青森県音楽資料保存協会

メンバーの声

 当協会関係者執筆によるエッセイコーナーです。執筆者入替で随時更新予定です。記載内容は当協会の活動とは関係なく、自由に書いて頂いております。
 
No.009 2008/5/18(日)
川越晴美(元青森市民交響楽団団長)

【青森市民交響楽団のこと その1】

 2007年4月、青森市の新町にある音楽堂の閉店が新聞等で報じられました。昭和21年4月、旧線路沿通り角(長島)に開業しました。先日、ある音楽関係者の会合で、弘前市で指導的な活動をされている作曲家の先輩と、このことが話題となりました。昭和一桁生まれの先輩は「若い頃、旧線路通りにあった店(音楽堂)によく通ったものです。丹代社長とも熱っぽい話をしたのを、今でも覚えています」と語っていました。

 昭和20年の青森大空襲の翌年に、「音楽堂」というそのものずばりの店名での開業は、それまでの軍歌だけの暗雲が飛び去って、青空を見たような解放感を与えてくれたといえましょう。ピアノの練習用に鍵盤の印刷物が売られていた時代でもありました。

 今日、先輩の後を受け継いで、演奏活動に参加している私の場合も、長島に開業した音楽堂の存在なしには語れません。長島に住んでいる私の家と小路を挟んだ向かいに、音楽堂があり、亡父と創業者(故人)丹代の小父さんとは酒飲み仲間でした。そんな夏のある夜のこと。「飲兵衛のオヤジよ。中古のバイオリンがあるから誰かに習わせたら」という話になり、昭和10年生まれの長男の私にお鉢が廻ってきたのでした。

 何日かして、丹代の小父さんが長島小学校から帰宅した私にバイオリンケースを背負わせ、自転車の荷台に乗せてバイオリンの師匠宅へ連れて行きました。野脇小学校(現在・旧青森市文化会館)の近くに青森純正和洋音楽社があり、三味線の名取でもある前田露紅先生が主宰されていました。前田先生は、当時40代だったでしょうか。本業は三味線ですが、戦前にバイオリンも専攻されたようで、若い芸子さんたちに三味線を教えるかたわらバイオリンも教えていました。バイオリンの生徒だけでも20人はいたように記憶しています。私のような子どもは何人もいませんでした。今日とは違い、そのためにバイオリンを購入して習わせるという時代ではありませんでしたから。私の場合は、丹代の小父さんから中古のバイオリンをいただいたお陰です。

 高校卒まで、週3日の稽古日には、欠かさず通いました。


※【青森市民交響楽団のこと その2】はこちら

No.008 2004/8/31(火)
小倉尚継(作曲家・合唱指揮者)

【北彰介さんご逝去】

ブルービーバーズ(男声四重唱団)の最初から、
作詞でお世話になっていた北彰介さんが、
平成15年10月末日に亡くなられました。
これまでのご厚意、ご協力及びご指導に深く感謝申し上げ、
心からご冥福をお祈りいたします。

ご存じの方も多いと思いますが、
北さんは青森県文化賞をいただいておられます。
それは児童文学における功績が認められたからだと思いますが、
私たちブルービーバーズの作品もたくさんございます。
なにしろ、ビーバーズがどう進んだらよいか、
いろいろご相談に乗っていただいた頃もあったわけですから
作詞の数も多くなったのです。
北作品によってビーバーズが支えられたといってもよいほどです。

北彰介作詞の最大のヒット曲は「雷様の話」「キンキラキンのキン」です。
北先生は楽しい方で、こんなユーモアのある面白い話が大好きな方です。
面白くてスリルがありますので、東京で演奏しても大受けでした。
また、「津軽の糸」は大作ですが、これも感動的な内容です。
そのほか、「地獄から帰ってきた男達の話」「小僧っこまだだが」など、
どんなにたくさんの人々を笑わせたことでしょう。
平成16年6月6日、青森アカデミー混声、ドクターズ・レディースの
ジョイントコンサートで北先生の追悼ステージを設定、
先生の作品の一部を演奏させていただきました。

