※後半BL注意


 息のしやすい空気は、きぃんと音を立てて凍りついていた。身体に湧く熱と混ざってちょうどよくなる温度で、身体はどうしようもなく熱かった。炙り焼きにされるような直接的に肉体に与えられる熱ではなくて、37度の微熱を出しているときに、ヒーターを焚いていない部屋で一人煎餅布団に仰向けになっているときと似ていた。ぼんやりとしか世界が見えない。淡く陰に潰れた視界はまだ眠気に負けていて、うっすらと世界が横に長く伸びている。そのとき、おでこから湿った布きれのようなものが剥がされ、その箇所が一気に火照った。耳元で、雑巾を絞るような水の跳ねるような音。そして再び額に乗り、水に濡れた薄い布が皮膚を冷やす。足音がして、人影が遠のいた。
 なめくじが這うようにゆっくりとまぶたを持ち上げた。目をこすり、寝返りを打った。全身がなんとなく熱く、湿っている。寝汗がひどい。襤褸の薄い布の上に寝かされているようで、ブン太はそろそろと起き上がった。と、頭蓋骨の内側にぴきぃんと電気のように走った痛みに、ブン太は思わず右手で額を掴んだ。冷たい水分を含んだ布を押さえつつ、ブン太はいま座している暗い木の空間に視線を巡らせた。
 囲炉裏。熾された薪。弾ける炭。火にかけられた小さい鍋の中で対流する味噌汁。床は黒く煤けた木。枕元には木で作られた桶のようなもの、ふちには雑巾ほど汚くもないが繊維の擦り切れた布切れがかけられている……どれもこれも現実には見たことがないものばかりだ。
 ブン太はしばしぼうっとしたまま、見慣れぬ部屋に視線を彷徨わせていた。そのうちにぼんやりと脳裏に記憶がよみがえってくる。しい太を探したあと、赤也とジャッカルと祭りに行って、それで帰ろうとして、目の前でジャッカルが斬首された。そしてジャッカルに化けた仁王にそそのかされ、赤也に協力して、だけど謀られて、屍肉の蠱毒に放り込まれた。ジャッカルを首だけ見つけた後は、死体のポケットにあったライターを使って、腐敗の洞窟に火をつけた。なにが起こったのかは覚えているけれど、それに付随する感情まではよみがえってこない。夢を見た朝になにを見たのか思い出そうとしても想起できないあのもどかしさがささくれだった喉につっかかって出てこない。ただ、そうやって頭を絞っているとひどく涙がこみあげてくる。まるでとても大切な誰かが死んでしまって、自分がひとりだけになってしまった哀しみで心が壊れるのを防ぐために感情を分離したかのように、泣きたいのに胸にぽっかりと穴が開いて、そこから哀しみも涙も記憶と一緒に流れだしてどこかに消えてしまうような、水と同じように掴めない感覚だった。形のない景色を追えば追うほど螺旋に陥って、堂々巡りにしか見えないのにいつのまにか希望を見失っていく。手足の指が寒さにかじかんでいく。冷たい手で再び前髪に指を埋め込むと、右目が布に覆われていたことに気づいた。目を怪我しているのだろう。それにしても、いつ、なぜ、どうして、こんなところに? 疑問は泉のごとく湧いて答えも求めぬままに広がっていく。疑念は絶えない。
 またしばらくぼうっとしてると、土壁の向こう、扉、窓から、なにやら人のざわめく声が広がってきているのがようやく耳に忍びこんできた。ぶつかり合う声から生まれる怒声。抗う声。「あいつは怪我をしてるんだ、もう少し静かに眠らせてやってくれ」「なにを言ってる、今は亡き信長に拾われただけの黒坊主が。今は俺達の村に匿われてるだけのくせにしゃしゃり出やがって」「俺達を隠してくれているのはありがたいと思ってる。だが、」「そう思ってんなら、あの赤毛の餓鬼連れてどっか行きやがれ。あんな得体の知れない髪しやがって。祟りを呼んでもおかしくねえ」「そうだそうだ。もう桜の蕾も開いた時期なのに名残雪が降るのもおかしい。そいつの所為じゃないと誰が言える」「そのうえ背中の傷見たか、ありゃあお侍さんの刀あたりで斬られたもんだろうよ。おおかた逃げ出した罪人に違えねえ」「そりゃそうだ、いまは羽柴の世だ。この雑賀を狙ってるって噂もある。ただでさえこっちもごたごたしてんのに、これ以上目をつけられちゃたまったもんじゃねえ」「見慣れない肌や髪のやつは伴天連が連れてきたに決まってらぁ。おら、お役人が来る前にとっとと出てけ!」……派手な水音。悪態。罵声。足音が減っていく。
