うなじに冷たい液体が落ちた。半ば泥の中に沈んでいた意識が鉤爪に引っ掛けられて吊りあげられる。「うっ……」と小さく唸り、重い首をもたげると、二メートルほど前方には黒い格子が、首も通せない矩形だけを薄青く抜き出していた。月明かりでも漏れているのだろうか。
 赤也はゆっくりと首を横に振り、濡れた髪の雫を四方に飛ばした。顔に張り付いた髪の毛が肌の湿度を上昇させていて、じっとりと気持ち悪い。濡れた顔を拭おうと手を顔に近づけたが、頬につくまえに左腕ががっちりと引き留められた。初めて腕に視線を移す。左手と言わず両腕の手首には、重い金属の枷が繋がれていた。鎖の先は、赤也が背にしているでこぼこの岩の壁である。鎖は赤也の腕を翼のように吊りあげて固定しているのだ。ぎっ、ぎっ、と鎖に力をこめても枷はやはり金属のようで、鎖を切るより先に肩が外れるに相違ない。
「……畜生、なんだこれ」
 舌うちして、赤也は記憶をなぞった。気を失う前に網膜に焼きついた景色の糸を探り、指先に触れて力任せに手繰り寄せた。
 そうだ、あのときだ。
 仁王の背中を袈裟がけに裂いて人間解体ショーを見せつけ、見動きを取れなくした後で、ブン太を連れてこようとカタコンベの扉を開けた。その瞬間、周りの空気が、轟と死肉の蠱毒に吸い込まれた。間髪いれず視界に炸裂する地獄の業火。赤也の断末魔は炎にかき消され、焼かれるか吹き飛ばされるかされたはずだ。低酸素状態で燻る閉塞した空間に新鮮な空気を入れた瞬間、酸欠状態の炎は酸素を求めて爆発する、所謂バックドラフトという現象だ。昔レンタルした映画で見た一シーンでは、バックドラフトに巻き込まれた人間が黒焦げの人形となって吹き飛ばされ、数メートル遠くにあった自動車のボンネットをへこませていた。確かに皮膚を焼く熱に全身包まれ、爆風に吹き飛ばされた記憶まではある。どうして生きている? そしてなぜ、痛みも苦しみもなくここにいる? なにもかもが不明瞭すぎて、自分がいったいどうなったのかという記憶が、劫火の膨張の後に忽然と途切れている。
 そのとき、格子の外で橙色の炎が揺れたのをみとめた。水を含んだ草履が鳴るようなぺたぺたした水音が反響を繰り返しながら近づいてくる。誰かの歩みに応じて迫る炎は脆弱ながら、湿った岩壁に影を伸ばし、縮ませた。
「誰だよアンタ」
 鎖が鳴り、残響が濃度を減じながら無限に跳ね返る。
「もう目を覚ましたのか、お前にしては早起きだな。赤也」
 耳を犯すほど低く穏やかな柳の声だ。
 格子の奥にいる柳は皿のような形の燭台を左手に乗せている。顔は陰に隠れてよく見えない。色は判別できないが、袴を着ているのだろう、いつも白い短パンから伸びる木の棒のような長い脚はだぼだぼの布地に隠れている。生蝋の焼ける匂いが鼻の下をかすめた。
 柳は木製の太い閂を横に引き、床に置くと、赤也を拘束する獄中に躊躇いもなく足を踏み入れた。立つこともままならぬ赤也の前に、袴をたくしあげ、袖を絡げて膝をつく。床に置いた和蝋燭が僅かな吐息にも妖しく揺らめき、柳の葉のように薄い唇を無防備に色めかせる。
 赤也の顎に柳のたおやかな指先が触れた。目の前にある薄い艶めきが莞爾として笑み崩れた。その薄笑いは目の前にいる化け物を隷属させた猛獣使いの傲慢にも似た。紐のように開いたまぶたの間からのぞく黒目は、明らかな嬌笑を向けていた。婀娜めいた所作は雌狐を彷彿とさせる。
「赤也」
 耳朶を擽り鼓膜を犯し、脳髄まで舌で舐めるような声は嬌艶に潤む。まるで男をかどわかす妖女のように振舞う柳は、真に柳蓮二なのか、と赤也は訝った。首をくいと傾げると、おかっぱにも近い髪、右耳に近い後頭部には月色の筋が一束混じっているではないか。口許には月明かりにうっすらと浮かびあがる黒子が見える。口許の笑みは人を食ったような形に歪んでいる。
「なるほどね」
 赤也は鎖も鳴らさず、猜疑の目を向けた。
「あのさ、どうしてこんなとこに連れてきたワケ? ご丁寧に鎖までつけてくれちゃってさ」
