ふっと目を開けると、夜桜時雨の奥にはいざよう月がぽっかりと夜空に穴を開けていた。星はそれ自身よりも強い光に食いつぶされ、ぼんやりと星座にもならずに散らばっている。
 まだ重いまぶたの裏には、まだ夢の残滓がこびりついている。額を手でゆるく覆う。海馬のゆりかごで長きにわたり丁寧に扱ってきた懐かしい記憶、この場で目をこすったらすぐに消えてしまいそうな懐かしい夢を見た。四百年と少し前、一蓮は無数の銃口の先で、鉛の雨に貫かれて死んだ。あのときと同じように雅やかに散るこの桜の下で蜂の巣にされて、血を桜の根に吸わせながら。太い桜の枝に腰掛け、幹に背中を預ける。桜の花を手で支えた。血を吸って恨みと未練と恐怖が濃縮された華は、人間のように脈打っている。拍動が空気を振動させる度に景色は陽炎のようにひずみ、波紋のように広がって消える。
 想い寝をするのは久々だ。平安時代に宮廷に入ったときに知った話だが、よくできた考え方だ。夢のなかに想った人が出れば、その人間もまた自分のことを恋うてくれている。桜の花に口づけた。腐敗した血を吸いすぎて葡萄色になった花弁は、樹とともに、どくん、どくん……と脈打っている。心臓の音にも似た幻の振動が、新たな世界の鼓動にも聞こえる。それはまた、一蓮が再びこの世に生を受けることと同義だ。表面張力でどうにか零れずに世界の形を保つだけの狭い参道は、針で突けば風船のように弾けて、新たな世界の空気を放つだろう。
 新たな世界はどのような世界だろうか。一蓮と過ごせた、短いけれども幸せな世界を生み出せればいいな、と夢想する。もう一度、穏やかな声で名前を呼ばれたい。もう一度、その腕の中で温かみを感じたい。遠き戦場から漂い来る腐肉と硝煙の香を獣らしく鋭敏な鼻で嗅ぎながら、その時だけは見果てぬ夢を語り合う、そんな戯れにも似た時間を過ごしたい。
 殷が終わるときには武王に裏切られた。その後、憂さ晴らしに褒ジに化けたときは幽王に娶られ、戯れに笑わずに過ごそうかと思えば、ふとした拍子に出した笑顔を求めた王が国を滅ぼした。この国に渡ってきたときには吉備真備の計らいで乗船させてもらった。日本に陰陽道の秘伝書「金烏玉兎集」を持ち帰ったのは真備だ。「刀辛抄」では「刀辛内伝」を齎したのも彼であり、この国の陰陽道の祖としている。玉藻前となって鳥羽上皇に寵愛を受けたがやはり身近な人間はすぐ死ぬ傾向にあるのか、陰陽師に疑われた上に祓われて殺生石に閉じ込められた。そのまた四百年くらい後になって一蓮と恋仲になるとは、つくづく陰陽師に縁があるようだ。
 さて、柳は陰陽道を使えるか否か。死んでからもまた柳の生きている姿を見たら、一蓮は雅(みやび)に逢いに転生を繰り返したのではないか。どちらにせよ、限りなく零に近い希望でも、数学的にゼロでなければそれでいい。四百年も抱き続けた淡い想いは、いつかかならず叶えてやろう。そのことだけを一心に思い続けて、この世に飽きつつも生きてきたのだから。
 三人分の足音が最上段を踏んだのと同時に、仁王は桜から下りた。
「遅かったの、やぁぎゅ」
「なにを。暇を満喫していたくせに、私達に責任転嫁ですか」
 柳生は不満げに柳眉を下げる。顎で指示をすると、赤也が幸村の背を両手で突き飛ばした。神の子は両手を拘束されたまま横倒しに倒れこんだ。その隣に子供姿の柳を放り投げる。咄嗟に頭を上げたとはいえ、後頭部を強く打って小さな参謀は苦悶にうずくまる。きらびやかな和服に身を包んだ座敷童子然とした姿は、仁王が想像していた以上に人身御供として充分な晴れ着だった。
「あなたの要求通り、引っ立ててきましたよ。神の子と、贄を」
