王子と姫のエトセトラ〜傘〜
午後一番にやってくる授業は比較的眠くなるものである。昼食後で食欲が満たされると次にやってくるのは刺激された睡眠欲。さすがに一番前の席だと教師の目があるので、寝にくいが、後ろの席の人間は油断からか、徐々に意識を手放す者も出始めている。そして、我らが原作主人公越前リョーマもその例外ではなかった。彼は机に突っ伏し、堂々と眠っている。窓をたたく雨の滴の音は彼にとって立派な子守唄と化していた。幸い、帰国子女のリョーマにとって中学一年レベルの英語など児戯に等しい。例え、授業をまったく聞いていなくともテストの成績が悪くなることはありえなかった。ただし、教師からの印象がますます悪化して内申点が下がる可能性は否定できないのだが。
キーンコーンカーンコーン・・・
授業の終了を告げるチャイムが教室に響く。その音の中で、生徒達は立ち上がり、機械的に頭を下げた。教室にざわめきが戻ってくる。外は相変わらず雨。
「越前。おい、越前。起きろよ。授業終わったぞ。」
チャイムが鳴り終わっても未だ眠り続けるリョーマの肩をクラスメイトの堀尾聡史が揺さぶる。しかしリョーマはうなるだけで起きようとしない。彼の寝起きはあまりよろしくない模様である。
「越前!起きろよ。次、移動教室だぞ!?」
「・・・堀尾、うるさい。」
「うぐ・・・。」
極めて不機嫌そうな返事が返ってきて、堀尾は声を詰まらせる。
「いや、駄目だ駄目だ。こんなところで諦めてどうする。俺はテニス暦二年の堀尾だぞ?」
「それってテニス暦関係あるわけ?」
「ぎゃあ!?」
何やら自分に言い聞かせていた堀尾は、突然横から聞こえた声に大声で悲鳴を上げた。そのあまりの煩さにリョーマは反射的に顔を上げ、声をかけた人物は両手で耳を塞いだ。
「お、小坂田ぁ!?い、いきなり声かけてくるなよ!びっくりするだろ!?」
「うるさいわね!あんたが驚きすぎなのよ!!」
怒鳴りつける堀尾に声をかけたツインテールの少女小坂田朋香も負けじと言い返す。それから二人はある意味おなじみの口喧嘩へと突入してしまった。その騒音にリョーマは不愉快な感情を抱く。そして堀尾と朋香の方に目をやり、ある人物がいないことに気づいた。そう、いつも朋香と行動を共にしている三つ編みの少女がいないのだ。
「ねえ、小坂田。竜崎は?」
「リョーマ様!・・・やっぱり、桜乃のことは気になるんですね〜。」
リョーマの言葉を受けて、朋香はニマリとした笑みを浮かべる。その表情はまるで『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫を思わせる。実は時々リョーマと同じ男子テニス部の某三年生の先輩もこれと似たような顔をすることがあるのだが、リョーマがまず連想してしまったのは、アリスではなくその某猫っぽい先輩だったという。
「・・・別に。ただ、あんたら大抵一緒にいるし。」
言外に何となく気になっただけだというニュアンスをにじませてリョーマは言った。
「まあ、今回はそういうことにしておいてあげます。」
朋香は含みのある笑顔をリョーマに向けた。彼としては寝起きということも相重なり、気分的に面白くない。
「桜乃は保健室ですよ。廊下で転んですりむいたんです。」
「あ〜、今日雨だし、廊下滑りやすくなってるもんな。」
朋香の言葉に堀尾は納得したようにうなずいた。
「小坂田は竜崎についていかなかったわけ?」
自他共に認める親友同士の朋香と桜乃なら、怪我をした桜乃を心配して朋香が付き添っても不思議ではない。
「保健室までは着いていきましたよ。ただ、うちのクラスは次移動教室なんで、桜乃の分の教科書持って行こうと思って、一足早く戻ってきたんですよ。それに保健室の先生が怪我は大したことないって言ってましたし。」
朋香は当然とばかりに説明する。
「ところでよ〜、何で小坂田、このクラスに来てるんだ?お前も移動教室なんだろ。」
