『Exploring Fractals』(01.10.28)



子供だった頃、夜空に浮かんだ満月を眺めていたとき、以前見た月よりも、すこし大きく見えたような気がした。すると、ある不安な思いがよぎった。もしも、月が地球に近づいて来たらどうしよう。だれも気づいていないけれど、きっと月は毎日何メートルかずつ、いやたとえ数ミリでも、じつは地球に「落ちて」来ているんだ。今はなんともないが、それが何万年か何億年かしたら、やがて地球に近づきすぎて、地球が壊れてしまうのでは....どうしよう。

大学に進んだとき、これは「二体問題」として数学的にすでに解決済みであることを知りました。地球と月の回転は安定した平衡状態にあるので、お互いに衝突することはない。けれども、不安材料は今でも残ったままです。それは、これが「三体問題」となると数学的に解けない。つまり、太陽系の惑星はそれぞれ「安定」した軌道を不変に回っているように見えるが、それが安定している理論的裏付けはないというのです。

ニュートン力学とそれがもたらした世界観は、自覚していようと無意識だろうと、ずっと近代人の考え方を縛ってきました。すなわち、この世界は分子原子の集合であり、その分子の運動はその位置と速度で将来が決まっている。太陽系がいい例だ。日食や月食はずっと先まで正確に予測されている。けれど一方で、日常生活のスケールで体験する自然現象は、惑星の動きのように規則的なものとはほど遠い。天候、川の水の流れ、そしてエンジンの燃焼室での混合気の運動と燃焼。

原子から素粒子へと、科学の前線が極小なものへと進んだのは、全体は部分から成るという哲学そのものです。構成要素を解明することで、その集合体を理解できるというわけ。ただ実際の「集合体」は複雑すぎて、規則性のないものは研究の対象にならないでいます。だれが雲の発生と降雨のメカニズムを解明できるのでしょう。ニュートン力学では、それらを構成する個々の分子すべての運動が測定できないだけで、それがもしも超能力をもつ全能者(ラプラスの悪魔)がそのデータを持てば、未来はすでに決定されていることを知る、と考えるものです。早い話が、あなたのバイクが盗まれるのも、すでに映画のコマのように定められていただけのことであり、私がこのテキストを書いているのも私が生まれる前から決まっていた、というわけです。タイムマシンは、その文学的表現と言えるでしょう。

大学時代、物理学のそうした還元主義に満足できず、いったい不規則な現象ってどうアプローチできるんだろう、としきりに考えていたものですが、ちょうどそのころ、複雑なもの、無秩序なものを解明しようとしていた少数の科学者が欧米にいたことは知る由もありませんでした。それは秩序のない渾沌(Chaos)を扱うことで、カオス研究と呼ばれていました。今日では、カオス、非線形力学、フラクタル幾何学、マンデルブロ集合などと、アプローチによりいろいろな呼び名がありますが、カオス理論は、相対論、量子論とならんで、世界観を変えた20世紀の科学の3つ目に数えられるほどになっています。

ここでカオスの解説をしようというのではありません。カオスについては、James Gleick の「CHAOS - Making a New Science」(1987) (邦訳『カオス - 新しい科学をつくる』大貫昌子 訳 新潮文庫 1991年) という名著があります。このすばらしい翻訳をされている大貫さんの、私はファンなんです。これ以外に、ファインマンの回想やエッセイ、そして同じJames Gleick氏のファインマンの伝記(『ファインマンさんの愉快な人生』1995年 岩波書店)も、その訳で価値を高めています。

そもそも、カオスがなぜ70年代から研究が進んだか、その理由のひとつに実はコンピューターが寄与していることがあります。それまで微分方程式を解くことでよしとしたスタイルにかわり、一見不規則と見えた現象が、それをコンピューターによる計算を経てグラフィック、つまり幾何学的に表現することで、規則性が、それも美しいパターンが見えてきました。このエッセーの標題は『Exploring Fractals on the Macintosh』(Bernt Wahl 著 Addison-Wesley 1994年)からとったもので、カオスとフラクタルを、マックを使ってだれもが簡単に実験、体験できるようにと書かれたものです。フロッピーディスク1枚に納められたプログラムが付録についています。94年に購入したとき、私のパソコンはまだCPUが8MHz、メモリーが4MBのMacintosh Classic でした。下のシダのフラクタル図形群は、このプログラムを使って、左の単純なパターンが自己相似的増殖をして、自然のシダそっくりに成長する様子を描いたものですが(つまり、植物は複雑な形をしていても、そこに単純な基本パターンがある)、この4番目のレベルをえがくのに22秒もかかったものです。それがいま使っているPowerBook G3ではあっという間、0.3秒くらいでしょうか。このプログラムはOSのバージョンが上がってもちゃんと動くので、CPUのスピードを比べるためにも使っています。

この『Exploring Fractals on the Macintosh』は、私の職場が新宿の紀伊国屋の近くなので、そこの洋書売場でたまたま見つけたものですが、今ではもちろんインターネットで取り寄せることができます。私は Amazon.com を利用していますが、最近は Amazon.co.jp が出来たので、ここに注文すれば送料がアメリカから送ってもらうより安くなります。それに価格が円になっていますので、決済時のレートを心配することがありません。この本はパソコンの性能アップに合わせて改訂されているかと思ったら、94年発売当時のままのようです。それに、絶版にもなっていないところを見るとまだまだ人気があるのでしょう。アメリカには、こういう教育的内容にすぐれた入門書が多くあることに学者の層の厚さを見る思いがします。

地球の美しさに驚嘆するのは、なにも宇宙船から地球を眺めるときだけに限りません。灰皿からまっすぐ立ち昇ったかと思うと突然乱れるタバコの煙、道端の草の繁殖と分布、海岸線の複雑な地形、雲の変容、ヘルメットが切り裂く空気の乱流、あらゆるところに驚嘆すべき自然の摂理が顔をのぞかせています。無秩序に見える、人間に身近なスケールの現実世界を、ようやく解明し始めたカオス理論。それはコンピューターによって初めてかいま見れるようになった世界。パーソナルコンピューターは、そう見ると、だれもが手にできた顕微鏡であり、加速器であり、また宇宙船のようなものかも知れません。





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