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BLUE NOTEの光と影 チトリン・サーキットでソウル・フード
BLUE
NOTEの4000番台を集めていると、どうしたって出てくるのがこのオルガンの存在。 1500番台にはジミー・スミスしかいなかったオルガニストが、4000番台となると俄然花盛りとなる。 僕にとってオルガンは、一番遠ざけていた楽器だった。ピアノに比べて如何にも大雑把で、且つ感情過多、という印象を長年持ち続けていたし、音楽的にもR&Bやソウルといった真っ正面からジャズを感じるものではなかった。ハモンド・オルガンであるからアコースティックでもない。総じて「知性」が感じられないという理由である。 如何にも中途半端な「知性」を保持する黄色人種である日本人的偏見に他ならないわけだ。言い換えれば、黒人のソウルをわかっちゃいないだけなのだ。 で、頭でっかちは頭でしかわからないのは致し方ないけど、知識だけは知っておこうと思って、ピーター・バラカン(彼だって白人だ)の書いたものを読ませて貰った。(『ブルーノート再入門』7章「ソウル・フィンガーズ!」) なるほど、時代背景を知れということなのだが、一番応えたのがハモンド・オルガンを備えた黒人街にある無数のバーやナイトクラブである「チトリン・サーキット」の存在だ。豚のモツ煮込みであるチトリンというソウル・フードも喰った事のない奴にオルガン・ジャズを云々する資格はない・・・というわけである。
でも、なぜだかこのウィレットのアルバムを聴いていて連想したのが、正月の雑煮だった。鳥肉や大根、にんじん、菜っぱ等と一緒に煮た餅が入った雑煮。チトリンとちとリン似てないか?(負け惜しみ、負け惜しみ・・・) J.スミスの次に来るオルガン奏者と、G.アモンズの流れを汲むF.ジャクソンという組み合わせ、加えてギンギンのR&B調のG.グリーンのギター。と来れば、絵に描いたようにどっぷりソウルフルだろうなと思いきや、ロングトーンをあまり多用せず、小気味よいスタッカートをきかせて弾くウィレットのオルガンと小刻みにカットするグリーンのギターであって思いの外粘っこくない。 さっと焼いた餅が形を崩さない程度に煮てあって、粘りはあっても硬く締まっている餅の食感、それが具の食感と合わさる雑煮の風味? だから嫌味のない程度にソウルフルで、少々時代かかったジュークボックスかディスコで流れるメロディを感じさせるテーマだが、陽気で軽快に踊る気分なのだ。 スローなブルース仕立てのGOIN'
DOWNとなると流石にぐっと粘りが出て、黒人のソウルフルな血がドクドクと脈打つ感じだ。F.ジャクソンのテナーがむせび泣き、裂ける。
WHATEVER
LOLA
WANTSは昭和の歌謡曲にこんなのあったよな懐かしい気分で、少々含み笑いも出ようというものだが、所謂懐メロ風だが、時代の空気が伝わってくる。少し侘びしくせつない、昭和枯れススキ?という雰囲気か。いやいや労働に疲れた貧しい黒人の心を慰める哀切なメロディだったのだろう。 世知辛い世の辛さ侘びしさが冬の夜風のように身にしみて、ああ無常(無情か)・・・。
でもこのアルバム、仄かな哀しみが熱気の隙間から滲みだして来るけど、断然軽快で暗い気分など跳ね返すバイタリティに満ちている。それがかえってせつないのだが。
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