※R-18描写注意


 よく赤也は二重人格だと言われる。その度に知識のある柳や柳生が二重人格についての事細かな説明をした。本当の二重人格者は精神への負荷が強すぎた時に、心的外傷に対する防衛機制として精神が解離を起こし、自己同一性を失うというものだ。自己同一性が一人の人間の中に複数存在すると言い替えることもできる。幼少期に性的虐待を受けるなどして大きすぎるストレスを受け続けた場合に多い。そして二重人格とは人格が交代している間は非常に高度な記憶喪失を経験する。有名な多重人格者で有名なのはアメリカ人のビリー・ミリガンで、計24もの人格があったとされる。彼も幼少時に義父から身体的、性的虐待を受け続けてきた。その結果、好ましくない者たちを含む23人の人格を作ってしまったという。
 幸いなことに赤也は他の人間に比べ幸福な人生を送ってきた方だと思っている。田舎にある本家は「憑物筋」として迫害を受けてはいたが、それも赤也が幼稚園に上がるまえに神奈川に引っ越してきたことによってささやかな村八分は終わった。外資系企業に勤める父のおかげか、比較的富裕な生活を享受してきた。精神を解離させるほどの強いストレスを受ける環境はない。表の赤也もまた自身を二重人格だと冗談めかして思っている。自分が本当の二重人格だとは思ってはいない。態度や性格が一変しやすいことの比喩として用いるのみだ。他の言葉を使うのも面倒だから二重人格と呼称しているだけだ。目が充血する前は飄軽に笑ってコントローラーを握りしめ、充血すると相手を徹底的に潰す。憤怒と興奮のあまりに肌まで赤く変色すると相手を血まみれにしてもまだ足りない。コートを朱に染め、圧倒的な力に敗北した人間が地に這いつくばる姿に笑いを抑えきれない。赤也の前に倒れ伏した人間に吐き出す笑い声を聞き、人は赤也を悪魔と呼ぶ。自らが持つ力への果てなき信頼と、不遜なまでの驕りと、誰ひとり立ち上がるのを許さないほど完全に叩きのめすことが最上にして狂気じみた喜びである。表の赤也が知るのは、自らの態度が豹変しやすいことだけだ。性格の変貌を導く下地が、何百年にも渡って受け継がれてきたかまいたちの人格だと全く思わないだろう。
 表の赤也はずっと眠っている。今の赤也を動かす性格は、表の赤也を抜かして他にふたつある。残忍極まるかまいたちの性格と、かまいたちの一面としての吸血鬼の人格だ。渇きにこらえられなくなった吸血鬼としての、剥き出しの本能に操られるがまま人を屠り、生々しい血を吸う小脳の奴隷である。
 この光景は、果てなき支配欲が見せる明晰夢か。それとも暁光が見せる幻だろうか。
 柳を床板に押し倒し、細い肩を両手で黒い床板に押し付ける。これから殺されるというのに余裕たっぷりな柳の嘲笑いが、僅かな言葉を紡ぐ。
「修羅の道へ落ちるがいい」
 しかしその言葉は耳に入っても脳髄までは染み込んでこない。雑賀衆から受けた傷による失血に我を失わせたまま、柳の着物を剥ぎ、筋が浮かぶ真っ白な首に歯列を食いこませた。いくら中学生に見えない身体をしていようと、やはり柳は中学生に相違ないほど肌の弾力があった。硬くもみずみずしい筋に埋もれた頸動脈を、勘に頼って迷わず犬歯を突きたてる。溢れる血を噛み、吸い、貪って飲み下した。ぴちゃぴちゃと舌が首筋の歯型を蹂躙し、血と絡む水音を発する。抵抗する両手首を掴んで床板に押し付ける。失血に従って徐々に弱まっていく抵抗さえ、赤也の恍惚を誘う。身もだえしつつ、よがりつつ冷えていく身体は嗜虐心をいたずらにあおるだけである。