エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を読んだのは、高校生のときだったでしょうか。でも、その時は格別面白いとは思いませんでした。我慢して読み終えたのは、いくらか努力をしてでも、西洋文学の名作と言われる作品は若いときに読んでおくべきだ、と義務のように漠然考えていたせいもありました。
楽しめなかった理由は、もちろん自分自身の成熟度とか、関心の度合いの問題もあったでしょう。でも、いちばんの理由は自分でわかっていました。そのひとつは、翻訳の問題、とくにその文体でした。
私よりも先の年代の若いひとだったら、その多くが文学少年少女になる思春期を、ちょっとの年代差のために私は音楽少年になっていました。中学生のころ、ステレオが普及して、レコードを買うことができるようになったためです。そうして、私が夢中になって聴いたのは、周囲の音楽環境とはかけ離れたクラシック音楽でした。もっとも、自分が買うレコード、好きな音楽が「クラシック」というカテゴリーに分類されるらしいと知ったのは、ずいぶん後のことで、今でも「クラシック」という呼称に違和感があります。
とりわけのめり込むように聴いたベートーベンは、私にとっては楽器による文学のようなもので、とくに第五シンフォニーの、あの単純なモチーフが展開していく流れは、もう、こういう具合に進行するしかない、これ以外に旋律の続きようがない、とその完璧な自然さに物語に聞き入るような視覚的興奮まで覚えたものです。
それに比べると、当時の翻訳文体はあまり読みやすいものとは言えませんでした。文章のリズムにたいして好みの激しい私は、いかにも英文和訳の答案のような文体が気に入りません。いったん文章に乗れなくなると、感情移入もできなくなります。
もうひとつ、おぼろげながら感じていたのは、いくら西洋文明を輸入するためとはいえ、自然な日本語として読める翻訳というものが、そもそも可能なものなのかどうか、そんな疑問でした。明治の開国のころ、西洋に追いつけとばかりに、帝国大学を設けて、そこに工科、法科などを優先したのはともかく、やがて哲学や歴史地理、それに国文学と西洋文学をかき集めた雑居学部のような文学部もできますが、簡単に模倣できる普遍的な理科や実学と比べて、文科にはそもそものハンディキャップがあったはずです。
大学というところが西洋文学の輸入窓口になったことが、その後の日本の西洋文化の受容のしかたの歪み、さらに語学と文学の分離を生んだのではないか、と思っています。Literature にわざわざ文学と「学」の字を当てたことも、それが大学の専有物として、格のある研究科目であるかのような装いをつけたようなものです。
それかあらぬか、かつては西洋文学の古典名作と言われる作品は、大抵が特定大学の先生やそのお弟子さんなどが翻訳出版に当たって閥を囲っていた、と聞いたものです。大学の先生でも、それが漱石のような日本語の達人なら翻訳もまた違っていたでしょうが、大学の先生と小説家とはふつう人種が違うものです。
エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を楽しめなかった私は、べつに失望したわけではなく、ただ、翻訳が自分向きじゃないな、それに翻訳のせいにするより、そもそもの原作が自分向きの小説じゃなかっただけ、とあっさり捨て置きました。
それを、見直すことになった最初のきっかけは、サマセット・モームが『世界の十大小説』(岩波書店 1960)で『嵐が丘』を「類いまれな驚くべき書物」と称賛するとともに、独自の興味深いコメントをしていたことを知ったときでした。