「ああ!そうだった!それで、リョーマ様。菊丸先輩からの伝言で、“今日の部活は中止で、レギュラーのミーティングもなし”だそうです。」
「ああ、そう・・・。」
「それじゃあ、私は急ぎますんで、また!」
それだけ言い残すと朋香は教室から駆け去って行った。
「わあ!越前!俺達もそろそろ行かないとまずいぞ!?」
「ふ〜ん。」
壁にかけられた時計で現在時刻を確認し、大慌てする堀尾。そんな彼を横目にリョーマはノロノロと移動準備を始めるのだった。
授業は全て終わって、ホームルームも終えて、部活もなければ委員会もない、後は家に帰るばかりとなった放課後。リョーマは昇降口で立ち往生していた。外は雨。しかし、こういう時に必要な物はない。
「・・・天気予報なんて二度と信じない。」
「他力本願な上、八つ当たりかい?越前。」
「!?」
聞き覚えのある声にその声のかかってきた方向を向けば、一見穏やかな容貌の少年がいた。微笑を絶やさず優男のようだが、その実態は意外と黒い、リョーマと同じく男子テニス部の先輩にして天才との異名を持つ不二周助(三年)がいた。
「・・・不二先輩?何でここにいるッスか?」
三年生の下駄箱は一年生のそれとは遠くはないが近いと言えないくらいには離れている。各学年のクラスが10を超えるマンモス校であるから仕方がないといえばその通りである。
「変に勘ぐらなくても、ただの偶然だよ。見覚えのある後姿が見えたからね。」
そうは言われても彼が相手だと何となく腹に一物あるような気がしてしまうから不思議である。
「それはそうと、越前はこんな所で何をしているかな。帰らないのかい?」
「・・・。」
不二は笑顔を崩さずリョーマに尋ねる。密かに不二は分かっていて聞いてきているのではないかという疑念を抱くが、口に出すと何となく状況が悪化しそうな気がしたので、リョーマはひとまず沈黙を選んだ。
「ああ、なるほど。傘がないのか。雨降ってるのに。」
「わざとらしいッスよ、不二先輩。」
白々しく(リョーマからすれば)も彼の現状を述べる不二にリョーマは半眼で彼を見やった。
「確か天気予報だと午後には止むって言ってたよね。実際はこの通り降り続けているわけだけど。」
今朝の天気予報では、雨が午前中から振り出し、夕方前には止むだろうというコメントが出されていた。実際、一時間目の終わり頃には雨が降り始めたのである。しかし、こうして雨は放課後になっても未だ止まず降り続いていたのだ。
「だけど、朝からいかもに降りそうな空模様だったんだし、とりあえず折り畳み傘くらい持ってくるのが常識じゃないかい?」
荷物になるかもしれないが、濡れるよりはましだろう。
「この時期の天気予報が外れる確率63%・・・微妙な所だな。」
「乾先輩!?」
「やあ、乾じゃないか。」
そんな会話の途中でまたもや新たな声が彼らにかかる。リョーマ達が声の方向を見れば、眼鏡をかけた背の高い少年がいた。やはり同じく男子テニス部で三年の乾貞治である。データマンの異名を持つ彼は趣味が高じてか、人間の口にして良い物か激しく疑問に思える栄養ドリンクをしばしば開発し、今では部活名物の罰ゲームとなっている。毎度のことながら、彼の登場は唐突でいちいち心臓に悪い。
「君も今から帰りかい?」
「いや、俺はこれから職員室へ用があるんだ。」
「じゃあ、何で
「ああ、それは下駄箱の間から不二が見えたんでね。それで、不二。片桐さんから伝言だ。この間のアンケートで何か不備があったらしい。至急、報道部の部室まで来てほしいそうだ。」
不二とリョーマの質問に淡々と乾が回答する。
「アリサちゃんから・・・?仕方がないね。報道部を敵に回すわけにもいかないし、これから行くことにするよ。」
「ああ、そうした方が賢明だな。」
「越前の時みたいになったら嫌だしね。」
「う・・・。」