北さんの仕事ぶりは猛烈なもので、
殴るように書かれた原稿を拝見するとその勢いがわかります。
まるで、版画を彫る志功さんのようです。
平成12年の青森県民文化祭におけるオペラ
「うとう物語」(北彰介作詞・木村一三作曲)が
無事上演されたのも、北さんの並々ならぬ意気込みがあったからです。
あの時も様々な障害があり、途中で消えてしまうのではないかと心配しましたが、
執念にも似た意志の力で、とうとうやり遂げてくださいました。
青森県にとって大事な文化的実績でした。
北さんの作品によって子ども達は夢を抱き、大人達は大いに笑い、泣き、
生活に希望と潤いをもって生きていくことでしょう。

長い間本当にありがとうございました。

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【ブルービーバーズの素顔】

(1)誕生

昭和33年頃、弘前大学教育学部音楽科が、演奏会を開いたり演奏旅行をする際は、
そのプログラムに男声四重唱の1ステージを設定していた。
その構成員は学年の近い4人、小倉尚継・野呂馨・野倉盛夫・奈良武則で、
伴奏は西谷安正が務めていた。
この近くの学年の人たちが卒業しても、なお演奏会を続けようと
「耕音会」という団体を作り、何度か総合演奏会をおこなった。
そのプログラムの中にも、やはり上記の男声四重唱のステージが設定されていた。
その耕音会の中から男声四重唱の演奏だけを取り出して、
単独の音楽会を開こうと、三沢高校勤務の野倉盛夫、
青森西高校勤務の小倉尚継が中心になり、準備を進めた。

野呂馨は五所川原高校、奈良武則は下北から田舎館中学校に転勤していた。
伴奏の西谷安正も下北から青森明の星高校に勤務していた。
時機到来、昭和39年に正式結成。
声を合わせるには、割りに近いところにいるので、曲目を決め、
練習を続け、ゴールデンウィークに仕上げをし、
昭和40年5月8日、耕音会男声四重唱団として第1回リサイタルが行われたのである。
これがブルービーバーズの誕生ということになる。


(2)命名

耕音会男声四重唱団が発足した当時、中央では
ダークダックス、ボニージャックス、デュークエイセスなどの
男声四重唱団が華やかに活動していた。
わが耕音会男声四重唱団が3回目のリサイタルを迎えるにあたり、
上記のような固有の名前がほしくなっていた。
練習の合間に5人で知恵をふりしぼり、新しい名称を考えようとしたが、
なかなかいい名前が思いつかない。
青森の青だから「ブルー」がいい。
5人の頭ではそこまでで、あとは全然思いつかない。
ここで、過去に萩野昭三先生を中心に歌った団体を思い浮かべてみた。
その名前がブルービーバーズだったのである。
構成員は萩野先生・小倉尚継・山口道廣・県病の黒滝先生・市役所の池辺さんなどであった。
「ブルー」は青森の「青」だけでなく、「若さの青」も表す。
ビーバーズとは「やんちゃ者」とか物を貯めるということを表すからいいね。
これをいただこうか、ということになり、
結局、あまり苦しまず、「ブルービーバーズ」と決定したのである。
ちなみに頭文字をとるとBBになり、
当時、世界的女優だったブリジット・バルドーのイニシャルと一致すると喜んだ人もいた。


