ナビゲーション(03.8.20)


車のナビゲーションシステムは目的地までのルート案内が原義ですが、そもそもはGPSによって自分がどこにいるのかわかるということがガイドを可能にしています。方向音痴の私は、今やナビシステムなしでは車で遠出はできなくなってしまいました。自分がどこにいるかという意味は、それが地図の上のどこに相当するのか、ということであることが暗黙のうちに了解されています。

けれど、位置認識と地図情報は歴史的にはアプローチが別のものでした。GPSがなかったころ、たとえば登山などで2万5千分の一地形図を携帯するのは、地図そのものが地表の正確な縮図であることを前提にして、そこに自分の位置を推測することを目的にしています。地図が先にあって、そこに自分の位置を見いだすわけです。

ところが、地図がまだ無い場合、地図そのものを作るために自分の(または目標物の)位置情報、つまり座標を測定することが先で、その結果として地図ができることになります。すでに日本地図ができ上がっている時代に生きている私たちは、まだ正確な地図が無かったころの人々の「自分の位置認識」がどのようなものであったのか、思いを巡らすにはちょっと想像力が要りそうです。

さらに、地図がありえないところでは、地図なしでも位置情報だけが必要になることがあります。言うまでもなく、船の航海の場合です。

なんでこんなことを考え出したかというと、先日千葉県佐原市の伊能忠敬記念館を訪れたことがきっかけでした。伊能図というと、それが現在の日本地図にほぼ合致するほど正確だった、という印象が強かったものです。それはそれで事実なのですが、上記記念館には、正しい(といっていいのかな)日本地図の上に、伊能図を重ねた展示がありまして、その2つはぴったりとは重なっていませんでした。そのずれ方をよく見ると、ところどころ、横に移動しているのです。つまり、緯度はほとんど合っているのに、経度の精度がずれていたのです。

なぜなんだろう?

自分で測量してまわった伊能忠敬が、自分の位置情報について、緯度は比較的正確に測定できたのに、経度に誤差があったことをそれまで知らないでいました。で、ちょっと考えて、多分それは正確な時計がなかったせいではないか、と思いつきました。

緯度は北極星の見える角度などで、どこでも正確に測定できるはずです。けれど経度は、ある特定の時刻の特定の星座の見える角度とか、太陽の南中の時刻など、時間情報(基準となる地点との時差)が必要なはずです。記念館の図書をぱらぱら見ていたら、やはりその理由として、「当時、経線儀(クロノメーター)がなかったため」とありました。はて、経線儀ってどんなものだろう? クロノメーターって、精度のいい時計のことじゃないの。(私の機械式グランドセイコーにはChronometer の文字がある)そこで、記念館の職員に尋ねたら、「はい、それは時計のことです。」

じゃあ、なぜ経度を測定することがクロノメーター、つまり時計の名に結びついているのか?

現代の私たちにとって、時計が位置情報とつながっている記憶はありません。正確な時計がある、というよりも、正確な時刻はいつでも知ることができる、という前提で生活しています。では、航海中、経度測定に必要だった時計の精度とはいかなるものだったのか。18世紀初め、自国の艦隊の海難事故が続発したイギリスの議会は、精度のいい時計の発明に2万ポンドの懸賞をかけました。

その精度は日差に換算して約3秒。さて、この精度はどうして出てくるのか? 

当時、ヨーロッパから西インド諸島へは6週間の航海だったそうで、6週間後の位置が赤道上で50キロ(経度で0.5度、時間で2分)以内の精度で確保できるためには、この日差が必要でした。それに成功したのがイギリスのジョン・ハリソンで、それがマリン・クロノメーター(海洋経線儀)。その日差は3秒よりはるかに小さいものでした。クロノとはギリシャ神話の時間の神クロノスから来ています。

クオーツの普及により時計の精度がもう関心事ではなくなっている現在では、時計の精度はせいぜいいつもの通勤電車に乗り遅れないために気にする程度ですから、その昔、海の上で正確に時を刻む時計の開発が、国の将来をかけた、当時としてのハイテク競争の先端技術だったとは想像すらできません。今や、電波時計あり、GPSあり、ナビ用の地図ありで、自分の位置を知るために先人がどれだけの苦労をしたのか思いを巡らす機会も、これまたほとんどありません。ただ地図というバーチャル二次空間の中の点として常に自分の位置を意識しているのが現代人の宿命です。

ナビゲーションシステムは、目的地へ行く手伝いをしてくれる一方で、ある意味では、知らないところへどんどん行ってみようという気にさせてくれるので、車の利用の幅を広げてくれます。バイクにも小型ナビがあったらいいのに、と思うことがあります。

でも、こんな考えもあるでしょう。

動物の中には、体内にナビゲーションシステムを持っているのではないかと思われるものがあります。典型的なものが伝書バトと渡り鳥、渡り蝶など。地図がないのに、自分の位置がわかり、目的地がわかる。あれは超能力か、それとも生物が内蔵するハイテク能力か。

もしも、バイクで旅することが、渡り鳥のように地図なしで自由にできるなら、どうだろう。べつにナビのルートどおりにトレースするのではなくて、回り道しても、それはそれで楽しいかも。そのとき、目に見える周りの景色は、もはや地図の上の位置情報として置き換えるためのインプットであることをやめて、風景はただ風景として流れることになるでしょうか。



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