甘い味がして、ブン太は唇を離した。砂糖と酸の味、菌糸を張る舌の上には血の味が薄く張り付いていた。頭皮を再び撫でるが、いつもであればつるつるの肌がわずかにざらざらしている。しかし坊主頭ということに変わりはない。髪の毛や髭などは死後も皮脂などを栄養にしてしばらくは伸びるという知識ぐらいはある。
 生首の顔を撫でた。腐敗と膨張が始まる皮膚は蟲やネズミに噛みちぎられ、腐敗した体液が皮膚にまとわりついてからからに乾いている。目を撫でると干からびた角膜が眼球に張り付いたまま飛び出しており、手のひらがそれに触れた。それでも不思議と恐ろしくはなかった。一切の光がなく、耳は蟲に喰われ、強烈な刺激臭によって使い物にならなくなった無限地獄で、唯一信頼できる舌によって、決して見つかる保障のない友人を一部だけでも探しだすことができたのだ。
 ただ嬉しさとは無縁すぎた。見つかったジャッカルはやはり死んでおり、蟲湧くただのししむらに過ぎなかった。
「(ジャッカル……ジャッカル……)」
 ブン太は首を胸に掻き抱いた。首にかけた細い金の筋が死体の鼻に触れて動いた。なんど止めようと思ってもその度に祈りを込めたエスカプラーリオが、汗ばんだ皮膚になまあたたかく張り付いた。
 しかしあまり長くいるわけにもいかない。
 ここには無数の死体が無縁となって朽ち果てている。首だけでも見つける事はできたが、もしこのままであれば他の死体はジャッカルの首から下もろとも腐りゆくだけだ。最高、そして最低の目標である「ジャッカルを見つけ出すこと」を終えた。そのあとになにをすべきかは、分かる。
 今まで引きずってきた死体の服から盗み出した百円ライターをポケットから抜き出した。そしてブン太は小さなオーエルメタルのフリント(火打石)を、かちり、と弱々しく押した。もう二度と見られないと思っていた明かりはマッチ売りの少女のように幻想を見せてくれるのではないかと思っていたのに、ただ網膜を刺すだけだった。手近な死体に近づけると、ぽっ、と蒼い炎が腐汁の染みた繊維に燃え移った。そのまま背を伸ばすこともなく腐肉を這いまわる炎は先が薄いオレンジ色を呈しているだけで、ほとんどが人玉のように蒼かった。その明りが黒い煙に遮られてむらに光っている。
 ブン太はその場を離れ、ジャッカルの首を抱きながら骨の絨毯に寝転んだ。ここで死のう、ジャッカルと一緒に。ひとりだけでも見つけることができたのだ。頬を伝う冷たい雫は煙を拒否する生理的反応か、それとも相対死を望む心によるものかは、ブン太には判断できなかった。頭が鼓動に合わせてがんがんと響いた。吐き気はなんども経験していたが、もう吐けるものはなにもない。きぃーん、と炎の音をかき消すほどの耳鳴りが聴覚を支配する。身体が動かなくなる。このまま死ぬだろう、覚悟ではなくただ呆けたように、ふわふわとした感覚に身を任せる。
 死体の山を這いまわる炎は幽玄なまでに蒼かった。死体の指先に蝋燭のような藍色の炎が灯っている。薄明かりが天井へと光を投げかけていて、根を生やした土の壁や天井に手や足の形をした奇怪な影絵を映した。
 首から下を失ったジャッカルを両腕で抱きしめながら、ブン太はそっと目を閉じた。目の端からなにかが一筋零れたが、その温度さえわからなかった。それきり意識はジャッカルのいるかもしれない世界への夢想に沈んだ。

 輪廻の概念がなければ、永遠に逢うことは叶わぬ。
 天国の概念がなければ、永遠に棲むことは叶わぬ。
 すれ違う心に願おう。再び輪廻の果てに逢うその日まで。奈落の底で逢う、その宵まで。

  *

 やけに身体が熱い。背中に、胸に、足に、布が濡れてへばりついている。この暑気は夏に和服を着るときと同じだ。あまりに重いまぶたを開けていられず闇の中で意識が右往左往する。髪でかんざしのような細い金属がなびき、この肉体を運ぶ人間の歩みと同時に擦れて鳴り合う。誰かに横抱きされているらしく、膝の裏とうなじにじっとりと汗ばんだ人間の体温を感じた。階段を上っているらしく、定期的なリズムで揺れた。