(3)レパートリー

はじめは中央の既製の曲を取り上げていた。しかし、いくら歌っても何かが足りない。
もちろん、技術的に劣っていることもあるが、時間をかけた分、充実感が出てこないのである。
そういえば、第1回の「なんげえむがしこ(雷様の話)」や
第2回目の「キンキラキンのキン」が異様に受けたところをみると、
お客さんの欲求はオリジナル作品にあるのではないか。
私達にしても、ダークダックスやボニージャックスの真似事ではなく、
津軽に住む者でなければ出来ないものを歌いたいものだ。
そうだ、津軽のオリジナル作品だ。青森から中央に文化を発信するのだ。
こうして、北作詞・小倉作曲のコンビでたくさんの津軽の歌ができはじめるのである。
後に北先生が児童文学研究会の会長ととして多忙になり、
小倉の作詞作曲の作品が数多くできあがった。


【オリジナル作品名(完成順)】

◆北彰介作詞・小倉尚継作曲によるもの
・雷様の話
・しがまの嫁こ
・くまん蜂の話
・キンキラキンのキン
・あすなろ
・うばすて森林鉄道
・小僧っこまだだが
・世界一の話
・まりつき唄
・たんぽぽひとつ
・てんぽだ名前こ
・嘉瀬の奴踊り由来
・とりこあめ
・ほらくらべ
・白い小さなレクイエム
・寒い二つの話
・グスのバラード
・なんじょ歌
・津軽の糸(全6曲)

◆小倉尚継 作詞作曲によるもの
・いだこに託す大鰐の悲話
・りんご物語(全8曲)
・砂子瀬風土記(全10曲)
・むつ湾に生きる(全10曲)
・志功ひとすじ道(全10曲)
・弘前城物語(全12曲)
・今昔青森十六景(全16曲)
・津軽沖縄千里を越えて(全15曲)


(4)メンバー紹介

昭和41年第2回プログラムには次のように記載されていた。

〔トップテナー・・・小倉尚継〕
昭和35年弘大卒。青森オペラ研究会の「うとう物語」「桶山伏」などのオペラに出演し、
萩野昭三氏らと男声四重唱団を歌っていた。現四重唱団の道化役と編曲を引き受けている。
青森西高校に勤務。

〔リードテナー・・・野呂馨〕
昭和34年弘大卒。シューベルトとシューマンの歌曲が得意で、
二児の父になってからますます味が出てきた。
メンバーの中で最も練習熱心で、五所川原は青森の隣町みたいなものだと言っている。
五所川原高校勤務。

〔バリトン・・・山口道廣〕
昭和34年武蔵野音大卒。学生時代から深みのある美声には定評があった。
ある人曰く「シューベルトは彼のために『冬の旅』を作ったようなものだ」。
身だしなみがよく、よごれたハンカチなど持ったことがない。
筒井中学校に勤務。

〔バス・・・奈良武則〕
昭和34年弘大卒。結婚二年目を迎え、ようやく落ち着いた感じ。
自称「記憶力の塊」で、一度練習した曲はほとんど忘れないという。
年とともにその低音に、渋味が加わってきた。
田舎館中学校勤務。

〔ピアノ・・・西谷安正〕
昭和34年弘大卒。細い体に似合わない強い意志と努力は相当なもの。
ショパンやリストの曲を得意としているが、男声四重唱団の伴奏も引き受け、
たいへん仕事熱心な人である。
青森明の星高校勤務。


※第1回リサイタルだけは、今は亡き野倉盛夫氏がバリトンを歌っていた。
 その時のプログラムから彼を紹介しておく。

〔バリトン・・・野倉盛夫〕
昭和36年弘大卒。チェロを持たせると、相当高度な即興演奏をすることができ、
作品も十数曲を数え、三沢のベートーベンと呼ぶ人もある。
三沢高校勤務。



(5)マネージャー熊坂昭三という人

〔熊坂昭三・・・マネージャー〕
仙台市出身で青森県立図書館から郷土館に転勤、
第3回リサイタルからマネージメントの一切を処理。
ブルービーバーズの心臓部分を担当して下さった。
人柄がよく、若い女性に慕われるタイプで、反省会などの外交は、
最も得意とするところであった。


