青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2003年10月(1)>

(1)十和田湖に関する歌
(2)N先生からの手紙
(3)下北の子守歌
(4)本間雅夫先生
(5)せっかく足を運ぶのだから
(6)電子メール
(7)ミュージカル
 
(1)十和田湖に関する歌 2003年10月 7日(火)
次のような情報提供がありました。
1952〜3年頃、詩人の佐藤春夫氏が県立三本木高校の校歌の作詞を当時の校長に依頼され、
下見のために十和田市を訪れ、十和田湖を遊覧。その折に作られた詩に、三本木高校の音楽教師だった長谷川芳美先生が作曲、「湖畔の乙女」と「奥入瀬大滝の歌」が生まれました。当時は十和田湖遊覧バスのバスガイドが、十和田音頭と共に必ずこれらの歌を挿入しながらガイドをしていました。ところが、自家用車の普及で観光バスの本数が減り、ガイドはいつしかテープ録音にかわり歌われなくなりました。全国からたくさんの観光客がこれらの歌を聴いて帰ったと思いますが、その歌も、50歳以下の人はもう知らないと言うのでショックを受けました。作曲者の長谷川先生も亡くなられ、あの歌はどうなるのだろうと心配しております。まだ、今ならこの歌を残せるのですが・・・。情報提供は青森市出身、三本木高校で学ばれた65才の女性からです。私は30代なのでもちろん、こういった歌があることは知りませんでした。詳しいエピソードを書いていただけないか、お願い中です。いただけましたら「玉稿」のコーナーに掲載いたします。しかし、次々とこうして青森の風土の中から生まれた歌が消えていく・・・。なんか、とっても寂しいです。
 
(2)N先生からの手紙 2003年10月 8日(水)
N先生から本日、お手紙をいただきました。N先生は弘前で作曲家・編曲家・指揮者・ヴァイオリニストとして70歳を越えた現在も、精力的に音楽活動を展開されている方です。お手紙によりますと、今年の11月に自作初演を含むリサイタルをおこなうのだが、どうも右手の具合がおかしい。大学病院で精密検査をしてもらったところ、左右の頭部に異常があり、早い時期に開頭手術の必要があるとのこと。病院側にはリサイタルが終わるまで待って欲しいと言っているが、こういった状況だけにいつどうなるかわからない。現在は至って元気で、いつもと変わりなく動き回っているが、来年のことはわからない。万一の事態になった場合は、自宅にある音楽資料について今のうちから、よろしくお願いします。このような言葉で、手紙が結ばれておりました。当協会設立の大きな目的の一つがN先生のような形で、青森県にとっての貴重な音楽文化遺産が失われてしまうのを防ぐことでございます。本日すぐに、資料の散逸・消失を防ぐべく、できる限りのことをさせていただきたいと、お返事を出しました。
 
(3)下北の子守歌 2003年10月 9日(木)
子守歌の情報です。青森各地に子守歌が伝承されており、それは他県に比較して、かなりの数に上るそうです。青森各地の子守歌は、それぞれ味があるそうですが、中でも、下北の子守歌が絶品。他の、どの地域とも違う独特な味わいがあり、聴いていると、胸が締めつけられ、涙が出てくる。ぜひ聴いてみてください、とのこと。情報提供は、村林平二さん。村林さんは青森市のご出身、東京在住で青森県の子守歌(楽譜集)の本も出版されています。村林さんからは他にも青森県のわらべ歌について、いろいろな情報をいただいております。少しずつご紹介していきたいと思っております。村林さんは青森各地の子守歌を耳にしながら、それを採譜していったそうですが、歌から楽譜は作れても、楽譜だけを頼りに元の歌を完全再現することは非常に困難だといいます。楽譜に表せない微妙なニュアンスが歌の命であり、それはやはり実際にその歌を耳にするしかないとのことでした。しかし、今の時代、子供を寝かしつけるときに昔ながらの子守歌を歌っている方はいったいどれくらいいらっしゃるのでしょう。少なくとも、私の世代(30代)では皆無だといえます。私は独身で子供がいないためよくわかりませんが、妹の子供たちはアニメのテーマ曲を子守歌がわりにしているようです。もしかして、青森のほとんどの家庭がそうなっているのでしょうか。別にそれが悪いことだとは言いませんが、せっかく素敵な曲が青森にあるのに伝承されずに消えていくというのは、なんとも惜しいように思われます。おそらく下北の子守歌を記憶されているのは、かなりご年配の方だと思われます。ぜひ、下北の子守歌を記憶されている方がおられましたら、なんとか音として残してもらえるよう、お願い申し上げます。青森県の調査ですでに音になっているものがあるそうですが、マイクを向けられ普段と違った状況で歌ったためか、テンポが少し速目とのことです。下北の子守歌をぜひ本来の形で耳にしたいものです。下北には、たいへん素晴らしい音楽文化遺産が存在しているということを知りました。すでに風化して消えていた。などということがなければよいのですか・・・。この件に関する情報をお持ちの方は、どうぞ事務局長までお知らせいただければと存じます。左側ボタンの「お知らせ」をクリックしますと連絡先が出ます。「ホーム」のページにある、電子メールアドレスからご連絡いただいても結構でございます。よろしくお願い申し上げます。
 
