それは昭和41年のことであった。 当時、私は青森県土木部道路課に勤務していた。 雪国のことで冬から春にかけては連日雪との戦いに明け暮れていた。 車社会の到来と共に冬季の交通確保のために道路の除雪作業は多忙を極めた。 文字通り昼夜を分かたず――であった。 そして逝く冬が去ると、また新たな雪との対決が始まる。 八甲田山の春の除雪作業である。 青森市から国立公園十和田湖まで延長70km、最高標高1,040m、 平均積雪6〜7m、最も雪の深いところでは13mにも達する。 そしてここは今も語り継がれている「八甲田山死の彷徨」――明治35年の冬、 青森歩兵第5連隊の雪中行軍で 199名の将兵が遭難凍死した恐るべき魔の山の舞台でもある。 そこで県では春を待って八甲田除雪隊を編成し、除雪作業にとりかかった。 開通目標は4月1日、隊員総数40名のオペレーターの大集団で春雪に挑んだ。 ちょうどその時期、偶然ともいえる環境で「八甲田除雪隊の歌」が生まれた。 隊員の一人の竹内博君が作詞し、それを地元紙の東奥日報に掲載し 「作曲者ヤーイ」と呼びかけたところ、たちまち心温まる数曲がもたらされ、 その中から青森在住の主婦、鶴谷ミツさんの曲を採用した。 それを青森西高校のコーラスグループに歌ってもらってテープに収めた。 早速その録音テープを隊員の宿舎に届け、また作業車にも乗せて歌を流し続けた。 1 春の息吹に萌えろよ緑 別れ惜しむな妙見に 横内の里あとにして 今ぞ眺まん八甲田 2 雲谷より眺むる青森湾に 汽笛もかすむ連絡船 岩木に無事を祈りつつ 雪降りやまぬ展望台 3 茅野の空に月影寒く 明日は難所の七曲り 丈余の雪も何のその 今こそ腕の見せどころ 4 春の吹雪に行く手阻まれ 凍てつく機械いたわりつ 寒水沢から城ヶ倉 悪戦苦闘の除雪隊 地名を織り込んで8番まで続く。 行進曲風の明るい歌で隊員たちはすぐ口ずさむようになった。 そこである晩、食事を終えてから隊員に集まってもらい歌の練習をした。 「さあ、元気に歌いましょう。一、二、三!」で歌い始めたが、 その声の何と、か細いことか。雪焼け顔に似合わぬ優しい声。 士気を鼓舞するには程遠い弱々しい歌い方ではないか。 そこで歌い終わってからその理由を聞いてみた。 「どうも気合が入らない」 「素面では恥かしくて。酒でも入らないと歌えるものですか」 「指揮者か応援団長のような人がいてくれるといいのだが」 などなどの意見であった。 そこで思いついた。「そうだ。檄だ。檄を飛ばそう」と 私は檄文作りにとりかかった。それから数日間、 私の一切をこの檄文に集中し、苦心惨憺の末、一文を草した。 しかしその檄文を披露するには、しばらく時を待たなければならなかった。 毎年3月末に「八甲田除雪隊を激励する会」が 除雪ステーションの酸ヶ湯温泉で開かれる。40余名の全隊員が一堂に会し、 県の副知事から激励を受け、その後、無礼講の酒盛りとなるのだが、 このたびは酒盛りの前に「八甲田除雪隊」を合唱することになっていた。 いよいよ本番の時が来た。全除雪隊員が舞台の上に並び、私はその前に立った。 そして檄を飛ばした。 「仰ぎ見る八甲田の霊峰。皚々たる白雪!」と、私は大声で叫び右手を挙げた。 すると隊員が一斉に「ウォーッ!」と吼えた。 「時、将に啓蟄を出んとする日、吾ら集いて今より春雪に挑まんとす。 風吹かば吹け。雪降らば降れ。吾らは栄えある八甲田除雪隊の名の下、 渾身の力を揮いて、十和田湖への道を拓かん。友よ、友よ、胸を張れ。 友よ、友よ、肩を組め。いざ、歌わん哉、吾らが歌を。いざ、讃えん哉。 八甲田除雪隊の歌を!――ソレーッ!」と、私は更に気合を込めて、 もう一度右手を高く挙げた。 すると私の目の前で、全隊員が肩を組み、大声で歌い始めた。その時である。 私の隣に指揮者が現れタクトを振った。作曲者の鶴谷ミツさんであった。 異様な雰囲気で歌は進んだ。 5 仙人ゆかりの女中坂だよ 友よあれが酸ヶ湯沢 明日への英気を湯煙に 星空高き 地獄沼 6 大岳 石倉朝日に映えて 睡蓮沼のその先は 雪、雪、雪の魔の峠 負けてなるかと雪男 逞しく雪焼けした雪男たちは、部屋の外の零下10℃の厳寒も何のその。 そして歌い終わって、壮大な酒盛りとなった。ムンムンする男の熱気を発して 夜の更けるのも知らず酒を酌み交わした。酒がまわるにつれ、また歌が始まった。 そして歌われる歌は「八甲田除雪隊」以外はなかった。 あの夜の歌と酒の異様な光景は私の脳裏から決して離れない。 あれから30有余年の歳月が流れたが、今でもこの歌は連綿と歌い継がれている。 いま、私は雪のない福岡の地に住んでいるが、毎年3月になると 決まって青森から雪の便りが来る。 八甲田山の雪の様子と「八甲田ゴールドライン」の南北からの 除雪隊ドッキングの予定や全線開通の日取りなどである。 今でもドッキングは雪男にとっては感激の一瞬である。その時、隊員たちは 一斉に除雪車から飛び降り、歓声を上げて駆け寄り、肩を抱き合い、 握手をして貫通を喜び合う。しばらくして隊員は円陣を作り、 その真ん中に隊長が一段高い台の上に立つ。 そして檄を飛ばし、八甲田除雪隊の歌の合唱が始まる。 7 南部平野を眼下におろし 猿倉見えれば一息と 油にまみれた顔と顔 雪焼け面の吾が友よ 8 百戦錬磨のつわものどもが 熱と意気と誇り持ち 十和田の春を呼び起こす ああ、八甲田除雪隊 ああ、八甲田除雪隊 標高1,000mの静寂の雪山に、雪男たちの蛮声がこだまする。 「さあ、乾杯だ!」と隊長が叫ぶ。 乾杯は青森特産の林檎ジュースに決まっているのだ。 最後に男たちは、ここ一番の「バンザイ」を三唱すると、 みんな誇らしげに胸を張って山を降りていく。 一ヶ月の合宿生活から開放された爽やかな顔になっている。 ドッキングの翌日は開通の日だ。その様子は毎年3月末か4月初めに NHKのニュースで「春を呼ぶ八甲田の雪の回廊」というタイトルで 全国に放送される。 スッパリと垂直に削り取られた純白の壁は、まさに芸術的感動すら与える作品である。 その回廊が延々と続いて、国立公園十和田湖に達する。 私はこの放映を見るたびに、思いを遠く雪の八甲田に馳せる。 そしてその時、私の脳裏には雪山の大パノラマの光景と、 逞しい雪男たちの姿が甦ってくるのだ。 (平成13年9月7日 記) (事務局注) 八甲田除雪隊発祥地の記念碑は、十和田国立公園の入口に近い、 岩木山展望所の中にあり、その一角に作詞と楽譜を刻んだ石碑が置かれています。 |