浅く速い喘ぎが赤也の頸筋を吹く。やがて抵抗していた腕はばたりと落ち、その肉はただの塊となる。力なく丸まった小枝のような指に自らの指を重ね、太ももの間を膝で割る。耳朶を噛みちぎり、耳殻を構成する軟骨を咀嚼する。こり、こりっ、とした食感がたまらない。舌の上で噛み砕いたあと、嚥下した。柳の肉体の一部が胃に入り、自分と同化するが、決して赤也と対等ではない、消化吸収である。これまでにない完全なる支配である。殺人、吸血、食人行為は究極的に言えばその人間に対する支配欲の極北に他ならない。支配できるか否かがかまいたちにとっての全てである。支配できないものは殺して支配する。支配できるものは自由の全てを奪って、血を吸い尽くして殺す。勝利することはそれ即ち敗者にアドバンテージを得ることだ。立海大のテニス部に入るまえからそれは身に染みついていた。
 眉間に少し皺を寄せた、苦悶の死に顔に舌を這わせる。冷たい頬は陶磁器のようである。首筋に残った赤黒い穴の周囲は血で汚れている。その傷をざらざらした舌で綺麗に舐めた。少し冷えた背中に両手を回して、乱れた生肌をぎゅっと抱き寄せる。ああ、これが女に化けていたころの銀狐であったなら、欲望のまま凌辱してしまえるのに。
 その光景は夢か、現か。見えるものは幻で、聞こえるのは偽りか。唇に残る血の味が、本当に銀狐の血であればいい。その血を吸えたのが夢であるならば、永遠に眠っていられればいいのに。こんないい夢を見られるなら、ずっと眠ってしまいたい。鳶の翼のごとく旋回して襲いくる睡魔は雀の鳴き声を子守唄に変えた。


 ……睡魔が連れてくるのは睡眠であり、睡眠のあとに訪れるのは朝であるように、起きる直前に見た景色はやはり夢だったらしい。
 赤也は天井の羽目板をぼうっと眺めながら、体温に比して冷たい布団のなかでぐでっと横たわっていた。自分の分の布団を畳んだあとの柳は赤也がくるまる薄い布団を引っぺがすと、寒さに丸まった赤也なぞお構いなしに目の前で手早く畳み始めた。寒い寒いと言って駄々をこねる赤也が包帯だけの姿で陽が射し込む縁側に出ようとすると、後頭部に柔らかいものがヒットした。バランスを崩して投擲されたものを拾ってみたら、綺麗に畳まれた昨日の着物だった。もとが柔らかいものであって、痛ぇと文句を言うこともできない。柳は小さな荷物だけを担いだ。
「いつまでも寝てばかりいるな。すぐ出るぞ、支度をしろ」
 かまいたちが半分人間から逸脱した化物だとはいえ、怪我人相手にやはり柳はいつもどおりに容赦なかった。もし自分が幸村であったら柳にいたわってもらえるのに、と腹の底で拗ねた。いつも赤也が風邪をひいたとき、柳は電話口で「いいからすぐコートに来い」と命令していた。対して幸村が欠席するときは「今日はゆっくりと身体を休めろ」。なにこの扱いの違い。思い出すと余計腹が立ってくる。
「早くしないと逃げられるではないか」
 緋色の装束に袖を通しながら、「誰に」と赤也は聞き返す。柳は縁側で草鞋の紐を慣れた手捌きで結いながら答えた。
「俺に似たやつと、俺がいた。お前が急がねば二人を逃すに決まっているだろう?」

  *

 背の高い枯草が茫々に生い茂るなかを突っ切ったような石の階段を上ってきて、かなり息があがっていることに気づいた。馬の手綱を引きながら、重い着物に息が切れる。ゆうべ仁王にまた手籠にされて体力が削られているのだと推測する。脾臓が絞られるように痛んできてその場にしゃがみこむと、背こそ高いが、旅の遊女が腹痛でも起こしてうずくまっているようにも見えた。その度に、柳と同じ声が心配する声をかける。年齢、背丈、髪型、声や語り口からして柳と瓜二つの青年は、陰陽師・蜂巣一蓮と名乗った。官人の身分らしく、質素だが緑色の美しい和服を纏っている。
