青森県音楽資料保存協会

事務局日記バックナンバー

<2013年2月>

(913) 青森市20世紀合唱史 その1
(914) 青森市20世紀合唱史 その2
(915) 青森市20世紀合唱史 その3
 
(913) 青森市20世紀合唱史 その1 2013年 2月17日(日)
青森市合唱連盟によって、2006年5月1日に、「青森市20世紀合唱史」という冊子が刊行されました。明治からはじまり、大正・昭和、そして平成に至る、まさに20世紀の青森市の合唱史についてまとめたものです。

青森市合唱連盟事務局長の奈良祥孝氏の許諾を得て、ここに本文を転記いたします。

これは、青森市の、というより、青森県の貴重な合唱の歴史でもあります。


まずは、青森市合唱連盟理事長(役職は冊子刊行時のもの)小倉尚継氏の序文です。


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ごあいさつ

青森市合唱連盟
理事長 小倉 尚継

 このたび、「青森市20世紀合唱史」を出版することができ、その喜びと共に、関係各位には深く感謝申し上げます。

 この合唱史出版を思いついたのは、世紀が変わり、何か新鮮な希望が湧いてきたからです。新しい世紀に、どんな素晴らしいことが待っているのだろう、その心の準備のためにも、これまでのこと、つまり20世紀の青森市の合唱史をまとめておこうと思い立ったのです。

 人は必ず老い、若い人と入れ替わっていきます。その都度、過去はどんどん忘れ去られていきます。しかし、私達の先人達は、どんなに素晴らしい活動をしてこられたことでしょう。楽譜も楽器も練習場も足りない時代に、いろいろなご苦労をなさって合唱活動をして来られたはずです。目には見えないかも知れませんが、その人達の力が、私達の行く手を燦然と照らしてくれているのです。そんな過去の歴史を、気がついた今こそ記録しておかなければ、永遠に後悔することになるでしょう。

 さあ、すぐにでも出版しようではありませんか!

 ところが、なかなか思うようにいかないものです。資料の収集がままならず、落ち着いて編集する時間がとれず、とうとう5年の歳月が流れてしまいました。編集長の奈良祥孝氏は、一人でどんなにご苦労なさったことでしょう、身の細る思いだったに違いありません。

 時間はかかりましたが、多くの皆様のご協力により、ようやくこのような冊子にまとめることが出来ましたことを、まずは大いに喜びましょう。

 ご満足いただけない部分もあるかも知れませんが、これがあれば、50年後、100年後に改編する際には、大切な資料として使われると思います。編集長、お疲れさまでした。

 なお、この資料は青森県音楽資料保存協会を通して、永久保存されることになります。

 皆様のご協力に深く感謝申し上げ、合唱史出版のごあいさつといたします。どうもありがとうございました。



(つづく)
 
(914) 青森市20世紀合唱史 その2 2013年 2月23日(土)
【百年のあゆみ その1】

 明治時代(明治33年〜)


 明治・大正・昭和前期(戦前戦中)の音楽文献は非常に少ない。当時の新聞等で知り得るものと、高齢者の証言でしかたどるてだてがない。

 昭和5〜6年頃、すでに青森市でも音楽会は開催されており、そのほとんどが声楽系であったと故 山内行雄氏(青森市民交響楽団団長)は、同楽団記念誌で語っている。男子師範学校や女子師範学校が主催していたようであるが、合唱としてプログラムにあったかどうか定かでない。いずれにしろ、1900年代から1930年代までは、一般的な合唱団体は少なく、師範学校等の学校の合唱団か教会の聖歌隊のような団体だけではなかったかと推察される。


 1905年(明治38年)青森師範学校に釜萢善作氏が来任された。これ以降、青森市における洋楽が徐々にではあるが普及し始める。釜萢氏は師範学校講堂にて音楽会を開催したり、指導者のための講座を開いたりしていた。また、「門をたたいて教えを乞うものが増えた」と当時の記録に残っている。


 1910年(明治43年)青森県立病院官舎落成式を機に釜萢氏を中心に管弦楽団を組織した、アオモリ・ミュージカル・ソサイティ(A・M・S)の誕生である。この頃、青森合唱団が氏の指導の下、小学校唱歌教材を中心に各小学校を輪番で会場に充て練習に励んでいた。当時の記録では「県内唯一のまとまった音楽団体である。」と記されている。なお、当時は洋楽よりも長唄等和曲が大衆的な時代であった。


(つづく)
 
(915) 青森市20世紀合唱史 その3 2013年 2月27日(水)
【百年のあゆみ その2】


 大正時代


 青森合唱団は、1921年(大正10年)8月25日釜萢氏が逝去されて以降は、秋元良助氏を中心として先生の意志を継いで練習していた。翌1922年大正11年4月、釜萢氏の後任として児玉順二氏が来青し、教員を集めて「森の音コーラス会」を設立する。同時に釜萢門下生の秀才といわれた清野健氏が新町小学校の卒業生を集めて「歌う集い」合唱団を設立。以降、青森市の合唱界は三派の時代に入る。


 しかし、大正13年4月児玉氏が転任。清野氏も上京し、「森の音コーラス会」「歌う集い」合唱団も解散した。さらに同年秋、秋元氏も上京し歴史ある青森合唱団も練習中止のやむなきにいたる。翌大正14年8月、青森合唱団の団員が青森樂友会を設立。時代は昭和へと入る。

 1913年(大正2年)から1928年(昭和3年)までの演奏会の記録には、90回近い演奏会が青森県内で開催されている。うち半数以上の46回が青森市内で開催されている。会場は、青森高等小学校・浅虫小学校・赤十字社支部・県立病院官舎・青森歌舞伎座・女子師範学校・男子師範学校・新町小学校・青森公会堂・青森市永楽座・橋本小学校等である。

 ただ、標記が音楽演奏会や音楽会等となっているため、合唱の演奏会なのかどうか知ることができない。大正13年6月25日の女子師範学校で開催された聖公会青年部主催による「立教大学グリークラブ音楽会」は間違いなく合唱の演奏会であろう。



(つづく)


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