ブルービーバーズが演奏を続けられたのは
熊坂昭三さんというマネージャーがいてくれたからです。
マネージャーの仕事は、広告集め、プログラム編集、印刷屋との交渉、
入場券の頒布と回収、収支決算の計算、資料集め、打ち上げの手配等々、
たくさんあります。
熊坂さんが手伝ってくださる前は自分たちでやっていたのですから、
練習や演奏に支障があったのはいうまでもありません。
熊さんのおかげでどんなに助かったか、想像に難くないでしょう。
さて、熊さんは仙台市出身で、昭和3年生まれです。
したがって私たちグループより、7歳年上です。
にもかかわらず、威張ることなく、一生懸命やってくださいました。
そんなに働いてくださっても、私はせっぱつまってくると、
いろいろ文句をつけます。
それでも熊さんは「わかった。わかった。明日またやるから」と言って、
二次会まで一緒に酒を飲むのです。
熊さんの勤務は古い県立図書館で、後に県立郷土館に転勤になりました。
私たちが図書館音楽会に出ている頃に知り合いになったのです。
ある日、青森市内の新町でばったり出会って
「ちょっと一杯行きましょうか」というのが、おつきあいの最初でした。
ビーバーズの練習には毎回つきあって、2時間も3時間も黙って聴いています。
終わればもちろん、赤提灯をくぐります。
広告取りがうまくいったからとまた飲みます。
新曲ができたと言えば、また飲むのです。不思議なことに熊さんは二日酔いをしません。
私が次の日、ゲーゲーやっても、熊さんは今日もまた飲もうというのです。
私達はよく言いました。「熊さんの胃と肝臓にはビニールでも張っているのかな」と。

しかし、そんな熊さんでも血圧が高かったのです。
定年一年前の冬のこと、自宅の玄関前の雪を片づけてからお風呂に入ったという。
その温度差が災いして、いわゆる脳内出血をおこしたのです。
病院に運ばれ、頭を手術しましたが、意識がはっきり戻りません。
私たちが行っても、わかっているのかいないのか。それがはっきりしないのです。
回復を祈っていましたが、半年か、もう少し入院して、とうとう亡くなってしまいました。
私は葬儀で弔詞を読みました。
こんなに早く亡くなって、なんてことだ!と、半分怒って読みました。
だから、絶対泣くことはないと思っていたのです。
でもちょっと、一緒に旅行した日の事に触れたら、
のどがガツンとつまってしまったのです。
怒っていて、絶対に泣くはずがないというのに、
涙が出てしまい、声が出ないのです。
定年になったら、雪のない仙台で暮らしたいと言っていた。あの姿が思い出されて、
ますます、のどがつまります。
弔詞を読み終わるのにずいぶん時間がかかってしまいました。
楽しいことをたくさん提供してくださった先輩の熊さん、
たくさんのお仕事どうもありがとうございました。



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【八甲田除雪隊の歌】

百戦錬磨のつわものどもが 熱と意気と誇り持ち
十和田の春を呼び起こす ああ八甲田除雪隊 ああ八甲田除雪隊

平成5年11月、青森市萱野茶屋手前の岩木山展望所に、八甲田除雪隊の石碑が建立されました。
その石に刻まれているのが、上の詩で「八甲田除雪隊の歌」の最後の歌詞です。
この歌は昭和41年、青森県土木部が制定したもので、
作詞は土木部五所川原土木事務所勤務の竹内博さん、
作曲は一般応募してとりあげられた鶴谷みつさんでした。
その頃、土木部で八甲田除雪隊の活躍を描いた「春雪に挑む」という映画を作りました。
映画の中で雪を吹き上げる大型除雪車の轟音の中から、この歌が無伴奏で流れ出し、
しばらく歌を聴かせてから、また、機械音につながっていくという、
なかなか味のある映画でした。
その歌を録音したのが、ブルービーバーズだったのです。
部分四重唱で、編曲は私が担当しました。
その関係で、現在、その石碑に私の名前も刻まれているというわけです。
映画は大変好評で、あちこちに借りられ、ついには行方不明になってしまったそうです。
あの石碑の前に立つと、青森東高校の生徒達が歌っている除雪隊の歌が、
センサーで演奏されるようになっています。
その年、NHK合唱コンクールで県下一だった青森東高校が録音を依頼されたということです。
街に春の気配が感じられる頃、酸ヶ湯温泉では除雪隊激励会がおこなわれます。
私も出席しましたが、それはそれは感激的な熱い熱い男達の宴会でした。
最後は全員が肩を組んで、涙を流してこの歌の大斉唱になるのです。
なにしろ命がけの作業をしている仲間達ですから、
無事を喜び合う気持ちと使命感が、涙になるのだと思いました。