「ええ子じゃ」
 そう答えると、仁王は自分そっくりの頭を引き寄せ、唇に深くキスを施した。舌と舌が絡む粘着質の音の後、ふたつの唇は離れるのを憂えるように名残惜しく銀糸を引く。柳生は口を拭うこともうろたえることもなく赤い虹彩を月夜に光らせる。艶麗な魅力さえ目と唇から匂わせる柳生は、一蓮に恋い焦がれてやまない妖狐のアニマと寸分たがわぬ。
 何百年もの長きを、身体をなんども乗り換えながら生きながらえる狐は、唇を弓のように吊りあげる。幸村がかぶる黒い外套を剥ぎとり夜空にはためかせると、まるでそれ自体があたかも重量のないものであるかのように軽やかに仁王の背へ巻きつく。呉藍色の十六夜月を背負い、狐はいましがた血でも吸ってきたかのように毒々しい唇を歪ませる。
「さてさて、キャストは遅れて登場か。緞帳はもう開いちょる。今宵の劇は残酷劇グランギニョルじゃ」

 ――誰が唄おう烏羽玉うばたま
    夜に息づく鬼の道
    空蝉の、人を恋うなり玉梓たまずさ
    いもが黄泉路に参ります
    遠つ国、黄泉は何処いずこに在りけるや
    黄泉比良坂よもつひらさか、奈落の輪廻
    誰も逃れぬ六道輪廻
    涅槃ねはんはどこにも在りやせぬ
    愁い、嘆けど、皆殺され
    にくみ、おののけど、相生あいおえぬ
    だから唄えよ生けとしものよ
    舞って狂って犠となれ
    踊って乱れて牲となれ
    畢竟ひっきょう、黄泉から逃るるにあたわず――


「……さて、神楽はこれで仕舞いじゃ」
 鼓動に同調し、耳が不思議と吸い寄せられる謡い方で詩を吟ずると、仁王は再び布を閃かせて幸村の背に恭しくかぶせた。
「手品でもなさるつもりですか」
「手品師も魔術師も訳は同じじゃろうに。なんとでも言え、奇術師、魔術師、詐欺師、堕天使。どうせ名前なぞかりそめぜよ」
 再び夜闇に外套を翩翻させると、そこにはいまだ目を塞がれてうずくまる幸村の横に、今の柳と同じくらいの背格好をした子供が、全裸のままぐったりと四肢を投げ出していた。無論幸村精市の肉体とは完全に分離している。顔は昔写真で見た幸村と寸分変わらぬ顔だちをしており、眠るように目を閉じている。肌は白く色が抜けて、半面を濃い影に浸食されていた。
 仁王の顔が一瞬で歓喜に染まった。目を輝かせ、口を開いて息を吸った。まるで新しい雛人形を買い与えられた娘とよく似た表情の変化だったが、柳生がちらと一瞥した瞬間に詐欺師のペルソナの下にかききえた。姫抱きするように上半身だけを起こす。しかしそこで仁王の眉が、ふと奇妙なものを見つけたように下がった。
 半開きの唇に舐めた指を当てる。その指を鼻孔のすぐ下に添えるが、やはり違和感は拭えない。再び幸村の双子を石畳の参道に仰向けに寝かせて、裸の胸に左手を乗せた。数秒ののち、すぐに右手も重ねられ、仁王は体重をかけて胸の中央を押した。一定のリズムをうつが、その度に詐欺師の顔からは余裕が削り取られた。
 先ほどの喜悦が煙のごとく消え失せた。柳生を見上げたその顔は絶望に縁取られていた。閉め切れない唇がかすかに動いた。
「……死んじょる」
 疑問符さえつけずに柳生が輪唱した後、反応したのはさも面倒くさそうに鳥居に背を預けていた赤也だった。
「なに、死んでんスか、それ? 別にいいじゃん、どうせさ」
 至極どうでもいいかのように赤也は柳の胸倉を掴んで宙に持ち上げた。湿った着物の背中を朱塗りの丸太に押し付け、細首に当てるのは鈍く光るギロチンだ。柳が「ぐっ」と苦しげに呻くが、鎌は少しずつ細首にめりこむ。
