゃくしゃにしたような皮膚の残骸を足元に、わずか七つか八つほどの齢の柳が眠っていた。髪は肩につくほど長く艶やかだ。
 まだ意識のない柳を抱き上げると、力なく腕がフローリングの床にこぼれおちた。これでも身体はあたたかく、むしろ熱っぽくもある。鼓動は全力疾走したあとのようだ。柳生はそんなことを考えながら、慣れた手つきで着付けを終えた。鋏で髪を整え、かんざしをさした。滑らかな頬に乳液をつけ、ファンデーションとチークを薄く塗り、半開きの唇には毒々しく紅を塗った。その柳生の手つきは七五三の日付を間違えた親にも似ていた。まるで女の子のように着飾られた柳は日本人形のようでもある。その派手さは、慰撫する神に捧げる供儀そのものであった。
 風が渦を巻き、肌を内側から血の色に染めた赤目のかまいたちが、柳生の前に片膝をついた。
「さあ、幸村、行くぜよ」
 どこへ。赤也に引っ立てられつつなじる幸村に、続けて答えた。
「黄泉比良坂じゃ」

 唄え、唄え、子守唄。唄え、唄え、呪い唄。
 唄え、唄え、遊び唄。唄え、唄え、童子唄。
 身体に満ち満ちる呪いの言葉を旋律に宿せ。唄に呪詛を孕ませよ。惨き屠殺を夢想せよ。酸鼻は此処に極まれり。死屍重ねるは現にあらず。夢を累ねる夜見にあり。眠れよ神の子、夢見よ死の神。仇敵をその手にかけて、動かぬ死肉に悦楽を感じよ。
 それができぬは、お前がただの人間だからじゃ。

   通りゃんせ、通りゃんせ
   ここはどこの細道じゃ
   天神様の細道じゃ
   ちっと通してくだしゃんせ
   御用のないもの通しゃせぬ
   この子の七つのお祝いに

 そこまで唄うと、柳生はふっと笑い、言の葉を変えた。
「――贄を届けに参ります」


   行きはよいよい、帰りは怖い
   怖いながらも、通りゃんせ、通りゃんせ……


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