コーヒーブレーク 『?の発見』 (06.2.5)


『零の発見』は岩波新書のロングセラーの一冊です。その題名から、中身を読まなくても、0は「発明」されたのではなくて「発見」された数であるらしいこと、さらにそれが歴史的にも学問的にも大発見であることを印象づけるものです。当たり前のように使っている0について、意外な奥深さを知らされることになります。

同じように、文字が生まれてから、文学上または作文上での大発明は?、つまりクエスチョンマークと思っています。発明といっても、先に概念があり必要があって記号として生まれたという意味では、これも「発見」と言えるかもしれません。今では当たり前に使っている?ですが、日本語文に?が使われ出すのは主に戦後のことではないかと思います。外国語教育の普及、翻訳文学の隆盛、さらに漫画での多用とともに、自然と日本語の作文に取り入れられるようになったものでしょう。学校関係者の間では「疑問符」と呼ぶでしょうか。

1946年3月に文部省は『くぎり符號の使ひ方〔句讀法〕(案)』を発表していますが、その中で疑問符の使い方をこう案内しています。

(11)疑 問 符   ?   
 一、疑問符は、原則として普通の文には用ひない。
   たゞし必要に應じて疑問の口調を示す場合に用ひる (例1)。  
 二、質問や反問の言葉調子の時に用ひる(例2)。 
 三、漫畫などで無言で疑問の意をあらはす時に用ひる(例略)。 

 (1) 「ええ? なんですつて?」  
 (2) 「さういたしますと、 やがて龍宮へお着きになるでせう。」 
   「龍宮へ?」  

これを見ると、?って主に会話文で抑揚を表すために導入されたような印象を受けます。もっとも、漫画での使用例は言葉の抑揚ではなくて、表情の抑揚を視覚化したものでしょうから、これは句読法としての文字符号の使い方ではないでしょう。

では、?は会話文のため補助記号なのか? 。や、に比べて存在意義は小さいのか?

ただ抑揚を表すだけならそうとも言えるでしょう。「疑問符は、原則として普通の文には用ひない」というガイドの背景には、疑問助詞の「か」で代用すればいいだろう、との意見もありそうです。けれど、疑問はいつも話し相手に投げるものとは限りません。自らに問う疑問もあります。自ら疑問を提示し、分析する文学的努力のひとつがエッセーというジャンルです。

エッセーはもともとフランス語の「試み」が語源。試論というと雰囲気が近いでしょうか。ジョン・ロックの『人間悟性論』という日本語訳タイトルはあまり読者を引きつけそうにありませんが、原著は『An Essay Concerning Human Understanding』。「分かる、理解する、認識する」とはどういうことか、という疑問を突き詰めたエッセーなら、300年の時を越えた文学的価値もありそうです。

エッセーは疑問や自分だけの感性から生まれる。日本の兼好法師のエッセー『徒然草』の137段の有名な書き出し「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」には、?があったら使っていたことでしょう。

日本の学校教育では、疑問を持ち、それを議論し突き詰めることよりも、既存の知識をコピーし詰め込むことが優先されています。私たちは、自分の考えを考えているつもりでも、自分の感情を感じているつもりでも、じつは他人の考えを復唱し、画一化した感性を共有しているだけのことがないでしょうか。

このサイトは、どうしてバイク盗難が社会問題ではないのか、なぜ捜索されないのか、どうすれば発見できるか、そんな?から始まりました。だからこのエッセー集もまた、いろんな疑問の寄せ集め。「普通の文」としての知識ならコピーもできるでしょうが、疑問はコピーできません。コピーが尊ばれる教育のせいでしょうか、エッセーや評論は日本では不当に扱いが低いものです。「随筆」などと誤訳もされてもいます。清少納言や兼好法師のような、すぐれたエッセイストを持つ日本なのに。

結局、記号としての?を生んだのは、疑問を尊重する文化でした。



[楽しいバイクライフのために] へ戻る