「気を確かに持て」
 突如肩を掴まれて前後にゆすぶられた。柳生は目を白黒させて、目の前にいる人間の腕を掴んだ。顔を上げる。少し高いところにある頭、髪が耳ほどで切り揃えられ、目は糸のように細い。柳蓮二であった。今の今まで炎の中にいて、生存本能と死の淵の狭間で張りつめていた神経が一気に緩んで、思わずその場にへたりこんだ。真紅の西陣織が雪についた。泥と混じった雪の上にある裸足が冷えて、感覚がなくなっている。その代わりに汗がべっとりと額を濡らしていて、乱れた髪が張り付いていて気持ち悪かった。
 ふと顔を上げると、その空は赤黒く燃えていた。花街からもうもうと立つ煙に炎の色が映っている。地獄の釜の蓋が開いたかのようだ。火の粉が蛍火のようにあちこちへ散り、踊り、渦巻いている。道行く人々は悲鳴と怒号を上げながら、水だ水だと叫んでいる。じゃんじゃんじゃんと櫓で鐘がひっきりなしに叩かれる。
 どうしてこの場にいるのだろう。煙を吸った瞬間に意識を失ってから、ここで目が覚めるまでの記憶が一切ない。本棚のように、その場所だけにぽっかりと穴が開いていた。思い出せない。思い出せない。その間、私は何をやっていた。誰に助けられた?
 柳生はへたりこんだまま、首だけを持ち上げて、柳に問いかけた。「私を助けてくれたのは柳君、あなたですか」、と。柳は周囲を気にしながら早口で答える。
「思い違いをしているか。我が名は蜂巣一蓮。陰陽師だ。九尾に魅入られたお前を、助けにきた」

  *

 朧月夜だ。わたを薄く剥いだような雲が、真円にも近い月の姿を濁らせている。雲は虹色の暈を円い月輪にかけている。
 雪が冷たく、裸足の下で指の形を残してぎゅっと潰れる。塀の角に身を隠し、頭だけを動かして辻の人影を見る。人だ、一人だ。血の泉だ。赤也は狂喜し、佇んでいた影に「孫市さん!」と呼びかけて駆け寄った人間ごと、すぐさま斬首した。ごと、と落ちた若者と老人の首級。処女雪を彩り、辻の道祖神をペイントする血のしぶき。駆けて、ただの肉塊になった首のひとつを持ち上げて、傷口に吸いついた。少し生臭いが、鉄が欠乏した赤也には屠られた人間こそがオアシスの水であった。血の酩酊は平素に比べてもひどく増幅され、いつもは見るだけでよかったのに、この世界に落ちてからというものの、喉の奥に流し込まねば治まらない。吸血衝動が今の赤也を、後先考えぬ屠殺に駆り立てた。
 ふたりの血液で喉を潤した後、赤也は屍の背に座り、血に汚れた唇を舐めた。
 決定だ。あの柳サンは仁王先輩に違いない。確信が赤也の口許を針金のように歪ませた。
「おいたが過ぎるぞ、赤也」
 雪に落ちる影が近づいてくる。夏であれば鉄錆がむっと鼻をつくはずだが、この寒さでは微かににおうだけである。その僅かなにおいか、あるいは現場の凄惨さによってか、どちらか見当つかないが柳は不快そうに眉をひそめた。見えているのかどうか分からない目が、赤也の足元に向いた。正確には、いまや命なきししむらとなった老人が身につけていた鉄の筒である。柳はその筒を拾い、両手で撫でまわした。トリガーがあることからして、これは火縄銃であろう。それも、この時期としては相当性能が良い。
「片方は孫市といったか。雑賀衆の頭目だ。この時期では、重意(しげおき)だろうか? 高齢であることからして鈴木重意のはずだが、なにせ俺も歴史上の人間と会ったことはないからな」