※(事務局注)その後の調査で無事、映画フィルム「春雪に挑む」は発見されました。


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【AN女声合唱団】


ANとは青森西高校(昭和37年開校)の頭文字をとっています。
つまり、AN女声合唱団は、青森西高校合唱部の卒業生による女声合唱団という意味です。
在学時代、あんなに熱心に練習したのですから、卒業してからも、
その「声」を生かそうというので、みんなで集まって作りました。

指揮者の自分が言うのも変ですが、声がとてもきれいで、
合唱コンクール東北大会では、あの有名な福島県のF.M.C混声合唱団と共に
金賞になったこともありました。

合唱団の始まりは昭和40年すぎてからで、終わったのが昭和56年だと思います。
なにしろ若い乙女たちでしたので、結婚で退団する人が続きます。
しかも、私が青森西高校から転勤ということで、
新しいメンバーの見込みがなくなってしまったというのが実情でした。

AN女声合唱団は、青森西高校の3階音楽室で練習することがしばしばありました。
体育館からその灯りが見えるわけですが、バレー部の人たちは
「あの音楽室の灯りを見ろ。合唱部はまだ練習しているではないか。
 わがバレー部も負けて負けてはいられない。さあ、もうひとがんばりしよう」
と、練習を続けたそうです。
AN女声合唱団の練習を、現役の合唱団の練習だと勘違いしていたそうなのですが、
この結果、西高のバレー部は県下一の成績を続けることができたということです。

ブルービーバーズのリサイタルへの賛助出演など、AN女声合唱団にはたいへんお世話になっています。

みなさん、どうもありがとう!


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【ブルービーバーズ解散のこと】

ブルービーバーズのリサイタルは16回で終了。
その理由は3点あります。

@新作品創作の壁
津軽の風物、人物、自然、街などを歌ってきて、次は何?と考えると、
はたと止まってしまった。
誰かすぐれた人物を歌おうと思っても、高橋竹山師や棟方志功氏の二番煎じになってしまう。
風景にしても、社会事象にしても、産業にしても、すでに歌い済みで、
何を選んでも新鮮味を出すことが、不可能に見えた。
作者を変えたらできたかもしれないが、
その当時はそれも考えつかなかったことであった。

Aそろそろ管理職
メンバーがそろそろ教頭先生や校長先生になって、他管内に栄転になった。
遠い地域にメンバーが散ってしまったことにより、練習ができなくなった。
これまでの一回のリサイタルのための練習量は膨大なものであり、
その確保が困難になった。

B記憶力・音程保持力の減退
合唱と違って、1人1パートにつき、歌詞や音の間違いは許されない。
全員が定年退職した頃は脳は正確に記憶力減退への道を歩んでいた。
しかも、音がきれいさを失いかけ、音程が定まらなくなってきた。


こうして、どんなことにも始まりと終わりがある。
その終わりが自分達にもきたと感じた。
昭和39年頃から、約20年間、私たちは男声四重唱団ブルービーバーズとして
一生懸命創り、歌い、演技して参りました。
それは膨大な時間を要しましたが、楽しくて潤いがあり、
できるならば、もう一度同じ道を歩みたい気持ちでいっぱいです。
しかし、人生はやり直しができません。