 ブン太はそっと起きた。上半身は裸で、包帯にしてはぎざぎざなものが左肩から右脇の下を通っている。背中の左側に縦一閃、裂けるような鈍い痛みを感じた。だが、どうしてこのような怪我をしているのか思い出せない。脚も包帯に巻かれている。半分ミイラ男みたいだな、とブン太は細い眉を下ろして、困り気味に笑った。
 それにしても、屋外での言い合いはいったいなんだったのだろう。
 戸口が開き、雫を顎から落としながら、坊主頭の影が入ってきた。その影は、ちょっと困ったような顔をして、首をくいと傾げて微笑みかけた。
「ああ、目、覚ましたか。寒くなかったか?」
 ブン太は戸惑いつつも頷いた。黒みがかった坊主頭は、麻で編まれたような荒い生地は肩から腹まで色濃く濡れ、袖や顎の先から落とす雫の音が静寂のなかにぽつんと寂しく続いている。先刻言い争いをしていた男からかけられたのだろうか。
「薄いけど、味噌汁、要るか?」
 そう言う声は、いつもと変わらず優しくて。
 海馬に眠る記憶と一寸として違わぬジャッカル桑原が、そこにいた。
「ジャッカル!」と叫ぼうと声帯が動きかけた瞬間、子音すら出せぬままブン太は飲み水が気管に入ったときのように激しくむせた。肺胞から空気が絞りだされるように苦しく、身体が海老のように折り曲がった。すぐさまジャッカルの手が背をさすった。そして口に当てていた手を放す。手のひらには真っ赤な飛沫。ジャッカルはブン太の手のひらを見て目を丸くし、すぐに憐れむような目に変わった。
「その血……労咳か?」
 労咳とは結核の昔の呼び方ということは知っていた。過去は亡国病と呼ばれるほど日本に広く蔓延し、長年にわたって死者を出し続けてきた病だ。しかしその病気はもう現代では稀に集団感染を起こすくらいで、もうほとんど罹らない伝染病のはずである。その症状には、全身倦怠感、微熱、寝汗、そして喀血などがある。
 ジャッカルは「待ってろ」と言って立ち上がった。囲炉裏にかけられた小さい鍋に古びたお玉を沈め、色はついていると遠目でかろうじて判別できる味噌汁をよそった。ブン太は、血痰のついた手を握りこんで、ジャッカルからお椀と箸を受け取った。口に少しだけ含んだ。薄くて味噌の味はないに等しく、芋がらが三本ほど表面に浮いている。しかしこの寒きにおいてはこれほど温かいものはなく、ブン太は一口ずつゆっくりと胃へ送った。血痰の味が濯がれた。
 そのとき、また扉が開いて、今度は小さな頭が首をのぞかせた。目が合った瞬間、にか、と桜色の頬で笑まれた。ブン太よりも二つほど年下に見える少年は下駄を土間に脱ぎ捨て、ぺたぺたと黒い木板を踏んだ。よく見れば少年の腰には短刀と、小型の火縄銃のようなものが提げられている。ジャッカルは呆れた顔で少年を迎えた。
「またお前来たのか。そう何度もお屋敷から抜け出したらさすがに孫市さんに怒られるだろ」
「頭領は忙しいんでヤンスよ。元服もしてない、しかも本家の枝の枝の枝の、そのまた枝だっていう僕まで目が届くわけないヤンス。それよりもヤスケさん、紅毛人の様子はどうでヤンスか?」
「まあ、起き上がれるくらいにはなってるみたいだ。それと言っておくが、信長様はもう亡くなられてる。俺はもうその名じゃないぞ」
「ジャッカルさんと呼んだらあいつら、またイヤ〜な顔するでヤンス。郷に入らば郷に従えでヤンスよ。南蛮人であっても日本人らしく振舞う方が吉でヤンス。言葉も違和感ないし、還俗したばかりとかなんとか言えば、地黒だって信じられるヤンスよ」
「しい太……お前なぁ」
 そう言いつつ、ジャッカルはしい太に椀と箸を渡す。薄いとぼやきながらも「しい太」と呼ばれた少年は喉を鳴らして一気にかきこむ。
 遠くから相槌の鋼の音が冷えた大気に木霊する。薪がぱちぱちと火花を散らし、赤黒く光りながら崩れる。穏やかな会話を横で聞きながら、ブン太は一人想う。