 赤也にとっては意味が不明である。そのうえ知識もなければ興味もない。雑賀なんて聞いたことがない。頭を絞っても、さいか屋という百貨店が現代の神奈川にあることを思い出すのがせいぜいだ。その赤也の心を読んだかのように柳は簡単に解説をする。
「雑賀衆とは、紀伊国に存在した傭兵集団だ。火縄銃の扱いに長けていた。雑賀郷を率いていたのは頭目の雑賀孫市。お前が殺したこの老人も孫市の一人、鈴木重意だ。詳しいことは不明だが、どうやら鈴木氏の頭目が代々『孫市』の名を継ぐらしいのでな」
 かまいたちの記憶があるのは、一蓮を殺した一個小隊を殲滅したときからである。その時期は官人の身分を失った一蓮が、鎌一本を携えて銀狐を連れて逃亡した時期とほぼ合致する。一蓮がなぜリーチの長い刀を携行しなかったのか。それは一蓮が陰謀により尾張の河原者に身分を落とされたことと、1588年に行われた刀狩令によって刀を奪われたためである。とすればかまいたちの誕生は刀狩令の前後の時期である。
「雑賀衆は1585年3月、羽柴秀吉の紀州征伐によって散り散りになって消滅した」
 それならばかまいたちが知らないのも道理である。
 赤也は「あっそ」とその話題を投げ出した。遠い昔に消えた集団になぞ興味はない。赤也の興味は違うことに向いている。
 予備動作も見せず、疾風の速さで大鎌を振りかざし、柳の首に当てた。寸止めを失敗して、柳の首筋から光の足りないせいで黒く見える血が一筋だけ流れた。不思議なことに柳はびくっと後ろにすさった。死んでも蘇るはずなのに。死は怖くないはずなのに、まるで首を落とされることを怖がるような条件反射である。口許にある黒子は、赤也のなかでたったひとつの結論を出す。
「あのさ。そろそろ元の姿に戻ったらどうッスか」
「……なんのことだ、赤也」
「は? とぼけんじゃねえよ。柳先輩に化けてるんじゃないんスか。あんたは、もしかまいたちが人殺したらその傷が跳ね返るっつった。けど俺はピンピンしてる。柳先輩は嘘言わねぇよ。嘘つけるのはあんただけっしょ、仁王先輩。いや、銀狐サン。完全に化けきれてないで俺を騙せるとか思ってるんですかね」
 柳の頬に鎌の先端を埋める。皮膚の裂け目から血が零れる。嗜虐的な笑みを酷薄な口許に浮かばせ、赤也は柳の頬に傷の線を引いていく。
「俺があんたに協力した理由追加してやりますよ。人を殺せるだけ殺せるってのが第一の理由。もうひとつは、女に化けていた銀狐サンの絵にも描けぬ美しさ。男に化けてるときは別に襲ってやろうとは思わなかったけど。そろそろ女に化けてくれるかと思えばまた男に化けてくれたッスからね」
「それで? どうせ衆道がまかりとおっていた時代ではないか。さっさと快楽を満たせばよいものを」
「んなことすっかよ。どうせ女なんてそこらじゅうに代わりなんていくらでもいますって。男同士なんざ、気色ワリィ」
 赤也は鎌を振るった。柳は「つ……」と小さく舌打ちし、頬の傷をなぞった。血のついた指先に音を立てて舌を絡ませながら、柳はあらぬ空を見て答える。
「今の言葉を柳生がきけば首を吊るな」
「で、俺はその血を吸って生きてやりますよ。死体が腐ってなければ、最大限搾り取ってやりますよ。でもね、仁王先輩、俺はどうしても納得できないことがあるんですよ」
「事実に即した解答をするか否かは質問の内容によるぞ。それでも構わぬなら聞けばいい」
「最初からあんたに正確な答えも期待してませんよ。ねえ、あんたは今どっちなんッスか」
 すると、柳は糸のような目を開いた。背の低い赤也の充血した眼球を、蔑む狐目が見下ろした。