「絶対死なない柳サンの身体使えばいいわけだし」
「やめんしゃい。まだ魂のないこん身体がなきゃ意味なか」
 仁王は柳から取り上げていた鎌を柳生のポケットからひったくると、躊躇なく膨らまない胸へ突き刺した。もちろん生きていれば流れる量の血はなく、断面からわずかに滲み出る程度だ。仁王はものも言わず鎌を引っ張り、子供の胸を縦一文字に二十センチほど引き裂いた。中指を根元まで刺せるほど深い渓谷が切り開かれた。
 肉色の縦一文字に仁王は力任せに手首を押し込んだ。まぶたのように開き、みちみちと両端が裂ける傷口から、まるで眼球でも引き抜くような仕草で五本の細い指が抜き出された。手のひらにある塊は血にまみれた握り拳大の生肉だ。その塊をじろじろと見つめると、突然仁王は心臓のような形の肉塊を桜の根元に投げつけた。血を求めて桜の枝が伸びてくるのにも関わらず詐欺師は石畳に両膝を突く。血まみれの手を拭うこともせず、額をぎゅっと掴んだ。
「はっ……はは、なんじゃ、笑えてくるわ……そうか、そうか。関東大会の日に摘出された臓器ゆうんは、これだったんか」
 石畳に薄い血の跡を引いた肉塊は、心臓の場所にあったものの、心室も心房もない。血と脂肪と申し訳ばかりの毛細血管でかりそめの心臓を作るだけの、ただの塊だった。拍動、血管、心筋なぞ最初から存在しない、ただの空欄の埋め合わせだった。月光を受けてほんのり桜色に染まった髪に顔を隠したまま、仁王はひととおり引きつった笑い声を漏らした。そして唐突に嗤笑を止めると、修羅道に落ちたいくさびとのように幸村の双子の首を片手で掴み、その首を絞めつけた。ぎりぎりぎりと筋で構成された首が細まり、両手が動員されてついには蝋燭を折ったような感触がして、植物的なまでに柔らかい首はだらりとありえない角度にまで倒れた。もとから生きていないので一切反応することはない。喉仏を潰したまま幸村の子供時代を象った人形を引きずって歩み、伸びてくる桜の腕を払いのけて、その幹に叩きつけた。ぐんにゃりと烏賊のように白い四肢を投げ出す肉体に桜は枝を無数に伸ばして、虚ろな表情を変化させない双子の身体を覆った。枝が編んだのは人ひとり入るほどの大きさを誇る籠であり、それは瞬く間に樹上に引き上げられて見えなくなった。頭上を見上げれば、ずちゅ、ぐずっ、と淫猥にもとれる水音が乱暴なくらい響いては、花弁に吸収されていった。
 水音を背にし、仁王はそれこそ阿修羅の面持ちで幸村の前に膝をつき、首をくいと傾げた。希望が目の見えた場所で先延ばしになったのにも関わらず、なぜか張りつめたような笑いを口の端から零していく。
「のう、神の御子さんよ。詐欺師をペテンにかけたつもりか」
 返答はない。ただ、くつくつと神の子は肩と拳を震わせる。仁王は幸村の言葉と呼吸を制限する猿轡を解きながら、一人思うがままに口遊む。
「臓器がどんどん分裂して双子ができるっちゅうのも、考えれば考えるほどおかしい話じゃったんのう。神の子と参謀の手の上で踊らされたっちゅうわけか、この詐欺師は。どちらにせよ、もうすぐ黄泉への扉は開くんよ。死んだ人間と生きた人間があの世とこの世の境を超えて共に居られるんよ」
 空虚な唇が紡ぐのは、また無為な時間を過ごすことへの諦念にも近い。幸村は身体を震わせて笑っているのに、その幸村の絹糸のような髪を慈しむように撫ぜながら、仁王は目を細めた。
「のう、幸村。……真田の魂を、探しとうないか」
「魂?」