 対して柳生が着る、鮮やかな緋の布に金糸を織り込んだ豪奢な金襴は、裾の泥汚れともどもひどく目立った。しかし他の着物に着替えることもできず、柳生は一蓮と名乗る青年とともに、着たきり雀で京の都から逃亡してきたのだ。
 京に放たれた火は一晩のうちに花街を飲み込んだ。一蓮は憑物に囚われた柳生が、九尾を祓う前に付け火の咎で処断されるのを避けたらしく、宿駅の伝馬を奪取し、一晩で紀ノ川まで逃れてきた。慣れない乗馬は柳生の体力と気力に激しい消耗を強いたが、一蓮はなによりも距離を優先した。しかし休むことなく川沿いに走り続けてきたため、馬が疲れてきたという現状もある。そのため柳生と一蓮は昇った日が中天にかかる前に、適当な荒れ寺を探してそこで馬を休ませることに決めた。
 新雪から飛び出す枯草を踏み折りつつ、馬を引く。蹄の音が柔らかな雪に吸収され、聞こえるのは柳生のあがった息だけだった。
 なるべく門から離れた縁側の柱に馬をとめた。塀は一部が壊れていて、その奥には切り崩されたような崖がかなりの急斜面で川へ落ちくぼんでいた。雪解け水によって増水した川に落ちたら、生きていられる保証はないだろう。
 縁側から室内に入る。雪が太陽光を跳ね返しているため室内でも多少明るい。それゆえに家具の周辺に落ちた影は深い。畳は表面の藺草が擦りきれて歪み、繊維の間には砂塵が詰まっている。天井の梁に張られた蜘蛛の巣が埃を溜めている。清潔感があるとはと言い難い場所であったが、慣れない馬の上でバランスをとり、手綱をさばき、追手の察知に費やして過ごした半日近くという時間は、柳生の予想以上に疲労を蓄積させていた。いままで何時間テニスをしていても倒れるぐらいは疲れなかったのに、いまでは倒れたくなるほど全身が土嚢となっている。まぶたも重い。
「疲れたか」
「ええ、少し……」
 柳生は小さくうなずいた。すると一蓮は白い羽織を柳生の肩にかけ、袖から草に包まれたものを渡した。
「食べろ。腹の足しにはならぬかもしれぬが、なにもいれぬよりはましだ」
 開いてみた。手のひらに乗るほどの大きさをした緑色の蓬餅である。例に倣ってちびちびとかじった。今までに何度かもらっていたものだ。これを食べるだけで空腹が満たされるような気がして、少しだけだが嫌なことも忘れられた。まったく湧かなかった食欲もすこしずつ出るようにはなった。
「一刻ほどしたらまた馬を馳せるぞ。それまで眠っていればよいだろう」
 柳だと錯覚するような声が真横からかけられる。伏し目がちで糸のような目が真摯に柳生を捉えた。
「とはいえ、ここを発つ刻限は少し前後するかもしれぬ。先刻下りてきた山の麓からちらりと見えたのだが、五七の桐を掲げた大軍がいた。羽柴の軍に相違なかろう。いずこへ向かうかは不明だが、出くわすのは都合が良くない。金襴は世辞にも地味とはいえぬからな。旅の目的を言えぬ以上、捕縛される道理は充分にある。羽柴が衆道でないのが唯一の幸いというべきだな、柳生」
「羽柴……秀吉の軍ですか」
