青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2009年4月>

(760) 90歳になっても、これだけは
(761) 十年後に向けて
(762) むつ下北第九を歌う会のA君へ その1
(763) むつ下北第九を歌う会のA君へ その2
(764) むつ下北第九を歌う会のA君へ その3
 
(760) 90歳になっても、これだけは 2009年 4月 1日(水)
 川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

 【90歳になっても、これだけは】


 今年(執筆時点での)も、人間の連帯を共感させてくれるベートーヴェン第九交響曲・第26回演奏会が、12月14日に青森市文化会館で開催されます。指揮は今年で4回目の青森市ご出身・小泉智彦氏。青森演奏会に先立って、11月24日・むつ市で、小泉指揮で青森市民交響楽団が演奏しました。

 昭和11年に、京都大学のオーケストラが第九交響曲を関西で初めて演奏しました。今は亡き朝比奈隆指揮者は当時28歳、バイオリンパートで演奏に参加されました。「・・・それが済んだ時には、なんとも言えない思いで、舞台の上で声をあげて泣きました。若かったから・・・。しかし、若者にはそういう感動させる要素が、確かにこの曲にはありますからな。いろいろ難難辛苦して、最後にワーッとなるようにできていますので」と、対談集「ベートーベンの交響曲を語る」の中で回顧されています。

 私事になりますが、昭和10年生まれの私が、諸先輩とともに、青森市民手作りの第九演奏会実現に取り組み、第1回演奏に参加したのは、26年前、47歳の年でした。朝比奈氏に似た共感を記憶しています。そして、私自身の新たな意気込みをも込めて、朝比奈氏が第九交響曲について、同著書で締めくくりとして語っていることを紹介したい。

 「結局、ベートーベンは、このシンフォニーを実際に自分の耳で一度も聞いたことがないわけですね。全部頭の中で鳴っていただけ。それなのにこのような・・・・。今でもそれを思うと感動します。彼自身は何も得られない。まあ作曲料ぐらいはもらったかもしれないけれども。作曲家にとって、できあがった音を実際に聞くのがいちばんの喜びなのに、自分が実際に聴けもしない音楽を作って、われわれに残して、二百年、おそらく永久に世界中で演奏される。自分が死んで永遠の生命を人類に残した、そういう象徴的な感じがしますね。それが本当の作曲というもので、もうそういう時代は二度とこないかもしれない。我々は目も見え、耳も聞こえるのに、まずい演奏しかできないというのはまことにどうもあれですけれども、しかし、この第九だけは私もずっとやりたいですな。90歳になっても、これだけはやりたいです」

 さて、、今年(執筆時点での)は2月から、頚椎異状から来る鋭い神経激痛が右腕に走り、楽器演奏が不能に。治療に専念、九割方治癒。今年の第九演奏会も、まあまあでした。無事、新年を迎えられそうです。
 
(761) 十年後に向けて 2009年 4月 5日(日)
 川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

 【十年後に向けて】


 昨年(執筆時点)の第九演奏会をもって、青森市民交響楽団を退団しました。私という、アマチュア奏者の育ての親元からの飛び立ちです。十年後のゴールを目指して、新たな研鑽・修行を今年から始めます。

 新たな研鑽・修行の第一歩は、今年(執筆時点)の第九演奏会に、合唱団の一員として参加することです。バイオリンとビオラの練習に加えて、1月から発声と譜読みを開始しました。

 指揮者の金聖響さんは「・・・デビューから9年経って、ようやく第九の指揮台にあがることができました。これは、日本のプロ指揮者としては、最も遅い記録かもしれません」と、著書「ベートーベンの交響曲」の中で話されています。「というのは、年末の第九の連続演奏では、オーケストラのスケジュールがタイトで、私が希望する数日間の練習をなかなかとれなかったからです」

 「一日や二日の練習時間では、伝えきれないもの」と、金さんは同著で話されています。「私がベートーベンの残した楽譜を何度も何度も読み直し、これがベートーベンの残した『音の真実』に違いないと、ある程度の確信が持てるようになった第九は、年末の第九として演奏されているものとは、およそかけはなれたものです」ウィーン音楽院指揮科を卒業され1996年のデビュー後、第九を指揮されたのは、2005年・東京交響楽団との共演。