(4)本間雅夫先生 2003年10月10日(金)
本間雅夫先生からお電話をもらいました。当協会設立に係わったすべての方に対し、ねぎらいと協会への感謝の言葉をいただきましたので、ここにご報告させていただきます。本間先生は深浦出身、現在は仙台にお住まいで、70歳を越えた今も精力的に作曲活動をおこなっておられます。本間先生のような現代創作音楽の作品を専門的に保存管理する場所は日本に二ヶ所あります。一つは、国立音楽大学図書館。そしてもう一つは日本近代音楽館です。これらをいずれも昨年、見学してまいりました。担当の方から詳しい説明を受け、普通は見れない保管庫の中にまで入れてもらい、いろいろ勉強することができました。国立音大図書館の方は現在、かつてのように収集に積極的ではなくなったということですので、山田耕筰以降の日本の現代創作音楽を、特定個人に限定することなく専門的に収集する場所は、日本近代音楽館が唯一といった感じです。日本近代音楽館の担当の方から伺ったお話の中で特に印象に残った言葉があります。それは、こちらの館で日本全国の音楽資料を一手に引き受けることは困難。その土地の音楽は、その土地に置き、そこに住んでいる人が触れられるようにするのが、その音楽にとって幸せなことではないでしょうか。以前、全国に音楽資料についての調査をおこなったことがあるが、こちらからの調査を無視する所もあるのに、青森県は実に丁重に対応してくれた。そのような青森県です。ふるさとの音楽資料が無くなるのは嫌なことです。きっと多くの人が協力してくれるはずです。がんばってください。と言われました。本間先生のような著名な作曲家の場合、東京に音楽資料が管理されてもおかしくないのですが、ご自宅の音楽資料を当協会を通して青森に置かせていただけることになりました。そのためのご相談をただ今進めております。
 
(5)せっかく足を運ぶのだから 2003年10月11日(土)
本日はクレームでございます。東京にお住まいで現在は定年退職され、趣味であちこち、民謡のふるさとを訪ね歩いているという方からのご意見をお預かりしております。青森は民謡の宝庫であるだけに何度も足を運んでいる。この辺に歌碑か何かあるだろうと目星をつけて出向き、近くの役場などで情報を仕入れることにしているのだが、役場で尋ねても担当者の知識のなさに閉口してしまう。いやしくも窓口になっている人なら、地域の文化情報に精通し、外から来た人間に対し即答できるだけの勉強をもっとして欲しい。また何か資料はありませんかと尋ねると、出される資料は東京でも手に入る書籍資料、あるいはその内容を丸写しした冊子がほとんど。そのようなものを見るためにわざわざ歌のふるさとを訪ねるのではありません。わら半紙一枚でも構わないので、その土地でしか見ることの出来ない貴重な資料との出会いをもとめて、わざわざ足を運んでいる。その辺の理解がどうも足りないように思う。こういった内容のご意見でした。こういったご不満、今までどこに訴えたらよいのかわからないままに心の中に鬱積していたのではと拝察いたします。当協会はこのようなクレームの受け皿にもなりたいと考えております。どうぞ青森県の音楽資料に関するご意見がありましたらお寄せ下さい。重要だと思われるものは当協会から行政へとただちに提訴させていただきますし、当協会で解決できそうなものに関しましては問題解決に向けて努力してまいります。このようなご意見から学ぶところはたいへん大きいです。確かに、そうでございますね。本当に好きな方は、一枚の紙切れのために遠方から足を運んでくださる。こういった事実を重く受け止める必要があろうかと存じます。青森県の様々な音楽資料の保存の意義を再確認した次第でございます。ご意見ありがとうございました。
 