 約半日、彼とだけ過ごしてきたことで、ここでは時間が遡っていると知ることができた。秀吉が羽柴と呼ばれたのは1586年までのことであり、それ以降は朝廷の勅許を得て豊臣と名乗るようになった。羽柴秀吉とは豊臣秀吉のことかと尋ねてみたら、豊臣という苗字は聞いたことがないという。今年は何年かを教えてはもらったが、天正十三年が西暦何年を指すかまでは柳生は知らなかった。どう見ても安土桃山時代の日本、外国の宣教師が来日していたとしても一蓮は陰陽道の人間で、海の外にある国の紀年法なぞ知る由もない。一蓮の話から類推すると、本能寺の変が起こって織田信長が討たれた後から、せいぜい1586年以前だと見ていいだろう。
 一蓮の視力は非常によいらしく、柳生が見つけられなかった五七の桐の紋を見分けることができていた。対する柳生は現在メガネを失くしており、視力は前回はかったときよりも大幅に低下していた。それは全国大会が終わったあとから塾などに通う時間が増えたためである。加えてエスカレーター式で比較的楽に高校へ進学できるとはいえ、学力がなければ志望する大学へ行ってもついていけないに決まっている。そのため高い偏差値を求めて受験勉強に精を出したという遠因もあった。くわえてパソコンを使用する時間がレイヤーとしての活動再開によって増加し、目を酷使する機会が増えたことにあった。視界からは明瞭さが失われ、数メートル後ろで埃をかぶっている般若経は一文字として識別することはできなかった。
「秀吉が如何様な理由でこの付近に兵を差し向けたかは分からん。しかししばしのあいだは此処に留まり羽柴の軍が過ぎるのを待つべきだろう。それまで眠りにつくがいい」
 はい、と柳生はうなずいた。とたんに重苦しいほどの睡魔が頭をがんと打って、縁側に柳生は倒れ伏した。鎧袖一触の力を持つ立海大のレギュラーの一角を占めるとはいえ、摩耗していく精神力とひと晩に渡る逃亡劇は、ひとときだけまどろむような浅い眠りをもたらすようなしけた真似はしない。くるぶしに碇を結びつけたかのように柳生の脳髄は眠りの海に引きずり込まれる。
 そして突然に目が覚めた。まどろむ暇もなく、ぱちりと目が開いた。目の前には木の枝が横たわっていた。その場に手をついてゆっくりと起き上がる。竹のような形をしている肉厚の葉が濃い緑色をしていて、その中に時季外れの花が開いていた。爪のように薄く硬い葉と対照的に、唇のように柔らかそうな桃色の花弁が八重に咲いている。季節外れの花にはよくよく縁があるようだ。この花は夾竹桃。ふだんは六月から九月にかけて開く花である。しかしその美しさのなかには青酸に匹敵する毒を併せ持つ花だ。猫の背中のように愛でながら、柳生は視線をめぐらせた。
 光が射し込まず書院造の間は暗い。破れた障子から薄く射し込む鼠色の空が、井戸の底から見るような外の世界だった。擦り切れた畳の藺草に頬をべったりとつけて眠っていたようだ。
 部屋の隅には黒い手鏡が置きざりにされていた。夾竹桃の花を畳に下ろし、鏡を手に取る。裏面には金箔で桜の蒔絵が施されている。鏡面は埃に汚れていて、着物の裾でこすると瞬く間に輝きを取り戻した。自分の顔が鏡の奥にある。薄く塗られていた白粉や紅は剥げ、眼鏡はすでになく、髪は乱れに乱れていた。髪がこれで銀であれば、仁王雅治との違いが見つからないような顔であった。いままで枕もない場所に眠っていたせいで頬には畳の目が刻み込まれていて、頬を揉み解した。
 柳生は友人達と比べて、頻繁に鏡を見る方だ。それは紳士として身だしなみに気を配り、他の生徒の鑑となり、風紀を守り規則に則るためだ。こっそり行っていた趣味のコスプレでも自分の姿が華麗なビスクドールを再現できるように確認として鏡を見た。関東大会決勝で行った入れ替わり作戦では完全な仁王雅治を演じ切るように、鏡を見て自分の姿を確認し、柳生比呂士としての自分と、仁王雅治としての役柄を完璧に演じ切ってみせた。
