コーヒーブレーク「あさぢゃはだいじゃより強し」(03.10.20 / 追記 05.10.1)


コーヒーの話題をとりあげたからには、お茶の話題も。

といっても、私はお茶に蘊蓄があまりありません。わけも分からず飲んでいるというのが実態。でも、その「わけが分からない」ことの多い茶、とりわけ紅茶に、ずっとひっかかってきました。

まず、茶の栽培が宋の時代の中国から伝えられて、喫茶の風が日本で起こったことは学校の日本史でも世界史でも教えられるところです。一方、海の向こうのイギリスではteaという赤いお茶を飲んでいるらしい、と中学校の英語で知ることになりました。当時使った英和辞典には、紅茶はblack tea となっていました。

ところが、これまでイギリスでもアメリカでも、また英語圏のオーストラリアやニュージーランドでも、私はblack tea なる単語を耳にしたことはありません。飛行機の機内でも、ただ"Coffee or tea?" と聞かれるだけで、そのtea とは紅茶のことでした。緑茶はわざわざ、"Japanese tea" とか "Green tea" とか言って頼んだものです。今では"O-cha?" とスチュワーデスさんがコーヒー・紅茶と同列にサービスしてくれるようになりましたが。

紅茶関係のサイトを調べると、green teaと区別するために、完全発酵させたものをblack tea、半発酵の茶を woolong tea と呼ぶことは英語圏では一般的なようですが、彼らは紅茶しか飲まないので日常的にはただ tea です。ただ、中国では発酵の程度によってさらに細分されますので、半発酵茶はウーロン茶ではなくて「青茶」と総称するとのこと。それならなぜ「紅」茶が black かと言うと、発酵させた後の茶葉が黒いからとしか思えません。

かつては、中国からイギリスに運ぶ途中の緑茶が赤道の船上で偶然発酵して紅茶が生まれたと、まことしやかに言われたものですが、それは俗説らしく、紅茶そのものも中国生まれです。それに砂糖やミルクを加えて今日の飲み方を普及させたのがイギリスなので、紅茶というとつい舶来のイメージがつきまとっています。

けれど、中国にはプーアール茶に代表される「黒茶」があって、これは保存しておいた緑茶が偶然に野生酵母で発酵して生まれたものとのことですので、black と合わせて、上の俗説の起源になったものでしょうか。

余談ですが、検索で「black tea」を捜すと、バラの品種の「ブラック・ティー」がヒットします。これはその色が濃い紅茶色であることから名付けられたもののようです。ランほどじゃないでしょうが、バラも品種の改良によっていろんな種類が楽しめます。

tea という英語を知った中学生のときは気付かなかったけれど、学生時代に習ったロシア語の茶がチャイであることから、ひょっとしたらと調べてみて、英語のティーもフランス語のテも、その語源が「茶」であることを知りました。考えると、もともと茶は中国原産なので、当然でした。しかし、それならなんでイギリスが、インドやセイロンの茶をあたかも自国の茶のように扱っているのか、いつも疑問でした。

日本でお茶を飲んでいるかぎりあまり気にしない茶の世界伝播。しかし、その歴史を調べると、茶をめぐってアヘン戦争が引き起こされ、またアメリカ独立戦争の引き金になった「ボストン茶会事件」も茶がからんでいることが見えてきます。さらにコーヒーとともにその補完材として砂糖をもったことが、植民地拡大と奴隷貿易へとつながっています。

角山栄『茶の世界史』(中公新書 1980年)は、茶という商品で切り取った断面から世界史を見直しています。その序文の次の一節が、本書の基調として貫いています。

 当時(16世紀後半)の東洋は、いまとちがって豊かな国であった。それにひきかえ、
北緯四十度以北の寒冷なヨーロッパは貧しい国であった。豊かな東洋からは古代の絹、
ついで中世には香料、近世からは中国の茶およびインドの綿布が、ヨーロッパへの代表
的な輸出品となる。香料がヨーロッパのアジア航路開拓の契機となったとすれば、茶と
綿布はヨーロッパの近世資本主義を促進する契機となったといってよい。
 東洋の「茶の文化」に対するヨーロッパの人の畏敬と憧憬 ---
 ここからヨーロッパの近代史は始まる。(5ページ)
とくに紅茶の国イギリスについて言うと、「イギリス近代史はまさにこのコンプレックスから出発し、東洋のすぐれた文化・物産の模倣、製造ついには東洋への攻撃的進出といういかたちで展開」(37ページ)したことの結果、西洋の優位、東洋の従属という近代史の、その延長上に現在があります。