乾と不二の言葉にリョーマが顔を引きつらせる。かつて、リョーマが報道部からの取材を面倒だという理由ですっぽかし続けていた結果、男子テニス部を担当していた片桐アリサという人物に『宣戦布告』されたことがあった。その後、テニス部やリョーマの家族をも巻き込んだ大騒動へと発展し、取材を受けざるを得なくなったことは記憶に新しい。いくら負けず嫌いなリョーマといえども、自動販売機で買ったばかりの未開封なはずのジュースの中身が乾特製野菜汁に摩り替わっていた時には、さすがにいろいろと後悔したという。正直、走馬灯が見えそうになった。何せコーヒーを買っても炭酸飲料を買っても茶を買っても、中身が例の野菜汁なのである。被害はリョーマのみならず一般生徒にも降りかかっていた。まさに青学に代々語り継がれている『報道部に逆らうべからず』という掟を実体験を以って思い知らされたのである。今でこそ、事件の発端となったアリサという少女とは友好(?)関係を保っているが、あの騒動以来、リョーマは事態を収拾してくれた報道部部長に頭が上がらない。ある意味、彼はリョーマにとって命の恩人だった。
そんなわけで、不二は靴を下駄箱に戻し、そのまま報道部の部室へと向かったのである。そして昇降口に残ったのはリョーマと乾の二人。
「・・・それで、乾先輩。職員室はどうしたんスか?」
なかなか立ち去ろうとしない乾にリョーマが問いかける。はっきり言って男二人が立ち往生しているのはなかなかに奇妙な光景だ。
「困っているだろう、越前。」
「は?」
またもや唐突な言葉にリョーマは思わず聞き返す。
「傘がなくて困っているだろう、越前。」
「ええ、まあ・・・。」
ここで否定してもしつこいまでにデータを並べ立てて最終的には肯定させられそうなので、リョーマは素直に答えてみる。
「・・・なるほど。そんな越前に朗報だ。」
「何がどう“なるほど”なのか全然分かんないッス。」
今度は不二の時と違いツッコミも入れてみた。まあ、乾に効果があるとも思えないのだが。
「竜崎さんは今図書室にいる。」
「はい?」
突然乾の口から出てきた知人の名前にリョーマは怪訝そうな顔つきをした。
「当然彼女も折り畳み傘を持っている。」
「はあ・・・。」
何とも投げやりな相槌がリョーマの口から漏れる。
「そして彼女は律儀だ。何かと世話になっている越前を見捨てるような真似はできないだろう。」
リョーマの反応に気づいているのかいないのか、乾は淡々と言葉を告げる。
「それって・・・。」
「まあ、端的に言えば、彼女の傘に入れてもらうといい。」
乾はサラリと青少年的にはいろいろ葛藤のありそうな発言をした。
「何で竜崎なんですか?あいつ、傘二つ持ってるんスか?」
乾の発言の意図をリョーマは把握しかねている。確かにお人よしの桜乃のことなら、リョーマが傘を持っていないと言えば予備の傘を提供してもおかしくないだろう。しかし、彼女がいつ帰るかも分からないというのに、傘を借りにわざわざ図書室まで行くのはみっともない気がする。
「俺の予想では後二分程で彼女はここへやってくるだろう。」
「は?それって何の根拠で・・・。」
「越前、データは嘘をつかないよ。」
「いや、だから何のデータ・・・。」
リョーマのツッコミで何とかなるようなら、皆、乾の開発する液体に手を焼かない。リョーマと乾の噛み合っていない会話が続いていく。
「だから、どうして乾先輩は俺と竜崎を一緒に帰らせようとするんですか!?」
「決まっているだろう。大事なレギュラーに風邪を引かれるわけにはいかない。そして傘は一つしかないからだ。」
「じゃあ、何だってそんなに胡散臭い笑顔してるんスか!?」
「胡散臭いとは心外だな、越前。」
「だから、そのニヤニヤした顔が信用できないんスよ!」
眼鏡を逆光で光らせて笑うその表情はそこはかとなく不気味である。なおも二人の掛け合いは一分ほど続いた。
「あれ?リョーマ君に乾先輩。こんな所でどうしたんですか。」
「竜崎!?」
「やあ、竜崎さん。」
乾が予告してから丁度二分後、桜乃が昇降口に姿を現すまでは。
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