1845年、他界する三年前に、エミリーは「囚われ人」という詩を書いた。・・・ 私の考えを述べれば、これらの詩句は、彼女が恋に落ちたこと、その愛が受け入れられなかったこと、さらにその感情が痛ましいまでに傷つけけられたことを明らかに示している。 ・・・ そうであるとすれば、その性質から察して、誰かその女学校の女の先生か、あるいは生徒の一人を深く愛するようになったことが十分に考えられる。それは彼女が生涯を通じて経験したただ一度の恋愛だった。おそらくその経験によって味わわされた不幸が、彼女の悩み苦しむ感受性の地味ゆたかな土地に種をまきつけ、そうしたことから私たちの知っている異常な書物を書くことができたのであろう。恋愛の苦しみ、法悦感、残酷さが、これほど力強く描き出されている小説を、私はほかに一つも思い出すことができない。 (岩波新書版 下巻 173-4ページ)『The Moon and Sixpense』と『Of Human Bondage』以来、モームの作品と文章が好きだった私はこの『嵐が丘』の一章をとりわけ熱心に読んだものです。そして、英語の原作で読めればきっと違うのだろうな、と想像したものの、私の英語力ではとてもそんな読み方はできませんでした。『嵐が丘』が「類いまれな驚くべき」作品だとはじめて実感したのは、じつは音楽がからんでいます。ケイト・ブッシュのデビューアルバム『The Kick Inside』(EMI 1978)の中の『嵐が丘』を聴いたときです。エミリー・ブロンテを読んでインスピレーションを得て作曲したというこの曲を初めて耳にしたとき、電気に打たれたようなショックを受けました。時代を越えて、このような「類いまれな驚くべき」曲を生みだす力を秘めた小説とは、やはり偉大な作品に違いありません。
あれからさらに時が流れました。
書店を覗くと、今や文庫版の『嵐が丘』が次々と改訳になっているのが目立ちます。新潮文庫がそうですし、岩波文庫もです。もう西洋文学に接するのに、大学というフィルターを通すこともなくなって、自身が原作を夢中になって読んだ翻訳家が、その面白さを翻訳しようとしてくれることでしょう。
ただ時が流れただけではありませんでした。
日本語の『嵐が丘』が生まれたことは、これまた奇跡のようなものです。水村美苗『本格小説』(新潮社 2002)は、『嵐が丘』の構造をベースにした小説で、小説にしては奇妙なタイトルですが、その7年前の作品『私小説』とペアになっているためです。たまたま、私がときどき覗いている文学とは無関係のサイトに、運営者のこの作品を読んでのコメントがあり、1年半も前に出版されたものだけれど、知らずにいた私はがぜん興味をひかれました。
この『本格小説』は、またひとつの「類いまれな驚くべき」作品です。完成したら「死んでもいい!」と思ったという作者はインタビューでこんなふうに自作を語ります。
恋愛小説を書くのなら、『嵐が丘』のような小説を書きたいという気持はずっとあったんです。でも、そんなことをしていいのかどうかがわからなかった。それが、非西洋文学として西洋文学を〈模倣してきた〉という、日本近代文学の歴史をだんだんと意識するようになったんですね。・・・ 子供の頃は姉のシャーロット・ブロンテが書いた『ジェーン・エア』の方が好きだったの。でも二十代になって英語で読んだとき、『嵐が丘』が奇跡的な作品なのを理解しました。 (波 2002年10月号より「『嵐が丘』の奇跡をもう一度」)『私小説』と『本格小説』を夢中になって読んで、私ははじめて『嵐が丘』の魅力がなぜ翻訳では感じられなかったのか、わかった気がしました。それと同時に、ひたすら西洋文学を目標として、自然科学で追いついたと同じように、文学でも西洋と肩を並べようと努力した多くの作家の挫折にも思いが及びます。夏目漱石は、日本に近代文学を打ち立てようとして西洋と日本のギャップに苦悩した代表格ですが、漱石に解決しようがなかった断層は、つまりは日本が「遅れている」という焦燥から来たものでしょうか。
同じく、ヨーロッパ文化に対するコンプレックスがあったアメリカが、文学、音楽、映像を総合した映画産業で世界を席捲するようになってようやくそのコンプレックスから抜け出しつつあるように、日本でも漫画とアニメ、それにポップス系音楽に、勢いがあります。その一方で、大学で保護保存されてきた文学とクラシック音学、いや音楽は、ついに西洋に追いつくことはありませんでした。
水村さんの『私小説』と『本格小説』の両方とも、サブタイトルに「日本近代文学」とあるのは、日本の小説というもののあり方を明治にまでさかのぼって考える問題意識があってのようです。明治とは言っても、そんな古い話ではありません。『嵐が丘』が出版されたのは1847年。ペリーが「黒船」で浦賀に来航するのが1853年。ここから日本の近代が始まります。いや、始まったはずでした。