(6)電子メール 2003年10月12日(日)
副会長の戸塚先生のコンピュータが壊れたと連絡があり、しばらくファックスでやりとりさせていただいておりましたが、このたび無事、近日中に復旧するとの事でホッとしております。電子メールが使えることで、事務局の仕事がどれだけ助かっているかわかりません。当協会の会則にも第22条に電子メール会議についての規定がありますが、今後、電話がないと仕事ができないように、電子メールはあって当然の道具になっていくのではと予想されます。理事の皆様、電子メールをお持ちでない方はなるべく早めにご準備いただければありがたく存じます。よろしくお願い申し上げます。という私も実はパソコンをはじめて一年目。ついこの間まで、ワープロの愛用者で、打ち出した原稿をファックスで送ればなんら問題はないだろと、パソコンへの移行をかたくなに拒否していた人間でございます。そんな私に、それではいけないとご指導くださった方が下山一二三先生でした。下山先生は弘前のご出身、海外での評価がたいへんに高い作曲家です。あるとき下山先生の作品集が知らないうちに海外でCD発売されたらしく、海外の未知の方からファンメールが届いたそうです。その方はもちろん外国の方ですが、現代音楽がとても好きでいろいろ耳にしているが、あなたの作品は特別だ。たいへん感動した、と頻繁に海外からメール(もちろん英文で)が届くようになったのだそうです。そのうち、その人の知り合いにヴァイオリン奏者がいるそうで、彼のためにヴァイオリン・コンチェルトを書いてくれないかと依頼がきたのだそうです。こうして不思議な縁で作品が生まれ、いよいよ初演(本年10月23日)の場が決定、当日のソリストの選定に入りました。そこで下山先生がそのヴァイオリン奏者に、日本に来る気があるかメールを入れたところ、行きます!!との返答。しかし、せっかく来てもらっても演奏がまずいと困るので、その人のCDを送ってもらい、関係者全員で一緒にどんなものか聴いたそうです。そうしたところ、これは素晴らしい。半端じゃない。とのことで、ベルギーから日本に来てもらうことになったそうです。その人の名はフィリップ・デカン。ヴァイオリンの世界では「ベルギー派」というのがあって、彼はその一角を占める人だった、とのこと。いやあ、不思議なこともあるものだね。だから君ね・・・、と電子メールの必要性を説かれたら、これは、潔く改心するしかありません。ワープロはそのときから捨てることになりました。70代の下山先生が30代の私に電子メールの重要性を訴える。普通は若い世代から先輩世代に新規技術を薦めるものですが、逆のルートをたどって現在、パソコンを手にしております。しかし、本当にこれは便利です。下山先生の一言がなかったら、いまだワープロを愛用していたと思いますし、協会の事務活動も大きく遅れをとっていたに違いないと思っております。そういった意味で、下山先生は協会の大恩人です。当日、私も演奏会にかけつけたいところなのですが、夜間は学習塾の勤務、ちょうど期末テストの時期で普段より生徒の数が膨らみ、講師不足のために抜け出せないようで残念です。(下山先生の音楽資料は、当協会が責任を持って管理させていただいております)
 
(7)ミュージカル 2003年10月13日(月)
本日、副会長の戸塚範子先生から連絡があり、パソコンの復旧完了とのことです。戸塚先生のエッセイをいただいておりますので、今週の木曜日ぐらいに「メンバーの声」にアップいたします。どうぞ皆さん、ご覧下さい。また、本日、下山一二三先生から、だんだんホームページが充実してきましたね。がんばってください、との激励の声をいただきました。下山先生、ありがとうございます。前回のメールで触れた下山先生のリサイタルはCDになるそうですので、すでにお預かりしている下山先生の音楽資料に追加し、こちらも当協会で管理していきたいと考えております。さて当協会のホームページは走りながら、あちこち手直ししておりますので、印刷における不具合(ご指摘ありがとうございました)、不自然な改行などございますが、少しずつ直してまいりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。さらに横文字のURLをいちいち入れるのは面倒だ。「青森県音楽資料保存協会」と検索項目に入れるだけで、パッとページが表示されるようにできないかとのご意見も頂戴いたしましたので、ただ今手続きを取っております。二週間ぐらいかかるようでございますので、11月からはページ閲覧にご不便のかからないようになるかと存じます。その他お気づきの点がございましたら、どうぞお気軽にご意見をお寄せ下さい。ところで、今日は「ミュージカル」でございます。ミュージカルは好きな人と嫌いな人に大きく分かれがちな分野ですが、嫌いな人の理由の一つが「今まで、普通にセリフを言っていた人が、なんで突然歌ったり、踊り出すの・・・まことに不自然、どうしてもこの違和感が払拭できない。見てておかしいです」というもの。実は私もその一人でしたが、少し考えを変えなければならないようです。かつての青森は「ミュージカル」そのままの世界だったと言ったら、おそらく若い世代は驚くはずです。私も驚きました。かつての青森では「歌」が生活の中心にあったというのです。例えば、子供たちがおしゃべりをしながら歩いている。と、誰かが「あっ、トンビだ!」と大きな声を出す。すると近くにいる別の子供たちも一緒になり、「トーンビ、トンビ・・・」とトンビの歌(わらべ歌)が始まります。わらべ歌には必ず振り付けがついているので、普通の会話が何かのきっかけで歌と踊りのミュージカル形式に変わる。これは、ごくごく日常のことだったといいます。大人は大人で作業の際には労働歌、そして子守歌など、生活に密着する歌がたくさんあり、まさに歌の中に、青森はどっぷり浸っていたということです。このようなお話を伺いました。私は、にわかには信じられない気持ちです。映画の中での作られたおとぎ話だとばかり思っていた世界が、現実のものとしてふるさと青森に存在していたというのは、少しばかり驚きです。本当なのでしょうか。当時の様子、どなたかエッセイをお寄せいただけませんか。青森に、そんな素敵な時代があったんでしょうか?


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