青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2009年1月>

※「青森市民交響楽団のこと その1」は、「メンバーの声」のページにございます。
(752) 青森市民交響楽団のこと その2
(753) 青森市民交響楽団のこと その3
 
(752) 青森市民交響楽団のこと その2 2009年 1月18日(日)
 川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

【青森市民交響楽団のこと その2】

 生みの親・育ての親、という言葉があります。アマチュア奏者の私の場合、生みの親は中古のバイオリンを下さった音楽堂の創業者・丹代の小父さんであり、育ての親は三味線の師匠・前田露紅(杵屋新吉郎)先生です。先生は、青森純正和洋音楽社として教育のお仕事の傍ら、青都新生三絃楽団を主宰され、ご自身が作曲や編曲をされた曲を、指揮されていました。

 前田先生からは、キーキーという鋸の目立てのような音に始まって、どうにか楽音に近い音が出るようになり、野脇中学校在学時に、先生のお名前の一字を頂いて、晴紅という名前を頂きました。当時あった東宝映画劇場で、天才少女といわれた鰐淵晴子さんのバイオリンリサイタルを聴いたことがあります。メンデルスゾーンであったと思いますが、お父さんのピアノ伴奏でバイオリン協奏曲を演奏されていました。2階の一番後ろの席でしたが、バイオリンというのは、こんなにも素晴らしい音が出るものなのか。驚きにも似た鮮烈な印象を受けたことを記憶しています。

 青森高校入学の際には、先生が若い頃にお使いになっていた英和辞書と和英辞書をいただきました。「晴ちゃんも、この辞書で勉強して、音楽大学へ進めればいいね」と話された先生の笑顔を、いまでも思い出します。大人のお弟子さんが多かったこともあり、先生には中学生の頃から「晴ちゃん」と呼んで頂き、可愛がっていただきました。

 青森純正和洋音楽社では、入門を認められると、初等科・中等科と進み、一番の上級が研究科でした。高校在学中に、研究科の課程を終えることができました。小学校高学年から高校までにバイオリン奏法の基本を勉強したことの大切さを、思い知らされています。

 青都新生三絃楽団は、年に一、二度、前田先生の指揮で演奏や日本舞踊の伴奏をしたように記憶しています。三味線、バイオリン、それに琴も加えての演奏でした。

 私の手元に、古びて変色した当時の演奏で使用した手書きの楽譜が残されています。前田先生が編曲された「梅にも春」「春雨」「老松」「勧進帳」「松の緑」「秋のいろ種」や「さくらさくら」「六段の調べ」「荒城の月」、そして先生が作曲された童謡「おばこ雀」「雀の子」、端唄「春雨」や「佐保姫」「夫婦花」を演奏しています。「佐保姫」には(俳句楽調)と、「夫婦花」には(新民謡)と副題が付いています。先生の情熱や志が偲ばれてなりません。


 (つづく)

※「青森市民交響楽団のこと その1」は、「メンバーの声」のページにございます。ご参照くださいませ。
 
(753) 青森市民交響楽団のこと その3 2009年 1月25日(日)
 川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

【青森市民交響楽団のこと その3】

 ラジオ放送でバイオリンを演奏したことがありました。昭和23年の野脇中学校の1年生の時だったと記憶しています。音楽科の土田先生が、クリスマスの子供向け番組をNHK青森放送局から依頼された時のことです。当時、NHK青森放送局は堤川の辺にあり、スタジオも一部屋だけで狭かったのを覚えています。私のバイオリンと先生のピアノ、そして音楽部の生徒1、2名のメンバーだったでしょう。初めての経験で緊張した私が、違って一音飛び出してしまったのです。その時の口惜しさや恥ずかしさは今でも思い出します。家へ帰りつくや否や、頭から布団を被って泣いてしまいました。放送当日、固唾を飲んでラジオの前に硬くなっていました。ミスは編集段階で修正されていました。

 最初の公開の場での演奏は、昭和24年11月、野脇中学校の文化祭の時でした。堤町にあった国際映画劇場のステージで、音楽科の相馬先生のピアノ伴奏で独奏しました。

 青森高校でも何かの行事の際に、体育館で独奏しました。昭和27年・高校2年生の時です。「赤鼻」の渾名で親しまれていた戸崎先生に、背中を押されての演奏でした。終わって帰り仕度をしていると「今、バイオリンを弾いたのは誰だ!!!」と、小柄な顎鬚を生やした紳士が威勢良く、音楽教室に入ってこられました。一瞬、下手糞なので怒鳴られたと思って、ビックリしました。この顎鬚の紳士が、高校同窓会の役員をされていた山内行雄団長でした。

 その頃、山内団長のご自宅は北片岡の国鉄東北線沿いにあり、長島の私の家からは歩いて5分くらいでした。ある夜、ご自宅へ伺いました。藤井一志常任指揮者(現・名誉指揮者)を紹介されたのもこの日のことでした。

 昭和25年に、山内団長と藤井指揮者を中心に青森管弦楽団が結成され、戦後の演奏活動を再開していました。お二人から、いろいろお話を伺い、入団しました。

 私が入団して2年後の昭和29年には、青森市民合奏団と改名します。「市民」の二文字を入れたことに、将来なんとしても、青森市民に支持される本格的なアマチュア交響楽団を目指したいという、山内団長や藤井指揮者の強い思いがありました。そしてこの強い思いは、新前団員の私の心にも、大きく膨らんで行くことになるのです。


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