 鏡は柳生にとって自己の確認行為だった。朝に洗面台で顔を洗うとき、昼に歯を磨くとき、夜に風呂場で身体を洗うとき、日常的に鏡を見る。それは自分が柳生比呂士であり、ともすればすぐに崩れやすい紳士としての自己を規定するためだ。鏡を見ることによって自分が自分だと確認できる。自分が自分でいられることに安心できる。たとえその容姿が仁王雅治とほぼ同一だとしても。
 顔ほどの大きさがある鏡を隔ててもうひとつの部屋があり、向こう側の世界にいる自分が柳生を見つめているような錯覚に陥る。柳のように鏡は正確に現実を知らせる。しかし鏡像そのものは偽物であり、虚の像であり、真実たりえない。まるで仁王のように鏡は目の前に映る人の姿を模り、目を惑わす。真実と虚偽、実像と虚像の狭間、極めてあやふやな場所に鏡は位置している。自分であり自分ではない似姿を見て、昔の人間が鏡を魂や太陽の象徴とした理由も分かるような気がした。
 柳生は鏡像を頼りに手を自らの頬に滑らせた。見れば見るほど似ている。自分の鏡像を透かして、柳生はいつも罪悪感を引き連れてくる幻を見てきた。腹違いの弟の姿を。鏡に映る自分の顔へふっと手を伸ばして、誰もいない書院造の暗闇に、アルビノのように白い自分の顔。その後ろにあるのは書院造の間に落ちる薄暗がりと、

 嗤った、仁王雅治の顔が。

 弾かれるように振り返ったとたん、悲鳴をあげかけた口を両手で塞がれた。野生動物のように俊敏な腕によって柳生の肩は汚れた畳に押し倒され、熱い肉がのしかかった。抵抗する暇さえ与えられず、そのまま口を塞がれる。濡れた舌が蛇のように口腔を這いずりまわり、舌が絡めとられ、歯茎をなぞられる。娼婦のような舌遣いから流れ落ちる唾液が、病原菌のように柳生の精神を恐怖の毒素で侵した。抵抗する脚が甲斐なく宙を蹴る。そのあいだにも着物の掛衿から侵入する五本の指が頽廃的な西陣織を肌蹴させ、柳生の肌を外気に露わにする。それでも最後まで脱がすことはしない。柳生の口をかみつくような接吻で塞ぎつつ、仁王の片手は手早く帯を緩ませ始める。すっかり冷えた手に下半身をなぞられ、柳生はそこまでことが進んで初めて首を横に思い切り背けて口づけから逃れた。酸欠で喘ぎながら名を呼ぶが、本人はどこふく風である。また徒に終わる種付けが始められるのだ。仁王は柳生の右手首に紐を絡ませて、柱に結びつけた。ふとももの間に膝をついてのしかかり、見下ろすような格好をして、仁王は冷笑した。
「誰もおらんからいくらでも叫びんしゃい」
「い、一蓮さんは、」
「喘ぎ声聞いてもらいたかとか?」
 にやっと嗤った仁王に、柳生は震えるように首を横に振った。仁王は「ええ子じゃ」と柳生の耳朶を甘く食んだ。
 始まりの合図がなければ拒否の言葉も聞き入れられない。それが最近二週間ほどで柳生の精神を崩壊する寸前まで追い詰めた、仁王の姦淫のスタイルである。よしんば愛の囁きがあったとしても、決して認められぬ戯れである。
