「やーっと見つけましたよ、柳生先輩」
 血液の色が透けた肌。血走った眼球。緋色の着物と対照的に焼けたように色の抜けた毛髪の少年が腕組みをして立っていた。その頬には獲物を見つけたような不吉な笑窪が彫り刻まれ、目はエボラにでも感染した猛禽にも似ていた。ずかずかと処女雪を裸足で踏む赤也の手首には、死神から奪い取ったかのような巨大な鎌が提げられている。いや、よく見れば手首の尺骨のあたりから直接生えていた。
 赤也は雪上にへたりこんでいた柳生の手首を容赦なく掴み上げ、今しがたつけたばかりの足跡沿いに歩み始める。引きずられた形になったまま、柳生は腕を振り払おうともがいた。しかし悪魔化した赤也をとめる体力は疾うに削られていて、毛細血管が押し潰されるだけだ。
 どうにか縁側の柱にしがみつき、赤也の進行を食い止める。進むのを邪魔されて、面倒臭そうな赤目に見下ろされる。
「あ、あなたは、どうしてここに……」
「はぁ? そんなの決まってるじゃないッスか。こんな食べ物も人も縁もなさそうな荒れ寺に、俺らが普通に来るわけないッスよ。柳生先輩が案内してくれたんじゃないッスか」
 記憶を探るもなにも、案内なぞついぞした覚えがない。柳生は一蓮に連れられて花街からこの荒れ寺まで真っ直ぐに馬を馳せてきただけだ。そのあいだ仁王以外の知り合いは一度たりとて見ていないのだ。
「まあ尾行してきただけなんですけどね。なんスか、そのつら。覚えてないとか紳士の諧謔にしちゃ下等すぎますよ。アンタは一時間くらい前、寺の階段の下にある茶屋に来て、団子食って、となりの生垣にあったキレーな狂い咲きの花を手折ってこの荒れ寺に戻ってきたんッスよ。そのあと喘ぎ声聞こえたから、邪魔しちゃいけないかなって思って外にゃ出てましたけど」
 赤也がつけてきたのは仁王だと直感した。寺のある坂の下に団子屋があったことは辛うじて記憶の中の景色には残っている。しかしその団子屋には寄らず、羽柴に万一でも目をつけられないために大軍が過ぎ去るまでこの荒れ寺から離れるつもりはなかった。柳生は一度たりとて団子を食べようと寺から出てはいないのだ。
 柳生の抗議に、赤也は面倒くさそうにねじれた毛をぼりぼりとかいた。雲脂が落ちた。
「どっちでもいいッスよ。俺はあんたを仁王先輩のとこへお縄につかせてでも持っていくつもりなんです。邪魔しないでくれません?」
 柳生はいやいやをして、柱にしがみついた。それでも引っ張った赤也は「っ痛……傷開くから紳士らしく連行されて下さいって」と頭を掻いた。
「私を連れていきたいなら、柳くんを呼びたまえ! このままでは一蓮さんが、」
 白塀の切れ目近くに血だまりを広げて寄りかかり、みるみるうちに血色が抜けていく一蓮の頬は、もう黄泉に近い色をしている。呼吸も浅く速い。失血性ショックが外傷性ショックによるものか、早く手当てをせねば助からないと焦る心のうちで、もう無駄ではないかという現実的な囁きが交差するように耳を打つ。
「一蓮さんが、なに? 陰陽師だか柳先輩の前世だかなんだか知らないけど、俺の獲物をどうしようが勝手っしょ」
「彼を助けられるのは柳くんだけです、柳くんを連れてきてくれないならこの場で死んだ方がずっとマシです、だから、」
「え、マジ? ほんとに死んでくれるんスか?」
 と、悪魔の顔がけろっと変わり、いつもの飄軽さを取り戻した。その瞳孔の中に、餓えた吸血鬼ばりの歓喜を滲ませている。柳生の手首を殊更に強く握り、腱が押し潰されて手が丸まった。炎で焼かれるような痛みが左手で爆発する。もがけばもがくほど皮膚がねじられ骨が砕けそうになった。赤也の握力は数ヶ月まえよりも格段に上がっている。
