団子にかかるみたらしの味が懐かしくて、もう何年も食べていないかのような気がした。思い出せば今年の春に裏山に部活で花見に行って、それ以来食べていなかった。仁王と赤也が真田に酒を飲ませようとしたけれど結局ばれて、首謀して酒を持ってきた仁王よりも要領の悪い赤也が怒られていたという思い出が宝石箱を開けたようによみがえる。海に放たれた小瓶が再び自分のもとに戻ってきたかのようで、その中にあった小さな写真の切れ端を眺めているような、妙な懐かしさがあった。厳しかったけれど楽しかった日々はもう二度と戻ってこないけれど、さほど落ち込みはしなかった。親兄弟に心配はかけているだろうと思うと胸に重石が下げられたようだが、もう声も手紙も届かないとなると哀しさよりも諦めのほうが大きかった。それでも腹を切った真田が目の前で介錯されたときに比べれば、まだましだった。
 雪の降りしきる橋の近くで真田弦一郎信繁と名乗る武士と邂逅し、もう夜を二度明かした。ゆくあてもなく、少なくても真田と似た人物と一緒であれば気持ちの上だけで言えば安心だった。昨日一日と、今日の昼間で真田の目的とする堺まで来ることができた。そのあいだ、雪は名残惜しむようにちろちろと山肌を銀に染め、苗を植える前の田に白粉を施していたが、今はもう吹き流されている。隣に腰かけている真田は湯気の立つ茶を啜ると、息を白く凍らせた。もうすっかり晴れて傾いた陽の光は白い息を橙色に染めて空中に霧散した。
「お前も飲め。茶が冷める」
 真田は相変わらずの低く落ち着いた声で、手つかずの茶を幸村の手に押し付けた。出されてすぐでもないのに淹れたてのように熱い茶だった。それでもつい数分前、真田が「ぬるい」と言って、水のように一気に飲み干した茶と同じタイミングで出された茶だった。
 先に団子を食べ終えた真田は、幸村の肩に白い羽織をかけ、立ち上がった。懐かしい真田の不器用な手が織物越しに触れた。熱っぽく感じたのは、この安土桃山時代に落ちてから幸村が異様なまでの低体温になっていて、路傍の石に腰かけたとしても鍋のように熱く感じたという所為もある。
 腰に長刀を差した真田は、結い上げた髪をひとつ揺らして、食べかけのみたらし団子に目を落とした。
「お前がその団子を食べ終え次第、堺を巡るぞ」
 そう言って、顔を背けた真田は咳をした。風邪でも引いているのか、真田はこの道中はずっと苦しげに咳きこんでいた。その背をさすれば少しは楽になるだろう。しかし思いとどまって、伸ばしかけた手を下ろした。
 幸村を斬ろうとした牢人の言葉が蘇る。「汝めが度々世を騒がす雪ん子か」――もし自分が本当に雪ん子であったら、また籠目の侍のように触れただけで人をあやめてしまうのではないかという恐ろしさが前触れもなく幸村の背筋を凍りつかせる。それで真田を知らぬ間に凍てつかせてしまったらと思うと、心臓に氷の杭が打たれるようだ。触れるだけで人を凍りつかせてしまう魔性の能力だった。その効力を誰かに触れて確かめるわけにもいかない。能力の発動は人に対してだけなのか、動物にも当てはまるのか、自分の意志で凍らせることができるのか、それとも意思とは無関係に人をあやめる力なのか。それが分かるまでは誰にも触れることはできない。また流星群を二人で見て、肩にもたれて眠るようなことをしたら、今度は意思に反して真田を自分からあやめてしまうかもしれない。
「幸村、どうした。震えているぞ。無理をするな、茶を……って、凍っているとは。店主、茶を持ってこい」
 新しい茶を盆に載せてきた若い女店主は、湯気立つ茶を置くと、真田がまた咳をしたのを見てそそくさと奥に戻ってしまった。勧められた茶は猫舌すぎて飲めなかった。手の中で凍りついた茶も飲めない。
 幸村は串に残った団子を頬張り、急いで喉に送った。真田は銭を払うと、すぐに団子屋を発った。その首に、銭を六文だけ通した紐がかけられていた。
