趣味と中毒(02.01.20)


映画『マトリックス』では、現実とばかり思っていたのが実はバーチャルな世界だった、という衝撃的なシーンがある。あたかも、ポジの画像だとばかり思っていたのが、実はネガだっと気づくようなものだが、同時にこのトリックは、そもそもネガとポジの間には本質的な区別があるのだろうか、極端にいうと、リアリティとバーチャルな世界の違いはいったいどこにあるんだろう、という懐疑にも導くものだ。SFやファンタジーの文学と映画が好まれるのは、バーチャルへの逃避ではなくて、そこにリアリティを認める心理が働いているせいではないか。

インターネットが普及し始めたころ、「ネット中毒」なんていうことばが聞こえてきたことを記憶する人も多いだろう。ホームページを文字どおりサーフィンし続け、知らない相手とメールをやり取りし、知らない相手とチャットする、それが病みつきになる症状がそう呼ばれていた。そんな患者についての書籍も、もちろん出てきた。とはいっても、接続料と通話料の高額な日本よりも、おもにはアメリカでの話だったが、バーチャルな世界にのめり込んで、現実から遊離していると思われたネット利用者が、そのような揶揄の対象にされた。

現在、ADSLによるブロードバンド常時接続の普及が加速している。私のところにもやっと昨年末に回線が開通した。もともとインターネットは「常時接続」の世界なので、これまでの電話回線による「臨時接続」つまりダイアルアップという利用が変則的なものでしかなかったのだが、これでやっと本来のインターネット環境に近づいたというべきものだ。その意味で、6年もかかったのか、と遅きに失した感が無くもない。

こうして安い定額料金でいつもインターネットを利用できるようになると、「ネット中毒者」が遅ればせながら再度話題になることも考えられる。ADSLに変更しても、「いったいインターネットでなにするの?」と聞いてくる友人も多い。だいたいが「テレビ中毒者」だ。テレビが伝える情報がそのままリアリティだと、無意識に信じている聴視者があってテレビは成り立っている。

テレビの世界がバーチャルなものだと呼ぶことはないかも知れないが、チャンネルが多い割には、同じニュースをただ一方の視点から報道する、そもそも何がニュースなのか、フィルターがかかっている、そのことがじつはリアリティを歪めていることに気づくとしたら、たいがいは身近な事件が取り上げられたとき、または自分自身が報道の被害者になったときだろう。テレビに浸っている中毒患者にはその虚構が見えない。番組制作費よりも、CMの製作費のほうが高額になって久しい。制作費を切り詰めるには、タレントを集めてトーク番組にするのが手っ取り早い、という話まである。その際は、話のレベルは低ければ低い方がいい、というのもほとんど常識だ。

テレビは、その意味からしてブロードキャスト、つまり広範囲放映であるから、視聴者が「大衆」であることを求める。テレビだけではない、ラジオ、新聞や出版でマスメディアと呼ばれるものは文字通り「マス」が対象だった。インターネットはその「マス」にたいして「個人」であることを要求するものだ。そのような、メディア論として早くからインターネットを論じた著作に、浜野保樹「大衆との決別」(1995年 BNN)がある。

そんな観点からバイクライフを考えると、意外な面が見えてくる。今から思い起こすと、照れ臭いというか、恥ずかしいくらいだが、バイクに乗り始めたころから限定解除に挑戦している間は、ほんとにバイクにのめり込んでいた。まさしく中毒のように、バイク雑誌を隅から隅まで読んでいた。限定解除でパタリと止んだのは、きっと乗れない機種があるという制限が、知識や技術への渇望として駆り立てる原動力になっていたような気がする。

バイク雑誌は、この出版不況にもかかわらず、まだまだ多くの種類が書店に並ぶ。廃刊になったもの、新たに発刊されたもの、と入れ替えはあるだろうし、発行部数も減っているだろうが、それでも、同じ趣味の持ち主どうしでコミュニティを感じるように、特定の雑誌を購読するライダーがその雑誌を支えているように思う。掲載される旅先の写真もきれいなものだ。ああ、こんなところへ行ってみたいと、ツーリングのきっかけになるには充分だ。私も、昔バイク雑誌に掲載された史跡で、いちど訪ねて見ようと、ずっと思っているところがある。

もともと趣味性の強いバイク雑誌は、さらに同人誌のような傾向を強めて、特定の編集方針を打ち出すことで、これからマスメディアが直面することになる「大衆離れ」に対応しようとするだろう。そして、コミュニティに支えられた趣味なら、もはや「中毒」と呼ばれることもない。すでに全員が「中毒患者」であることを自慢すらできようから。



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