 ついに縁側に引っ張り上げられ、冷たい羽目板に押し倒された。腿のあいだを膝で割られ、両肩は掴まれて体重を乗せられた。赤也の白く変色した髪と仁王の銀髪が重なる。また犯されるという冷たい怖気が背筋を蛇のように這いずった。汗と乾いた血のような薄い体臭が鼻孔に侵入する。広がる生暖かい吐息が、半身を貫く毒牙が、肌に鮮明にフラッシュバックする。身体をねじり、赤也の胸板を叩き、肩をよじり、足で蹴り飛ばす、うまくいかない。赤也にそれ以上の力で肩を押しつけられる。手の形をした痣がくっきりと肌に残る。勝てない、勝てるわけがない。こんな――悪魔に。
 にかっと笑う赤也の顔は、ゲームセンターで対戦相手に勝ったときと同じように無邪気で屈託もなかった。ただし網膜の色を透かして赤みがかる瞳孔には飢えた蝙蝠に似た欲望を溢れんばかりに湛えている。
「昨日怪我したばかりでちょうど喉渇いててさ。生死を問わず連れて帰りゃそれでいいし、あんたも死んでくれるって許可してくれたから、これで遠慮なくあんたの血も吸えますね。魚だって焼くよりも刺身の方がうまいみたいに、まして生血。どんな味してんだろ。嬉しいなぁ」
 しかしその日常的な笑顔と吸血鬼のような言動には大きすぎる差異があった。仁王のような性の搾取ではなく、これは間違いなく命の搾取だった。
 もとから纏っているものは少なく、首筋がはだけられる。剥き出しのうなじを赤也の舌が這う。そして「ここかな」という呟き、「いただきまーす」という、ブン太からポカリでも貰ったときのような無邪気な言葉が耳朶を吹く。びくんと痙攣する柳生もお構いなしに、表皮から真皮へ、歯列が筋の中に食い込んでいく。
 先刻まで死にたいとすら思っていたのに、今度は恐怖が身を焼いた。崖から落ちて死んだり、首を吊ったり、自分で自分を傷つけて死ねるならまだ苦痛は少ない。しかし後輩である赤也の手によって命の糸を断たれるのは失血死という末路であり、すぐには死ねない手段だ。生から死へ到達するまでの時間が短ければいいのに、赤也はもとからの嗜虐心の強い性格からか、苦痛の長い方法で獲物を死に導こうとしていた。
 頸動脈に犬歯が食い込むかいなかという刹那、その声が届いた。
「待て、切原……そいつは……殺、すな」
 白塀に血みどろの手形をつけ、立っているのもやっとという体たらくで、一蓮は立ち上がっている。「へえ」と赤也はその目を再び悪魔に売り渡し、柳生の上から退いた。しかし入れ替わりに、鎌が生えた腕に喉仏が潰される。視界に入るあらゆるものが色を失って暈けていく。赤也の姿が涙に滲んでイチゴ味のワタアメのように形を散逸させていく。柳生は仁王と似た真っ白な首筋に爪で幾筋もの吉川線を引いた。頸動脈を半分ほど圧迫されて顔が欝血する。
「……さぁて、柳生先輩に問題です。あの人はどうして俺ん名前知ってんでしょーか」
「がっ……く、はっ……あっ」
「ただし条件一つあり。あんたはこの場にきて一度も俺の名前を呼んでない。ミステリーとか知恵の輪とか頭使うの好きなんでしょ? 難題解いて、俺の足りない脳味噌に解説してみてくださいよ」
 喉が潰される。喉と首の間に指をねじこむ力さえ消失していく。
「それは思い出になぞらえて俺の前世を象った、極めて精緻な道化だからだ」
 横入りした声に、赤也はびくっと跳ねあがった。扼殺される寸前で緩んだ手を振り払い、一蓮のそばに膝をついた。はぁ、はぁ、と息が切れた。
「四百年以上ひとりの人間をよみがえらせることに固執する。おのずから想い人を真似て、柳生を昔の自分と変わらぬ容姿にして、かつての日々を再現する。その執念には凄まじさとともに浅ましさまで感ずる。そうは思わないか、仁王雅治」