 明らかに嘲弄の色が濃いその声にも仁王は頑として口調を変えない。目線の先にあるのは、幸村精市の拘束美ではなく、その奥に幻視する、遥かな過去に愛した人間の穏やかな笑顔である。色欲に狂ったままの妖狐は、銀髪を月夜に染める。吐息さえ夢想の法悦に浸り、熱く火照っている。
「そうじゃ。夜見る夢は、すなわち黄泉。もうすぐ恨みつらみを織り込んだ桜の隙間からは、あっちの空気が漏れだしてきよる。もうすぐ逢えるんよ。死んだ人間に、生きたこの肉体のまま。いくらお前さんが現実的な考え方をしようと、叶わんとは言わせんよ」
「現実的というのは目の前に起きていることを自然界の法則に照らし合わせて、突飛でない方向に解析することだよ。今の俺は今までにないほど現実的だ。睡眠というフィルターなしで、眠っているときにしか見られないような悪夢的な見世物を見ているのだからね」
「そうじゃの。しかしキャストであるお前さんは、死んだ近衛兵をよみがえらせないとでも決めておるのか?」
 幸村の口の端がわずかに歪んだが、拘束された手を切支丹のように組んで、震えた声を出した。
「死んだ人間が生きかえることはない。死の後に残るのは冷たい肉の塊だけだよ。生命活動が停止したら人間は二度と蘇ることはない」
「また論理にかたよって、死神も神の子も冷たいのう。邪神の子か、お前さんは」
 そのとき、樹上から響く吸血の音がふっつりと途絶えた。蛭のようにのたくっていた枝は時を止められたように動きを失う。代わりになにか重量のあるものが落ちて、べちゃ、と石畳に張り付いた。桜花の枝に吸血されたただの双子に花弁と小枝が降り注いだ。首、脇の下、大腿部、鳩尾には肉の穴が穿たれ、首を巻く痣は足りない光量の所為で黒い染みに見え、圧迫によって表面に浮き出た死斑が網の目のように四肢に道筋を残した。桜の花弁と小枝に塗れた小さな身体はいまやぴくりとも動かず、動くとすれば眼球に弾かれた月光くらいである。
 生命を持たずに城から這い出た姫と、姫の血を吸った樹木のうそ寒いほどの静けさを振りさけ見る。
 空気が鳴動していた。心臓の音のような鼓動が大気を揺るがす。どくん……どくん……と、鼓膜に浸透する音が、徐々に心臓へ焼きつき、耳が遠くなるような錯覚さえ覚える。視界さえも音が膨らむような軌道を描いて脈打った。
 もうすぐ。
 もうすぐで、あの世への扉が開く。
 また、あの穏やかな声を聞くことができる。少し低い体温によりかかることができる。いつも焚いていた香の仄かな匂いを感じ取ることができる。
 機のように織ってきた物語は、黄泉への扉を開くこの瞬間に全ての縦糸と横糸が交わり、新たな物語の絨毯を織ることになる。新たな舞台に敷かれた絨毯はまた新たなタペストリーを編むための礎となる。ここから物語は連綿と続いていくのだ。終わることなく、果てることなく、ただ昔恋うた人間とともに――
「ワリいんすけど、仁王先輩」
 突如割り込んできた声に、仁王は、ん、と首だけを大儀そうに向けた。
 赤也は柳をその場に放置したまま、鳥居の真下で頭を掻いた。ポケットに片手を入れたまま不遜な態度を崩すことはない。
「仁王先輩っつーか、中の狐さんにでも聞きたいんですけど、もう俺の出番なしッスか。舞台はじきに作り終わる。ってことは、俺はこれで御役御免ってことでいいんスよね?」
「最初からその契約のはずじゃろ。ギロチンの嘔吐は終わっとう。後は普通に過ごしんしゃい」
「普通、ね……じゃ俺は日常に戻らせて頂きますよ。かまいたちとしての日常にね」
 かまいたちの手首から外側に向け刹那のうちに生えた鎌に映った月が、刃に沿ってぐるりと弧を描いた。白目から虹彩まで、瞳孔以外をすべて赤に染めた眼が、逆光の闇で光を二筋引いた。