「……尋問で俺に勝とうとするか、赤也。もし俺がここで、俺自身が仁王雅治だと断定すれば、『クレタ人は嘘つきであるとクレタ人が言った』という展開になるぞ。自己言及のパラドックスだ。クレタ人が自分を嘘つきだと言えば、『クレタ人は嘘つきである』という言葉も嘘になるから、そのクレタ人は正直者であることになる。しかし正直者であれば『嘘つきだ』という嘘は言わない。よってそのクレタ人は嘘つきになる。このパラドックスが延々と続くわけだ。お前の嫌いな論理だろう? 分かりやすく言えば、張り紙をしてはいけませんと書いてある張り紙みたいなものだ」
「興味ねえ。でもあんたは、柳先輩であれば絶対につかない嘘をついた。口許には黒子があるし、髪の毛にはキレーな銀髪が残ってる。妖怪変化もミスすんッスね。慌てて柳先輩に化けたけど、怪我してて化けきれなかったとかいうオチっしょ。そのうえ、一挙一動がコケティッシュでよ。柳先輩はそんなこと絶対しない。指に血がついたら、舐めるなんてことしないッスよ。いつも懐紙で拭きますしね」
 柳は舐めていた指を下ろした。月明かりを小さな黒子が吸収して、小さいながらもそこだけが針の穴のように無限に暗かった。
「流石だな、赤也。しかし長々とした井戸端会議は俺の趣味に合わん。耳をそばだてろ、赤也……足音だ」
 突如柳は唇に人差し指を当て、薄く開いた眼で辻の先を睨み据えた。話の腰を折られたのが少しむかついたが、赤也もけだるげに目線の先を追う。耳を凝らすと、微かに孫市を呼ぶ子供の声を聞いた。もうひとつ、少年を諌める女の声も連れ立って、この場で骸を晒している孫市を探している。距離は1町(109.09m)くらいであろうか。徐々に近づいてくる少年の声は次第に悲壮感を帯び、張り裂けんばかりに夜のしじまにこだまする。
 柳は先に旅籠に戻ってもらった。現在の柳蓮二は、本人が認めていないとはいえ仁王雅治に違いはあるまい。かまいたちの能力のひとつである驚異的な俊足は仁王にはなく、脚が速いとはいえ身体能力の優れた人間並みしかないはずだ。対する赤也にはそのスピードは残っている。駆けつける少年を屠ろうかと思ったが、去り際の柳に止められた。とはいえ血の酩酊を求める本能はかなり薄れている。おそらく生き血を飲んだことが、それ以上の殺人衝動を抑制しているのだろう。屠りたくて忘我のうちに人を殺めるまでには殺人衝動は強くない。ただ、せめてもの好奇心で声の主の顔を見てみたいと思った。鎌を手首に仕舞った。
 細長い葉を持つ垣の角に身を隠し、声を殺し、辻から発される物音だけを聞いた。少年と女、そして追随する数人の武士が、死体の周りと取り囲むように広がる。
「頭領、頭領!」
 涙に邪魔されてろくに言葉になっていない声が屍の称号を繰り返した。しかし孫市は首を落とされ、もはや物言わぬししむらと変わり果てている。孫市の死体にすがって泣きじゃくる少年に女が厳しい声をかけた。
「しい太丸。お前がこんなところで泣くなぞ、武士の恥とは思いませぬのか」
 止まらない涙としゃっくりに咽びながら、少年はたどたどしく答える。
「ですが……母上、頭領、もう亡くなってるでヤンス。どうして泣くこともしないでヤンスか。頭領がかわいそうでヤンス」
 しい太丸という呼び名に、思わず耳が反応して、赤也は姿の見えないぎりぎりまで角に寄り、耳をすませた。最後の「丸」を抜かせば、名はしい太によく似ている。そして浦山しい太とは赤也が確実に首を切断した少年の名前である。そのうえ、しい太がよく語尾につける特徴的な方言もそっくりそのまま繰り返していた。