 襖を音もなく開け、赤也の背後から現れた柳は、そう語りかけた。
 柳は一蓮と瓜二つであり、ただ一蓮の方がひとつかふたつ上といったところである。身長は戦国時代ということを踏まえても高い。しかし柳生と大差はないのだ。
 一蓮を守るように柳生は前に出る。
「そこの畜生は俺の前世である一蓮に化けているだけだ。俺が来世だ。いま、一蓮は京で秀吉に睨まれつつも全く別の生活をしている。俺には前世でここに来た記憶がない。そこにいる死に損ないを渡せ、柳生」
「そんなこと……信じられません」
 唇が千切れるほどに噛みしめ、柳生は首を横に振った。指が汗を握り、震える。厭な味のする唾液を嚥下し、からからで動かない喉をむりやり動かして言葉を継ぐ。
「私は仮にも医者を目指していた人間です。手をこまぬいて死ぬのを待つだけなんてできません。本物の柳くんはどこですか」
「呆けたか、柳生」
 口許を爪のようにひずませて、柳はその胸に手を当てた。
「俺が、柳蓮二だ」
 それこそ嘘だ。眼鏡がなくてぼやけた視界、目の前に現れた柳蓮二の口許には小さな黒子がある。柳生は剃刀のような瞳で赤也と贋作の柳を凝視する。両腕をささやかなバリケードにして赤也を牽制するものの、巨大な鎌を持つ赤也相手には鍋の蓋ほどの防禦力も持ち合わせていないだろう。
 すると赤也が長い爪で頭皮をばりばりひっかきながら、柳生のもとに向かってきた。後退るが、これ以上さがったら一蓮もろとも紀ノ川へまっさかさまだ。柳生は唇を噛みしめる。
「あのさ、ちょっと黙っててくださいな、柳生先輩」
 と、突然脇腹に横殴りの一撃が加わった。ただの拳ではなく、直後に殴られた場所に熱が溢れ、生暖かく湿る。横ざまに倒れて雪の上に這いつくばった。口腔に生暖かな血の味が湧いた。脇腹に手を這わせたが、そこには血にぬめる赤い血液が迸る小さな穴が皮膚に開けられていた。皮膚の牽引力は想像以上に強く、小さな傷でも笹の葉のようなぱっくりと開いた傷口になる。刺された、という実感が胃袋を絞り上げた。血と吐き気にえずきながら、柳生は雪を握りこんだ。真っ白になるような激痛が脚先から脳天までを麻痺させる。しかも傷口のなかになにか柔らかいものを入れられたかのような異物感があった。鼓動に合わせて溢れる血に、体温が奪われていく。踏みにじられた雪の上を這いずり、一蓮と柳生の血でおぞましいデカルコマニーが描かれていく。
 冷たい手に脇の下から抱き締められる。戦から逃げ遅れた幼い兄弟のように震えながら互いの背を確かめた。
「さて、仁王……崩れゆく境内で言いそびれたことを六道銭代わりに教えてやろう」
 雪を草鞋で潰して、柳の手に懐から出された鎌が握られる。鈍い輝きを放つ、新品の鎌だった。柳は左の袖で口許の黒子を拭い、代わりに消しきれない墨の線が一筋、唇の下に現れた。
「もしこの期に及んでお前が生き延びたら――人間が死に絶え、化けられるものがいなくなる遥かな未来まで、永遠に追い続けるぞ」
 一蓮の顔が歪んだ。髪が伸び、色が抜けてばらばらにほぐれる。唇の下に小さな黒子が現れる。失血で色が抜けた顔に精一杯の挑発的な笑みを浮かべていた。
 柳生は思い出した。遊郭で自分を襲った仁王と入れ替わりに、火事場で会った一蓮。柳生の性格からして助けを求められないような状況で尋ねた、一蓮を呼ぶかという問い。一蓮と仁王は、いつもすれ違いに現れては消えていった。最初に気付くべきだった。柳生がこの一連の事件のなか、仁王は柳生がもっとも信じた柳に化け、更にその前世だと偽っていたのだ。
 冷や汗の浮いたうなじに氷のような仁王の顎がうずめられた。
「こん、ストーカーが……追ってこられるもんなら、捕まえてみんしゃい、参謀!」