 目を薄く開くと、そこにいたのは眼鏡を外して裸眼の柳生だった。柳は縮んだ手で柳生のシャツの胸生地を掴み、それでも気付かないらしく、そのまま久しぶりに出したような声で、柳生、と呼んだ。どうやら子供用サイズの着物を着せられているらしく、長い袖が風に揺れた。柳生はようやく柳に目を向けると、仁王と同じつらに宥めるような笑みをうそくさいほどに浮かべた。
「ああ、柳君。もう起きられましたか」
「それはいい。むしろいま、ここは、どこだ」
 失ったと思い込んでいた変声期前の声が骨振動を伝わって鼓膜を震わせた。
 柳生は詐欺師の面の皮をして、紳士の優しさを柔らかにその細面に浮かべる。
「不安になられなくとも大丈夫です。もうすぐ神社につきますよ」
「神社……」
 神社というキーワードに、朦朧としていた思考から霧が押し流された。一気に明瞭になった五感と思考に、不吉なイメージとともに単語が連想された。神社、鎮守の桜、樹木子、吸血樹木……自らを刺殺し、そしてまだ生贄を求める吸血桜のもとへ向かう柳生の行動に、柳は全身総毛立った。すぐそこにある生地を掴んで激しく揺らし、姫抱きから逃れようと柳生の胸を叩き、四肢をばたつかせた。柳生は一向に離す気配がない。そして気付いた。足が開かず、くるぶしがぎっちりと包帯で拘束されていた。そのうえ一度子供の姿に戻ってしまえば、もとの身長まで戻るには最短でも一日を要する。それまで柳は幼く脆弱な肉体でいるほかない。大人以上の力を持つ友人の手から逃れ得るのは容易なことではない。
「あまり動きまわるのはおすすめしません。着物を着ているのですから、そのように暴れては裾がはだけますよ。案外あなたも蓮っ葉ですね」
 柳はかんざしをむしって投げ捨てた。呂律の回らない高い声で吐き捨てる。
「それはじゃじゃうま娘にいう言葉だろう」
「今のあなたも充分に小娘に見えますが、なにか?」
 そのとき、柳はようやく自分の置かれている状況に気がついた。袖が長く、見覚えのない着物は月明かりによって照らされている。左右の前身頃には薄桃色の蓮華が花開いている。それだけでなく顔全体が少し暑い。急激な細胞分裂により新陳代謝が高まった結果体温が上がっているというだけではない。なにとなく、顔全体に薄く化粧品でも塗られているかのようで蒸す、かすかな違和感だった。顔を拭おうと手を頬に滑らせたが、すぐに横あいから違う手が手首を掴んだ。痩せて節くれだった指が柳の手首を掴み、そのままぎちぎちと力を込めてくる。柳生の背後から顔を出したかまいたちは、月明かりに充血した目を光らせた。手負いの獲物にどのようなとどめを刺そうか品定めをする意地の悪い狩人のように唇を舐める。
「柳先輩のキレーな姿、もう少しくらい堪能させてくださいよ。せっかく柳生先輩が死化粧を施してくれたんだからよ。いや、仁王先輩か? まぁいいや、どっちでも」
「なにをたわけたことを。赤也、この手をはなせ」
 しかし五本の指は更に万力のように締め付けてくるばかりだ。歯をくいしばって耐えるには肉体の限界が予想より早くくる。すぐに手首から先が冷え、欝血し、腱が圧迫されて指先が丸まった。柳生に抱きかかえられたまま柳は一本一本の指をこじあけようと、皮膚と指の間に爪を潜り込ませた。指はますます食い込んでくるばかりだ。
 拗ねた目で赤也は吐き捨てた。
「……アンタ、俺がなんど『痛い』って言っても鎌を離してくれなかったくせに」
 みしみしみしっ! と激痛とともに骨が軋んだ。手首で灼熱した熱にぎゅっと目をつぶった。まだ柔らかい骨が若木骨折する直前になって、さすがに見兼ねたらしく柳生が穏やかに叱責すると、赤也は唇を尖らせて「へーい」と手を離した。血流を止められた手首の先に熱が流れ、指先へ熱が浸透した。痣が黒く手首を巻いた。子供姿の柳という今までの鬱憤をぶつけられるサンドバッグを失うと、赤也は声を荒げて、遅れてくる神の子を刺々しく、ことさらに強く叱咤した。柳生の肩越しには、月明かりに照らされつつ長い石段を一段ずつ足で確認しながら上る幸村の姿があった。しかし両手を身体の前で縛られ、包帯が縄の代わりとして長く延びていた。口にはタオルのようなもので頸部をぐるりと回った猿轡が結ばれている。被布のように薄い外套を頭までかぶっているが、その下にある顔では白い目隠しが横断していた。最大の武器たる瞳を塞がれ、幸村は失われた視覚と、制限された聴覚のなかで、不安定な階段を上っていた。顔には擦り傷の跡があり、額は髪の生え際で少し切れて血を流していた。薄翠色のパジャマのズボンでは、膝の少し下の布地が土に汚れている。