 向かうのは信頼する薬師のところらしい。前々から体調を崩しており、ときどき咳をしていたのはこの短い道中でもよく分かった。テニススクールにいたときから知っていたが、真田が体調の変化に鈍感なのは有名な話で、熱が四十度を越していたのに「心頭滅却すれば火も亦た涼し」と頓珍漢にも快川紹喜の辞世を論って小学校で倒れたことがあるらしい。それ以来、真田はなるべく体調管理に気を配るようになったが、それでもときどき無理をすることがある。そのうえ他人には体調不良を悟らせず、よほどのことでなければ自分でも気付かない。一度しかないが、真田が風邪で休んだとき、鬼の霍乱、鬼のいぬまに洗濯とばかりに赤也が羽根を伸ばしすぎて、乾布摩擦一時間を申しつけられたことがある。翌日風邪で休んだ赤也の×印がついた名簿を見て、真田が「たるんどる」とマスクの奥で苦虫を噛み潰した。
 一刻(三十分)ほど歩けば、街並みは雑多になり、人は多くなってきた。ルイス・フロイスが「東洋のベニス」と評するのも分かるような気がする。行商人が行き交う。これでは人に触れずに歩くのは難しいだろう。
 幸村は真田に断って、人の波から抜け出した。また一刻(三十分)後にまた同じ場所で落ち合うよう約束した。真田の広い背中はそのまま人波に消えた。
 と、一時の別れを惜しむ間もなく、袖がくいくいと引かれた。振り返るとそこには、この時代にしては異様なほど、ブン太にも似た赤い髪をした少年がいた。彼は頭の後ろで腕を組み、ぴょこぴょこと落ち着きなく跳ねながら、人懐っこくニカっと破顔した。
「なんや、えらく別嬪な姉ちゃんやな。なあ、お団子さん食わへん? まけたるで〜」
 齢は十二か、十三くらいだろう。声変わり前なのか甲高い声だった。豹のような柄をした着物を着ているが元気の有り余る野生児といったイメージで、櫛風沐雨という表現が彼の印象を的確に言い当てている。どことなく、全国大会の時に一球だけ勝負を受けた四天宝寺のゴンタクレに似ていた。ここは堺という自治都市、つまり大坂である。それならばその少年の輪廻前だと説明されてもおかしくはない。真田の前世にしか思えない青年とも現実に逢っている。現代の知り合いとのそっくりさんは、この世界に落とされてからなんども目撃していた。こうやって直接にコンタクトをとるのは初めてだった。
「な、ええやろ?」
 半ば強引に袖を引っ張られ、幸村はそれについていき、道の角に店舗を構える小さな団子屋に入った。少し外れた場所で、人波はまばらだった。
 浪花の小さな商人は、「みたらし十二本入りましたでぇ」と腹からの声で店の奥に呼びかけた。幸村は二本も食べればもういらない。そんな大量に注文してどうするのか。幸村のびっくりした顔を見て、少年は「十本はわいが食べますねん」と、子供っぽい笑顔で迎えた。
 店の奥から火鉢を軽々と持ってきて、少年は炭火に両手を翳した。炭の割れ目や端が赤を覗かせ、焼けたところは白い灰となる。時折ぱちっと火花が弾けるし、立ち上る陽炎が火鉢の輪郭を歪ませる。溶けそうなほどの熱さに、幸村はそれとなく火鉢から離れた。すぐに団子がまず三本が渡されて、少年はがっついた。ハムスターのように頬張りながら、少年は幸村の草鞋から髪のてっぺんまでを見て、首を傾けた。
「姉ちゃん、名前はなんていうん?」
「幸村精市だよ。これでも男。君の名前は……もしかしたら遠山くんとかかな?」
 団子を飲み下そうとして、少年が突然胸を拳で叩きだした。湯のみを掴んで一気に傾ける。喉がごくごく鳴り、喉仏が動くと、少年は大きく息を吸って、吐いた。卵の黄身のように大きい目玉が目の前で見開かれた。甲高い声が鼓膜を突き破らんかという大声でまくしたてる。
「なんで知ってはるん!? わい、名前まだ教えてないでぇ。神通力もってるんとちゃうん?」