 タロットの十三番目にあるような長い鎌が弾く筋が境内を縦横無尽に奔った瞬間、白銀の妖狐の、妖狐と瓜二つの紳士の、拘束された神の子の、幼い肉体の柩に閉じ込められた参謀の全身から、空へ向けて鮮血が迸った。二三度その場によろけた仁王が「お前は」と言葉を紡いだ瞬間、口を手で覆って指の間から大量の液体を吐きだした。石畳を黒く染めたのは唾液でも胃液でもなく、肉体が滅びぬ限り銘々の血管をめぐり続けるはずだった血潮であった。
 石畳に膝をつき、血を吐き、しかし仁王は生血に汚れた口を拭って、鬼気迫る形相で月を見上げた。
 まるでこの景色が一枚絵であるかのような錯覚に襲われた。それほど非現実的な光景が目の前に広がっていた。目でも狂ったのか、月が狂ったのか、月面はクレーターのおうとつまで精密に見えるほど膨れ上がっている。その絵画的な風景にはひとつだけ人間の形を抜き出したシルエットがある。神社の屋根に立った切原赤也が、長い鎌を舐めていた。傲慢不遜に上がった顎、飴のように嬉しそうに舌を這わせる鎌に付着しているのは夜目にも鮮やかな紅である。目は酩酊しているかのごとき虚ろさを発散しているが、その心を常人は決して理解できないような喜悦に満ち満ちている。
 忠臣が謀反を起こしたときと同じ目つきで、激しく咳きこみながら仁王は裏切りのかまいたちを睨みつけた。血に汚れた唇が忌々しくかまいたちの名を呼ぶ。
「赤也……っ」
「赤也? ああ、この身体ん持ち主の名前?」
 あくまでもせせらわらうかまいたちは、自らの胸に親指を当てて尋ねた。再び桜の花弁が神社の屋根で渦を巻くと、時をおかずして真っ赤な眼球が仁王の数センチ手前まで肉薄した。
「お前さんには管狐が憑いちょるはず……管狐をどうしとう」
「ああ、これッスか」
 かまいたちがふと持ち上げた拳から毛の生えたものが垂れさがっていた。干物に白い毛が貼りついただけの管狐だったものには身体の一部分が足りなかった。寸胴体形には小さな鉤爪のついた手がありこそすれ、肩から先は乾いた肉を晒している。
「ちょろちょろうるさかったんスよねこれ。大事なペットだったらすいません。殺っちまいました」
 ねじれた猫っ毛をかいて、返り血のついた顔で、かまいたちは切原赤也のようにひょうきんに笑った。
 乾し肉を投げ捨て、切原赤也の顔が陶酔に笑む。
「俺を裏切り者だと思う、狐さん? でもこれがかまいたちの俺としての『普通』なんッスよ」
「くっ!」
 仁王は袖から丁子油を塗った糸を投擲した。空を切り、ぎぎ、と首に縺れる筋は容赦なく肉に食い込んで獲物を拘束する。仁王は糸の束を血まみれの指で引いた。毒々しいまでに鉄錆色をした目は蜘蛛の巣にいても己が不敗を確信する者のごとく傲然と仁王を見下ろした。
「こんなおもちゃ、通用すると思われたらかまいたちの名が泣くね」
 鎌が一閃した。無数の繊維が千々に切れ、緊張を失って天狗のような肌にまとわりついた。
 かまいたちが絶望に歪む妖狐を両手で抱きとめたとき、仁王の唇からまた新たな鮮血が溢れた。背中に再び鎌の切っ先が突き刺され、肺に達している。仁王は苦痛に喘ぎながら身をよじるが、かまいたちはなおも刃を肉に埋めたまま移動させる。みちみちみちと肉が裂け千切れる苦痛は思考から一切の色を失わせる。長く尖った爪がかまいたちの二の腕の筋に食い込み、痙攣しながら皮膚を突き破る。銀のおくれ毛が貼りつくうなじに、かまいたちは吸血鬼のように口を寄せる。犬歯を赤く光らせ、切原赤也は断末魔を愛でるように悠長に言葉を紡ぐ。
