青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2009年2月>

(754) 青森市民文化ホールのこと その1
(755) 青森市民文化ホールのこと その2
(756) 青森市民文化ホールのこと その3
(757) 歴代常任指揮者のこと
 
(754) 青森市民文化ホールのこと その1 2009年 2月 1日(日)
 川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

【青森市民文化ホールのこと その1】


 ご承知のように、2007年6月30日をもって青森市民文化ホールが閉館となり、替わって4月からは青森市民ホールが開館しました。昭和54年の開館以来28年間にわたって、青森市民の文化団体の活動の拠点としての役割を果たしてきました。6月30日には、青森市と青森市文化スポーツ振興公社主催による、【青森市民文化ホール「さよなら式」】が開かれました。私にとっては、旅人の目を癒し心を和ませる、山路に咲く一輪の野の花のような「さよなら式」でした。一抹の寂しさを感じながら、関係者のあいさつを聞いていました。そして毎週金曜日、大・中・小練習室を利用した練習のことやホールでの定期演奏会の取り組みのことなどを、思い出していました。

 昭和20年7月の大空襲で廃墟と化した青森市に、本格的な設備をもったホール青森市民会館が青森市役所本庁前(現・駐車場)にオープンしたのは、昭和35年でした。それまで新劇や歌舞伎の公演、オーケストラの演奏会などを、客席約500席の旧・青森県立図書館ホールや東宝映画劇場・国際映画劇場・歌舞伎座などの映画館、そして明の星高校講堂などで鑑賞していました。青森芸術鑑賞協会などの文化団体が会館建設運動に取り組み、当時の横山青森市長に陳情して青森市民会館が建設され、中央の本格的な舞台芸術の公演が活発に催されるようになりました。

 一方、市民の文化団体には、練習室と中規模のホールをもつ会館建設への要望が強まりました。青森市民交響楽団としても練習場の確保には、山内団長や藤井指揮者のご苦労も大きかったと思います。私が知っているのは、旧・青森県立病院と国道を挟んだところにあった、キリスト教の長島教会でした。20年近くもお世話になりました。この教会も移転することになり、練習会場も転々としました。青森市文化団体協議会が主体となって、いろんなジャンルの文化団体の設備等に関する様々な要望を、当時の奈良岡青森市長へ陳情しました。そして昭和54年、青森市民文化ホール開館を迎えたのです。こうして青森市民文化団体の長年の念願である、中・小の和洋練習場と本格的な音響照明等の設備を持つ、中規模のホール建設が実現したのでした。

 青森市民文化ホールが開館して3年後の昭和57年11月には、旧・野脇中学校跡地に、現在の青森市文化会館が開館しました。当時の最高の技術と最新の設備をとりいれた会館でした。落成記念式典では、工藤青森市長自らが羽織袴姿で、祝太鼓をホールに響かせました。


 (つづく)
 
(755) 青森市民文化ホールのこと その2 2009年 2月 8日(日)
 川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

【青森市民文化ホールのこと その2】


 青森市民文化ホールで開催した定期演奏会の中で、一番思い出深いのは、昭和60年9月・第26回定期演奏会「渡辺浦人のすべて ――交響楽で語るふるさとの心――」を、作曲者ご自身の指揮で演奏したことです。

 この年の初めだったと記憶していますが、当時、東奥日報社論説委員をされていた和田満郎氏から「渡辺浦人さんを招いて、ご本人の指揮で代表作品を取り上げてみたら」というお話を頂きました。

 昭和57年12月に、先生は青森県褒章を授与されました。和田さんは、県褒章の取材で何度か先生のご自宅を訪問された際、毎年定期演奏会と第九演奏会を開催している青森市民交響楽団のことを紹介すると、第九をやれるぐらいなら、俺の「野人」も弾けるよ、アンコールでやってくれないかな、というお話があったそうです。交響組曲「野人」は昭和16年に作曲され、同年の毎日コンクール首席入選、作曲部門初の文部大臣賞を受賞、日本を代表する作品として国際的にも高く評価されている作品です。