 かつて最強とも謳われた立海三強の面影はどこに求めようもない。ひとりは不帰の客となり、残りのふたりも童子か、自由を奪われた病人だ。その状況が赤也に棲みつくすさまじいまでの嗜虐心を刺激したのだろう。
 そのときまた幸村が石段に足をひっかけ、重心が後方へ傾いた。赤也が包帯を縄代わりに引っ張ると、倒れる軌道が強引にねじまげられ、階段によこざまに倒れて、ごつっ、と頭蓋骨を打つ音がした。その体勢のまま、数段に渡ってずりおち、階段の途中の踊り場にへたりこむ。
「ほら、早く立って下さいよ、部長。ちょっと急いでますんで」
 猿轡の隙間から、掠れた息が浅く速く漏れる。一向に起き上がらない幸村は、目隠しの奥でなにを思っているのだろうか。影武者を最初で最後に見破った真田のことか、あるいはその真田をあやつって死に追いやった仁王への果てなき怨嗟の嘆きか。
「立てよ」
 猿轡を噛みしめ、幸村はようやく首を持ち上げた。それでも立ち上がらない姿が、さらに赤也の淫虐心をそそる。かまいたちは幸村の前にしゃがむと、細い顎をぐいと持ち上げた。
「甘ったれんじゃねえよ。ね、幸村部長」
 目隠しと猿轡のせいで幸村の表情は窺いしれない。頭を縦にも横にも振らない幸村に短い気が触発されたか、赤也は髪の生え際を鷲掴みにして無理やり顔を上げさせた。白い喉が限界まで伸ばされ、小夜の月光に染まった。
「舞台はもうすぐ幕を開ける。キャストも揃ってるし公演だって間もなく始まる。舞台が始まる直前にゃ仁王先輩が謡うんだよ、これまでにない残酷劇のはじまりはじまり、ってね。ただよ、アンタには檜舞台の花形になってもらわなきゃ採算が合わないんスよ。真田副部長が腹切って死んだのがそんなにも哀しいなら、死体くらい持ってきてやっから、舞台上で思う存分泣き叫びゃあいい。脚本に入ってることッスからね。でもよ、再演がないと決まってる人形劇が終わったらヒロインといえども人形はもういらねんだ。苦か楽かは知らねえけど、どちらにせよ処分する。案外、真田副部長と一緒の場所にいけるかもしんねッスよ?」
 赤也は言い捨てて、髪を力任せに引っ張った。髪の毛が数本一気に毟られる。うぐ、と声にならないうめき声とともに、生まれたての小鹿が震える足で起き上がる姿にも似て、幸村は右も左も分からずに両の足で石段を踏みしめる。
「切原君、そのくらいにしたまえ。もうすぐ幸村君にとって後ろの正面からは失われた双子が分離するのですよ。姫が出る前に城を落としてどうするつもりですか。あるいは罪を贖わせる前に処刑するつもりですか、神の子を」
「わーかってますよ。不安がらなくても充分ですって、柳生先輩。まだ殺しやしねえから。ね、囚 わ れ の 姫 君ダムゼル・イン・ディストレス?」
 夜目にはレースのように白く映える包帯を引っ張り、階段の方向を示した。
 ゴルゴダの丘へと引きずられる基督よろしく、幸村は双子の十字架を背負う。

  *

 視覚と聴覚を奪われた暗闇には、いつもその姿が浮かぶ。あるときは優勝の賞状を掲げ持つ皇帝の姿。全身を汗にびっしょりと濡らし、勝ったときの姿。崖っぷちで手に入れた勝利の代償として紫色に腫れあがった両の膝。王者立海大附属を、副部長という柱として支えたその厳しい表情が、瞼の裏に現れてはかききえる。
 優しくなく、丁寧でもない。どんなに落ち込む人間にも容赦を知らず、正しいことを正しいように宣言する。そのうえ人間の感情の機微というものが全くもって理解できない。常に皇帝として威風堂々腕組みをして、這い上がる人間を瞬く間に捻り潰す。負けた人間には容赦のない裏拳を食らわし、自らが敗北した場合は仲間に本気で殴らせる、度を超すほどの潔癖は決して曲がることはない。是は是、非は非。道は道、非道は非道。彼の論理には中間など最初から存在を抹消されている。それゆえ、真田は一度柳を殺害した自らを粛清した。だがたとえ柳はなんど殺しても死なぬ身だと知っていたとしても、彼ならば迷わず腹を切っていただろう。その腹に魂が宿るとすれば、真田の魂はいまいずこ。