 ここは、死の世界だ。

 誰一人気付かないまま、誰一人疑わないまま、自分が死んでいると疑う余地さえなく。
 だとしたら、俺も、もう……

 *

 嗚呼、もし私がもう一人いたらもし私がもう一人いたらもし私がもう一人いたら……!
 柳生は身体にのしかかる熱い肉を払いのけることもできずに、ただ目を見開いて震えていた。目の端には自分の肩からずり落ちた鮮やかな赤い着物がだらしなく広げられた上に柳生が仰向けに剥かれ、その柳生に仁王がのしかかっているのだ。今までに何度も苦い涙と屈辱とともに体験した。いくら抵抗しようにも仁王は柳生のうなじへ、鎖骨へ、そして唇へと順々に熱っぽい口づけをし、そしてまた激しく腰を動かすのである。柳生の意思なぞどこにも介在する余地などなく、ただ仁王の思うままに玩ばれる人形として、精を受け止めるだけである。
 のしかかる熱が、うっ、とうめき、震える。部屋の隅に置かれた行燈の明かりが、麝香の煙を透かして障子にもつれあう脚の影絵を映す。決して実を結ばぬ種付けの儀式。早鐘を打つ心臓に仁王の鼓動が重なり、もはやどちらの心臓がどう鳴っているのかも分からない。うなじにかかる熱い息、酸素が足りず柳生はただひたすらに喘ぐ。熱い、熱い、だれか、助けて……たすけて、たすけて、やなぎくん、たすけて……
 しかしこの場所に柳はいない。いるのは仁王と自分のみである。これ以上誰に助けを乞えと? もつれ絡み合う思考が分かれ、奇妙なまでに冷静な自分が冷静にこの状況を解析している。その間にも仁王は一言として口にせず、柳生とひとめ視線を交わすこともなく、ただ義務的に肌を合わせるだけだ。柳生は、強いられる悦楽を恐怖が包み込み、寒くもないのに歯の根を震わせた。小刻みに振動する歯列に吸いつくのは緋牡丹のような唇であり、思わず注がれた唾液を嚥下する。擦り潰された青臭い葉が混じっていて、全ては飲みこめぬまま口の端から零れた。
 悪夢のような数分ののち、身体には精が排泄される。獣のごとく本能に操られて動いていた腰は突如として律動をやめ、そのまま枕から離れた。柳生は広げられていた西陣織を握りこみ、それにもぐった。目をカッと開け、目尻からは堪えきれぬ雫が落ちた。
 もし私がもう一人いたらば、私はこんな辱めを受けた苦しみを真面目に悩むこともないのに……! 頽廃的な緋の絹越しに確認できるそそくさと袖に手を通す影に、怒りよりも恥辱よりも先に、呼吸さえ自由になれない苦しみがたつ。
 小さい頃からそうだ。紳士なんて自ら作った別の人格だ。自分でもなかば無視していた事実であったが、柳生の大人びた性格は対外用の仮面だ。後で苦しむ要素を極力なくすように、いつもことが起こる前に行動し、障害となるものは常に排除してきた。それが苦しみに対する忍耐力を欠如させてきたのだ。そうだ、違いない、そうだ、絶対そうなんだ! 握りこむ手が絹ごと手のひらに爪を食いこませる。ああ、どうしてこんなときにだけ私はこうやって別の人格を作りあげることができない、いつも紳士として振舞う仮面を作れたのに、八方美人と陰口を叩かれるほど完璧な紳士でいられたのに。
 紳士でいられたのに。紳士で、紳士で、紳士でいられたのに。それなのに紳士の仮面は引き剥がされて粉々に砕かれてしまう。
 粉々に。粉々に。
 ――私は、私は、紳士で、紳士では、もう、いられない、紳士では、もう、元には、戻れ、ひっく、昔のようには、戻れな、えっく、戻、戻、る、なんて、もう、でき、できな……い、どうして、にお、「仁王君」は、こんな、ひっく、こんな、ひどいことが、できる「の」、ひっく、でしょう。それなのに、私に語る、言葉の、ひとつ、えっく……ひとつの、なんという、甘さ、甘美さ。「詐欺師の言葉は」、耳元で繰り返すサッカリンのような言葉。不純物あってこそ真価を発揮する言霊。「なんという言い草!」甘露に見せて腹を穢す、彼岸花のごとき毒。腹に入れた後は彼岸しかない毒! 「どうして私は」、こんな男のために苦しまねばならない! わけもわからず、子供のように、泣きたい、泣きたい、泣きたい、泣きた、「泣きたい」、泣き……泣きたい、――
