『原三角測點』 - 伊能図から時空を超えて(03.9.21 / 追記 03.10.15)


時計と地図の話のしめくくりに、三角点にまつわる私話をひとつ。

伊能忠敬記念館を訪ねたときに、実はもうひとつ発見がありました。そこに、36000分の1縮尺の「大図」の現物が展示されていました。3枚の続き物です。それがなんと、私の故郷の鉢崎から柏崎町へと続く米山峠一帯だったのです。鉢崎関所から柏崎まで続く峠道の海岸線は、いまでも当時のままです。それをじっと見つめていると、まるで200年前にタイムスリップしたような錯覚を覚えました。

記念館にあったパンフレットには、たまたま伊能忠敬の第三次測量のルートが掲載されていて、1802年の10月2日に、鉢崎関所前で「測量しようとしてとがめられた」と記されています。

ここ米山村鉢崎は、今では米山町となり、関所跡には記念碑が建っていますが、伊能忠敬がここで測量をしたことはこれまで聞いたことがありませんでした。

この関所跡から急な坂を上りきった「聖が鼻」の岬から柏崎まで、私の子供の頃でさえバス一台の幅しかない険しい峠道の国道が続いていたものです。こうした地形のため、伊能隊の測量は困難を極めたのではないかと想像します。この「聖が鼻」には三角点があり、小学校の課外実習で説明されたことがあります。記憶しているのは、これは大切な標識だから、踏んだり、抜いたりしてはいけない、ということだけでした。この夏、墓参りの帰りにそこへ立ち寄って、三角点を捜したのですが、以前と道路も変わってしまったせいか、見つかりませんでした。それが何等の三角点なのかも、まだ確かめずにいます。

子供のときに遠足で連れていかれた三角点はもう二つ。この「聖が鼻」へと山塊を伸ばしている「旗持山」さらに盟主の独立峰「米山」です。この米山は標高993M。中腹にはブナの原生林が広がって、今では柏崎市の水源でもあります。

当時は小学校五年生から登山する習わしで、私は3,4回登っていますが、その後転居してからは登る機会を得ませんでした。この夏、車で林道のどこまで行けるか下見に入ったら、頂上まで1時間弱のところまで車で行けることが分かりました。遠い他県ナンバーの車まで停まっています。いままで、初夏の暑いときしか遠足登山の経験がないので、今年の紅葉の時期に登ろうかという計画の下見だったのです。

さて、この米山山頂の三角点は一体何等のものかと調べたら、国土地理院のホームページには全国の一等三角点の一覧が公開されていました。そして、米山は972ある一等三角点のうちのひとつだと分かりました。

ついでに、東京にはいくつあるんだろうと見たら、8つありました。一等三角点は主に見晴らしのいい山や丘の上が選ばれるのですが、東京のような平らな地形では「山頂」は期待できません。その8つの一等三角点のうちのひとつが、これまた今の私の住居からほんの2キロのほどの丘の上にありました。そこは探索したことがあり三角点があることも知ってはいましたが、一等三角点とは気付きませんでした。早速確かめに出かけてしまいました。

もちろん東京にも「山頂」の一等三角点があり、それは雲取山です。そして、この雲取山がきっかけでさらなる発見がありました。

この雲取山山頂には三角点の標石が二つ並んでいます。ひとつが「現役」の一等三角点、もうひとつが『原三角測點』の標石です。以前ここに登ったとき、その二つの三角点の前にある説明書きを見たものの、興味がなかったこともあり、なんだか分かりにくい説明文だった記憶しかありません。 

現在の三角点はほとんどが陸軍参謀本部陸地測量部が埋設したものです。しかし、その前に、内務省が関東、中部に三角点網を整備していました。新田次郎の『劒岳 <点の記>』には、主人公が測量師の先輩からこんな歴史を聞き出す場面があります。

「もともと測量は内務省でやっていたのを明治十一年になって、軍が強引に奪い取って参謀本部測量局に併合した。軍人というものは、外国と戦争をしないときには、自国内に戦争の相手を求めるものだ。内務省は軍人に負けて仕事を譲った。現在、陸地測量部の中に測量師、測量手のような文民がいるのは内務省以来からの伝統もあるが、根本的には軍人だけでは地図はできない、技術専門の文官が必要だというところにある。」(文春文庫 27ページ)
ただし、文中の参謀本部測量局による併合「明治十一年」は他の資料では「明治十七年」とあります。それはともかく、その内務省が設置した三角点が『原三角測點』。陸地測量部が引き継いだときすでに50点ほど設置されていたといいます。その選点(設置場所の選定)は約100点ほど終了していて、陸地測量部の三角点もほぼその選点を利用したと思われますが、新しい三角点標石を埋設するときに、そこにあった『原三角測點』は処分されてしまったといいます。

その『原三角測點』がどういうわけか雲取山山頂に残っているのです。さらに全国にはもう一ヶ所『原三角測點』が残されている山頂があり、それがなんと米山だったのです。   

私には米山の山頂で『原三角測點』を目にした記憶が全くありません。これを見るためにも、是非とも再び登らなくてはなりません。

これまであまり三角点の標石そのものに関心をもたなかったのは、地図ができてしまったら、もう測量の役割を終えた遺物のような印象を持っていたからです。登山者も山頂の三角点はいくつも目にするでしょうが、記念撮影は「○○山頂 標高○○○○米」という山頂の標識の前がほとんどでしょう。

ところが、身近なところに「一等三角点」と『原三角測點』が見つかったので、俄然三角点の標石そのものについて興味が湧いてきました。地上にはほんの20センチほどしか頭が出ていないが、動かされないように地中に埋まっている部分はどれだけあるんだろう、運び上げるのは楽ではなかっただろうが、重さはどれくらいあったのかしら?

