一粒の蘭(03.12.20)


サマセット・モームは『世界の十大小説』の最後で、偉大な作品を生みだす作家の才能について、こんな意味のことを言っています。

芸術家の天賦の才能とは、ランの種のようなものだ。どこからともなく風に乗って飛んできて、熱帯のジャングルの無数の木のなかのひとつにたまたまとまって根を宿し、それでいてその木からではなくて、まわりの空気から栄養を得て、世にも珍しい華麗な花を咲かせる。けれども、その見事な花をつけた木を、切り倒して丸太にしてみても、それは原生林の他の木と、なんら違いのない木材でしかない。
モームのこのエッセーは、原題が Ten Novels and Their Authors で、彼が選んだ10の小説を、それがどのように生みだされたか、その作者はどんな人だったのか、読者の興味をかきたてずにはおかない小説のような語り口と構成で書かれた、モーム晩年 (1954年)の傑作です。

取り上げられた10人の作家は、そのだれもが芸術家としての遺伝子を受け継いで生まれてきたわけでもなし、恵まれた環境で作家となるべく育ったわけでもなく、同時代の他の人と変わるところがなかった。それが、あるとき特異な個性が発芽して、作品を生みだすようになる。その説明のつかないような人間性の不思議と多様さに、モームの最大の関心があります。かれの最も知られた作品『月と6ペンス』(The Moon and Sixpence 1919年)は、そんな「天才の光をあびて一瞬かがやいた俗物ども」(花田清輝『箱の話』潮出版社1974年)を暗示するタイトルになっています。

天才論とは関係ありませんが、それまでまったく無縁だったモーターサイクルに突然目覚めて、知らなかった世界に踏み出すにわかライダーにも、なにかランの種の粒が宿ったと考えられなくもありません。

ライダーの友人もなし、原付きバイクさえ跨がったことのなかった私は、「バイクに乗ってみようかな」と初めて考えたとき、「いやいや、これは一時の気まぐれだろう。落ち着いて考え直せば、すぐに熱も下がって、忘れてしまうことになるかも」と、ひと月がまんすることにしました。そうして、ひと月の間にランはしっかり根を張ることになってしまいました。

そんなこともあって、私は他の人がどのようなきっかけでバイクに乗るようになったのかを、いつも興味の対象にしています。とにかくバイクのことを知らなくてはと、ライダーなりたての頃、いくつものバイク雑誌に目を通していたものでした。そのころよく買っていたある雑誌の読者欄で、次のような内容の投稿文を共感をもって読んだことを、今も思いだします。

器用貧乏で、特別にこれといった得意不得意があるわけではないと自認する、若いOLの女性。あるとき喫茶店でヘルメットを携えた女性ライダーが入って来るのを目にする。彼氏と待ち合わせだったらしいその女性は、ファッショナブルではなかったが、どこか輝いて見えた。店を出ると、目の前をさっきの彼女のバイクが、颯爽と走り抜けて行った。彼氏のバイクはすぐ後ろを追う。その姿に、ライダーとしての自分の意志をもった生き方を感じ取った彼女は、教習所へ通い、免許を取り、バイクを買ってツーリングに出た。知らなかった世界がどんどん広がって行き、バイクは自分の生活の大切な一部になっていった。言葉を交わしたわけではないけど、平凡な日々にさよならするきっかけを与えてくれたあの女性ライダーに、いつか会って「ありがとう」と伝えたい。
趣味には他にいろいろなものがあるけれど、バイクに乗ろうとするには敷居の高さがちょっと違います。「思いつき」だけではちょっと越えるのが難しいハードルがあります。きっと、程度はどうあれ、なにか「決意」や「思い入れ」が伴うことでしょう。

私のきっかけはなんだったのだろう?

これだ、とひとつを特定することはできないけれど、バイクをやってみようかな、と思いついたきっかけのひとつは、女性もバイクに乗るんだ、と知ったことでした。それまで、大きなバイクは大柄な男でないと扱えない重量物とばかり思っていました。調布自動車学校を選んだのも、その二輪教習案内の表紙に、生徒のモデルとして女性が起用されていたせいもあったでしょうか。実際に最初の実技に並んだ生徒の中に女性が2人ほどおりました。

紀貫之じゃないけど、「女もすなるばいくといふものを、我もしてみむとて」チャレンジする気になったのが、あまり人に言えない私のケース。やはり女性の力は偉大です。

80年代は、ちょうど今の中国のように、日本も経済が登り調子で、活気がみなぎっていました。バイクに乗る女性が増えたのも、単なる趣味の域を超えて、なにか「自分の意志を持つこと」が若い女性たちにも気運として広がっていたものでしょうか。そんな空気がみなぎっていたなかで、ちいさなランの種が、芽を出し、花を咲かせた、今となってはなつかしい知の原生林がありました。



注)サマセット・モームの『世界の十大小説』は岩波新書で長いこと版を重ねていましたが、現在は岩波文庫に収録されています。モームのこの作品の人気が高いのは、原作の良さもさることながら、それと同時に西川正身さんによる優れた翻訳に負うものです。まるで、モーム自身が日本語で書いているのではないかと錯覚するくらい、気品とユーモア、かつ諧謔が、ぴったりと合った日本語の衣装をまとっています。



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