 仁王に押された瞬間、柳生は仁王もろとも重力から見放された。天と地がシェイカーのなかにいるようにかきまぜられる。立ちはだかった柳の姿がどんどん小さくなっていき、水が近づいていく。全身に衝撃。蛇の群れに放り込まれたかごとく身体の自由が利かない。水のうねりごしに見えた夕刻に近い空はまたたくまに暗転する。


「あーあ、逃がしちまいましたね」
 崖の際近くにしゃがみこみ、遥か下で巨大な水柱が立つ様を見て赤也は言った。血が足りなくて喉が渇いている。せっかく死んでくれるって許可をくれたのに獲物に逃げられて、お預けをくらった気分だ。
 それにいままで一緒に行動してきた柳はいつもの柳であり、仁王の妖怪変化ではなかった。少し考えると、柳は「仁王が化けた柳」に化けていたのだとようやく分かった。理由を尋ねてみたら、その答えは至極簡単だった。柳が仁王であると錯覚させることによって、赤也にとって「いつでも殺せる存在」として認識させるためだったらしい。その他に効果があったとしても興味はない。柳はかまいたちを操ることができる。自分の手を汚さずに赤也に殺人を犯させることは互いの利害関係に一致している。駒である赤也に、制約はあれども害を与えるような呪(まじな)いはかけないだろう、というのが赤也の推理だった。
 髪から白髪の束を引き抜いて投げ捨て、黒子を袖で拭う柳に向けて、赤也は舌を動かした。
「生きてますかね、あの人ら。ま、簡単に死んでもらっちゃ俺の立場ねえけど」
「死ぬわけがない。お前によって柳生と仁王に埋め込ませたあの札には、俺の体内で合成する薬を塗布している。創傷部はすぐに塞がるか、たとえ死んだとしても札の効果が発揮されるだろう。柳生には同情するが、追い詰められていたとはいえ味方かどうか見極められない柳生にも落ち度はある」
 彼らしくないほど冷酷に言い放ち、柳は周辺に視線を巡らせた。するとすぐになにが見えているかも分からない視線は一か所に留まる。赤也はその目線を追った。開かれたままの障子から覗ける、解かれた帯や蒔絵の鏡が乱雑に散らかされた書院造の間。汗、涎、涙や精液で汚れ、長年の放置によって歪んだ畳には桃色の花をつける夾竹桃の枝がリンチ死体のように横たわっていた。花弁はもがれたか、細胞が潰されてみすぼらしくなるかして、葉は踏みにじられている。その花を柳は手にとった。隅から隅までを舐めまわすように見て、首を傾け、少し考えるような仕草をすると、柳は突然笑いだした。
「喜べ、赤也。俺達はこの世界を潰せるかもしれんぞ」

  *

 すっかり温かみを失った人間の手を掴み、ずるずると水の跡を引きながら、柳生は土手に倒れ込んだ。全身に立った鳥肌は傾く陽に暖かさを求める。指先がかじかみ、ほとんど感覚がない。その代わりに脇腹の傷が冷やされて痛みも減っているのは運が良かった。なにせあの急な崖から落ちて、怪我もせずに生き残ることができたのはまさしく僥倖と呼ぶほかない。
 湿った枯草の絨毯に仁王を仰向けに寝かせた。紙よりも色がなくて、真っ青なほうがまだ生きていることの確認ができそうだ。銀色の髪は濡れて張り付き、陶製に似た肌を這う水が網の目となって首筋へ流れている。紀ノ川の欠片を長いまつげに宿している。浅く速い息にも温度がない。もうすぐ死んでしまう。柳生が殺してしまうことになる。
 閉じられていたまぶたが薄く開いて、人影を探すようにぐるりとゆっくり動いた。縋るように指を伸ばされた。
「や、ぎゅ、……生き、ちょうか、や……ぎゅう、」
「仁王……くん……」