「暴走を食い止めるため、とでも解答しておこう。ただしここに来たのは、お前の言う表の『赤也』の意思だ。かまいたちであるお前は簡単に服従するような犬ではないのでな。しかし殺戮嗜好が比較的弱い、社会的人格である『赤也』は、柳蓮二をいとも容易く信じたぞ。どうやら柳蓮二という人格は、切原赤也という人間からは比較的好意的な感情を持たれていると見える。混乱に乗じて『赤也』を利用させてもらった」
「素直ッスからね。利用価値はあったでしょ、俺の半身は」
 柳蓮二という人間のことを他人のように言う柳に、赤也はいよいよ確信した。かまいたちとしての思考の中に、一つの結論が生まれた。今目の前にいる柳蓮二は、仁王雅治に相違ないと。
 なにせあの狐は四百年前には見目麗しい女にしか化けることができなかったのだ。その頃のかまいたちも、あんな美しい雌狐を人間の分際で手に入れた一蓮には種を超えて嫉みにも似た感情を抱いたほどだ。艶やかに振舞い男を誘惑する術を、狐は王朝を滅ぼすほど心得ている。たとえ男の姿を模していようと、仁王雅治には性別さえ関係なく心を掻き乱す魔性の魅力があった。
「お前の殺戮嗜好は並大抵のものではないことが分かっている。お前は流血を旨とし、屠った獲物の身体から血が流れることにこの上ない悦楽を感じる。この心理的な動きは血の酩酊と呼ばれている。しかしそれが何故お前に起こるか知っているか?」
 濡れた岩に視線をなめくじのように這わせた。そんなこと考えたこともない。赤也は濡れた髪から雫が撥ねない程度に首を横に振った。柳は薄目を開けて笑った。いきなり濡れた前髪がぐいと鷲掴みにされ、そのまま背後の岩に叩きつけられた。視界が一瞬で真っ白になり、星にもならない色の点が脳内に炸裂する。遅れて激痛が後頭部から足先まで、電気のように駆け巡った。
 言うことをきかない猛獣に罰を与える調教師のような笑顔が、薄くしか開けぬ視界に入った。
「それはな、お前の体質とも関係がある。かまいたちの二番目の一族の骨は、瞬間的に鎌を形成するため、手首にある尺骨に、約8センチメートル程度の細長い穴が穿たれている。鋳型と呼ぶべきだろうな。その鋳型に、お前は体内に含まれるあらゆるミネラル分を、熱を通さずに液体化し、鋳型を通して成型し、固める。これはお前の家系に代々受け継がれてきた、錬金作用に似た効果を持つ、普段は眠っているが赤也の精神の昂揚によって活性化するバチルスによって、熱をさほど必要なく鉄を生成することができるためだ。もちろん血液中のヘモグロビンに含まれる鉄分も生命に支障がないギリギリまで鎌に吸収され、本体の『赤也』は酸欠状態になって意識を失う。しかし本人格の『赤也』が眠るほどの酸欠であれば、必然的にお前の『かまいたち』としての活動も短時間に絞られる。そこでかまいたちが必要とするのは、鉄分だ。血中に足りなくなった鉄分を補うためにかまいたちは人間の生き血を欲する。楽しかったか? 切原赤也と称して人間の皮をかぶるのは」
「はっ、あんたに言われたくないッスね。自分の力ではなにもできねぇからって人間くくって、今度はお人形遊びっすか? くだんねぇ。狐は絵本の中で兵十に撃たれてりゃいいんすよ。それでいままでの糸のもつれも目出度し目出度し、万事解決快刀乱麻ってな」
「人形としては少々おいたが過ぎるな、赤也」
 今度は正面から首を巻いた右手が喉仏を容赦なく潰した。両腕は鎖に繋がれて重く響くのみ。天井から落ちる水滴に肌を濡らし、身体をよじり、腰をくねらすも、調教師の嗜虐心を残酷なまでにそそるだけである。苦しみを訴える手段さえ剥奪され、赤也はただ酸欠の苦しみにのたうった。
 首を直接締めたまま、柳は喜悦さえ窺える声色で提案する。
「いっそのこと媚びてみたらどうだ? 鎖くらい外してほしいと」
 赤也が首を上げたと同時、柳は声色と同じ顔で言葉を続けた。細い狐目はうっすらと開き、赤也の反抗的な眼差しをしかと受け止め、反射している。
「もちろん、俺の手駒になると誓うならば、の話だがな」
「……人、殺せる? 血も」
「俺が許可をしたときだけな。そのときこそ、いくらでも殺させてやろう」