 片手で柳生の手を押さえつけながら、自由な方の仁王の手が絹と肌の間を愛撫する。首筋に顔を埋められ、うなじをざらざらした味蕾が唾液の道を引いていくたびに沸騰していく羞恥が顔と耳に熱をおくる。身体から力が抜けていく。誰か、誰か助けて。しかし声を出すと一蓮が気付いて駆けつけてくるかもしれない。あわよくば助けられたとしても確実にまぐわっている瞬間を見られてしまう。こんな姿は見られたくない。見てほしくない。仁王の手のひらが柳生の下半身の性感帯をピンポイントに刺激し、有無を言わせず、本来ならば女性と愛を育むときやトイレの時にしか使わない陰茎の、萎びていたはずの海綿体に血液が集まってくる。半だちの性器に仁王はしゃぶりつき、巧みに舌を絡めて唾液と先走りの精液を混じらせる。軟らかな舌を覆う味蕾がカリをねぶりつくように擦りあげ、柳生は顎を逸らして絶頂に達した。よがる身体はぐたりと力を失い、荒く熱っぽい息に胸を委ねた。
 つきりと痛んでくる身体。にじんでくる視界。涙が温度をもって溜まるめじり。しかし今までの全ては前戯に過ぎず、仁王にとっての本番はここからである。仁王は柳生の裸の左足を担いだ。今までに何度も経験し、そのたびに屈辱と羞恥は頂点へと登っていく行為だった。本来ならば排泄器官でしかない場所は精と唾に塗りたくられ、女のものと変わらなくなっている。つぷりと挿入された指先によって括約筋が押し広げられるいやな感覚がまた半身を襲った。耐える心を崩してしまいたくなるほど、自我に対する侵食はすさまじかった。自分は男であり、男の性欲処理になぞつきあう義理もない。それでも拒否できないのは、拒否することによってことが大きくなり、たとえ被害者の側であろうとも事態が暴露されて「そういう行為をした」という既成事実が人から人へ広がっていくのを恐れたためであった。
 ばらばらに動く指に体内を蹂躙されるのをなすがままにしていたら、横倒しの視界に、先刻の花がちらりとかすめた。桃色をした八重咲きの花、夾竹桃。その花には毒がある。かつてアレクサンドロス3世に追従したとき、セレウコス1世の率いる30人ほどの一個小隊が夾竹桃を串焼きの串として使用し、その部隊は全滅した。オーストラリアでバーベキューの串に夾竹桃の枝を使用した数世帯の11人中10人が死亡したという事例もある。花、枝、葉など全部位に渡って青酸をも上回る毒性をもつ、植物界でもトップクラスを誇る強力な毒草であることを、柳生はたったいま思い出した。
「力抜きんしゃい。いれるぜよ」
 迷わなかった。柳生は自由な左手で夾竹桃の花弁をむしりとって口に入れ、オトシブミの揺り籠のように舌の上で器用にくるくると巻いた。ほぼ同時に、仁王の熱い欲望が突き刺さり、弓のようにびくんと背が反る。酩酊に似た衝撃のあった一瞬を過ぎ、ぎら、と柳生は鋭い殺意で睨み返した。今度は仁王の頭に抱きつくように腕を伸ばし、その口にむしゃぶりついた。お互いに余裕もなく、唇の端から唾液が糸のように垂れ落ちる。酸欠で苦しくなっても、息を吸ってまた口を吸った。仁王が確実に夾竹桃の花弁を飲み込むように。吐き出す暇も与えないように。仁王は始めこそ少し狼狽して目を見開いたが、なにを勘違いしたか柳生を強く抱きしめてそのキスに答えた。酸欠に視界がモノクロに変わっていく。
 悶え合う肢体を絡ませて数分がたち、ようやく仁王の喉がごくりと鳴った。夾竹桃を嚥下したのだ。あとは肌を合わせたまま、仁王の頻脈、運動失調、心臓麻痺を待つのみである。してやったり、と柳生はいままでなんどとなく繰り返された仁王との情交のなかで、生まれて初めて笑った。紳士らしからぬほくそ笑みだった。それまで束の間の悦楽に身を任せることにした。仁王が死ぬまでの数十分を、ただ喘いで待てばいいのだ。人間は食欲、睡眠欲、性欲が満たされるときはとかく油断しやすい。詐欺師も油断が命取りだ。人をさんざん凌辱し、心を踏み躙った罪を畜生道で償うがいい、仁王雅治!