 荒い息を凍らせながら柳生は仁王の手をとった。ぎゅっと冷たい手を握りしめた。感覚のない指に力がこもってぶるぶると震えた。伝えようとする理性と今すぐにでも殺してしまいたいという感情がぶつかり合い、形を失って、頭のなかで太極図のようにぐるぐると回った。寒さに横隔膜が凍え、舌の動きが鈍る。息が白く凍り、夕暮れの陽に光って消える。
「ごめんなさい、仁王くん……私はあなたに毒を盛ったんです。家畜をも死なせてしまうほど強力な、夾竹桃の毒です」
 うん、と仁王はうなずいた。薄く彫られる死の微笑に、肺が絞られるような苦痛を覚える。世界が一気に滲みだして、すぐに頬を伝って膝に落ちた。うつむけた顔がくしゃくしゃに歪む。しゃっくりを繰り返しながら、子供のようにわけもわからず柳生はぶつぎりの言葉を助詞で無理やりに繋いでいく。
「ほんと、う、に、ごめんなさい……わ、私はやってはならないことを、あなた、に……してしまいました、許してください、なんて、い、言えません、仁王君、ほんとうに、」
 頬に冷たいものが触れた。顔をあげてやっと、仁王の手のひらだと気付く。銀色の毛髪の下にある狐目が慈母そのものの眼差しに変わる。
 ろくにものも喋れないほど衰弱しているのに、生肉の色の赤い舌がちろっと動いた。
「もう、ええよ……もっと、いけんこと、お前さんに、やっちゅうから……痛み、分け……」
 そんなことありません、なんて言えなかった。確かに仁王は社会的に見て許されない罪を犯している。もし柳生が女性であればすぐさま逮捕されるような罪だ。自殺をなんども胸のうちに思うほど追いつめられた。今でも精神は暗澹たる闇を彷徨っている。しかし強姦と毒殺は土俵が違う。ましてや腹違いの兄弟の間で犯された畜生道であれども、人の命を奪うことは人間の尊厳を奪うことと同じか、それ以上の重罪だ。柳生の行動を全てにおいて規定する倫理観は誰にも増して強すぎる。
「私はあなたに殺意を抱き、そ、その手段を、実行、しました。それだけで重罪です。こんな私が生きてていいわけがないんです、う、生まれた直後に保育器クベースの中で枯れ果ててしまえば、こんなひどいことを……」
 そこまで一気にまくしたてると、もう言葉が詰まった。なじられたほうが楽なのに、仁王はただ話を聞いて、穏やかに笑むだけである。
「もし仁王くんが死んでしまったら……私もここで、命を絶ちます」
「……お前さん、ここに、きてから、人が変わったように、わかりやすいネガティブ具合じゃのう。いけんぜよ、柳生。お前さんみたいな世間に迎合するお人好しは……詐欺の標的になりやすいから注意せえよ。でも同時に人に必要とされる。詐欺師が死んでも、誰も哀しまんが……死ぬんが、紳士なお前さんなら、もっと多くの人に涙を流させる。生きんしゃい。そして、白髪になるまで、どんな命でも助けられるような医者になりんしゃい」
 ゆっくりと、なだめすかすような話し方は、まさに死に際の人間のものだった。包みこんだ手には体温も震えるだけの体力も残っておらず、脚先からゆっくりと侵食する死に浸されているようだ。もう助からない。自分が殺してしまうのだ。母親の違う兄弟を。近親姦まで犯した、血の繋がった弟を。
 意思に反して、数珠が切れたように涙が溢れ零れる。仁王の指が濡れた目尻を拭った。まだ黒い目は柳生の視線とニアミスして、遥か遠くの景色を盲目的に眺める。
「ただ……やっぱり、素直に殺されるんは、ちっとばかし悔しゅうてのう……お前さんの償いの代わりでええけん、水を、くれんか。夕暮れくらい眺めたいんに、もう、なあも見えん」