後のことは、これからの人たちに託します。
どうぞすばらしい音楽の道を歩んでください。

長い間のご援助、ご協力、誠にありがとうございました。


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No.007 2004/3/30(火)
古川昭男(作曲家)

◆宝物 (阿保健先生との思い出)◆

いつの頃からか、現代音楽に興味を覚えるようになった。
きっかけは県作曲家協会会長の阿保健先生との出会いである。
弘前に行くと、必ず蔵主町の先生の家に寄った。
自室の壁には、いつも、大きな紙に書かれた自作の
「図形楽譜」が掲げられていた。
作曲のイメージを訊くと
「宇宙観だよ。宇宙観。」と笑って答えられた姿が、
今でも頭の中に残っている。
ある時、
「現代音楽のことを勉強したいのですが・・・」と言ったら、
古びた一冊の本を渡してくれた。外国版のピアノ曲のシリーズである。
表紙に、シェーンベルク、ベルグ、ウェーベルン、ヒンデミットの
4人の作曲家の名前があった。
その阿保先生も、数年前亡くなられた。
今では、その本が、私の大事な宝物になっている。

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◆全集物◆

私の書棚の中に、全120巻の「世界大音楽全集」が眠っている。
眠っているというのは、
数冊を除いて、殆んど見ていないということだ。
文学全集、美術全集、世界歴史大事典等も然り・・・・。
往々にして、「全集物」というのは、
ただ飾っておくために置かれてあるらしい。
美術全集の中に、「美術の中の裸婦」というのが12巻ある。
これは、ページをただぺらぺらめくるだけなので、殆んど見た。
その後も、折にふれて見ていたのだが、
子どもができてから、いつの間にか、ダンボール入りになってしまった。
青森県音楽資料保存協会に寄せられる作品などは、
そういう運命をたどらず、なるべく多くの閲覧者の目に触れて欲しいものだ。

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◆レクイエム◆

20代の頃、
混声合唱団の「グリーン・コール」の指揮者 鹿内芳正氏と出会い、
それ以来、私は、混声合唱曲を数多く書くようになった。
何ということはない。作品の発表の場が、すぐそこにあったからである。
これまで発表した混声合唱組曲の中に「レクイエム」が4曲程ある。
その4曲目が、はからずも一昨年亡くなった、かけがえのない友人、
鹿内先生への「レクイエム」になってしまった。
その時、もう「レクイエム」は書きたくないと思いながら、
最後には、モーツァルトさながらの自分のレクイエムで収めようかと
心静かに考えているこの頃である。

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◆フルーティスト石田光男氏のこと◆

私にはフルートの曲が多い。
それは竹馬の友であったフルート奏者の石田光男氏と
大いに関係している。
作品の殆んどは現代音楽だが、
フルート曲を作る時は、よく彼と飲み歩いたものだ。
酒席だけではなく、魚釣り、山菜取りの日常的な交流も
作曲上のかくれた「肥やし」になっている。
その彼も、数年前他界した。
それ以来、フルートの曲は、一曲も書いていない。
作品の中で
一番印象に残っている「SAMANA」(恐山の幽玄の世界を表現した曲)を、
彼は今でも天上の片隅で、ひそかに吹いていることだろう。
No.006 2003/11/11(火)
渡辺浦人さんのこと

川越 晴美(青森市民交響楽団 団長)

青森市三内で誕生された渡辺浦人さんは、
1994年に85歳の生涯を終えられました。

日本を代表する作曲家のお一人で、なかでも
交響組曲「野人」は渡辺先生の代表作として有名で、
NHK交響楽団の海外演奏会では度々演奏されました。

1985年の青森市民交響楽団第26回定期演奏会に
客員指揮者として渡辺先生をお招きして、
「野人」他四曲を演奏しました。
全国に二百近いアマチュアオーケストラがありますが、
日本の現代作曲家の作品を網羅した演奏会は
稀有と言って過言ではありません。