 仁王の腰が動く。知っている腰づかいに、腰を動かして応えた。柳生は仁王に死を求め、仁王は柳生にエロスを求める。やがて仁王の精が放たれ、二人はばったりと果てた。柳生は詐欺師への勝利に、身体をつなげたまま、静かに勝ち誇った。
 一時間ほど経過しただろうか。今まではただの嫌悪が精神を冒すだけだったのに、今日はなにとなく短い。あたりまえだ。苦しみに苦しみぬいた今までの復讐を果たすことができたのだから。忍び笑いを覚ったか、仁王は白濁の液が絡んだ指で汗の浮いた柳生の顎を撫ぜた。
「いままでになく、ずいぶん積極的じゃのう、やぁ、ぎゅ」
 その声も荒く掠れ、熱っぽい。どうせすぐに落とす命、一秒でも長く、ともに無様な姿で交わって悦楽を貪っているがいい。
「あな、た、こそ、余裕、ないじゃないですか」
「それは、いつものことぜよ。この肉体が、お前とひとつになれるだけで、案外、嬉しいもんなんぜよ」
 ただの獣と変わらない情欲のくせに。狐のような男がいまさら愛のような言葉を騙ってもただの空言でしかない。
「そんなこと、寝言で、言いたまえ」
「そうじゃの。15年前に入れ替わった二人が、一人になれるんぜよ」
「またそんな出鱈目を。あなたの戯言にはもう飽いています」
「お前の父親が蒔いたもうひとつの種にはどんな花が咲きゆうか。その花の雄蕊はいまどの雄花とまぐわっとうか。感づかんお前じゃなかろうて」
 また分かりにくい比喩を使う。
「その昔、同じ種を蒔かれた鉢がふたつあっての。片方は家の中で大切に育てられたが、残った鉢は私の蒔いた種ではないとして野晒しにされた。肥料さえ与えられないのに鉢はピキっときて、土から芽吹いたばかりの苗を連れてとことこと逃げたんよ。ところが逃げた先は冬山で鉢は憎しみの炎と吹雪の寒さの温度差で割れてしまい、小さな苗は枯れかけた。そんな幼い二葉には宿り木がとりついて生きながらえた。比喩理解する余裕あるかのう、柳生?」
 分からないはずがない。幼稚園のころからいじめの火種とされてきた、取り返しのつかない父親の過ちである。父親の不義の子をある女性が産み、社会的、経済的苦痛から子供を連れて雪山で心中しようとした事件である。女性は亡くなり、子供はどうにか助かったとは聞いた。
「しかし逃げ出す前に、鉢は自分の土から芽吹いた苗と、早く芽吹き過ぎてビニールハウスに入れられてずっと枯れかけていた苗を交換したんよ。に、憎い男の子供を殺して自分の子供を手元に置かせるために。復讐するために。かくして二人は、じ、人生初の、入れ替わり。親は気付くこともない。知って、おるのは、雪山で死んだ鉢の独り言をきいていた、や、宿り木のみじゃて」
「宿り、木……?」
 首筋に仁王の首がうずめられる。耳を甘噛みして、縺れる舌と熱い吐息混じりで、仁王は囁いた。
「お、俺。取り換えられてマサハルになった、か、身体にとりついた、狐っていう、あや、あやかし、……」
 たどたどしい言葉を途中でぶったぎられ、仁王は纏っていた自分の和服を引っ掴んで、よろめきながら部屋から飛び出た。中途半端に脱がされて散らされた西陣織の上に仰向けになりながら、仁王が飛び出した障子をぼんやりと見つめた。まだ呼吸は荒かったが、ようやく仁王を追い払うことができた。復讐は果たした。ゆっくりと起き上がり、乱れた服に再び袖を通す。もとは慣れない帯を結ぶのをより簡単にするために一蓮に渡されて、仁王が柳生の拘束に用いた白い紐は求め合いの中でほどけてしまったらしく、湿って絡みつくだけだった。帯がもつれ、なかなかうまく結べない。正装のときはいつも洋装なので、和服を着ることは滅多にない。着付けは苦手だった。もつれにもつれる。
 帯をたどたどしく結んでいると、暑いくらいなにの指が突然震えはじめた。帯が結べない。まるで自分の手ではないように両手は激しく痙攣する。津波のように罪悪感が襲ってくる。
「(私は……仁王君になんてことを!)」
