「時」のナビゲーター(03.9.7 / 追記 03.9.14)


時計と地図の話をとりあげたついでに、時間にまつわる話をもうすこし。

たいていのメールソフトは、受信したメールが発信された日時を表示します。もしもメールが日本から届いていれば、発信時間は日本の標準時ですが、その時刻に続いて +0900 という数字があるはずです。

もしそれが設定の関係で通常は表示させてなくても、メニューに全ヘッダーを表示させるオプションが必ずあって、それは発信時間のみか、そのメールがどういう経路で自分のメールサーバーに届いたか、中継された時間情報とともに教えてくれます。返信先としてFrom情報を偽装するウイルスメールなどは、その発信サーバーをここから突き止められることがあります。

その +0900は世界標準時、つまりロンドンのグリニッジ時間、から9時間進んでいる「ローカルタイム」という意味です。ヨーロッパやアメリカからのメールだと +0200 とか -0400 とかになっているでしょう。

子供のころ、日本標準時は東経135度の明石時間だ、と教わったとき、なんで130とか140じゃなくて135なんだろう、どうして東京時間でないのかな、と思ったものでした。それがなければ、明石という地名も、子供には縁のないものでした。じつは話は逆で、明石時間を標準時にしたというのではなくて、グリニッジの世界標準時を採用しただけのことで、世界を1時間ごとの「時間帯」に区分したために、15度刻みのタイムゾーンの中で、グリニッジ時間からプラス9時間の経度が、日本列島を通る東経135度で、そこがたまたま明石だったわけです。昔は135という数字を記憶したでしょうが、いまでは +0900 のほうが分かりやすいという人もいるでしょうし、ずっと実用的でもあります。

こうして、クロノメーターで位置を正確に測定していた時代から、時間の精度は、個別時計の刻む時間の正確さから、離れた場所の時間の同時性という概念へ移ってきました。それは、交通手段と通信技術の発達に負うところが大きいものです。

まず、鉄道によって移動が格段に早くなったことで、それまでイギリスで分単位で異なっていた各地域のローカルタイムでは、時刻表で混乱を起こしてしまいました。市庁舎の時計と駅舎の時計がそれぞれ違っていたこともあったそうです。ロンドン時間でそれぞれの駅の時間を統一するために、ロンドン発の汽車にロンドン時間の時計を乗せて、それぞれ通過駅の時計を合わせていったといいます。

しかし、電信が発明されると、もう時計を持ち運ぶ必要がなくなりました。時計を運ばなくても「同時性」が実現します。さらに無線通信つまり電波による通信が始まると、海の上でもグリニッジ時間がわかるとともに、「放送」という一対多の交信まで可能にしました。タイタニックが発信した遭難信号をリアルタイムで受信していたニューヨークの一少年は、やがて「ラジオ放送」の企業家になりました。日本でも、山のお寺の鐘ではなくて、ラジオ放送、そしてやがてはテレビの時報と番組表が、日本中の同時性を確立しました。

そう考えると、個人の腕時計の一日の誤差が10秒であっても1分であっても、不自由はしなかったのです。機械式からクオーツへと腕時計が変遷して、価格が劇的に下がったことは、「腕時計の革命」ではあっても、「時間の革命」ではなかったと言えるでしょう。

通信技術の発達の結果、私たちは遠く離れた鹿児島と札幌の間でも同じ時刻を共有していることと、日本以外の国と地域でも世界時間を共有しているという無言の前提の下に生活しています。位置測定のために必要だった時計の精度の時代から、今や、同じ時刻を共有しているかどうかが重要になったのです。個々人が身に付けている時計が、それ自身で正確な時間を刻むかどうかは、もやは問題ではなくなりました。ちょうど、かつて村や町にあった時計台の時刻が、そこのコミュニティの共有する時間であったように、いま地球上のひとつの時計台を共有しているようなものです。

こうして、18世紀から20世紀にかけて、時刻、時間そして時計をめぐって生活も変わるとともに、人々の考えも変わってきました。まず、工場労働者の報酬を時間で決めるという賃金制度が一般化してきます。これが、職人の個人作業とは違って、サラリーマンの労働を等質なものとして時間で売買する資本主義の基礎が形成されます。週40時間制といいながら、サービス残業を強いられているニッポンのサラリーマンは、さしずめ19世紀以前の時間概念のままという皮肉な見方もできるでしょう。

一方で、会社による拘束時間中心の生活では、時間労働から解放された時間は、「余暇」とか「レジャー」とか、余った時間のように思われて、その時間をどう退屈しないで過ごすかが関心事になってきました。「趣味」の起源も、余暇と無関係ではないでしょう。バイクは趣味の乗り物ですが、そこにバイクがあったから乗っている、というよりは、時計と時間が趣味としてのモーターサイクルを生んだ、と考えるべきでしょう。それにしても、余暇といい、趣味といい、まだまだ労働時間の「余り時間」、本業の「外の遊び」みたいな響きがあります。休暇シーズンの終わりのテレビニュースでは、成田で海外旅行帰りの日本人がインタビューされて、いつも「明日から仕事ですから」と答えることになっています。

