川越晴美(元青森市民交響楽団団長)
【初代名誉指揮者・故渡辺浦人氏のこと】
平成元年7月初旬、夜勤明けの私は自宅にも帰らず、急な楽団業務での東京出張のため、首席奏者の水木さんの車で青森空港へ急いでいました。ひと月後に、初代名誉指揮者渡辺浦人氏がご自身の代表作「交響組曲<野人>」、初代常任指揮者藤井一志氏はシューベルト「未完成交響曲」、2代目常任指揮者野坂徹夫氏がチャイコフスキー「交響曲第5番」を、それぞれ指揮して、第41回東奥賞受賞記念第30回定期演奏会を開くことになっていました。しかし6月に、作曲家として活躍されていた渡辺岳夫氏に病で先立たれた浦人先生からは「藤井さんに指揮していただくように」とのお電話を頂いていました。
緊急楽団役員会で「ダメもと! あたって砕けろ!」と、宿直勤務で役員会に参加できなかった私を、朝一番の飛行機に乗せ、予告なしで浦人先生のご自宅へうかがわせることを決めたのです。浦人先生に青森市民響を紹介された、当時、東奥日報社論説委員をされていた和田満郎さんの記者魂からの入れ知恵もあったようです。アドレスのメモ紙を片手に、地下鉄を乗り継いで目白台の先生宅へ。地下鉄不案内な私を心配している和田記者と水木さんのお二人には、乗換駅の公衆電話からその都度、現在地を報告。さて、ご自宅に辿り着いたものの、お留守。帰宅時間も不明。
窮余の一策、玄関ドアに名刺とお土産が入った紙袋をくくり付ける。その紙袋の有無を確認するために、先生宅周辺を何周したことか。「会えずに帰ります」と、和田記者と水木さんへの電話をと、はす向かいにある公衆電話ボックスに入り、受話器を片手に玄関を見ると、紙袋がない。
飛び込んだ玄関先で、先生ご夫妻の労いと「父の健康が心配なのです。青森へ行けば、亡くなった岳夫と4人で初めて青森へ行った時の楽しかったことが思い出されて、辛い」という末娘で彫刻家の瑤子さんの言葉を背に、最終便で青森空港へ。その日の夜遅くに、瑤子さんから水木さんへ「両親と3人で行くことにしました」と、電話が入りました。
3人の指揮者による第30回定期演奏会は、無事、終えることができました。「名誉指揮者として、君たちのために新しい曲をつくるよ」と、青森市民響を励まされていた浦人先生は、平成6年10月、85歳の生涯を終えられました。
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