 たとえ倶に天を戴けない敵だとしても、仁王雅治は人間なのである。人間に毒を用いたという事実は、正当防衛だとしても、柳生の強すぎる倫理観にヒビを入れるのに充分だった。柳生がいつも勉学に励んでいたのはひとえに父親の病院を継ぐためだった。過ちは誰でも犯すし、その中にも取り返しのつかない過ちはいくつかある。そんな父親の良いところは師として、悪いところは反面教師とした。それは父親が医者という、同胞を助けるという崇高な職業であったからだ。
 柳生は医師となることを目指していた。それなのに、人間の命を奪うような軽率な行動をしてしまった。正当防衛などという言葉で片付けることはできない。たとえ仁王が強姦魔であろうと、人は人だ。人を裁くのは司法の仕事であり、医者は人間を治すのが仕事である。衝動的に人間を殺そうとした自分にはもう医者になる資格はない。とすれば、今まで柳生がなによりも優先してきた勉学の意義はもうどこにもなくなってしまうのだ。
 泡沫。無。柳生の強すぎる倫理観は自らを決して許さない。人を殺そうとした事実――それは存在意義の否定に繋がった。
 終わった。全てが。
 起死回生の制裁だったつもりだった。罪を犯す人間にはそれ相応の罰を与えるべきだと思っていた。しかし自分が我慢すればそれで済んだ。殺さなくてもよかった。畜生道へ送る前に、この世で罪を悔いてくれさえすればそれでよかった。罪人から罪を悔いる機会を奪ってしまった。
 こんな自分なぞ、生きていても仕方がない。川に流され、魚や鳥についばまれ、数限りない命の肥やしとなり、生命の循環に還元される方が断然ましだ。
 柳生はふらりと立ち上がった。髪も服も乱れに乱れ、せっかく結びかけた帯は解け、裸同然、幽鬼同然だった。不如意な足取りで縁側から降り、裸足のまま薄く積もる雪を踏む。足の指の間で雪が潰れる。寒さはまったく感じない。涙も流れない。
 寺を囲む塀は一部が壊れており、その奥に臨める紀ノ川を俯瞰した。足元で砕けた土と瓦礫が広い崖を落ちて転がり、増水した川は龍の巣のごとく猛り狂い、轟音を立てて瓦礫を呑みこんだ。柳生は壊れた塀に手をかけ、ごめんなさいとだけ呟いてその場に膝をついた。ここから一歩踏み出せば死ねるだろう。
「ま、待て、柳生、」
 今にも塀の向こうへ跳ぼうとする柳生を引き留めたのは、苦しげな低い声だった。柳生は声のあった方へゆっくりと首を向ける。
 一蓮が血の帯を引きながら、塀伝いに歩んできていたのだ。白雪を斑々と血に染め、脇腹には血に広く濡れた服の裂け目がある。柳と違ってすぐ治癒しないらしい。一蓮の膝が崩れ、塀に寄りかかった。げほ、ごほ、と咳に混じるのは、黒い血である。喀血と吐血の違いくらい柳生にも分かる。喀血は肺からの血液で、酸素を多く含むために鮮やかな赤色をしている。吐血は胃酸や消化途中の食物などが混じり、多くの場合暗紅色である。残念ながら柳生は吐血する怪我人への対処はよく知らない。なんにせよ吐血するほどだ、傷は胃や腸にまで及んでいるに相違ない。一蓮の顔はみるみるうちに蒼白になっていく。息は浅く速い。
「その傷……誰にやられたんですか、誰に!」
「お前に、似た、ぎ、銀髪の、少年に、やられた……馬の脚を切り、そのままいずこかへ……」
 胸生地をぎゅっと握った。柳生に似た銀髪の少年――仁王であろう。心臓麻痺さえ起こす夾竹桃の毒に冒されてなお、一蓮を刺して馬の脚を傷つけた。まるで柳生をここから動かせないとでも言わんばかりの暴挙の数々だ。しかし柳生を逸らせるのは仁王への怒りではなく、一蓮をどうやって救うかという一点のみだ。
 そのとき違う少年の声が本殿の角から届いた。橙色の太陽を背負って、小柄な影が対比するにも巨大な弧をかかげて佇立していた。
「嘘つき、みっけ」
 隠れる子供を見つけた鬼のような、爛とした、嗤い。
 タロットカードの死神が持つデスサイズのように赤也の鎌は肉厚で、三日月のように鋭利な曲線を黒く抜き出していた。


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