青森県音楽資料保存協会が、
郷土の先人・先達の作品等の資料保存を目指して
結成されたことは、
私たち青森県のアマチュア音楽団体にとっても
有意義なことだと認識しています。
No.005 2003/11/ 6(木)
大嶋和久(混声合唱団グリーン・コール指揮者)


私のおすすめシリーズ2 民族音楽にいのちを吹き込むライ・クーダー

クラシック音楽の分野で民族音楽に新たな生命を付与したのが、
バルトークやコダーイ達だったのに対し、
ポピュラー音楽の分野で同様な活動を続けているのが
ライ・クーダー( Ry Cooder)です。

1970年に初アルバムを出して以来、
ブルース、ゴスペル、ラグタイム、ブルーグラス、フォーク、カントリー、
R&B、メキシカン、ハワイアン、果ては沖縄音楽まで消化して
自分のスタイルにし、音楽活動を展開してきました。

近年は、キューバ音楽に着目し、
社会の変化の中で埋もれていた名歌手、名演奏家を掘り起こして組織し、
カーネギーホールでの公演(さらには日本でも公演)で
大当たりをとりました。
(プロデュースという仕事もなかなか創造的なものですね。)

その記録映画(監督ヴィム・ヴェンダース)も大ヒットしましたが、
これを収録したDVDとCDをご紹介します。
ジャンルを問わず音楽好きを自認する方なら
「好きにならずにいられない」って代物。
体の中から熱くなること請け合いです。
ほろ酔いで鑑賞すれば至福の時を体験できるでしょう。

DVD:ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ 
(特典映像付き、計105分)
CD:同上・国内盤
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=472841
CD:同上・輸入盤
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=464229

残念ながら故人となったCompay  Segundo、Ibrahim  Ferrer、
歌姫Omara Portuondoら、映画に登場した歌手達の演奏を
もっとお聞きになりたい方は、
http://www.hmv.co.jp/index.asp?category=1&genre=400
で検索してみてください。(輸入盤の方が種類が多い。安い)


さて、肝心のライ・クーダーのアルバムですが、
http://www.hmv.co.jp/search/artist.asp?artistcode=000000000001849
で検索できます。
たくさんありますが、
ここではそのうち次の2点をおすすめしてみます。

@チキン・スキン・ミュージック(Chicken Skin Music)
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=188536

Aジャズ(Jazz)
http://www.hmv.co.jp/product/detail.asp?sku=188544

ライ・クーダーの演奏は、いずれも、
音楽することは楽しい!という気分に満たされており、
聴く者をご機嫌にさせてくれます。
是非多くの方に味わっていただきたいものです。

次回は、
「舞台芸術図書館」を取り上げている図書のご紹介をいたします。
No.004 2003/10/29(水)
川越 晴美(青森市民交響楽団 団長)


木村 繁先生のこと
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作曲家・木村繁先生は1908年弘前市のお生まれ。
1985年に他界されました。
1958年に音楽之友社から合唱組曲「津軽の旋律」を出版。

40年以上も昔のことになるが、私が20代の頃、
三度ほど青森県内での取材にお供する機会がありました。
目的地までの往き帰りにいろんなお話を伺えるのが
若い私にはなによりの楽しみでした。
弘前からのバスが、浪岡に差し掛かった時、
「浪岡という地名は、滑らかな岡が連なっていることから、
『なめおか』と言ったのを当て字で、浪岡にしたんだ。
漢字の意味からではなく、発音から考えることが大切だ」
と話されたことが印象にのこっています。