 しかし、と幸村は思う。
 そんな実直な人柄だからこそ、こうして幸村の傍にいてくれた。病に倒れた幸村に宣言した言葉、「俺達は無敗でお前の帰りを待つ」。二度とみなのもとに帰れないかもしれないのに、真田は幸村の病が治ることを一切の雑念なく信じて、そう契ってくれた。一刻も早く仲間のもとに戻り、全国優勝を成し遂げたいと願った。そのために、臓器の分裂を速めてしまえばいい、その為にはどんな協力も惜しまないという柳の申し出に応じた。ほとんど縋るようなものだった。それでかまいたちの薬を用いはじめたけれど、やはり外見に作用する病なので背中には人間の形をした肉芽が盛り上がる。その姿は事情を知る柳には見せられたが、真田にだけは見られたくなかった。たかだか一年と数ヶ月の短い期間しか共にいられなくても、彼の性格は誰よりも理解できた。
 もしも身体が二つになった姿を見られたら、真田はこの俺を軽蔑するだろうか? 一度その考えが脳裏によぎったとたん、いてもたってもいられなかった。ベッドのカーテンを閉め切って、頭まで布団にくるまりながら、ずっと歯を震わせていた。ぬくぬくとした暗闇の子宮で、全てを拒んだ。内臓のいくつかが分裂する途中でまだ外見がかろうじて健常者と同じだったころ、幸村のところへ真田が、関東大会は順調に勝ち進んでいる、と報告をしにきた。しかしその直前、医師が「もう二度とテニスはできないだろう」……病気の進行が分かっても、治療法が分からなかった医師の言葉を盗み聞きしてしまった後というタイミングも悪かった。幸村は見舞いに来る真田に、もう帰ってくれ、と叫んだ。
 関東大会に出られない絶望と、全国大会まで出られない苦痛が涙腺を刺激しながら、幸村は己を呪った。なんでそんな暴言を吐いてしまったのだろうと悔やんだ。この姿を見られたくない。そのためだけに仁王に、見舞いに来る人の相手を頼んだ。
 しかし見返りとしての要求、黄泉の扉を開けることは、身近な仲間に犠牲を強いた。はじめに浦山が殺された。次にジャッカルが殺された。ブン太も重傷を負った。柳も再生を余儀なくされて子供の姿へと戻らされた。そして真田の自決。無数の死を詐欺師はせせらわらい、かまいたちは切り刻み、紳士は詐欺師の服を着る。
 狂い始めたのは歯車なのか、それとも、真田をおもうこの心か。
 もし泣いて真田が帰ってくるならば、涙が枯れても泣いてやろう。この身を生贄にして真田が生きて帰るならば、この身体を死の闇に落としてもいい。どんなに血を抜かれても骨を砕かれても引き裂かれても千切れても擦り下ろされても皮膚に無数の穴が開こうと体組織をぐちゃぐちゃのミンチにされようとも、真田が帰ってくるのならば。しかし理性は、真田がもう二度と帰ってこないことを伝えている。
 真田や仲間達を追い返してしまったその夜、幸村は将来への暗い展望を振りきれずに咽んでいた。薬とアルコールの匂いが繊維の奥まで染み込んだ病院の布団に頭までもぐり、誰にも言わずにテニスができないかもしれないという予感に包まれて女々しく泣いた。テニスをとったらなにも残らない人間からテニスをとれば、そこにあるのは指針を失った人形のような肉体だけだ。病の枷が両手両足をベッドに縛り付ける。
 泣き咽びながらも、幸村は気付いた。音もなく開いた扉から、これまた足音を殺した人影が近づいてくるのを。赤く腫れた目を隠す暗闇に感謝して、涙声を押し殺して尋ねた。人も殺せそうなほど低くどすの利いた声に、齢十四の少年とは思えないほど低く老成した声が微塵の狼狽もなく答えた。「屋上で流星群を見るぞ」。ぺったんこのシュラフをふたつかかえてやってきたのは真田だった。蓮二の入れ知恵だ、とか、すぐに戻るぞ、と皇帝なりの照れを隠しているのが見え見えだった。それがおかしくて少し頬が綻んだのを目ざとく感づかれて、真田は先を促して屋上への階段を上った。
 屋上では夏の夜風がごうごうと吹きすさんでいた。死角になりそうな給水塔の陰に陣取り、シュラフにくるまった。真田の肩によりかかって体温を感じた。こんなときに限って自分の低体温を恨み、それ以上に欣幸した。