 襖が動き、閉じた。しばらく柳生は緋色の蛹で子供のように咽び泣いていたが、ようやくそれも治まったころ、腫らした目で布の隙間から部屋の造りを盗み見た。鏡のようなものは縮緬が覆い、豪奢な飾りが目立たぬよう、しかし視覚に強く訴えるような場所に点在していた。部屋の隅には四角い行燈がひとつある。枕元には数枚の小判が重ねられている。すなわち今の柳生は男娼……ということだろうか。
 ゆっくりと身体を起こすと、やはり身体の端々につんとした痛みが走った。激痛とはとても言えないが、じんわりと血がにじむようである。
 そこで柳生は、とにかく半身を起こして、広がっていた小袖に腕を通し、直後襲いかかった睡魔にすこし負けて、その場にどたっと倒れた。しかしすぐに、絹の外に投げ出した左手の指先に熱を感じた。内側から発する熱とは違い、たとえるならば、冬場に出すハロゲンヒーターのように、直接当たらずとも温かさが直接伝わる温度だ。目を開いた瞬間瞠目した。いつのまにか行灯が倒れ、こぼれた油を伝って炎が壁を舐めているのだ。朱色の光は鯉のように壁を這いあがり、またたくまに龍となって天井狭しと暴れ始める。なぜ、いつ倒れた? 誰が倒した? 黒煙がもうもうと巻き起こり、指の一本たりとて動けぬまま、柳生は炎の演舞を凝視していた。だが喉に忍び込んだ煙が咳によって生理的に拒否されたとき、呆然は消しとんだ。柳生は絹を帯つけぬまま身体に巻き付け、障子を真横に叩きつけた。乱れた髪が顎にはりつく。眼鏡がないので遠くまでよく見えない。灯火はなく、煙がさらに視界を濁す。息を切らしながら、広い廊下を駆け抜けた。おかしいくらいに人の姿がない。廊下のあちこちへ目をやっても、見慣れたものはなにひとつない。非常口の札がなければ、消火器もないのだ。
 走る、走る、しかし一向に出口が見えない。右へ左へ、左へ右へ、下へ下へ。ここがどこかという見当をつけることもできない。気付けば天井は黒雲に覆われていた。一瞬まともに吸いこみ、げほげほと咳き込んだ。知識を引きずりだせ、思い出せ。火事での死者は焼死よりも煙を吸い込んだことによる窒息死が多いということを。煙に目がしみ、涙が出る。そのあいだにも煙は板沿いに伸ばされていく。
 誰か、誰か……助けて……
 脚は力を失っていく。床にへたりこんだ。柳生は咳きこみながら、壁伝いにそろそろと進んだ。早く、早く逃げないと、早く、でなければ、早く、死んでしまう。絹の袖で口を押さえつつ、柳生は出口を求めて這いずった。
 この心もはた迷惑なものだ。一日ほど前には生きることを拒否していながら、こうして危機に陥ると必死に生きようと助けを乞う。冷静に批判する理性と、生存本能に忠実な感情が胸で矛と楯を交える。
 柳生は必死で、どこかの障子を開けた。窓があることを信じた。しかし目の前に花開いたのは部屋を蹂躙する朱の光と、炎の龍がまとう黒い叢雲であった。焼け落ちた窓際の障子から赤い月の光が射した。ひっ、と思わず息を吸ったのが間違いだと気付く前に目の前が真っ暗になり、柳生はその場に倒れる。指先へ炎が近寄って来る。ぱち、ぱち、と舌鼓を打ちながら、主なき樞(からくり)人形へと、炎は手を伸ばす。……

 かくして、炎は街を焼き、山へ、南へ。


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