(916) 青森市20世紀合唱史 その4 |
2013年 3月17日(日) |
【百年のあゆみ その3】
1920〜1930年代
1929年(昭和4年)黒山義次氏を代表者として青森合唱団が設立されている。
当時、県内では八戸市や三戸町にも音楽団体はあったが合唱団と冠に名を付した団体は、青森合唱団と弘前市のアイグルハート夫人指揮の「混声合唱団」と東奥義塾の「グリークラブ」くらいである。青森合唱団も昭和8年には記録から名前が消えている。
大正期の青森合唱団と昭和期の青森合唱団が同一団体であったかどうかは定かでない。
1934年(昭和9年)、青森市民歌が発表される。(懸賞当選歌)
同年8月12日、NHK仙台放送局のラジオ番組に当時の橋本国民学校(現・市立橋本小学校)の児童が「童謡と唱歌」と題して出演している。
1935年(昭和10年)、青森市合唱界の大先達である間宮秀樹氏が旭川市より青森市へ移り住む。以降、青森市において合唱活動が徐々にではあるが記録に残され始める。同年10月29日、東洋音楽学校生徒40名が北海道演奏旅行の帰途、青森市公会堂において杉山長谷夫氏指揮で演奏会を開催している。おそらく合唱もあったのではないかと推察される。同年12月20日、東奥日報社主催の青森天主公教会困窮児童救済クリスマス音楽会(慈善音楽会)が市立高等女学校(青森明の星高校記念誌では県立高等女学校となっている)で開催され、レジュック神父、ヂゼール・ドルイン他四名、青森天主公教会合唱団が出演している。当時、千名の聴衆を集めたと記録されている。昭和12年、青森技芸学院として認可を受ける現・青森明の星学園の先駆者達である。
青森合唱団の名前が再び記録に出てくるのは、1937年(昭和12年)である。代表者は佐藤精市氏、指揮者は間宮秀樹氏、団員三十数名と記録されている。事務局は沖館小学校内にあった。2〜3年の短い活動期間と言われているが、当時の団員であった宮内勝四郎氏の証言によると、昭和18年頃までは活動していたと記憶している。間宮秀樹氏のご子息の間宮昭佳氏(初代青森市合唱連盟理事長)によると、長島の日本赤十字社のホールで第一回演奏会を開催している。
1937年(昭和12年)2月には、青森管弦楽団、青森マンドリン倶楽部、青森合唱団を統合した青森音楽協会が設立されている。会長は青森市長の千葉傳蔵氏である。
(つづく)
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(917) 青森市20世紀合唱史 その5 |
2013年 3月18日(月) |
【百年のあゆみ その4】
1940年代 その1
1941年(昭和16年)4月16日、NHK青森放送局が開局。
翌5月の23日に「開局記念子ども大会」が長島の新町国民学校で開催。プログラム27項目の中に合唱が記録されている。同月からラジオ番組「小国民の時間」が放送され、師範学校教師による文部省唱歌の指導が行われている。同時に児童劇の放送のため新町国民学校の児童20名で青森放送子ども会が結成された。演技や発声等を放課後に練習していた、音楽は村林平二氏(国民学校教諭)が指導していた。放送劇中(児童劇)合唱隊として活動していたようである。
1942年には、市内の国民学校児童からなる青森放送子ども会が新たに結成され、児童劇に合唱隊として参加していた。この会こそ、演劇のための会ではあるが今で言うところの児童合唱団的要素を持った最初の団体のように思われる。
1941年〜1942年3月にかけて約100本のローカル番組が放送されているが、演芸番組には、青森マンドリンクラブとともに市立青森高等女学校や女子師範学校、男子師範学校の合唱が記録されている。
(つづく)
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(918) 青森市20世紀合唱史 その6 |
2013年 3月30日(土) |
【百年のあゆみ その5】
1940年代 その2
1942年(昭和17年)8月、NHKラジオ番組で「合唱・八甲田山の軍歌」が放送され、旧五連隊の兵士30名が合唱している。しかし、これは合唱団体ではなかったと思われる。
この頃、間宮秀樹氏の指揮でNHK青森放送合唱団(以降・青森放送合唱団)が設立されており、毎週スタジオで練習されていた。なお、この時期青森市内には青森郵便局合唱団及び松木屋女声合唱団が存在していたことが確認されている。
1943年(昭和18年)5月18日、間宮秀樹氏の指揮で青森放送合唱団がラジオ出演、翌1944年3月までに5回同合唱団の放送がされている。曲目は、「大日本の歌」「必勝の歌」等戦時色の濃いものの他に「山の子ども」「数え歌」等歌われた記録がある。同合唱団は戦後間もない1946年9月19日ラジオ番組に出演し「荒城の月」「オーソレミオ」「海に来たれ」を歌っている。
翌1947年(昭和22年)それまでの団員を中心に、青森放送合唱団が再結成された。指揮は間宮昭佳氏。同年青森混声合唱団が竹内篤逸氏の指揮と間宮昭佳氏のピアノで結成されている。
翌1947年から1948年にかけて竹内氏・間宮氏が相次いで上京したため、青森混声合唱団は解散。
当時のNHKの記録によると1947年(昭和22年)12月25日、「クリスマスキャロル」「讃美歌集より新しい日に」「青森地方のわらべうた」「ハレルヤ」が竹内篤逸氏指揮・間宮昭佳氏のピアノで青森放送合唱団が青森放送児童合唱団とともにラジオに出演し合唱を披露しているが、間宮昭佳氏の証言、及び竹内氏の指揮であることから考えると青森混声合唱団であると思われる。
当時、青森放送合唱団と青森混声合唱団はメンバーの重複や共通指導者、練習会場等の関係でNHKとしても青森混声合唱団が出演しても青森放送合唱団として記録に残っているものと推察される。なお、この当時の青森放送合唱団に、後の作曲家の田中利光氏・川崎祥悦氏が在籍していた。間宮氏の上京後、青森放送合唱団の指揮者にチェリストの阿保健氏が就いている(記録では、昭和23年の暮れとなっている)。
(つづく)
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