 柳の人差し指が小さな円を描き、鎖に繋がれた手首に添えられると、薄い唇は聞き取れない声色で言霊を放った。何語なのか判別する間も与えられず、鍵もなく錠は外れ、左手が、次いで右腕が自由を取り戻した。まだ痣が残っているかもしれない手首をぐにぐにと反対の手で揉み解す。血がようやく通ったように、骨から熱くなっていくような熱がじわりと指先へと浸透していく。
 目の前の人影は小さな灯台を拾って立ち上がった。
「呪(まじない)をかけておいた。もし俺の許可なくかまいたちとして殺人を犯した場合、殺害した人間の痛みが鏡のように己が身に跳ね返ることを忘れるなよ?」
 ついてこい。その格好では外を歩くこともかなわんだろう。
 戦国時代の呪術師のようないでたちをした柳についていくと赤い皮衣を渡され、それに着替えた。
 柳が技名にかまいたちの名を用いることの意味にようやく気がついた。柳自身がかまいたちであるだけではない。彼はかまいたちでありながらかまいたちを使役する。これほど猛獣使いに相応しい名はどこにあるだろうか。
「(でもそんな柳サンに化ける狐も狐だな)」
 騙されたものと思って、鬼謀に乗るのもまた一興だろう。許可された殺戮の際に呪が外された時、誰かに不死を疑われた時、術者ごと殺せばいい話だ。仁王は乗り移ることができこそすれ、肉体の不死とは程遠いのだから。自分を不死だと騙った末、不死を証明するために殺されるのは、ガジェットにしては古すぎる。本物の柳サンと会った時こそアンタの墓場だよ。赤也は不可視の鎖を視線でつなぎ、我が身を捕縛する狐の背をあざ笑う。

  *

 橋の欄干に手を置きながら、幸村精市は凍てつく夜の川の水面を凝然と見つめていた。雪が降っていると灯りがなくてもさほど暗くはない。裸眼でもある程度までなら視界も利く。蓑も被きもまとっていないが特別に寒くはなかった。それは身にまとっている雪色の着物のせいかもしれないし、腹を巻く勿忘草色の帯のせいかもしれない。着替えた記憶もないし、ここにどうやって来たのかも知らない。ふと気付けば幸村はアーチ状になった木橋に佇み、誰を待つともなく雪に降られていた。
 白く凍った息が、雪に乱され消えていく。
 ここは、どこだろう。
 あの境内が崩れ落ちたときは焦熱地獄に落ちるのだろうと思っていた。最も重い輪廻の果てにある地獄のなかで、常に極熱で焼かれ焦げる。赤也の鎌によって受けた傷から血を垂れ流しながら、罪の深さを悔いながら、炎の中に呑みこまれたはずだった。
 生肉が焼かれる苦痛を感じながら、真田が死んだいまこそ、自分も死ねるのではないかと思った。それなのに自分はこうして、理由も分からず生き延びて、ただ雪のなかに佇立している。もしやこの世界が八寒地獄かと思ったが、寒くないことはなにを示すのだろうか。五感の中の触覚に分類される体性感覚である温度覚を失ったのだろうか。
 ついた息がぱきぱきと音を立てて凍りつく。
「そこの娘。かような寒い場所で誰ぞ待っておる」
 別に娘ではないが、振り返った。橋のふもとには見たこともない顔の人間が二人、武士のようないでたちをして幸村に四つの目玉を向けていた。
「……女?」
 二人の武士はまともな俸禄を与えられていない下級の武士か、あるいは牢人のためか、着物の裾がみじめに擦り切れていた。どちらも山のような形の編み笠をかぶっており、つばの下からはぎょろりとした目が覗いていた。好奇と疑惑がないまぜになった目だ。頬骨の下はえぐれたようにへこんでいる。代わりに老けた男の方は黒い髭が繁茂し、水滴を蓄えて光っている。市松の方はにきびの跡が頬のほとんどを覆い、顔の赤みもまだ引かぬ少年である。侍は二人とも紺の着物を着ていたが、手前は市松模様でかなり若く、市松の後ろに控える男は籠目模様の着物である。市松模様は眉間にしわを寄せ、高い声に似合わぬ旧い言葉で不審を打った。
「おぬしはなぜにここにおる。この頃はよく人間が雪女や雪ん子に遭い、氷の繭にくるまれてしまうという。腕を試したいと辻斬りをする輩も多い。加えてもう戌の刻、床に就く刻限じゃろうて。おぬし、家は何処にある」
「俺もそれは分かりません。せめてここはどこか教えて下さいませんか」