「聞こえてるッスよね、先輩。刺して刎ねて切り裂いて、リンチにしてミンチにして、屠殺して弑逆して、斃して仕留めて引導を渡すことこそかまいたちとしての普通であり、存在理由。あんたが死人を蘇らせることが生きる理由だとすれば、俺の目的はただひたすら血に酔うこと。手を変え品を変え人を騙すのが狐なら、切原の家に宿って子々孫々受け継がれ、生きとし生けるものに死の種を撒き続けるのがかまいたちとしての俺。兇器と狂気を世襲して、死と生の螺旋は途切れることがない。滅多なことじゃ切原赤也の表に出てこれないから鬱屈してたんだよね。たくさん人殺せる機会をくれてありがとよ。お礼に苦しみと死を献上しますよ」
「この、吸血鬼が……お前は、赤也か?」
「詳しく言えば受け継がれた別人格」
 鎌が、腎臓に達する。仁王の背が引き絞られた弓のように反り上がる。血の酩酊に冒された眼の虜囚となりはて、限界まで剥きだされた眼球は闇を映して黒くなっていく。肉体の損傷の進行は衰弱を誘発し、烈しかった痙攣を徐々に弱らせていく。
「あ……ぐっ……」
「俺は誰の目から見ても赤也であり、赤也の記憶もあるし、赤也の性格の原型にもなってる。表と裏で分かれてるっつった方が正しいかな。でもかまいたちとして何百年も生きているという記憶もある。この桜の下で、陰陽師を殺した一小隊相手に最初の殺戮をした記憶とともにね」
 紫色を通り越して殊更白く色が抜けていく唇が、単語を苦しげに反復した。
「陰……陽師、殺した、小隊?」
「そーいやあんた、あの後よく逃げられたよね。普通、下手人の共犯者かもしれない人間が目の前で狐に化けたなら、草の根分けてでも探すはずだよ。あのとき無事に逃げきれたのが陰陽師の守護のおかげとか、そんな甘いこと考えてるなら修正してやるよ」
 目の前で赤也の唇が、嗤笑の形にねじくれた。

「一蓮サンを殺った連中を一匹残らずミ ナ ゴ ロ シにしたのは、俺」

 仁王は限界まで見開かれた目を、目尻が裂ける直前まで剥きだした。
 ざざあ、と風が鳴った。赤也の背負う巨大な光の円盤を横切った桜の花弁が、黒い渦を巻いて消える。
 そのとき、背中に埋め込まれた大鎌によって、脇腹まで一気に引ききられた。ついに仁王は石畳に仰向けに倒れ、血の池を広げながら、瀕死の虫のように半開きの手をぴくぴくと引き攣らせた。胸が激しく上下に動き、酸素を求めてひどく苦しげに喘ぐ。痰の絡んだ咳が混じり、背を丸めることもできずに苦悶に喘ぐ。焼けるような熱が背中を斜めに横切り、傷口からはずるりとこぼれた内臓が参道にばらまかれた。それでも意識を保っていたのは仁王雅治の肉体はただの依坐であり、身体感覚の全てを共有することはできないためだ。
 赤也は返り血のついた頬を拭うと、血の拭った手の甲に舌を這わせた。
「なに、まだ殺しやしねえよ。じきにブン太先輩も連れてきますよ。まだ生きてるっていう保証はないけどね。さみしくないように同時に刎ねてやっから。賽の河原で石を積み続けてくださいな、仁王先輩」
 そう言い捨てて、赤也は背を向けて神社裏の木陰に姿を消した。向かった場所は、けさブン太を幽閉したカタコンベに相違ない。しかし腐爛の進んだ墓場にいて、たとえジャッカルを探して気を保っていたとしても、普通の人間があの中にいて正気を保てるわけがない。そのうえ、かまいたちにおわされた傷は決して浅くはない。細菌の温床にいて、感染症にかからぬのもおかしい。どちらにせよブン太は、まともな状態で戻ってくることはないだろう。傷つき、あるいは死に、または狂ったブン太の姿を他のメンバーに見せつけて、目の前で肉片に変えて幸村あたりの慟哭を楽しむのも、かまいたちの論理でいえばありうる話だ。