 そして再び赤也は確信した。この世界は現代から400年ほど昔で、赤也の知る全ての人間の輪廻転生の前の世界である、と。
「いつまでぐずぐずと泣いているのですか。重意様がお前のこの体たらくを見たら、心安らかに三途の川を渡ることもままならざるまい。よくお聞きなさい。我が家では、たとえ一族郎党皆殺しの目に遭おうとも、決して孫市様の血を絶やすわけにはいきません。重秀様も重朝様も暫く出張ってらっしゃいます。もしその二人が戻ってこなかったら、お前が次代の孫市までを繋ぐ捨て駒となるやもしれませぬ。いつ孫市として雑賀を率いるか分かりませぬ。母の前であろうと人前には違いありません、情けないことはおやめなさい、しい太丸。ことと場合によっては明日にも元服せねばなりますまい」
「ですが、母上、僕はまだ孫市様の名は受け取れないでヤンス」
「我が儘は大概にしなさい、しい太丸!」
 ひときわ強い女の声が叱咤し、しい太は沈黙した。再びトーンを押さえた女は、周りに目をやって人影がないのを確かめると、静かな長広舌をふるった。
「お前が郷のはずれに、どこの馬の骨とも知らない南蛮人を飼っているのは知っています。あなたがよくそこを訪れるのも大目に見ていました。しかしこの前、その黒い坊主が赤毛の子供まで引き入れたではありませんか。いつ次の戦に駆り出されるか分からぬ時勢。ただでさえ兵糧は蓄えておかねばならないのに、ただお前のかわいそうという憐憫でどれだけの米が減り、郷の人間が不満を抱えているか分かりますか。犬猫を拾うのとはわけが違うのですよ。ただでさえ我が雑賀衆は羽柴様に良からぬ企みを抱かれているとの噂です。今の羽柴軍に攻められたら、いくら我が雑賀でも太刀打ちできないのは目に見えています。重意様を討ったのは羽柴の手の者であるかもしれません。かようなとき、雑賀はひとつにまとまる必要があるのです。禍の種を残しておいて得になることなど一つとしてありましょうか。しい太丸、お前は雑賀孫市を支える者としてそれなりの責任を負わねばならないことを忘れてはなりませんよ」
 しい太は、うっ、とうめいた。しゃっくりを繰り返しながら目を拭うしい太は、ひとつも反論できずに沈黙した。
「さあ、重意様の亡骸は供の者に任せて、私達は戻りましょう。身体に障ります」
 女は先刻までの冷徹さとは打って変わって、猫の背を撫でるような言葉でしい太を促した。
 赤也は垣の影から出て「おい」と呼びかけた。しい太と女の背中が遠ざかるのを牽制する。二人は目に訝しさを残して振り返る。供の侍が幾人か刀に手をかけた。女がしい太を左手で守るように、一歩前へ出る。凍るような双眸が赤也の網膜を刺した。
「うぬは何者ぞ」
「あんたにゃ興味ない。そこの、しい太丸とか言うの。前に出ろ。話がある」
 怯える猫に手招くが、やはり名指しされた当人は母親の着物に縋って震えるばかりである。そのとき若い侍が刀を抜き、赤也に斬りかかった。しかし赤也は瞬時に手首から生やした鎌を閃かせ、今しがた残像を斬らんとした白刃を横薙ぎに切断した。武士の命と同等である刀は今や鋭利に切断されて、鍔から数センチ先までしか残っていない。一瞬だけ呆然とした侍の背中を蹴りつけて脇にのけると、死神が持つような鎌をよく見えるように掲げる。
「しい太。来ねえなら今度は周りの猿どもの首を飛ばすぜ」
 もちろん嘘だ。