資料によると、一等三角点の標石は、柱石、盤石、そして下方盤石から成り、柱石は全長82センチ、重量が90キロもありました。なんと私達が目にしている三角点はほんとに氷山の一角ならぬ「標石の一角」だったわけです。これを運び上げ、さらに埋設して実際の測量をすることに、どれほどの労苦が伴ったか、容易には想像できません。上記の新田次郎『劒岳 <点の記>』は一等三角点埋設の話ではありませんが、明治の測量がいかに使命感に燃えた人たちによってなされてきたか、その典型をうかがうことができます。

本来三角点とは三角測量の基準となる点で、三角測量とは三角形の2点の辺の長さとその両端の角度からもう1点の位置が定まるという初等数学の理論を基礎にしています。現在では2点間の距離は直接「光波測距儀」で測定できるようになったので、三角測量は行われていません。では、三角点は不要になったのかというと、そうではなくて、その標石を基準点としてGPSなどを使ってその精密な位置測定を5年周期で繰り返すことで、日本列島の地殻変動を調べることに利用されています。

それでは、その精度とはいかなるものかというと、上述の地理院の一等三角点の一覧に「基準点成果」として測定データが添付されています。そこには1万分の1秒単位の座標値が記されています。それは距離に直して、ミリ単位の精度です。つまり、三角点間の距離がミリ単位で測定されているのです。米山山頂の三角点はその「点の記」によると「選点 明治25年11月10日、埋設 明治27年11月11日」とあります。100年以上前に担ぎ上げられた三角点の石に刻まれた+マークの中心点が、今ではその空間位置がミリ単位で特定される基準点になっていることに素朴な驚嘆を禁じえません。

蹴飛ばすな、踏みつけるな、と教えられた三角点の標石は、こうして見方を変えると、現代に生きる「史跡」とも言えるでしょうか。その動かぬ石にそっと手を触れると、当時その埋設に伴ったであろう数多くの人たちの血と汗のドラマに思いを馳せることになるかも知れません。また、『原三角測點』もこれまで雲取山、米山の2ヶ所に残るだけと思われていましたが、つい2年前に、3つ目が登山者により群馬県西上州の白髪岩で発見されました。そうすると、きっと、この3つの他にもまだ『原三角測點』が、発見されることを待ちながら、どこかでひっそりと立ち尽くしているに違いありません。

登山やツーリングのルートに三角点があるようでしたら、ちょっと立ち寄ってみてはいかが。


追記(03.10.15):米山山頂の二つの三角点

連休を利用して、10月12日に米山に登ってきました。目的はふたつ。原三角測點を捜すことと、現行の三角点の安否を確かめることでした。というのは、上記の地理院のホームページで公開されている米山山頂の一等三角点の「基準点成果閲覧」によると「現況 亡失:2001/07/29 」とあったので、どうしたんだろう、ほんとに無くなったのかしら、と不審に思って、現況を確かめたかったのです。

前日までの快晴とは打って変わって、朝から曇り空の嬉しくない天気でしたが、山頂近くでは木々が色づき始めており、紅葉の米山もいいものだと改めて思いました。残念ながら、頂上に着いてまもなく、本降りとなってしまいましたが、ここにはきれいな避難小屋があり、ちょっとした山小屋並の利用価値があります。

米山原三角測點  米山現行三角点 

頂上に着くやいなや、原三角測點を捜しました。それは薬師堂の前の植え込みの中で、モミジの枝にかばわれるようにひっそりと佇んでいました。彫られた文字に沿って緑色のコケが生えています。一方、現行の一等三角点は無事に残っており、何十年かぶりの再会を果たして、まずはほっとしたものです。

さて、頂上は意外と多くの登山客でにぎわっており、なかに東京方面からの団体の登山者のグループがおりました。私が原三角測點を見つけてはしゃいでいたので、なんだろうと近寄ってきたそのメンバーの人たちに、雲取山とこの米山だけに現存する、内務省時代の三角点だと教えてあげると、これはいいことを教わったと、喜んでもらえました。中でもひとり三角点探訪を登山の趣味にしている年配の方がおられて、群馬県西上州で見つかった、3個目の原三角測點についても興味深々の様子でしたが、恥ずかしいことに私が白髪岩という名を思い出せなくて、「インターネットで原三角測點をキーワードに検索するとすぐ出てきますよ」と答えるしかできませんでした。その方は、三角点をこれまで100ヶ所ほど探訪したとのことで、百名山ならぬ「百三角点」。これも山の楽しみ方ですね。

さて、原三角測點の標石のそばにころがっていた石をどけて側面(原三角測點の表示のある面の左側)をみると、そこには「内務省地理局」の文字が刻まれてるのが見えます。

ところが、白髪岩の原三角測點の発見者によると、白髪岩のそれは

 北面 内務省地理局 
 東面 原三角測點
 南面 明治十五年十月

と刻印されていて、米山の標石とは南北の表記が逆になっています。

右側には「明治十五年八月」の刻印があります。雲取山の原三角測點は「明治十五年十二月」の刻印がありますので、実際の埋設がいつだったかは分かりませんが、刻印の日付だけを見ると、米山の標石が最も古いものになります。また、雲取山の標石の刻印は、東面に日付と一緒に内務省地理局の刻印があります。さらに上面に対角線を結ぶX印は米山にはありません。結局3つとも異なる様式で刻印されていることが分かります。もっとくわしく調べたかったのですが、雨が強くなってきたので、また次の機会にゆっくりと。

この米山山頂からは佐渡と日本海が一望できるので、こんどは日本海の水平線に沈む夕陽とその夕焼けをここから眺めて見たいものです。そのまま小屋に泊まり、朝のご来光を拝んでから下山する、というプランも面白いかも。



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