青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2013年4月>

(919) 青森市20世紀合唱史 その7
(920) 青森市20世紀合唱史 その8
(921) 青森市20世紀合唱史 その9
 
(919) 青森市20世紀合唱史 その7 2013年 4月 4日(木)
【百年のあゆみ その6】

 1940年代 その3


 1948年(昭和23年)5月22日、青森放送児童合唱団(1946年発足)、青森放送劇団(1948年3月25日発足)、青森放送子ども会(1946年発足)、青森放送室内楽団(1949年頃発足、それ以前は青響室内楽団)とともに青森放送合唱団もNHK青森放送局の正式な専属団体となる。団員は25名〜30名で毎週2回スタジオにて放送の合間を縫って練習。この年から本格的活動が始まる。毎週夕方の15分番組「県民の時間」、夜30分の「郷土の時間」、昼の「食後の音楽」等に出演。昭和26年までは、全て生放送であった。


 1948年(昭和23年)、戦時中禁止されていた「ねぶた」が「青森港まつり」として復活。郷土出身作曲家の上原げんと氏の作曲で「ねぶた音頭」「青森みなと小唄」「青森みなと音頭」ができ、青森放送合唱団が放送で紹介し祭りを盛り上げる役目をしたが、これら一連の企画がきっかけとなり「明るい歌」がスタート。今で言う「みんなのうた」である。東奥日報が歌詞を募集し、NHK青森放送局が県内在住の専門家に作曲を依頼し、青森放送合唱団と青森放送児童合唱団が番組で紹介していくものであった。

 昭和26年頃になると、歌詞を東奥日報紙上に発表し、一般から作曲を募集するという試みも始められた。作曲はメロディーだけのため編曲が必要となり、当時団員であった畠中秀晃氏は編曲や歌唱指導もしたという。「明るい歌」は1955年(昭和30年)3月まで放送されている。



(つづく)
 
(920) 青森市20世紀合唱史 その8 2013年 4月14日(日)
【百年のあゆみ その7】

 1940〜50年代


 1957年(昭和32年)東京から帰青した間宮昭佳氏が青森放送合唱団の指揮者に就任。同年11月5日開催の図書館音楽会では、鎌田弘氏指揮・宮本昭七氏のピアノ伴奏で女声合唱・男声合唱・混声合唱の三ステージをこなしている。


 1959年(昭和34年)頃からは、NHKからの助成が無くなり解散することとなったが、有志が残り合唱活動を続けた。その後も出演番組本数は減ったものの毎月定期的に放送番組には出演しており、後の青森市合唱連盟設立の中心団体となる。


 1962年(昭和37年)頃、NHK放送の中央集権化に伴い解散。戦前からの結成以来、混声合唱団として活動してきたが、晩年の2年間は女声合唱団であったと間宮氏は述べている。


 年代は戻るが、1946年(昭和21年)土田正雄氏の指揮で、青森放送児童合唱団が設立。浪打小学校の児童を中心に青森市内から募集しオーディションで20名程を選出、週2回スタジオにて練習していた。
 「終戦で世の中が民主主義の時代に変わり、人々は開放感とともに今まで抑圧されてきた反動もあって、文化や音楽を求める気持ちが非常に強かったと思う」と土田氏は後に述べている。
 また、当時は焼け残った浪打小学校に、市内の殆どの児童が通い三部授業が行われていた。音楽専門の教師として同小に赴任した土田氏が「青森市内で音楽会をやってくれないか」と持ちかけられ、弘前・八戸・下北から先生や児童を集め音楽会を開催した。この模様はNHKラジオで放送され、これからNHKとの付き合いが始まったと土田氏は述べている。その後、仙台放送局の企画で合唱コンクールが開催され、青森県代表として土田氏は何年か出場している。


 1952年(昭和27年)からは、月一回のローカル番組「子どもの時間」が月三回となり、青森放送子ども会や青森放送劇団そして青森放送合唱団とともにオペレッタ風ドラマを月一回ペースで放送していた。脚本は佐藤米次郎氏をはじめ県内の童話作家に依頼、音楽は土田氏が作曲。それに「明るい歌」の作品を組み入れた音楽ドラマ仕立てであった。


 1953年(昭和28年)からは、テレビ放送が始まりラジオ番組編成も大きく変わった。青森放送児童合唱団も青森放送合唱団と同じく1959年(昭和34年)頃からNHKの助成が無くなり、解散することとなったが有志が残り活動を続け、出演本数が以前に比べ減ったものの番組出演はしていた。1963年(昭和38年)頃解散。



(つづく)
 
(921) 青森市20世紀合唱史 その9 2013年 4月26日(金)
【百年のあゆみ その8】


 1950年代 その1


 1950年代は、中学校の合唱団体、高等学校の合唱団体、そして労働組合を中心とした職場のサークルが活躍した年代である。


 星のコーラスは、1951年(昭和26年)青森明の星学園の音楽部OGにより結成、間宮秀樹氏の指導の下、毎週水曜日に母校で練習。発表会も幾度か開催したが、主に母校の学園行事に出演したり演奏旅行を行うなど独自の活動をしていたが昭和34年の第一回県下合同音楽祭に出演している。その後何年ごろまで活動したか定かでない。

 フレンドコーラスは、1951年(昭和26年)本間雅夫氏の指導で発足。氏の上京により黒滝昭一氏が後任指揮者となる。この合唱団もやはり貴重な存在として活動を続けた。その記録は昭和33年まで残っている。解散後は青森オペラ研究会の重要なメンバーとして新しい時代に入ってゆく。

 1953年(昭和28年)、「県立図書館講堂落成記念コーラスの夕べ」が11月2日に開催されている。出演団体は沖館中学校(女声二部)、浪打中学校(混声三部)、古川中学校(女声二部)、野脇中学校{現・南中}(混声三部)、青森高校(混声四部)、青森明の星高校(女声二部・四部)、中学校・高等学校計6団体と、日本銀行(混声三部)、青森銀行(女声二部)、営林局(女声二部・混声四部)、教育庁県庁(混声四部)の職場4団体が出演している。

 同年11月3日には、「高等学校五周年記念音楽会」が明の星高校講堂で開催され、青森市立青森第一高等学校{現・県立青森北高}(混声)、山田高等学校(女声)、青森明の星高等学校(女声)、青森市立青森中央高等学校{現・県立青森中央高}(女声)、県立青森盲学校(混声)、東奥女子高等学校{現・東奥学園}(女声)、県立青森高等学校(混声)の市内7高校の団体が出演している。

 翌年10月17日には、「第一回青森県高等学校合同音楽会」が明の星高校講堂で開催され、新たに現在の県立青森商業高等学校{青森実業高校}が混声四部の合唱団で出演している。当時の市内の高校は工業高校を除いて全て合唱団が存在していたことが覗える。なお、工業高校は器楽(ハーモニカ)や独唱で音楽会に出演していることを付け加えておく。また、山田高校は1956年(昭和31年)11月 4日の「第三回青森県高等学校合同音楽発表会」から混声合唱団として参加している。



 1953年以降、本市の音楽の発表の場(演奏会場)の主流をなすのは、県立図書館講堂(ホール)と青森明の星高校講堂である。とりわけ明の星高校講堂は、現校舎が建てられるまで存在し、木造の非常にやわらかい響きの会場であった。県立図書館ホールでは毎月のように、各種演奏会やレコードコンサート等も開催されていた。


(つづく)


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