 首を飛ばすという物騒な言葉にびくっと震えたしい太は意を決して母親の袖から手を離し、一人赤也の前まで歩んだ。手を伸ばす幾人かの侍に、大丈夫だと説得するようにひとつ頷く。ぎっ、ぎっ、と積雪を踏む下駄の音が、誰一人として声を出さない静寂にひどく響いた。
「ぼ、僕に、なんの用でヤンスか」
 裏返った声は歓迎とは程遠かった。恐れ戦く敵愾心をむき出しにした目は、天狗を目の前に精一杯の虚勢を張る幼子のようであった。
「話だけだっつってんだろ」
「ぜ、ぜった、絶対に、母上や、供の者に、ろ、狼藉は、働かないで下さいでヤンス!」
「だからうっせぇな。この場で首吹っ飛ばされたくないなら質問に答えろ」
 しい太は、恐々と頷いた。
「最初の質問だぜ。お前は浦山しい太か」
「鈴木家の分家で、苗字なら鈴木でヤンス。でも今は裏の山に構えている座敷に住んでるから、浦山のしい太とも呼ばれるでヤンス」
「そうか。さっき、お前が黒い坊主とかってのを飼ってるつってたな。ジャッカル先輩とか、そういう名前じゃないのか。それと赤い髪。ブン太先輩だと思うんだけどね」
「……違うでヤンス。討たれた信長の元家臣だった、ヤスケという南蛮人でヤンスよ。赤い髪のほうは名前を知らないでヤンス。口が利けないようで、名前も言えぬようでヤシた」
 成程、口が利けないと。赤也は殊勝に北叟笑んだ。
 ブン太は元より話せるわけがない。赤也がその喉を裂いて、声帯はもう使い物にならないはずだ。口が利けない赤い髪の子供、それ即ちブン太に相違ない。ブン太を拾った黒い坊主がジャッカルであるという仮説も成り立つ。
 夜の住宅街を逃げ回ったジャッカルは袋小路に追い詰めた末、この手で斬首した。ブン太はあのカタコンベの中に閉じ込めた。半日以上腐敗した死肉の壷に居ては、普通は気が狂うか自殺するかだろう。とすれば両人は死んでいる。下手をすればブン太はカタコンベに火を放って自身ごと焼き殺してしまったかもしれない。赤也が扉を開けた瞬間にバックドラフトが起こったのは、もしやブン太の放火に起因するのではないだろうか。
 とすればやはり、この世界は死人がくる世界なのだろう。どこかの漫画で似たような世界観があったよな、と赤也は記憶を想起した。ジャンプの漫画にあったよな……なんだっけ、まあいいや。
「僕の質問にも答えて下さいでヤンス。頭領を斬ったのは……うぬでヤンスか?」
 頭領……それは今しがた、しい太が泣きついた老人の亡骸である。柳は、この雑賀孫市は鈴木重意だと言った。しい太は通り名が同じでありこそすれ、武家としては鈴木であると答えた。となると先刻殺した老人はやはり、しい太の祖父か曾祖父あたりである。
 顎をくいと上げて、赤也は緋色の目で爛と見下ろした。ダークヒーローのようにわざと悪役っぽく笑って。
「もしかしたら雑賀孫市ってやつ?」
 しい太の目が限界まで見開かれて、その口から呼気が消えた。驚愕していて動けないのだろう――赤也の予想と裏腹に、一気に腰の短刀を引き抜いたしい太の目は、憤怒にいきりたっていた。「成敗!」という甲高い掛け声がしじまを割り、月明かりの尾を引きながら鋭い切っ先が、咄嗟に後ろに跳んだ赤也の着物の袖を大きく割った。一気に3メートルは後ろに跳んで着地した赤也は、両腕から鎌を生やし、逆に一蹴りでしい太の首を狙って鎌を振りかざした。首ぎりぎり、寸でのところでかちあった二本の刃が火の花を散らした。短刀越しに見たしい太の目はまさしく武士の目であった。
「頭領の……仇!」