 そのとき、籠目の侍がようやく口を挟んだ。
「浮浪か。ならば話は早い」
 背の低い市松の前に出た籠目の男はそのままずかずかと幸村に歩み寄った。無残に煤け破けた消炭色の袴を雪の粉が一層汚した。剛毛の生えた手で幸村の手首を掴んだ。振りほどこうも五本の荒々しい指はそれぞれが万力である。
「離してくれませんか」
「離さぬ。この雪ではおぬしも凍ってしまう。ゆく家がないのならば拙者の家に泊まっていけ」
「離してください、俺は、」
「泊まっていけ」
 無理問答の果てに籠目の光る眼球は色情に似た雄の目である。最初に戸惑いが勝って女ではないと否定し忘れたことが無駄な痴情を誘ったか。
 幸村は籠目の目と視線を合わせた。いつもベッドの上で、誰かにミッシングツインが分離する途中の醜い姿を見られたとき、忘れよと念じ、五感を奪ったときのように。
 籠目は首を傾げて「ん、なんじゃ、そんなに拙者を見つめて。恋うてくれるか」と下卑た声と好色そうな息で勘違い甚だしくぬかすばかりである。そして「来い」と幸村の腕を力任せに引いた。幸村は引っ張られる度に雪に滑りよろめいた。幸村は我が目を疑った。これまでになく頼りにしてきた能力、視線による五感の剥奪ができなくなっている。なぜだ、この場所ではいつものように人間の五感を剥奪できないのか!?
 腕を引かれるままに橋から引きずり降ろされた。力もさほど出ない。いつもであればこのような下賤の輩の腕なぞすぐさま振りほどいてやるというのに。そのとき籠目の進む脚が止まった。幸村の手首を掴んだままの手を胸まで持ち上げる。しかしなんたることか、幸村を掴む五本の万力のごとき指は透明な手袋でもはめているかのように凍りついていた。「ひっ」と息を吸った牢人は幸村から手を振りほどこうとしたが、凍っていては容易に外れるわけもないはずだというのに、氷の手袋の付け根から手首がボリという音を立てて千切れた。いくら落ちぶれようとも喚かなかったのはかつて仕える者がいた武士の意地か、それともただ驚愕に打ちひしがれていただけか。籠目はすぐさまもげた手首をもう片方の手のひらで覆う。目がカッと驚愕に剥きだされた。足元の雪に血が吹き出し、紅の雫で斑々と雪を穢した。
「う、うぬは……っ!」
「茂作殿、下がってくだされ!」
 市松の弾けるような叫びに、茂作と呼ばれた籠目の男は傷を負いつつ市松のところへ下がろうとした。だが眼球は市松を凝然と見つめたまま、ぱきぱきと凍る音を鳴らしながら薄氷に覆われていった。見る間に氷の柱となった籠目は雪の中にうつ伏せに倒れ、そのまま川の傾斜へと転落した。雪を押し潰し、透明な氷を濁らせながら転がった先は凍てついた川面である。転がった勢いで人間大の氷柱が銀盤を割り、飛沫を上げることもなく広い穴を穿った。そのまま沈黙した氷柱に市松が再び「茂作!」と叫ぶが、氷の繭に包まれていては声を出すことができない。
 戦きに背を押されるがままに市松は腰の長物をすらりと抜き、白刃を振りかざした。
「汝めが、度々世を騒がす雪ん子か。こ、この巳之衛門が成敗してくれる!」
 鋭い切っ先はがたがたと震えている。威勢は良いが、声まで震えていては意味がない。よく見れば声だけでなく顔形も年端の行かぬ少年ではないか。幸村と同年代くらいなのに妙に固い言葉をすらすらと口にする。刃を向けられているのにも関わらず、ここは映画村とかセットを設えた時代劇の舞台とかの悠長な場所ではないな、と直感した。編み笠の下から覗く、恐怖に彩られた幼い殺意は本物である。
 まずい――幸村は丸腰である。身を守れるような楯も刀も持っているわけがない。まともにやりあったら勝ち目はないだろう。その上、幸村に触れた途端に凍りついた相棒の仇を取ろうと憤慨し刀を構える侍と相対しては、勝率は極めて低い。瞬きをするほどの間に判断して、幸村は踵を返し、川沿いの小路を駆けだした。雪の上は歩きやすくさほど苦痛ではないが、着物の裾が長い故、なかなか前に進むことが叶わない。草鞋の底で雪が潰れてぎゅっぎゅと軋る。