 唇を噛み、ひとつうなずいて紀ノ川の淵に手を沈ませた。氷が流れているかのような冷たさを両手の平で掬い、雫を落としながら仁王の元へ持っていく。その口許へ流し込もうとする直前、「口うつしがよか」と我が儘を言われ、柳生は呻いたが、仕方なく水を口に含んだ。仁王が死にかけているのは自分のせいだ、だから自分には最期の願いをたったひとつでも叶えねばならないと思った。半ば義務感のようなものだった。それに仁王には情交時、無数に口づけを施されていた。今でも慣れないが物理的にできないわけではない。
 柳生は半開きの口に自分の唇を押し付け、唾液と体温で生ぬるくなった水を舌で送った。仁王の喉が小さく嚥下を繰り返す音が聞こえた。
 唇を離したとき、仁王は目線を合わせて少し笑って――その首を支える力が萎えた。がくりと落ちた顎は濡れたうなじを晒した。
「仁王……くん?」
 名を呼んだ。肩を揺らした。その力が次第に強く大きくなる。腕が自重に耐えきれず枯草にばたりと落ちた。濡れた髪からはまだ雫が垂れていく。閉じたまぶたは死んだ貝のようだった。濡れた生地越しに胸を触る。生きているならば絶対に存在するはずの命の鼓動が、伝わってこない。
「仁王くん、そんな……」
 あなたは。
 そこまで口遊んだ瞬間、鈍器で殴られたような痛みが頭部で爆発した。万力で脳髄を頭蓋骨ごと締め上げられたかのように灼熱する。骸の横に転がって、頭を両手で押さえてうめいた。脳が見えない手に掴まれて上下に揺さぶられているかのような奇妙な不快感。大脳が頭蓋骨の中で押しつぶされていくかのような、今にも脳が弾けてしまいそうな圧迫感。目玉が勝手にぐるぐる動く。人間がまだ猿であったときの警告音のように甲高い、まるで金属を引っ掻いたような音が鼓膜をぶちぬいて小脳をぐちゃぐちゃに攪拌する。口から勝手にうめき声が溢れる。金属のような味をした唾液が唇から零れて糸を引く。鳥肌が脊柱沿いに耳まで這いあがる。爪を立てて頭皮をかきむしり、茶の髪が指に無数に絡みつく。心臓の鼓動が言う事を聞かない。まるでそれ自体が別の生物の巣であるかのように心筋が耳に届くほどの音で血液を全身へ送る。指が熱い。身体が熱い。頭が熱い。目頭が涙に灼かれる。脳髄が縮小していくかのような激痛が脳天を割る。騎乗位で絶頂に達すときのように、柳生の脊椎が天へ向け思いきり反り上がった。言語としての輪郭を失った、獣のごとき断末魔が黄昏の紀ノ川に木霊した。叫びは次第に息を引き取るように小さくなり、やがてただの吐息となって枯草に倒れ伏した。
 間もなく、枯草に銀糸をかけたままの唇が、くつくつと嗤い始めた。顔が謀りに歪む。乱れた髪に指を埋めて更に乱し、首筋の後れ毛を束にするようにねじる。夾竹桃の毒に侵され、深い傷を負い、川に落ちて体温を失った仁王雅治の亡骸を見やる。びしょぬれの自分達が這いあがってできた水たまりに顔を映した。ナルキッソスが恋するように、薄い水面の奥にはこがね色の雲を背景にした、柳生比呂士の顔が反射している。
「お前さんみたいなお人好しは、詐欺の標的になりやすいから注意せえよって……忠告したばかりじゃろうて、のう、柳生・・?」
 柳生の顔は、そう嘲り、嗤う。水鏡の奥にある顔が全く同じタイミングで、全く同じように歪む。
 今までなんどとなく強姦され、仁王の精液を受け止めていた肉体。血の繋がったこの身体。顔までが双子のようにそっくりな体躯。過剰な自責によって存在や精神までが仁王雅治に侵食されていき、もうひとりの仁王へとねじまげられた存 在 意 義レーゾンデートル。紳士というソフトはアンインストールされ、代わりに詐欺師がインストールされた傀 儡 人 形アンドロイド
 全てはこのときのために用意された小道具だった。
「この身体は貰い受けたぜよ。この俺が――白面金毛九尾狐、仁王雅治じゃ」


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