 力ずくで鎌を弾かれた。空中でバランスを崩し、再び後方に跳んで着地した赤也に、しい太はなおも無鉄砲に突っ込んできた。それでもスピードだけなら赤也には遥かに分がある。ここで殺すこともできるが、殺人衝動は吸血により沈静化している。ここで殺すまでもない。
 赤也はすぐさま回れ右して、路地を風のように駆け抜けた、つもりだった。
 突如背中が肩甲骨から殴られたような衝撃を感じ、その場に転び――しかし元々の超スピードには慣性の法則が強力に当てはまっており、赤也は雪煙を撒き散らしながら突き当りの土塀に衝突した。ひどく打ちつけた頬を拭った。何があった、何が! 血混じりの唾を吐きつつ、衝撃を受けた左肩に手を添える。血だ――それも真っ赤な鮮血である! ぎぃん、と神経を直接刺激するような激痛が、肩から全身へと疾駆した。身体が動かない。途方もない痛みが全身を鉛にした。
 遥か遠くの路地に白刃を引っ提げたしい太の姿が見えた。その隣にいる侍が構えるものは、あれは紛れもなく火縄銃ではあるまいか。黒く小さな口が、今も硝煙を冬の静けさの中に一筋漂わせている。不覚である。雑賀衆は傭兵集団であり、火縄銃の扱いに長けている。いくら赤也が超高速で疾走しても、引き金が引かれた瞬間銃は広げた距離を無効にするのだ。しい太がおどおどしている振りをしていたのは、火縄銃に火薬を詰める時間を稼いでいたためか。舌打ちする他ない。
 しい太が供の者を引き連れ、赤也の心臓に鉛玉を撃ち込むべく向かってくる。赤也はよろよろと立ち上がった。しかし肩の痛みが赤也を引き留める。畜生、と吐き捨てた赤也は内心阿修羅のように怒り狂った。
 そのとき、ふと赤也の目の前に現れた長身の人影があった。その影が拳大の何かを投擲し、それが次に赤也を狙った銃弾と衝突した瞬間、視界が煙に包まれた。長く細い腕にひょいと身体を背負われて、そのまま逃げた。十数分してようやく撒いた頃、柳の低い声が「おいたはいけないな」と極めて機嫌の悪そうな声で呼びかけた。柳はなるべく赤也の流す血の雫を落とさないようにして、さらに足跡の多い道を選んで旅籠まで戻った。
 静かな旅籠の一室の板に、赤也は寝かせられて上着を剥がされた。それでも赤也の瞼は相当に重く、今にも眠ってしまいたくなるほどだが、痛みがそれを許さない。小さな黒い銃創が鎖骨の下に開いていて、そこだけは触れられる度に途方もない激痛が全身を駆け巡った。
 乾いた血のりがついた胸を上下させながら、なおも挑発した。
「もし、あんたが柳サン、だったら……こんな傷、すぐに治せる、ですよね?」
 柳は口を噤み、黙々と赤也の傷に軟膏を塗った。柳蓮二の肉体が生成する軟膏であればこの傷は瞬く間に治癒する。しかし傷は一向に塞がることはない。やはり、この柳は仁王なのだ。妖怪変化が柳を模っているだけなのだ。
 赤也の着物を元に戻し、嘲るように柳は答えた。
「……安心しろ。お前は死なん。この程度でくたばったら弦一郎の裏拳を喰らうだろう。それが嫌ならば、気力でどうにかしろ、赤也」
「もう、殺されてるっしょ、あの人。あんたにさ」
「……そうか、そうだったな」
 ダメだ、眠くなる。別に今眠っても構わないのだ。どうせ、この程度の傷でかまいたちが死ぬわけがない。
 緊張の糸が切れたかのように赤也はその場にくたりとなって、瞼を閉じた。視界は睡魔の黒いペンキに、瞬く間に塗りつぶされて、赤也は眠った。


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