「ははっ、それはないかな。なんとなく、昔の知り合いに似ていてね。もう会えないかもしれないけど、ほんとそっくりだったから、そんな感じがして。名前が同じなんて、すごい偶然だね」
 でも神通力という表現は、人から五感を奪うという面から見れば的確な表現に思えた。誰をも圧倒する強さから神の子と呼ばれた。神の子が神通力を使えるのならば、字義としても正しいような気はする。なぜ異能な力がこの身に宿ったかは分からない。推測でしかないが、二年の冬に駅のホームで倒れたときからかもしれない。全身から力が抜け、起き上がろうとしても神経へ電気信号が流れるはしから感覚が失われていったからだ。そのあとはコントロールすることもできなくてときおり自分の身体は糸の切れた木偶人形になったが、数ヶ月のうちになんとか制御できるようになった。雪の化身になってから、その力は失われてしまったようだけれど。
 店の奥から男性の声で「金太郎、お団子持ってってやー!」と聞こえた。耳を聾する声で目の前に流れる人並みの幾人かが立ち止まったのを見て、「オサムちゃん声でかいわぁ」と強い眉をハの字にして、金太郎は奥に引っ込んだ。
 人波をぼうっと眺めていると、真田のことが気にかかった。そろそろ戻ってくるだろう。まだ十五分ほどしか経っていないような気はするが、早めに待ち合わせ場所に戻っておいた方がいい。なにせ、団子は一本食べられたのだ。先刻も食べたから口の中が甘くてしょうがない。茶を飲みたいが、まだ湯気がゆらめいていて口にすることも出来なかった。
 幸村は立ち上がり、奥に入った。暗い影の中で「お勘定お願いできますか」と、不精髭の男性に尋ねた。団子を最初に持ってきた人で、三十路には辛うじて届いていないだろう。紫煙をくゆらせている。金太郎と話をしていた彼は、横眼で幸村を一瞥し、すぐに明るい顔になって勘定をした。その目は形の知れない敵意と疑惑を明るい欺瞞で塗り固めたものだと気づいた。ひやり、と冷気の蛇が首筋まで這いあがった錯覚に襲われたが、自分の感情を糊塗するのは得意である。病院で見舞いにきた仲間に笑顔を向けるよう、いつもどおりに幸村はふうわりと笑んだ。
「ちょお待ちぃや、姉ちゃん。まだお団子さん一本残ってるでぇ、腹減ったら戦もできひんやん。今ワイの分食っちゃって姉ちゃんの分なぁなってもうて……ほんますんまへん! お団子さんでき上がるまで待ってくれへんのん!?」
「そういうわけにもいかないんだ。人を待たせていてね。遅れたら一喝されそうだし」
「じゃ、じゃあ後で持ってくでぇ!」
「君にあげるよ」
 暖簾をくぐると、人波の中から「幸村」と低い声に呼ばれた。雑踏から頭ひとつ飛び出しているのは、長い髪を高く結い上げた真田の姿である。思わず駆け寄ると、真田は「落ち合う手間が省けたな」と目を細くした。その腰には六文銭が描かれた印籠が提げられている。戦国武将として戦いの中に身を置き、笑うことを忘れていたようなぎこちない微笑みが、打って変わって厳しいものになった。
「ただ悠長にはいられん。次は岸和田城に参るぞ。来い」
 腕を掴まれて、そのまま引きずられた。真田の体温が高いのか、幸村の体温が低いのか、五本の指と手の平が湯以上の熱を持っていた。
 雑多な裏道を縫うように進む。時代劇のセットのような曲がりくねる道は、それらが全て本物だった。幸村が小走りにならねばついていけない早歩きの割に、真田の足音は衣ずれの音しか聞こえないほどだ。
「薬師に薬を貰ったら、また甲斐国に戻るって言っていただろう。それなのにどうして岸和田城へ行くんだ?」