 身体が動かない。一刻も早く違う身体を見つけて憑依せねば確実に死に、魂も消える。一蓮に逢えぬまま。約束を果たせぬまま。いままで行ってきた全ての労苦が、泡沫と消えてしまう。身をよじる度に傷口が引き攣れ、内腑が体液とともに参道に広がる。血を吸った大地に爪を立て、足だけで、倒れている柳生のもとへ向かう。柳生は地面に倒れたままぴくりともしない。生きているか、死んでいるか――
 と、柳生へ伸ばした手が下駄をはいた足に踏みつけられた。頭をあげると、そこには切られてぼろぼろになった着物をまとったまま子供姿の柳が、鎌を片手に荒い息をつきながら立っていた。血にまみれた頬を袖で乱暴に拭った。その動作だけで、辛うじてまとわりついていた着物がはだけ、上半身が月明りに曝け出された。斜めに切断された名残の赤いケロイド、幼い日の儀式の傷跡が、縦横無尽に走っていた。
「名残惜しいが、宴は、おしまいだ」
 先刻よりほんの少し低くなった声で、柳は言葉を押し殺すように発した。鎌の切っ先が光る。
「なんよ……参謀、俺を殺すか」
「それは現時点において最良の手段ではない。しかし私怨を晴らすという面で見ると、ここでお前を殺害することが最良の手段だ。誰かに憑依して逃亡する前に、俺はお前を地獄に送る。お前の言う一蓮の魂の雛型を持つ俺と一番遠いところで、久遠の業火に焼きつくされるがいい」
 鎌が振り上げられる。
「次に逢うときは、奈落の底だ。無間地獄で未来永劫、俺を待て」

 いままで何人を地獄に送ってきただろうか。
 樹木子に血を吸わせ、黄泉への扉を開けようとした。そのために生贄にした人間は数知れない。赤也の鎌を用いて、祭りに来た四百人以上の首を収穫して血を吸わせ、全てカタコンベにぶちこんだ。自分を悪だとは思わない。長く生きる間に、古代中国にいたころから周りの人間は他人の死を悲しみ、戻ってきてほしいと願った。死はいつだって人間によって恐れ哀しみ忌避される。それならば誰も死なず生きずに魂が混在するように、死と生の境界を失わせてしまえば全て解決するのに。この計画がつつがなく遂行すれば今までに死んだ全ての人間と逢うことが叶うのに。
 その昔からの考えを後押ししたのは、一蓮の死だ。
 豊臣によって陰陽師が弾圧され、尾張の河原者に身分を落とされた。そのうえ罪科によって追われ、まだ自分の生きた年数の百分の一も生きなかった、誰にでも優しくて、答えられぬ問いがないほど頭の良かった一蓮が、たったひとりで蜂の巣になって殺されたのだ。独り逃げ伸びたあとは何度も自決を考えた。しかしまたお前の前に戻って今度こそは一緒に死のうという一蓮の言葉を裏切ることもできなかった。一蓮の死に毎夜枕を濡らしながら古寺を巡り歩き、女々しく生き抜いてきた。すぐに平和な江戸時代に入り、しばらくして開国して、いくつもの戦争を生き抜いてきた。身体を何度も取り換えるものの、一蓮が死んだ哀しみは一向に癒えぬ。
 しかしその頃に、立海大附属中の裏山にある吸血桜に殺した人間の血を吸わせれば、黄泉への扉を開ける事ができるという話を聞いた。死者の恨み苦しみと、生者の哀しみと願望が積み重ねられて、互いの穴を埋めるために死と生は互いに溶け合って境界を失わせる。
 一蓮と逢うために、無数の死をばらまいてきた。それは最後には溶け合って、死も生もない、夢のなかにしかないような世界を作れると思っていたのに。
 まだ死ねぬ。死ぬわけにはいかない。生きねばならない。こんなところで死ねば、すべてが徒に終わってしまう。水泡に帰してしまう。
 まだ、死ねない……!