 青森第九を歌う会演奏会・第23回から26回までの4回を指揮された小泉智彦さんの指揮から、私は金さんに共通した「常識」にとらわれない「音の真実」の追求を感じてきました。そして、昨年第26回演奏会で、小泉さんの指揮に忠実に演奏できた、と自負しています。

 しかし、より以上に第九交響曲を理解するには、合唱団の一員として参加し「百万人の人々よ、抱き合え!」と、歌うことが必要だと思うのです。

 新しい挑戦に挑ませてくれる、それが、第九なのです。
 
(762) むつ下北第九を歌う会のA君へ その1 2009年 4月12日(日)
 川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

 【むつ下北第九を歌う会のA君へ その1】


 むつ第九実行委員会のみなさんが、先日の第26回青森第九の会演奏会を聞きに来てくださり、嬉しかったです。演奏会後、仕事で職場に戻りましたので、打上げパーティーに参加できませんでした。むつの皆さんは参加されたるそうですね。お会いして、感想など、お聞きしたかったです。

 青森の1ヶ月ほど前が、第10回目のむつ下北第九を歌う会演奏会でしたね。お世話になりました。お疲れになったでしょう。私たち青森市民響は、3年ぶり・8回目の演奏でした。

 むつ演奏会の開演寸前の舞台袖の立ち話でしたが、あなたや何人かの合唱団の方々から、むつでも市民オケが出来ますか・バイオリンを習い始めて何年位したら、第九を弾けるようになりますか・・そうした質問を受けました。そうだねーと、返事に戸惑っているうちに、開演のベルがなり、合唱のみなさんはわれわれより先に、ステージに出て行きました。

 この手紙は、むつ演奏会の舞台袖での立ち話への、返事、のつもりで書きましたので、お仲間にも読んで頂けたら、と思います。


 (つづく)
 
(763) むつ下北第九を歌う会のA君へ その2 2009年 4月20日(月)
 川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

 【むつ下北第九を歌う会のA君へ その2】


 私が、第九交響曲を初めて聴き、青森市民響でも演奏出来ないものかなあ、と、思ったのは31年前(執筆時点)の1977年11月。日本フィルハーモニー交響楽団青森演奏会でした。プロの合唱団との共演でした。それから3年後、私の願いは実現しました。

 1980年4月、青森市文化会館で開催された第3回ゴールドブレンドコンサートでした。故・石丸寛氏指揮で、青森県内のアマチュアオケの代表が一堂に会し、総力を上げて演奏しました。昼夜2回公演でした。ゲネプロを入れると、当日は合唱団共々、大曲を3回演奏したことになります。青森県内のオケ仲間は、近い将来、自分たちの手で第九演奏会を実現したいものだ、と、気炎を上げたものでした。

 (つづく)
 
(764) むつ下北第九を歌う会のA君へ その3 2009年 4月26日(日)
 川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

 【むつ下北第九を歌う会のA君へ その3】


 県内のアマオケ仲間のなかで、トップに第九演奏会を実現させたのが、私たち青森市民交響楽団でした。今日の青森市文化会館落成の翌年、1983年12月11日(第2日曜日)14時と18時の昼夜2回公演でした。

 青森市民響は1958年(昭和33年)に、第1回定期演奏会を「モーツァルトの夕べ」と題して開催。1978年・第19回定期演奏会から「ベートーヴェン交響曲全曲演奏」に取組みしていました。毎年1曲、交響曲に取組めば、9年後には、否応無に第九を。なんとも楽天的過ぎる発想でした。それが、会場を提供する青森市・合唱関係者、そして青森市民響の三者による「青森第九の会」が結成され、以後、県内の仲間の協力出演にも支えられ、毎年12月の第2日曜日が、演奏会開催日となり、青森市民恒例の年末を飾る行事となりました。青森市民交響楽団第九演奏会記録表をご覧になればお分かりのように、第26回演奏会で、通算31回の演奏回数を数えます。昼夜2回演奏が5回ありましたから。


 (つづく)


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