「事情が変わった。秀吉様が動いた。大軍で、十万は下らない。この時期、今度は紀州を攻め落とす心算に相違ない。先に四国の長宗我部を討つのではないかと思っていたが、読みが甘かった。雑賀や根来寺が潰される。俺は岸和田城に単身乗り込んで、秀吉様に思いとどまるよう乞う所存だ。雑賀衆、根来衆らの恐るべきところは鉄砲隊だ。千石堀城から攻められるだろうが、その城郭から弾が降り注ぐだろう。そのうえ秀吉様は十万以上の兵を連れている。多少の犠牲は気にせず、数で推し進めていく心算だろう。その代わり何千何万という兵士が、刃を交えることもなく死んでいく。同じ武士として何時如何なる時に命尽き果てても未練なきよう腹を決めている志は分かるが、一度たりとて刃を交えずに息絶えるのは無念にすぎる! 秀吉様の軍を止めるためには一刻とて惜しい。しかし……」
 咳を交える暇もなく一気に真田は言い放つ。その言葉に反して歩みを止めた真田は刀を抜いて、背後に向け斜めに白線を奔らせた。ほぼ同時に、その軌道は甲高い音を放ってもうひとつの刃と交わった。ぎりぎりと鍔迫り合いになる。刃を振りかざしてきたのは、見覚えのある茶髪の若者だった。髪が短く、耳ほどまでしかない。四天宝寺に在籍する、自称浪花のスピードスターに瓜二つであった。
 彼はニヤリと口端を歪ませ、年のくせに低い声で唸った。
「どきや、お侍はん。賞金首は渡さへんで」
「なにを言うか、曲者めが!」
 続く横殴りの第二撃を再び刀で弾き、真田は「走れ幸村!」と低い声で一喝した。
「そんな、真田、」
「逃げろと言っている!」
「それはあかんでぇ、雪ん子はん」
 狭い路地、挟撃する位置に現れたのは二人組のかぶき者だった。坊主頭に女物の織物を纏った好色そうな若者と、髪の上から若草色の鉢巻きを巻いた実直そうな青年である。男同士であるにも関わらず互いに腰に手を回す姿からして衆道の気があるのかもしれない。
 坊主頭の若者は懐から二つ折りの書状を抜き取ると、手を離せばいいものを片手で器用に開いた。薄い和紙で裏から墨の筆運びが滲んで見えた。
「背丈だいたい五尺五寸(約175cm)。ふわふわした髪で女の子みたいに綺麗なオトコノコ。数え年十六くらいで、真っ白な着物と勿忘草色の帯。牢人を殺めた咎で逃亡中……どう? 身に覚えないわけあらへんわよね」
 明らかなオネエ言葉で腰をくねらす老け顔の坊主頭は舌たるい口振りで物言うと、幸村を上から下まで視線でねっとりとねぶりあげた。
「やぁねぇ、殺るには惜しいくらい良い男やない。もっと可愛げがあったら射程内なんやけどねぇ」
「浮気か。死なすど」
 書状を懐に仕舞いながら、坊主頭は細い目を剃刀にした。
「違うわよ。わてらが賞金で食い扶持稼いでいるの忘れちゃあかんでぇ。ということで雪ん子はん、大人しく斬られてくれへんかしら」
 匕首をすらりと抜き放った二人のかぶき者は腰を離し、一も二もなく突撃した。首と心臓を次々に狙われ、どちらも後方に跳んで寸でのところで避ける。しかし逃げ道はなく、あとずさるうちに真田と背中合わせになった。真田の体温で溶けそうになる。いくら幸村が神の子として他校から恐れられた人間だとしても、それはラケットとボールがあったからで、光り物を構える三人組相手に武道の心得のない幸村が徒手空拳で勝てるわけがない。五感を剥奪する異能も失われている。
 真田の刀の鍔が、ちきりと鳴った。抜き身の脇差を幸村の手に押し付けてうなる。
「幸村……お前が人を殺めるような人間だとは思えん。二日もいれば分かる。やつらの言葉はまことか」
 答える暇もなく、三本の刃が閃いた。幸村は横に転がってよけた。真田は真っ向から刃を受け止める。三本の刃の重圧で、刃はぎしぎしと不吉な軋みを上げる。
 茶髪の若者が真田から引いたが、男色家のかぶき者は真田を匕首で押さえつけている。
 かぶき者らは幸村が危惧していたことをいとも簡単に明言した。それは幸村が「雪ん子」という雪女のような存在であることだ。おそらくあの団子屋で紫煙をくゆらせていた店主がこの面々に連絡したのだろう。そしてもし幸村が本当に冬を司る雪の精であれば、漫画みたいなこともできるはずだ。
