北海道ちほく高原鉄道 2

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CR75-1

さよなら列車のヘッドマーク

2006年 4月20日 (木)

2006年4月20日(木)ピーピーピー・・・かれそうなホテル備え付け目覚まし時計の音で目が覚めた。針は5:10を指している、すぐカーテンを開け天気の確認をしたところ雨は降っていない模様。今日は北海道ちほく高原鉄道の最終日であり、イベント列車に乗る予定である。そのイベント列車に乗る為には帯広を6:20発の列車に乗車しなければならない。駅前にあるホテルを6時頃出ようと思ったら、小雨が降っているではないか!今回は傘を持って来ていないので、まずいなと思いながら駅まで小走りで行った。

池田小学校のブラスバンド部 北海道ちほく高原鉄道の起点駅である池田駅にイベント列車が発車する1時間以上も前に着いたのに報道の人達でごった返していた。テレビ局、新聞社、趣味の雑誌関係者等がすでに場所取りで歩くところがない位である。とりあえず駅の改札を出てまたまたグッズを買ってしまった(オレンジカード、硬券の入場券等)しばらく時間をつぶしてからホームに向かったら、池田小学校のブラスバンド部がリハーサルをやっていた。脇では北海道の牛乳、ワインを振舞っていて、両方を味わった。

定刻8:16発であるが、列車の入線は8:05頃と聞いている、その前に司会者が式次第を進めていった、ブラスバンドの演奏から始まり、鉄道会社の人からお礼の挨拶、一日駅長の挨拶、運転手への花束贈呈、そしていよいよ駅長の出発合図がある。ごった返している中8:20頃やっと出発をした。3両連結であるが満員である、当然先頭のガラスにへばりついたが、報道関係のカメラマンがちょっと運転手さんを出発の時だけカメラをまわしたいとの事でOKをした。

運転手が花束をもらい運転席に着く前のインタビュー その時の運転手は丸山正美さん66歳、今後は年金生活をして余生を楽しむと言っていた。途中勇足(ゆうたり)駅でもセレモニーが行われ、3両の列車が更に満杯になった。次の足寄駅では遠くから見ても分かる位の人がいる、ホームからこぼれ落ちて、線路の脇に大勢の人が写真やらビデオを撮っている、ホームに着いたら先頭車両の所に、鈴木宗男先生と松山千春さんがお供を連れて駅長さんと話している、乗るのかと思っていたら、またまたそこでも15分間位のセレモニーが始まり更に首都圏の朝ラッシュと同じぎゅうぎゅう詰めになってきた、足の踏み場がない。

ドアーの横で昔を偲び車窓を楽しむ二人 愛冠駅 鈴木宗男先生と松山千春さんはドアーの所でカメラマンとお話をしていた、カメラも大きな業務用のカメラが5〜6台あるいはもっと多かったかもしれない。女性のインタビューアーさんと、愛冠(アイカップ)駅を通過した時は、昔ここを愛のカップルと呼んでいたのだと鈴木宗男先生は皆を笑わせていた、今の小学校は1年から6年まで合わせても12人位で寂しい、私の時代は大勢いて2.5kmも駅まで歩いて学校まで通ったものだった、と言っていた。外は寒いが車内は熱気ムンムンである、陸別(りくべつ)駅で鈴木宗男先生と松山千春さんとお供の人は降りたが大変であった。降りた陸別駅でもセレモニーが行われ、そこでは30分位停車して鈴木宗男先生の演説が始まった。

廃線を惜しむ、鈴木宗男先生の演説 昔は政治があった、池北(ちほく)線(今の北海道ちほく高原鉄道)が廃線になるかどうかでもめた昭和63年に皆さんの努力により、夢と希望を乗せて第三セクターへと存続が決まった。今は政治がない!と先生は嘆いていた。もう1年早く復帰出来ていたら残せたかもしれない、非常に残念であると申していた。ともかく大変な騒ぎであったが、陸別駅で鈴木宗男先生と松山千春さんは下車して、午後1時発の飛行機で東京へ戻ると言っていた。大半の報道関係の人も降り、少しは車窓が楽しめる様になった!

イベント列車も途中では予定より遅れていたが、北見駅には定刻で到着した。少し早かったがバスで女満別空港に行き早めの食事をする事にした。以前に何回か入った事のあるラーメン屋へ入りオホーツクラーメンを食べたが、やはり北海道のラーメンはうまい。久しぶりの北海道に感激!

感想

北海道ちほく高原鉄道がなぜ廃線になったのか? 2日間乗車して、この線は地元と非常に密着して愛されている路線であると感じた。明日から廃線になるという感じがしない、駅もきれいに清掃をして明日も通常通りに使用されても良い様に整備、管理等が行き届いている。何より線路の路盤状態は現行ローカル線より良く整備されている。もったいないという言葉しか出てこない。

では何故か? 2006年4月20日の北海道新聞によると、銀河線沿線七市町の人口は約14万9千人で、開業時から8千人以上も減った。逆に車の保有台数は約11万7千台で約2万8千台も増えている。
宿命といえる赤字体質を補う、国からの交付金と道と沿線市町の負担金、約81億円を積み立てた経営安定基金のはずだったのが90年代前半からの低金利政策により、予定していた5.4%の利息での運用計画は頓挫した。

とは言うものの、私個人的には鉄道は地域密着型のサービス業である。鈴木宗男先生が話していた、そこに政治があるのかもしれない。一鉄道ファンとしては、非常に残念に思う。

参考資料(北海道ちほく高原鉄道の歴史より)

元国鉄の池北線は池田―網走間の鉄道として計画され明治40年(1907)起工。大正元年(1912)網走まで開通し、網走線と呼ばれた。昭和36年(1961)4月1日新旭川―網走間が石北(せきほく)本線となると、池田―北見間は池北線と改められ支線扱いになった。その後昭和59年6月22日には、第二次特定地方交通線として申請され、存亡の危機にさらされるに至った。
しかし厳寒地の100kmを越える長大路線である為に、更に十分な調査が必要であるとして、道内の標津(しべつ)・天北(てんぽく)・名寄(なよろ)の各線と共に、約一年間保留された。最終的に名寄線を含む他の3線はバス転換せざるをえなかったのに対し、池北線は第三セクターによる鉄道輸送への転換に決定。平成元年(1989)6月4日北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線として、再スタートを切った。北海道で唯一赤字ローカル線廃止の嵐を切り抜けた鉄道であった。

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