ところで、同時性という考えは、ほんとの時間革命を引き起こしました。アインシュタインの特殊相対論です。当時チューリッヒに住んでいたアインシュタインは、自分の懐中時計を持っていなくても、街中のあちこちにある時計台を見ていたはずです。それらの時計の時刻は微妙に違っていただろう。それを正確に同じに保つにはどういう手段があるか、と彼は思いを巡らせた、それが相対論に繋がっていったのではないか、という仮説を唱える人もいます。頷けるものがあります。2つの時計台が地球に固定されている場合はいい、けれど、一方が光速に近いスピードで走る汽車の中だとすると、どうやって時計を合わせたらいいのか。もし光の伝わる速度が地上でも汽車の中でもが同じなら、両者の時計の時間の刻み方は同じではない、つまり「等時性」が失われることになります。

時間と位置にまつわる概念や通念は、これからもずっと変遷しつづけるでしょう。時間は時計屋だけのものではなく、位置は地図屋だけのものではありません。それぞれの時代に、人々が時間と位置にたいしてどういう観念をもっていたのか、そんなアプローチも歴史を見る目をちょっと変えてくれるかも知れません。

さて、あなたのパソコンの設定時刻は腕時計ほどに正確でしょうか?


追記:ネットワークタイムサーバー(03.9.14)

パソコンの時間をいつも正確に保つためにNTP(Network Time Protocol) サーバーで時間の同期をとる方法があります。

アップルは5年ほど前のMac OS 8.5からこの機能を標準搭載して、NTPサーバーも自社でたてているので、Macintoshユーザーならこれで時刻合わせをしている人も多いでしょう。ほかにもNTPサーバーを立てている団体や機関があり、Linux やWindows向けにも専用ソフトが用意されています。

この機能を常時ONにしておけば、定期的にパソコンがひとりでNTPサーバーの時刻に内蔵時計を合わしてくれます。分かりやすく言うと、これはネットワーク版の電波時計というところでしょうか。

5年前というと、まだダイヤルアップ接続が一般的でしたから、知らない間に自動接続する不具合もあったようですが、ADSLによる常時接続が普及した現在、利用者も増えることでしょう。

でも私はセキュリティへの配慮から、時刻の修正にはこのネットワークタイムをマニュアルで利用することはあるものの、自動接続はOFFにしています。秒単位のような正確な時計を必要としないせいもありますが、そのほかに、時計の時刻管理を他人任せにすることに、いくらかの躊躇があるせいです。それで思い出すのが、子供のころ見た、テレビドラマのスーパーマンのこんなエピソード。

時効成立まであと数日という犯罪者を捜しているスーパーマンは
透視能力を使ってその犯人が厚い壁の中の部屋に潜んでいることを発見。
人間の目には壁でも、原子レベルではスカスカの空間。
スーパーマンにはその原子のすき間を通り抜ける透過能力がある。
壁の中を通り抜けようとしているスーパーマンに、犯人が気付き
人質を盾にスーパーマンを追い払う。

時効まで犯人に近づけないスーパーマン。だが、ある秘策が。

やがて時効成立を告げる夜の12時の時報がラジオで流れる。
その時報と同時に、壁を自分から壊して出てきた犯人を
スーパーマンが待ちかまえている。

「おい、スーパーマン、残念だな、もう時効だ。お前にはなにもできない」
と誇らしげな犯人にたいして
「残念がるのはお前だ、まだ時効になっていないんだ」
訝しがっている犯人にスーパーマンは、
「3日前から、アメリカの時間局に時計を少しずつ進めてもらっていた。
今は12時ではなくて、実際は12時2分前なのだ。裁判所も認めてくれる」

そう言うと、犯人を抱えて、警察へと飛び去った。
昔のことですから、細部の記憶はあいまいです。また、「時間局」も私の造語で、実際は放送局、または大統領府だったかもしれません。

細部はどうあれ、子供心にこのシナリオは面白く、かつ考えさせるものがあったので、記憶に残っています。まず、時間とは時計が示す時刻のことではなくて、時計から独立した物理的存在という考え方。アメリカ中の時計がみな狂った同一時間を示していたとしても、ほんとの時間は別に存在している、ということ。

そしてもうひとつは、いかに正義のためにとは言え、勝手に標準時を操作されることへの疑問です。また、そんなふうに操作を可能にするような、時間の一局集中管理に危うさはないのだろうか。

多分今ではNTPサーバーのセキュリティも万全でしょうが、私は自分のパソコンの時計の時刻合わせを他人任せにするということに、なんだか時間をレンタルしているような気がしてしまいます。これはきっと、腕時計というパーソナル時計で、「自分だけの時間」に長いこと慣れ親しんだ世代のこだわりと感傷でしょうね。



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