 幸村は脇差の刀身に手のひらを当て、峰の方向へ一直線に動かした。すると本当に――幸村の手の中に真田の持つ刀と同じくらいの長さを持った透明な氷の剣が出現した。自分でやったこととはいえありえないという驚愕と、武具がある安心感と幸運。幸村はかぶき者の匕首を二本まとめて真田の刀から撥ね退ける。剣の扱いは知らない。そんな自分は図体のでかい木偶が棒を持っているようなもので、足手まといにしかなりえないだろう。
 そのとき、若草鉢巻きの青年が首だけを曲がり角に向け、「であえ、曲者や!」と感情のない真っ平らな声で叫んだ。どこに潜んでいたか、無数の男たちが物影から続々と現れ、大小さまざまな刃をてんでばらばらに抜き放った。そして狼の爪牙のように、真田と幸村向けて、銀色の光が蜘蛛の巣のように迸った。堺の路地が血の泥濘と化した。
 耳を赤がねや黒がねで飾った少年が西瓜を割るように幸村の頭へ長刀を振り下ろし、それを頭上ぎりぎりで受け止める。目の前でぎりぎりと氷の刃が押される。真田の日本刀が近寄る者をことごとく薙ぎ払い、耳飾りの少年は袈裟がけに両断されて骸に折り重なった。屍が山と重なり、血が河となる。跳ねた血が唇を彩り、肉体が破壊される死が飛び散るなかで、醜さを抑えられたのは幸村に斬られたものであった。幸村の氷の刃は斬った者の傷をすぐさま凍てつかせ、創痍のなかから水晶に似た氷柱を生やしていた。
 真田の紺の着物は更に濃く、幸村の白雪の袖は血に彩られた。鬼神をそこに見たか、戦きの息を凍らせながら刀の輪が次第に広がっていく。
 奇妙なまでに息は上がらない。その代わりに真田の肩は激しく上下し、息はみるみるうちに乱れていく。咳はいよいよひどくなる。それでも真田は剣先を振るって血しぶきを飛ばした。その姿はまさしく侵掠すること火のごとく、全てをねじ伏せる鬼神であった。襲撃者は目に見えて減っている。勝てる、そう思った。
 いつでも真田は真っ向勝負で勝ってきた。幸村とともにいたときは、一度たりとて敗れるような真似はしなかった。それはテニスでも剣道でも負けたところなんて見たことがなかった。今度もそうだと確信していた。
 しかしそのとき、再び若草色のかぶき者と刃を切り結んだ真田の背中が、突如ぐらりと傾いだ。普段であれば気にならない程度の重心の傾きだ。戦いのなかにあって、僅かなズレは致命的である。真田を横目に、幸村は、坊主頭のかぶき者のはだけた胸に長く尖る氷を突き刺した。ずっ、ずずっ、と内臓と脂肪が詰められた箱から、肉と固着するまえに氷の剣を一気に引き抜く。吐瀉された血を頬に浴びて、氷柱を生やす屍を蹴り落とす。
 未だ真田と剣戟の応酬を繰り広げている若草鉢巻きの青年に向け、幸村は氷剣を突いた。切り結ばれた白刃はごとりと落ち、とどめの突きが鳩尾に入り、若草色の青年はばたりと倒れた。民家の壁に背を預け、ずるずると血の帯を引く。しかしその目が光を失う直前、懐から出した小さな笛に息を吹き込んだ。鳥笛は一声二声、天高くこだまして雪に刺さった。鉢巻きの青年の、半分ほど落ちたまぶたの下に光が戻ることはなかった。
 小さな路地には数多の屍が累々折り重なりては土を隠し、血が枝分かれしながら流れた。まさに屍山血河。戦場の鬼神と幽鬼は二人、血に濡れそぼつ刃を提げた。真田の激しい息だけが、遠く聞こえる堺の喧騒にかぶさっていた。嚥下の音が聞こえ、真田は幸村を振り返った。その姿は血に吹きつけられ、夜叉さながらであった。鎬は削れ、湾曲していた滑らかな刃は刃紋近くまでぎざぎざになっている。折れなかったのがせめてもの幸いであった。もし真田の刀までが折れていたら、今こうして死地に立っていることさえ叶わなかっただろう。
 噛み締められていた真田の唇が開いた。ゆき、と最初の二文字まで呟いたところで、真田は手で口を覆って咳こんだ。そのもとに駆けつけて、背に手を当てた。
 大丈夫か、なんて言葉は軽薄だった。大丈夫でない人に強がらせるための言葉でしかないのだ。