 どくん。と、大気が鳴動した。
 柳が鎌を振り上げたまま、弾かれたように桜を見上げた。紅を塗られた柳の唇が、訝るように動いた。
「まさか……仁王、貴様っ!」
 ふっと、仁王は笑って、参道に崩折れた。
 地面につけた耳が、ごご、と異様な音を聞いた。
 こぼれるほど花を蓄えた枝条は天へ向け、生ける龍のようにするすると伸びる。ぱきぱきと細かい枝を折りながら十六夜の月を包み込んで、枝が月の枠となった。なおも樹木は万朶を伸ばし、花片を散らして荒れ狂う。それだけではない。緋色の月の輪郭がへこみ、突き出し、引き伸ばされ、破裂し、歪んでは萎んだ。梢が天蓋を覆っていく直前、星座が一斉に東へと流れていく。
 神社の裏、そのさらに下から、微かに赤也の魂消るような叫びが聞こえた。断末魔の語尾にかぶった轟音が夜闇を震わせた。地鳴りとともに地が揺らぐ。びぎびぎびぎっ! と地に無数のヒビが張り巡らされる。亀裂は内側へと崩れて赤い舌を這いださせた。バランス感覚を失った柳はその場に膝をつき、舌打ちをした。鎌を再度構え直し、仁王の首めがけ切っ先を振り下ろしたが、弾かれたのは数十センチもずれた石畳だった。金属音を立てて鎌が飛び、裂け目に吸い込まれて消えた。柳の遺恨を横目に見ながら、裂けた大地に仁王は我が身を委ねる。
 崩壊していく境内に、神社が足元から傾き、劫火のなかへ滑り落ちていった。柳生が、幸村が、次々と炎の中へ消えていく。
 熱を失っていく我が身を握り締めて、天へ蛟龍のごとく飛翔する炎のなか、地獄で、嗤った。
 そのときか――小さな手にいきなりむなぐらを掴まれた。ぎゅむ、とねじれた胸の生地に引き寄せられ、力なく仁王は上半身を持ち上げられた。首を動かす力も失い、視界のほとんどが満目の桜の千枝に覆われている。乱れたおかっぱ頭が視野をかすった。
「仁王、もしこの期に及んでお前が生き延びたら――」
 柳の言葉が最後まで耳に届くことはなかった。

 崩れた「舞台」が、奈落の底へと落ちていく。
 かまいたちは知らなかった。カタコンベが舌切雀によって放火され、低酸素状態で何時間も燻り続けていたことに。
 突然開かれた扉によって空気を吸い込み、酸素を一気に取りこんだ炎は一瞬で爆発し、バックドラフトを発生させた。何百年にも渡って死者を格納してきた無縁仏の墓場は腐敗に腐敗を重ね、蒲柳な地盤と化していた。参道は、内部から爆破され、崩落した。
 


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