バイクの中型免許を取得する半年前の1984年に、私は会社の登山仲間とヒマラヤのトレッキングに向かいました。いまではすっかりポピュラーなヒマラヤトレッキングですが、当時はまだまだ日本人ではハシリのようなものでした。
ヒマラヤというとエベレストがすぐに思い起こされます。私はクライマーというよりハイカーなので、エベレストは眺めるだけで満足です。そのエベレストは、子供のころから縁遠い存在でしたが、それを身近にさせる事件がありました。大学時代、登山をやる同級生がおりました。高校の登山部などは当時、やたら重い荷物を担いで、行者修業のような根性スポーツに見えたもので、そもそも根性論の嫌いな私は、山登りは好きでも、「登山」はまっぴらでした。
ところが、その友人は、私と同じようなきゃしゃな体格で、一見して登山部員のイメージがありませんでした。それが夏休みは穂高に何週間も入り、岩場に張り付いてクライミングのトレーニングをしているといいます。そして、あろうことか、「おれ、いつかエベレストに登るんだ」と、夢ではなく、計画を話してくれました。日本人が初めてエベレストの登頂に成功したばかりの頃の話です。身近な知りあいからそんな話を聞いて、それまで月面のように遠かったエベレストが、急に身近なものに思えたことを今でも記憶しています。
悲しいことに、将来のエベレスト登山家は、それからまもなく谷川岳で滑落して亡くなりました。逆に、私はそれから山に登り始めることになります。
エベレストには1953年のヒラリーとテンジン以来、2004年までに1915人の登頂者があります。ネパール人シェルパの730人を除くと、一位のアメリカ235人に続くのは日本人の106人です(2003年春まで)。登山人口が多いことと、金さえあれば誰でも登れるようになったこともあるでしょうが、エベレストにはある種の「人気」があるのではないかと思います。その「人気」とは、世界最高峰であることに加え、エベレスト登山にまつわる悲劇と成功劇でしょう。
悲劇の最たるものは、いうまでもなく「そこに山があるから」のジョージ・マロリーです。1924年6月8日、パートナーのアーヴィンと頂上アタックに向かったマロリーは、そのまま帰らぬ人となりました。そして、はたして二人はエベレスト初登頂を成し遂げた後で遭難したのか、それとも頂上を極めることができずに引き返す途中で遭難したのか、エベレスト登山史上最大の謎が残りました。
そのマロリーの遺体がなんと、遭難から75年後の1999年5月1日に発見されました。それは偶然見つかったのではなく、この謎を解こうと、世界の登山家と登山史家が調査隊を組織して、捜索した結果でした。その『マロリー/アーヴィン調査遠征隊』のメンバーによるマロリー発見記が、『Ghosts of Everest』(1999年 邦訳「そして謎は残った」文藝春秋 1999年)です。
遺体が発見されたとき、そこに登頂したかどうかの証拠となる遺留品があるかどうかが、最大の注目の的でした。携行したはずのコダックのカメラが見つからなかったために、遺体の発見された位置と遺留品やメモから遭難時のより確かな状況を推測することができるものの、登頂したかどうかについては決定的な証拠が見つかりません。それが、日本語訳のタイトルに表現されています。
でも、私がまず目を奪われたのは現場の遺体の写真で、75年も経っているとは信じられないほどの状態の良さと、装備が軽装に見えることでした。さらにその姿勢を見ると、まるで死してなお登頂に執着するかのように両手を斜面に食い込ませていることでした。それが、1924年当時、地上の最高峰に登ることが月面に到達することと同じくらい困難に思われていた時代に、そこに立ち向かうことはどういうことだったのか、タイムスリップさせるようです。原題の『エベレストの亡霊たち』(Ghosts of Everest)のゴーストとは、日本でいう幽霊ではなくて、さまよう亡霊の意味あいがあります。
カメラが見つからなかったので、マロリーが登頂したかどうかは謎のままとしても、それはたいしたことではないように思います。登頂していて欲しい、と願うファンにせめての救いは、遺留品に妻の写真も妻からの手紙もなかったこと。マロリーは登頂したらそこに妻の写真を置いてくる、と言っていたそうです。
いっぽう成功劇のヒーローのヒラリーはその後ネパールに学校を建てたり、シェルパの地位と生活向上に尽力し、いまではヒマラヤの環境保護に取り組んでいます。
さて、私のヒマラヤトレッキングはエベレストではなくて、ポカラからのアンナプルナ山群とマチャプチャレを眺める旅でした。マチャプチャレは私にとって世界で最も美しい山の一つですが、こちらは登山許可をネパール政府が出さないでいるので、いまだ未踏峰(一度イギリス隊が登頂を試みたが、頂上の手前で引き返したとのこと)のままで、その登山にまつわるドラマがないせいか、あまり登山界の話題にはなりません。
未踏峰を征服することが長く登山の目標でしたが、いったんエベレストが征服されてしまってから、登山の目的、楽しみ方も変化しています。いまでは「スロー登山」も定着しています。私の登山グループはその名も『ビスターリ』、ネパール語で「ゆっくり」の意味。バイクの一つの主流がレースなら、ツーリングはさしずめ「スローライディング」か。
後記 (05.7.18)マロリーが登頂したのかどうか、残された謎を解き明かそうとする試みはまだ続いています。1999年の調査遠征隊のチームは2001年に、今度はアーヴィンの遺体とカメラの捜索に再びエベレストにやって来ました。求めていたものを発見できなかったものの、チームの登頂アタック隊は、途中で他の登頂遠征隊のグループの5人が動けなくなっているのに遭遇、自らの目的を放棄して困難な救出劇を成功させる、というハプニングがありました。そして、アーヴィンとカメラの捜索の手がかりはエベレストではなくて、北京で、1960年と1975年の中国遠征隊のメンバーから聞きだすことになります。
それが『Detectives on Everest: The 2001 Mallory and Irvine Research Expedition』(Mountaineers Books 2002年) にまとめられています。(上記の要約は、本の紹介文から)
さらに、EverestNews.com では、同様にアーヴィンとカメラの捜索を計画していますが、こちらはカメラの発見だけにフォーカスして、「遺体の写真は撮らない、遺品も持ち帰らない」として、ただ二人はどのように遭難したのか、登頂を成し遂げたのかどうかの真実のみを追い求めるといいます。
最初に頂上に立とうとしたマロリーの執念もすごいですが、そのマロリーが登頂したのかどうか、そのたったひとつの真実を明かそうという登山家の執念もすごいものです。「ゴースト」とは、そんな、人を駆り立てるものをも表現しているように見えます。