Dark Angel に見るキャメロン映画論(03.02.02)


ついでだから、映画としてのDark Angel 評。

キューブリックの『2001年宇宙の旅』を見た少年ジェームズ・キャメロンは、映画館を出るなり吐いてしまった、とどこかで読んだことがあります。それまでの未来予測的なSFとは異質であるばかりか、理解されることを拒むかのような謎めいた内容、その逆に見るものに考えることを強制するような映像メッセージ、それが若きキャメロンには一種映画によるカルチャーショックだった、という内容だったと記憶します。

Spaceodyssey

1968年4月公開のこの『2001: A Space Odyssey』は、それから35年も経った今となっては、1969年のアポロ11号による月着陸とどっちが先なのか、あらたまって考えたことのない若い世代の人たちには、SFの古典のようなものになっているかも知れません。けれど、この映画が生まれてからは、「未来はこうなるだろう」式のSFはすっかり過去の遺物となりました。はやくから『2001年宇宙の旅』をメディア・テクノロジーの視点から注目していた浜野保樹氏は、その画期を以下のように評しています。

この映画は既視感の源となり、未来そのものもこの映画が作り出した未来イメージに引きずられている。『2001年宇宙の旅』は未来を予測したのではなく、未来についてのヴィジョンを提示したのである。(『マルチメディアマインド』BNN 1993年)
大学では物理学を専攻し、通常の映画人とはまったく別の道を歩み、ほとんど独学で映画作りを学んだというキャメロンのSF作品は、ポスト『2001年宇宙の旅』とも言えそうな路線を歩んでいます。

『ターミネーター』のテーマは未来延長予測、既定未来操作ではなくて、なんの特別能力もなかった平凡な一女性が、自分に降りかかった運命に立ち向かう中で、思いもしなかった能力を発揮していくストーリーに、タイムマシン手法をかぶせたものです。未来が予測できないものであるという「2001的未来観」に加えて、個々の人間さえもが自分の潜在能力に気づいていない、つまり自分の未来も予測できないという、そんなキャメロンのSF映画観がかいま見れます。

そのキャメロンが制作総指揮するテレビシリーズ『ダーク・エンジェル』は、日本語の「テレビ連続ドラマ」という語感から想像する内容とは違って、エピソードの一本一本が劇場映画のような力の入れようで、多くのファンを魅了していました。

とりわけ特徴的なのは、『ダーク・エンジェル』に限らずキャメロン映画のキャラクターは皆そうですが、登場人物がその端役にいたるまでキャラクターの設定が丁寧におこなわれており、その一人ひとりは「演じている」のではなくて「現実に生きている」ような実在感を漂わせます。それと同時に、エピソードではしばしばストーリーを多重進行させて、場面をリズムよく切り替えるところなど、まさに現代のシェイクスピア劇のようです。

実際の個々のエピソードを現場で制作監督するのはキャメロン自身ではなくて、何人かの監督を起用しているようですし、脚本も、原案はキャメロンのものでしょうが、書き上げるのはこれまたいろんな脚本家が活躍の場を与えられています。たぶん、こうして若手に機会を与えて、才能を育てるという目的もあるのでしょう。毎週1本のペースは、俳優さんたちも大変でしょうが、制作する側もチームを複数体制で臨むことで予定をこなしていたに違いありません。

各エピソードは、大きなストーリーの一部をなしつつ、それだけでストーリーとして完結するようになっています。しかも、それぞれにいろんな試みがあり、シリアス物、サスペンス調、コメディータッチ、と単調なシリーズにならないような変化をつけています。それに、せりふの中にちりばめられたユーモアとウイットは、これまたたまらなく耳に心地よいものです。

『タイタニック』では、個々の犠牲者の個性を殺して単に数字で語られていた「大勢の」乗客の悲劇を、ローズとジャックという二人のラブストーリーを軸にすえることで、ぐっと感情移入しやすくしました。『ダーク・エンジェル』では、遺伝子操作という、ともすれば技術的議論が先行しやすいテーマにたいして、その遺伝子操作で生まれた若い女性をヒロインにすることで、これまた抽象的かつ秘技的な遺伝子操作科学を、具象的でオープンな問題として提起することに成功していると言えるでしょう。

その意味ではキャメロン映画は、「未来を予測しないSF」ではなくて、「未来を作るのは今の私たち」というメッセージかも知れません。

Infinite  Dark Angel

ところで、日本での放送分もそうですが、売られている『ダーク・エンジェル』のDVDとレンタルビデオには、エピソードの原題とはかけ離れた日本語題名が与えられています。これは、日本語版の制作担当者の文学的好みというよりも、どんな題名が好まれそうかと思いを巡らせた結果という意味では、日本の映画ファンのメンタリティを計るヒントにもなりそうです。

たとえば、セカンドシーズン第11話『The Berrisford Agenda』は『ピアノ・レッスン』となっています。言うまでもなく、同名の映画を連想させるものです。しかし、その映画自身の原題がじつは『The Piano』であり、それが映画のテーマをうまく表していたのに、『ピアノ・レッスン』じゃあ別の連想を強制されるようなものでした。

もひとつ、これもセカンドシーズンの第9話で、原題が『Medium is the Message』。マーシャル・マクルーハンの『Understanding Media』(邦訳『メディア論』みずず書房)で知られる有名な命題「メディアはメッセージである」ですが、日本語タイトルは『ファミリア』。実際のせりふにも「The medium is truly the message」と、ジョシュアの絵についての美術評論の記事の引用があるのですが、それと分かる翻訳にはなっていませんでした。この国では映画はまだまだ「鑑賞」の対象であって、ファンは生み出しても、メディア論として語られることが稀なためでしょうか。



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