 渡辺浦人先生について、昨年、東奥日報紙夕刊に連載された「はやり歌 人もよう」シリーズでも紹介されました。先生は、明治42年青森市三内のお生まれ。生まれて間もなくに、青森師範学校を出て青森市内の小学校の先生をされていた父・竹四郎が東京へ移転。「私は東京っ子のつもりでした」と、先生は話されていました。父の勧めで教師の道を歩みますが、後に東京音楽学校(東京藝大)でバイオリンと作曲、指揮を学ばれました。

 昭和60年4月、秋の定期演奏会打ち合わせのため青森にお出になる先生ご家族を、楽壇の仲間と一緒に青森空港に出迎えました。ロビーに現れた先生の穏やかな笑顔に接し、初対面の緊張はほぐれ、9月本番に向けて一緒にがんばろうという先生の熱い思いとエネルギーが伝わってきました。


 (つづく)
 
(756) 青森市民文化ホールのこと その3 2009年 2月15日(日)
 川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

【青森市民文化ホールのこと その3】


 青森市民交響楽団にとって、演奏会ホールと練習室を併設した青森市民文化ホールの果たした役割は極めて大きいものがありました。大中小の練習室の他に、大練習室に付随する大型楽器収納庫の設置は、効率的な練習を可能にしてくれました。それまではテンパニーなどの大型楽器は団員自宅の縁側に預かってもらうなどして、その都度、赤帽運搬車で運んでいました。

 戦後の演奏活動再開当初から、青森市民交響楽団は金曜日を定期練習日と決めてきました。2006年は金曜日が52日ありました。練習休みの日は、年末・年始などの5日あり、年間の青森市民文化ホールでの定期練習は、47回を数えます。また、エキストラメンバーも参加する総合練習を定期演奏会と第九演奏会あわせて7回、日曜日等に公立青森大学などで行いました。これらとは別に、青森市文化スポーツ振興公社の支援を受けて専門家を招き、弦楽器パートの演奏レベルアップを図るための特別練習が4回ありました。青森市民文化ホールは、充実した練習を保障してくれる、ホームグラウンドともいえる存在だったのです。

 青森市民文化ホールでの定期演奏会開催は、昭和55年・第21回からで、平成元年に青森市文化会館で開催した東奥賞受賞記念第30回定期演奏会を除いて、第33回までの11年間に及びます。平成4年・第34回定期演奏会から、青森市文化会館が開催会場となり、翌年の第35回定期演奏会からは、青森市文化スポーツ振興公社主催事業の一環として青森市文化会館ホールで開催されるようになりました。
 
(757) 歴代常任指揮者のこと 2009年 2月22日(日)
 川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

 【歴代常任指揮者のこと】


 青森市民交響楽団はこれまで、4人の常任指揮者が指揮をされてきました。

 第48回定期演奏会で、ウェーバー「魔弾の射手」序曲・モーツァルト「交響曲第39番」・ベートーベン「交響曲第五番<運命>」を演奏しました。モーツァルトの「交響曲第39番」は1987年初代常任指揮者の藤井一志が、ウェーバーの「魔弾の射手」序曲は88年2代目常任指揮者の野坂徹夫が、ベートーベンの「交響曲第五番」は79年藤井指揮者・95年3代目常任指揮者の西尾聡治が、指揮されました。これらの曲を2007年は、4代目常任指揮者の野村正憲の指揮で再演しました。

 藤井氏は、第28回定期演奏会までの約40年間にわたって根気よく指導され、故山内団長とお二人で、今日の青森市民交響楽団の土台を確立しました。

 現在は画家として活躍されている2代目・野坂氏は、第24回定期演奏会から藤井氏とともに副常任指揮者として、第29回・第30回は常任指揮者として、新風を吹き込まれました。

 西尾氏は、平成2年・第31回から同12年・第41回までの10年間、演奏曲のレパートリーを増やし、青森市民の中に青森市民響の存在を定着させることにご苦労されました。

 野村氏は、平成13年・楽団創立70周年記念第42回定期演奏会から4代目常任指揮者に就任され、第42回では西尾氏をソリストに迎え、シュトラウス「ホルン協奏曲」を指揮されました。作曲家でもあり、作品のいくつかは、これまでに2度、全日本吹奏楽コンクール課題曲に取り上げられています。


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