 もし俺がいなくなったら全国制覇をどうする、と尋ねた。お前がいなくなるわけがない。微塵の不安も感じさせない、腹の底の底から疑わない声で真田は答えた。そして、逆に、俺がいなくなったらどうするつもりだと訊かれた。自分が消えるという想像は脳も時間も腐って、覚悟も底なしの諦めに変質してしまうほど繰り返した。しかし真田がいなくなることを考えるのは初めてだった。転校とか、引っ越しとか、そんな些細なものならば同じ地に立っていることを思い出せばいい。それでもたとえば真田が死んでしまったら? 人間なんて脆い生き物はいつ突然消えてしまうか分からない。病棟では厭になるくらい繰り返されて、身にも心にも染みついたことなのに、ふと身近な存在に当て嵌めてみればこれほど恐ろしいものはない。
 指先が冷えて、シュラフをぎゅっと握りしめた。身体が小刻みに動き出すのを、夜気の冷たさに責任転嫁した。その場で笑って、それより空を見よう、と天空を指差した。本当は、もしいなくなったらこわくて、そんな想像するのもいやでいやでしょうがなくて、そんなこわいことを考えるよりも流れていく星を見て、他愛もない想像を膨らませるだけでよかった。視界いっぱいに広がる墨汁の空で光の粉が花火となる。生まれては消える流星群を指差して、消えてしまったあとに、王者としての矜持を、全国制覇への夢を語り合った。星がかなり動いたころから一度記憶が途切れる。次に起きたときには互いの肩にもたれかかって眠っていたらしかった。星が薄れ、東の空はうっすらと白み、薄紫の雲を棚引かせていた。四時になるまでの数分、真田の寝顔を見ながら、この時間が終わらなければいいのに、と記憶のスクリーンに流れる星に願った。
 まだ肩にもたれて眠る真田との穏やかな時間が、そのときは永遠に続くものだと思っていた。その瞬間が永久に失われるなど塵ほども疑わなかった。それなのに、真田を行動原理にするあまりに、逆に真田を死に追いやった。なにを選んでも裏目に出てばかり。取るべき行動の札がまるでマジシャンの手の内にあるトランプのようにあらかじめ決められている。どうして流星群の夜に、この時間が終わらないでほしいと願わなかったのだろう。願う前に消えてしまう星に、真田がいなくなりませんように、とたとえ戯れでも考えなかったのだろう。
 真田への声なき嘆きが暗闇に木霊するたびにまぼろしばかりみる。どんなに足を動かしても、手を伸ばしても、名を呼んでも、決してその場に止まることはない。速度を増して逃げ去っていくばかりの、人の形をした影だ。包帯に巻きつけられた闇の中、時間さえあればすぐによみがえる。もしや狂ってしまったのではないかとさえ思った。狂ってしまえばいいと思った。
 もしこの眼が狂ってしまえば、お前の幻影にならば逢えるのだろうか?
 もしこの耳が狂ってしまえば、お前の声であれば聞こえるのだろうか?
 もしこの肌が狂ってしまえば、お前の体温なら感じられるのだろうか?
 もしこの鼻が狂ってしまえば、お前の汗の匂いを嗅げるのだろうか?
 もしこの舌が狂ってしまえば、お前の赤い血を舐められるのだろうか?
 もしこの心が狂ってしまえば、その魂に触れることはできるのだろうか?
 気がふれ、血迷い、死の果てで朽ち果て埋葬虫棲む土に崩れた身体の前で泣けば、涙を吸って華が咲くだろうか。微かな種が芽を吹き、葉を伸ばし、やがて深い幹となって、削り取られて幾箇所も折れたこのやわな木を支えることができるのだろうか。
 しかし裏目に出るならば、こうやって考えることさえ裏目に出るのではないか思ってくる。
 ならばもう一度、星に願いたかった。こ い ね がうだけならば戯れにも真摯にもなれる。もしもあのときに戻れたなら、真田がどこにもいきませんようにと、それだけをなによりも強く願ったのに。風よ、星よ、如何に望めば、叶うのか。

 祈りはどこまで祈れば届くのだろう。
 願いはいつまで願えば叶うのだろう。
 叶わぬ想いだけならば、せめて夢の安息の中だけでも――



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