 しかし十メートルも離れたところで、突如幸村の足は空を踏み、ふっと背筋が寒くなったのと同時に温い積雪の上をごろごろと転がった。地面を抉った欠落を厚い雪のマットが覆い隠していたのだ。雪を散らしながら土手を転がった幸村は川辺に手を突き、再び走り出した。
「茂作殿の仇、今こそ!」
「待て、そこの者!」
 雪に吸われぬ低い声が轟いた。幸村は走りながら後ろをちらと眺めやった。再び続いた「そこのおなご!」という声は、不思議に耳が覚えている色であった。姿は牡丹雪に紛れて明瞭ではない。しかし六花の簾に暈けた視界で、唯一見たのだ。いつか一緒に星を見た、誰よりも信頼していた皇帝の姿を。
「あっ」
 その姿を目に留めた瞬間、思わず瞠目した。長く伸ばした髪を高く結い上げてはいるが、真っ直ぐすぎる目、厳しく寄せられた太い眉、皺のよりかけた眉間。あの顔立ちはもしや真田弦一郎なのではないかと幸村に錯覚させるのは無理からぬことであった。
 と、突如熱い一閃が背中を袈裟がけに薙いだ。斬られた。そう感じた瞬間幸村は再び雪原に頭を守りつつどうと倒れた。雪に埋もれた細い葉に頬をいたくこすりつけた。左手を突いて追い詰める市松の震える身体を見上げた。洗練されていない動きで白刃が震えながらかざされた。白い光が自らに向けて振り下ろされる筋を幻視し、幸村は思わず目を背けた。
 しかし死の訪れる一瞬は来なかった。幸村は恐る恐る瞼を上げた。雪に煙るほど遠くにいない、いや、目の前にある背中はまるで幸村を庇うかのごとく聳え立ち、ほとんど横に傾けられた長刀が白刃を受け止めていたのだ。肩越しに武士の顔を見た。その顔は、近くで見れば見るほど、真田弦一郎の生き写しだった。いや、真田そのものであった。
 真田は市松に向け、刀をそのままに、低い声で大喝した。
「戯け者が! 丸腰の民を斬るなぞ、武士の恥とは思わぬのか!」
「しかしこの妖は、茂作殿を凍らせ奉り、」
「一介の民に然様な力があるものか! これ以上戯言をあげつらっていたら、お主が何処の領主に仕えている身であろうと牢人であろうと構わぬ、この場で斬り捨ててくれよう」
 その言葉に、元からの紅顔がさっと生成り色に変じ、市松は刀を下ろした。そしてはっと思いだしたかのように川のずっと後ろで半分ほど沈んだ氷の塊を見て「茂作殿!」と、刀を仕舞うのも忘れて、走って去ってしまった。
 真田そっくりの顔が、近頃の牢人は何だ、嘆かわしい、と立腹したようにフンと鼻を鳴らし、すらりと雪に映える刀身を鞘に戻した。
「そこの者。尋ねるのを忘れた。お主、怪我はないか」
 先刻斬られた傷を、反りかえるように自分の肩越しに覗き込んだが、着物の背がはらりと剥がれただけである。幸村は着物の裾を絡げた。おかしい、確かに背中は浅かろうと深かろうと刃が掠ったはずだ。それなのに一筋の傷も切り傷特有の鋭い痛みもない。着物だけを斬られたらしい。つんのめったときに感じた熱は錯覚だったのだろうか。確かに刃が背骨に当たって、軌道が捻じ曲げられたような感触はあったのに。市松模様の牢人が峰打ちするような余裕は持ち合わせていないようだったし、たとえ峰打ちであったとしても骨折は免れない一刀であった。それならばなぜ無傷でいられるのか。斬られたという錯覚だったのか、ここが死の世界で肉体がないためか、それとも自分自身がなんらかの理由で怪我をしてもすぐに治るためか、或いは牢人が罵ったように――本当に妖と化しているためか。
 幸村の思案を外に、武士は相変わらず地を這うような低い声で使い物にならなくなった幸村の着物を案じた。
「着物が破れたか。俺が泊まる旅籠まで来い。新しい着物くらい用意しよう」
 と、真田と瓜二つの武士は踵を返すと肩越しに、ついてこいと促した。切られた着物を絡げて幸村は雪道を草鞋で踏んだ。
「まず、名前を聞いてもいいかな」
「真田弦一郎信繁。お主の名は何だ」
「幸村……幸村精市だ」
 武士の名を聞いた瞬間、幸村はひとり、心中で狂喜した。
 これが夢ならば、どうか醒めないでと。
 真田の背を追い、幸村は旅籠へと向かった。


TOP  小説目録  転生・六道輪廻TOP > 次へ