 半分昏倒するように膝を折った真田は、刀を地に突き刺したまま、喉が破滅するえぐい音を立てて咳を手に叩きつけた。丹色の糸が指の隙間から零れおちる。ぎゅうとつむられたまぶたの間から、生理的反応である苦悶の涙が幾筋も頬に流れる。すでに衣は色を変えていたが、そのうえからまた更に鮮血が吹かれた。冷や汗が真田の顎を伝い落ちる。喀血するたびに真田の背中は大きく痙攣し、えずいた。歪む口の端から血を薄めた唾液がぱたぱたと落ちた。
 真田がこの堺に来た理由は、薬を買いにきたからだ。考えてみれば十数年後将軍のお膝元となるほど人口の多い江戸のすぐそばにある甲斐国から、わざわざ遠く離れた大坂までくるのはそれなりの理由がある。少し頭を回せば分からないことではない。どうしてここまで来たのに気付かなかったのか。それはつまり近場の手軽な医者よりも、この町にいる信頼できる薬師に頼らねばならないほど病が重いということだ。この二日、咳のひとつもしない三十分はなかった。幸村だって薬さえもらえればこの世界にいる真田の病は軽くなるものだと思っていた。西洋医学にどっぷりと肩まで浸かって、現に幸村は病を少しずつ克服していった。夏にはテニスの全国大会にだって出場することができるほど快復した。反対にこの時代では死に直結するような病がごろごろあるし、薬も漢方などしかない。真田に与えられた薬は、ただ「死期を遅らせる」だけのものでしかないのだ。
 どうしてあの夜、願わなかった。
 ただ流れゆく星を眺めているだけでよかった、幸せな時間が永遠に続くことを。真田が幸村の前から、幸村が真田の前から消えないようにと。互いの肩にもたれて眠った星明りの夜が終わらないようにと。いっときの幸せに、なぜ浸るだけ浸っていた? 叶わないことであれ、願いさえしなかった? 巫山戯るな。願い事も本気で願えば想いは流れる星に届いたかもしれないのに。
 ――もし俺がいなくなったら、全国制覇をどうする?
 寒い夏の夜の記憶がよみがえる。もうテニスが二度とできないかもしれない悲嘆に打ちのめされた幸村への慰めに、シュラフにもぐりこんで流星群を眺めた病院の屋上が。秘密が大の苦手なくせに、夜に屋上へ連れ出したことを秘めるために絡めた小指の体温が。本当に天然で、寒いだろうと気遣われた末に繋がれた手が。ごつごつした指と指の間に挟まれて窮屈だった指が。夏でもまだ寒い夜気から囲われた、手のひらの間の湿り気が。真田のあたたかい手の記憶が時を遡ってくる。
 真田の手は、もう血にまみれているというのに。幸村の手は、人を凍てつかせ殺めるだけだというのに。そもそもここにいる真田が、現代人の幸村とともにいた真田弦一郎とまったく同じ人間だという証拠はどこにもない。ただ名前の似た他人の空似かもしれない。その可能性のほうがよっぽど大きいのだ。しかしここにいる真田はしゃらくさい理屈で説明などできなかった。幸村にとって、ここで血を吐く真田弦一郎信繁は、立海大という同じコートで切磋琢磨し、全国を制覇し、三強の一角を成した真田弦一郎に他ならないのだ。
 ――お前が消えるわけがない。
 夜空を眺めるには神奈川はあまりにも明るくて、星はぽつぽつとしか見えない。今すぐプラネタリウムに行きたいと思わせる空。星に疎い真田と、暇な時間を読書で潰して星に詳しくなった幸村が、当てっこしながら見つけたベガとアルタイル。織姫と彦星を引き裂く天の川。年に一度だけ逢い引きを許されて大河を渡すカササギの橋。七夕は少し過ぎたけど、神に逆らって橋をかけようとするカササギに見えた流星群。
 全てが戻ってきてほしかった。
 ――それならば、幸村……もし俺がいなくなったらどうする?
 あの夜、真田が「お前が消えるわけがない」と断言したのは、もしや前世のこの世界で――真田が先に死ぬから・・・・・・・・・、幸村の死に際を見ることがなかったから、そんなことがいえたのか?