さて、世界の茶の生産の7割は紅茶といわれていますが、最近は日本食ブームも手伝ってでしょうか、すこしずつ緑茶も人気を集めるようになってきています。紅茶と緑茶の比較も、どちらが健康によいかを話題にしているケースが多くあります。

日本でお茶を飲む習慣が確立したのも、体に良いからと信じられていた気配があります。私は直接聞いていませんが、祖母はまだ小さいころの私の姉にこんな話を伝えたそうです。

ある朝のこと、小さな娘が畑仕事へと山道を歩いていると
道をふさぐようにして大蛇がとぐろを巻いて
とうせんぼしていた。
大蛇が、
「ふん、小娘が。ここは通さんぞ」
とすごむので、娘っ子も足がぶるぶる震えた。
泣きそうになりながらも、勇気を出して、
「なによ蛇め、おまえなんか怖くない。
 おら、朝茶を飲んできたんだ」
と叫ぶと、大蛇は恐れをなして、
「世の中におれ様ほど強いものはいないと思っていたが、
 もっと強いアサジャというものがいるのか。おおこわ」
と、すごすごと退散した、とさ。
効能を説いて教えるよりも、こんな小話のほうが、あんがい飲茶の習慣を支えていたのかも知れません。私も朝いちばんは緑茶を飲むことが多くなっています。

数年前ですが、イギリスに出張したときの意外な発見は、夕食のあとではティーを飲まないことでした。レストランもティーは出さないで、コーヒーだけというのが一般的です。一緒にいたヨーロッパ大陸の人たちに聞くと、大陸では飲みたければディナーでもティーは出てくる、とのこと。それを思うと、日本や中国のように、食事のとき当たり前のように飲んでいるお茶は、食文化の一部として定着しているとも言えます。そして今やペットボトルの緑茶が、ミネラルウオーターに迫る勢いで無糖飲料水の市場に分け入ろうとしています。


追記(05.10.1):アメリカ独立革命とアメリカンコーヒー

現在はアメリカ人はあまり紅茶を飲まないで、コーラとコーヒーが国民飲料のようになっています。そのコーヒーは、スターバックスコーヒーに見られるように、コーラみたいに大きいカップで飲むのが一般的です。当然、薄めのコーヒーですが、それを日本の喫茶店では「アメリカンコーヒー」と呼んで区別します。アメリカでは、当たりまえですが、「アメリカン」とは特別言わない。レストランでは、エスプレッソ、ノーマル、カプチーノなど、普通のメニューのコーヒーが選べるのは、世界共通です。

けれども、植民地時代はイギリス人(アメリカ人以前)にとってお茶が国民飲料で、生活に欠かせないものでした。そのお茶を「茶条例」によってイギリス東インド会社に販売を独占させたことが「ボストン茶会事件」を引き起こし、それが独立革命の引き金となりました。

その事件が『世界史講義録』の第77話「アメリカ独立革命」で取り上げられています。一部引用しますと、

事件は夜におきた。[記念切手では] 植民地の人たちがボートに乗って貿易船に近づいています。何のつもりだったのかよくわかりませんが、インディアンに変装している。そして、海に箱を投げていますね。茶箱です。海面にプカプカ浮いている。9万ドル分の茶がパーになった。

これは、事件としては実にささやかなものですが、植民地人が本国に対して、実力行使をしたという点で、画期的だったのです。植民地人たちの反抗心に火をつけた。アメリカ独立の歴史の出発点となった。

現在のアメリカ人はあまり紅茶を飲まない。アメリカンコーヒーは、「イギリスの紅茶なんか飲んでられるかい」と茶法に反発した植民地人たちが、紅茶の代用品として飲み始めたのです。コーヒーは、濃すぎて何杯も飲めない。紅茶に近づけようと、シャビシャビに薄めたのです。

私自身は、エスプレッソでもアメリカンでもなくて、豆を選んでドリップで煎れた、濃いめの「ジャパニーズコーヒー」に固執しますが、「アメリカンコーヒー」がアメリカ独立革命の産物というのは、これもまた歴史の妙ですね。


[楽しいバイクライフのために] へ戻る