昭和26年6月、県立三本木高校の校歌を作詞した佐藤春夫氏は、 校歌の発表会に出席のため三本木高校を訪れ、初めて十和田湖を遊覧します。 佐藤氏は奥入瀬に降り立つと、案内役の長谷川芳美氏(三本木高校教諭)らの説明を制止され、 一言も語らずに渓流を眺めていたといいます。 遊覧船上でもじっと湖面を見つめ、降りる時に、 「これ程の自然が残っていようとは、日本中を見たが、これほど美しい自然を見たのは初めてです」 と語ったそうです。 帰路、佐藤氏は友人の太宰治氏の兄である津島文治青森県知事を訪ねます。 翌27年、十和田湖が国立公園に制定された15周年にあたる昭和28年に、 十和田湖を世に広めた三人の功労者を顕彰するための、記念モニュメントを作ろうと 横山武夫副知事を中心に、青森県に委員会が設置されました。 当時、彫塑界の第一人者だった高村光太郎氏に依頼しましたが、 妻の千恵子を失くし、制作の気力も無くし、 岩手に引きこもっていた高村氏は依頼を断りました。 友人であった佐藤氏は、高村光太郎氏を十和田湖に誘い制作を勧めます。 こうして高村氏は十和田湖を見て十和田の美しさに感動し 「永遠に汚れを知らない乙女の姿のようだ」と語って、 「乙女の像」の制作にとりかかることになったといいます。 佐藤春夫氏の説得がなかったら、 高村光太郎制作の乙女の像は実現しなかったことでしょう。 その乙女の像の建立を祝い、佐藤氏は、青森県に二編の詩を寄託しました。 副知事横山武夫氏と旧知の間柄だった三本木高校の音楽教諭の長谷川芳美氏が それらの詩に曲をつけることを依頼されます。 こうして二曲の歌「湖畔の乙女」「奥入瀬大滝の歌」が完成、 それらは昭和28年10月21日、乙女の像の除幕式で、 三本木高校の女生徒30名により披露されました。 佐藤氏は「奥入瀬大滝の歌」の旋律を特に気に入り、 銚子大滝近くの自然石に自筆の歌詞を刻んでもらったほどでした。 今は、それが苔に覆われているそうで残念です。 こうして乙女の像をきっかけに生まれた二つの歌は 全国から十和田湖を訪れる観光客のために バスガイドによって歌われました。 また、それらは十和田の人々の愛唱歌ともなって、 歌われていました。 しかし昨今は観光バスの本数も減り、歌われる機会も少なくなってきているようです。 文豪佐藤春夫氏も恩師である長谷川芳美氏も故人となられました。 しかし、この二つの歌は今も、私たちの心の中に生き続けています。 |