先生の著作「流れのままに(わが作曲の回想)」の中で、
1951年に青森高校の校歌「無限の象徴」を
作曲されたことを回想した一文があります。

「たしか、校歌が制定された年(1952年)のこと、
ちょうど近衛秀麿先生が 東宝管弦楽団と來県されることになったのである。
そこで、この機会に校歌を混声合唱にして、オーケストラの伴奏で
生徒に歌わせたらと、学校当局に話を持ち込んだら大変乗り気であった。
(中略)校内の発表だけでなく、正式な公演の場でも
プログラムの中に入れて貰えたら、という希望も起こり、
そのために私が近衛先生のところにお願いのため上京することになった。」

当時中学生の私は、長島小学校講堂でこの演奏を聴き、
テンパニーの連打で始まる「無限の象徴」に感動した演奏会は、
私が生まれて初めて聴くオーケストラの演奏でもありました。

私の母校でもある青森高校の校歌「無限の象徴」の木村先生のオーケストラ楽譜があれば、
是非、私たちの青森市民交響楽団で演奏したいと思う。

青森県音楽資料保存協会がその橋渡しになってくれるかも知れない。
No.003 2003/10/21(火)
大嶋 和久(混声合唱団グリーン・コール指揮者)

私のおすすめシリーズ1−民謡研究家としてのバルトーク−

 青森県は、民謡など民俗音楽の宝庫として知られており、その保存活動とともに、これらを素材として、現代における新たな生命を吹き込むような創造活動が重要と思われます。
 後者の活動に早くから取り組んだのが、青森県ゆかりの作曲家間宮芳生(みちお)氏(現在、静岡音楽館芸術監督)であり、「合唱のためのコンポジション」などの作品がよく知られています。
 国際的には、ハンガリー民謡の調査・研究に取り組んだコダーイとバルトークが著名ですが、コダーイが民謡を素材として多くの合唱曲を作曲し、愛唱されているのに対し、バルトークの場合はより抽象的な道を選んだ現代音楽家的なイメージが強いように思われます。
 今回おすすめの1冊は、「バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家」伊東信宏著、中公新書 660円 ISBNコード 4-12-101370-0 です。
 この本は、バルトークの民謡研究は作曲のための素材探し的なものではなく、長期にわたる調査と綿密な検討を伴う極めて本格的なものであったことを明らかにしています。
 数年前、内容の濃さにうなった覚えがありますが、今回改めて全国書店ネットワークe-hon(http://www.e-hon.ne.jp/)で検索してみたら、出版年の吉田秀和賞を受賞していました。関心のある方はご一読を。
 今後も、図書、CD,DVDなどをご紹介して参ります。次回は、ワールド・ワイドな音楽仕掛人ともいえるライ・クーダー関連の予定です。
No.002 2003/10/14(火)
戸塚範子(青森県立青森商業高校教諭)


「一生のうちに一度でいい、自分のリサイタルを開いてみたい」と、
夢みごこちに始めた『歌の中の私、私の中の歌』も今年で7回目になり、
12月12日に向けて練習しているところです。
その間、四半世紀近くもレッスンしていただいた上浪明子先生からは、
歌うことの楽しさと厳しさを教えていただきました。
76歳まで歌い、力あふれる指導をされていた先生のように、
せめて私も70歳までは歌いたいと思っている今日この頃です。
No.001 2003/10/ 7(火)
小倉尚継(青森明の星短期大学音楽科教授)


男声四重唱団ブルービーバーズを結成して
第1回リサイタルを行ったのが昭和40年、
最後の16回リサイタルは昭和56年でした。
その間、演奏会で取り上げた曲は、津軽に材をとった創作物でした。
今、それらを整理してみますと、
その数の膨大さと中身の多様さに驚きます。
賛助して下さった津軽弁の牧良介さん、三味線の高橋竹山さんは、
すでに亡くなられました。
しかし、その名演は整理中のCDに鮮やかに息づいています。
ビーバーズも演奏活動を終了しましたので、再び聴くことは出来ません。
ただ一つ、これらの作品は青森県音楽資料保存協会の中で、
永遠に生き続けることになります。ありがたいことです。


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