 どうして真田が先に死ななければならない。死ぬべきは俺なのに。病魔に侵され、心はくじかれ、支えられねば容易く折れてしまったかもしれない幸村を暗澹たる闇から手を引いて、降りしきる星の筋の下へ導いてくれた真田は、こんなところで死に果てるべき人間ではない。
 刀を構えた者どもが屍の上に輪を作る。先刻の団子屋の少年が憤慨する。なんやこれ、どうしてこんなことしたんや、姉ちゃんはこんなことせぇへん人だと思ってたんに、何か言いや、姉ちゃん。震える声が聞こえる。十数本の刀がすらりと抜き放たれる。それを全て意識の外で聞く。
 袖で真田の手をくるみ、力を込めた。
 神の子と謳われても神を信じぬ俺は、誰に願えばいい? 逃げるように走る星には、喉を枯らさねば届かないのか?
 ならば叫んでやる。燃え盛る激情にたとえ凍てつく我が身が水に姿を変えようとて、一向に構わない。
 お前しかいない。代わりなんていらない。凍てつくこの生命と引き換えてもいい。死なないで、死なないで。どうかこの袖を離さないで。どこにもきえないで。消えるのは俺だけで充分だから。生きて、もう二度と俺の前から姿を消さないで。愚かと罵られてもいい。幸せだったから。真田とともに生きてここにいられる時間全てが幸せだったから。だからこれ以上、俺から、誰も、何も、二度と――――たったひとりの真田を奪うな!
「どこにもいかないでくれ……真田ぁ――――っ!!」

 耳がへんになったのかと思うくらい、キィーンという甲高い音が耳の内に木霊していた。暑かった初春の風は再び温度を失い、冷たく滞った。
 ……そろそろと再びまぶたを持ち上げたときには、全てが凍てついていた。
 比喩ではない。家々の壁、夕暮れにほど近い空、足元にごろごろ転がる死体が、すべて成型していないガラスを通して見たように屈折し、きらきらと輝いた。喀血に唇を塗られた真田が咳も忘れてゆっくり首を持ち上げる。その頬に当たる斜陽が水の底のように歪んだ。
 幸村はふらりと立ち上がった。動くのは彼だけだった。
 民家の壁に、人間が何人も打ちつけられていた。人の腕ほどもある透明な氷の楔が集まってきた町人たちを木の壁に留めている。小柄な、赤い髪の少年にはもう息が無い。鳩尾、腹、腿、右腕を貫通した氷は、赤い髪にまで食い込み、頭蓋骨と脳髄を見るも無残に打ち砕いて木の壁に固定していた。眉間を直撃した氷の槍は少年の眼球を潰し、涙にしてはどろついた硝子体が流れた。
 その手から緑色の包みが落ちた。壁にぶつかったときの衝撃でほどけたのか、大きな葉がはらりと開いた。その中身は一本のみたらし団子だった。後でもってくでぇ、と満面を崩して笑んだ少年の屈託ない笑顔と、物言わぬ骸の無残さが重なる。これが同じ人間だ。生きているか死んでいるか、それだけの違いがあるだけだ。元気有り余る犬のように自分を団子屋まで引きずってきた人懐っこい少年はもう生きかえることはない。
 真田が一番だったから。
 真田がこの場で殺されてしまうと思ったから。
 情けない。また、責任転嫁。真田がいなくなってしまう想像に怯えて、夜気に震えの濡れ衣を着せたように。
 真田を一番にしただけで人が死んでいく。それが自分の弱さ、醜さ? ミッシング・ツインが分離する醜悪な姿を真田に見られたくなくて、自分にさえ完璧に化けられる詐欺師と手を組んだ。行掛けの駄賃にしては重すぎるくらい、人が死んだ。浦山が、ジャッカルが。そして真田が。
 はじまりは、なに? おわりは、どこにいけばある?
 なにも言わず、腕が鷲掴みにされた。そのままぐいと引かれて、つんのめった。幸村を引きずる形で早歩きになる真田の顔には、獄卒が自分の所業に気づいたが、それでも自分の仕事としてゆかねばならないときのような、そんな愁いを秘められていた。
 そんな横顔を見せないでくれ。言葉は音になって唇から出てこない。
 お前がいなければ、俺は、ずっとひとりなんだ。もう二度と失いたくないんだ。時間にも病魔にも、誰にもお前を渡したくないんだ。

 それさえ叶わぬならばせめて……灼けつく刃で、この心臓を貫いて。



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